第3項 人間の自由

神は人間を理性的存在として創造し、自主性と自分の行為の支配力とを備えた人格の尊厳を付与されました。「神は人閭に『自分で判断する力を与えること亅(シラ15∙14参照)を望まれました。それは人間が進んで創造主を求め、自由に神に結ばれて完全で幸福な完成に到達することを望まれたからです」。
「人間は理性的存在であり、そのことによって神に類似しています。自らの行為や能力をどのように支配するかは自由なのです」。

1 自由と責任

自由とは、行うか行わないか、これをするかあれをするかを決める、理性と意志とに根ざした能力です。この能力によって人間は、自らの行動を自由に決定するのです。一人ひとりの人間は自由意志によって自分の行為を決定します。人間の自由とは、真理と善とにおいて成長し成熟する力なのです。自由はわたしたちの至福である神に方向づけられるとき、完成されたものとなります。

人間の自由意志が究極の善である神と完全に結ばれていない間は、善と悪のいずれかを選択する可能性、つまり、より完全なものに成長するか、あるいは挫折して罪を犯すか、という両方の可能性が残されています。自由とは本来の意味での人間行為を特徴づけるものであり、称賛ないし非難、功罪どちらをも引き起こさせることができる原因となりうるものなのです。

人は善を行えば行うほど自由になります。実は、善と正義とに奉仕するときでなければ、真の自由は得られないのです。不従順や悪を選ぶことは自由の濫用であり、人を罪の奴隷と化していくものなのです。

人間は自由ですから、自由意志による行為に関しては人間に責隹があります。修徳、善の認識、禁欲などは、行為に対する意志の支配力を強めます。

行為の責任性は、無知、不注意、暴力、恐れ、習慣、過激な感情、またその他の心理的ないし社会的要因によって減じられることがありえますし、まったく無くなることさえありえます。

直接に意図された行為はすべて、それを行った者の責任です。 ですから、神は楽園で罪を犯した人祖に「何ということをしたのか」(創世記3∙13)と尋ねられますす。カインに対しても同様です。また、ダビデがウリヤの妻を犯し、ウリヤを殺害させた後で、預言者ナタンはダビデ王を同じように責めています。
知るべきことを知らず、なすべきことを怠ったために生じた行為、たとえば、交通規則を知らずに起こした事故は、問接的に意図された行為となりえます。

ある行為から、意図されていない結果が生じることがあります。このような結果は黙認してもよいときがあります。病気の子供のまくら元にいる母親の極度の疲労が、その一例です。また、行為の目的としても手段としても悪い結果が意図されていない場合は、責任が問われることはありません。たとえば、危険にある人を助けるために死んだ場合がそうです。予測されており、避けることができたにもかかわらず引き起こした悪い結果の責任は、当事者にあります。たとえば、飲酒運転による殺人がその一例です。

自由は人間関係の中で行使されます。神にかたどって造られた一人ひとりの人間は、自由で責任ある存在として認められるべきだという生まれながらの権利を持っています。すべての人は、一人ひとりに対してこれを尊重する義務があります。自由を行使する権利、とくに倫理的∙宗教的ことがらに関する権利は、人格の尊厳と切り離すことのできない要求です。この権利は共同善と公共の秩序との枠内で実定法によって認められ、保護されなければなりません。

2 救いの営みにおける人間の自由

自由と罪。人間の自由には一定の限度があり、しかもそれは誤りやすいものです。事実、人間は誤りを犯しました。自由を濫用して罪を犯したのです。神の愛の計画を拒否して、自らを欺き、罪の奴隷となったのです。この最初の失敗が他の多くの失敗を生み出しました。人類史はその初めから、人間の心から生じた多くの不幸や抑圧というものは実は自由の濫用の結果である、ということを明らかにしています。

自由を危険に陥れるもの。自由とは、いいたいことをいい、したいことをするという権利を意味するのではありません。「この自由の主体は、自己完結的な個人であり、その個人の目指すところはこの世の富を享受して個人的欲求を満足させること」だという主張は間違いです。他方、自由の正しい行使に必要な経済的∙政治的∙文化的条件がしばしば無視され、破られています。このような無分別や不正義の状況が倫理的な生活を妨げ、弱者だけでなく強者をも隣人愛に背く罪を犯すという誘惑に陥れます。人間は道徳律に背くと、自分自身の自由を損ない、自らを縛り、人間同士の兄弟関係を破り、神の真理に逆らうことになります。

解放と救い。キリストはご自分の輝かしい十字架によって、すべての人の救いを獲得なさいました。罪の奴隷であった人間を罪からあがなってくださいました。「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです」(ガラテヤ5∙1)。キリストに結ばれたわたしたちは、わたしたちを自由にする真理にあずかります。聖霊がわたしたちに与えられており、使徒パウロが教えるように、「主の霊のおられるところに自由が」(ニコリント3∙17)あるのです。すでに今、わたしたちは神の子の自由を誇りにしています。

自由と恵み。わたしたちの自由が、神が人間の心に刻まれた真理と善とにかなうものであれば、キリストの恵みは決してわたしたちの自由と競合するものとはなりません。反対に、とくに祈りの中でキリスト者が体験しているように、恵みの働きかけに素直に従えば従うほど、わたしたちの内的自由と試練の中での確信は増していきます。外部の世界の圧力や強制を前にしたときも同様です。聖霊は恵みの働きを通して、わたしたちの霊的自由をはぐくんでくださいます。わたしたちを教会と世の中におけるご自分の自由な協力者としてくださるのです。
「いつくしみ深い、全能の神よ、あなたの支配に逆らう悪の力を滅ぼしてください。わたしたちが身も心も何ものにも妨げられず、自由にみ旨を果たすことができますように」。

要約

「〔神は人間に、〕自分で判断する力をお与えになった」(シラ15∙14)。それは人間が自由にその創造主に帰依し、至福に到達することができるようになるためです。

自由とは、行うか行わないかを熟考した上で行動する能力です。自由はその行為が最高善である神に方向づけられるとき、完全なものとなります。

自由は本来の意味での人間行為を特徴づけ、当事者が自由意恚をもって行う行為に責任を持たせます。熟考の上で行った行為は、当事者自身のものとなります。

行為の責任性は、無知、暴力、恐れ、またその他の心理的ないし社会的要因によって減じられることがありえますし、まったく無くなることさえありえます。

自由を行使する権利、とくに倫理的∙宗教的ことがらに関する権利は、人格の尊厳と切り離すことのできない要求です。とはいえ、自由とは、いいたいことをいい、したいことをするという権利を意味するのではありません。

「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです」(ガラテヤ5∙1)。