カテキズム 

■目次

序文 カテジークスとは

神は、無限に完全、他によることのない至福そのものであって、ただいつくしみによる計画から、ご自分の至福ないのちにあずからせる人間を自由に創造されました。したがって、いつ、どこでも、人間に親身に心を配り、呼びかけ、人問が全力を尽くしてご自分を求め、知り、愛することができるよう助けておられます。神は、罪によって四散したすべての人をご自分のただ一つの家族、教会のうちに呼び集めておられます。そのため、時が満ちたときに、御子をあがない主、救い主としてお遣わしになりました。神は御子のうちに、御子によって、すべての人を招き、聖霊において、ご自分の子とし、したがってご自分の至福のいのちの相続人となるように呼びかけておられます。この呼びかけが世界中に響きわたるよう、キリストはご自分で選んだ使徒たちに福音を告げ知らせる任務を与え、彼らを派遣されたのです。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」(マタイ 28∙19-20)。この使命を受けた使徒たちは、「出かけて行って、至るところで宣教し〔まし〕た。主は彼らとともに働き、彼らの語ることばが真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しに」(マルコ 16∙20) なりました。神の助けにより、キリストの呼びかけに耳を傾け、これに自由に応じた人々が、今度は、キリストの愛に駆られ、世界の至るところで福音を告げ知らせるようになりました。使徒たちから受けたこの宝は、後継者たちによって忠実に守られました。すべてのキリスト者は信仰を告げ、兄弟姉妹として分かち合いのうちに信仰を生き、典礼と祈りの中で祝いながら、この宝を代々に伝えていくように招かれています。教会は、人々を弟子とし、人々が信仰によってイエスのみ名によっていのちを得るためにイエスを神の子として信じるように助け、またその生き方を導き、教えて、キリストのからだを築くために力を尽くしています。これらはまとめて、早くから、カテケージスと称されていました。「カテケージス(要理教育)は、一般的にいって、児童、青年、大人の信仰教育で、これは信者をキリスト教的生活に導くために、普通は組織的かつ体系的に行われるキリスト教教理の教授を特徴としています」

第一部 「わたしは信じます」「わたしたちは信じます」

人間は神を「知ることができる」

神へのあこがれ

神へのあこがれは人間の心に刻まれています。人間は神によって、神に向けて造られているからです。神はたえず人間をご自分に引き寄せておられます。人間はただ神のうちにだけ、求めてやまない真理と幸福を見いだします。しかし、「〔人間〕の神とのこのような生命的な深い結びつき」は人間に忘れられ、軽視され、はっきりと拒否されることさえありえます。このような態度の原因はさまざまでしょう。すなわち、世の悪に対する反発、宗教的無知または無関心、世の思い煩いや富の誘惑、信者の悪い模範、反宗教的風潮、ついには、恐れのために神から隠れ、神から逃れようとする罪びととしての人間の姿勢です。「主を求める人よ、心に喜びを抱け」(詩編105∙3)。人間が神を忘れ、あるいは拒絶したとしても、神は、人間が生き、幸せを見つけるためにご自分を求めるよう、すべての人間にたえず呼びかけておられます。しかし、この探求は人間の側に、知性の絶え間ない努力と意志の正しさ、「まっすぐな心」、また、神を求めることを教える他の人々のあかしを必要とします。

神を知るための道

世界―世界の運動、生成、偶有性、秩序、美から出発して、宇宙の起源と目的としての神を知ることができます。聖パウロは異教徒について次のように言明しています。「神について知りうることがらは、彼らにも明らかです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり、神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます」(ローマ1∙19-20)。
聖アウグスチヌスは次のようにいっています。「陸の美を不思議に思い、海の美を不思議に思い、膨張し、流通する空気の美を不思議に思い、天の美を不思議に思い、……これらのすべてのことがらの原因を問いただしなさい。すべては、『ごらん、わたしたちは美しいのだ』とあなたに答えています。これらの美はこれらの事物の宣言なのです。変化するこれらの美は、変化することのない美しいかたでなければ、だれが造ったのでしようか、」。人間―真理と美に向かって開かれた心、倫理的感覚、自由、良心の声、限りないものと幸福へのあこがれを持っている人間、この人間は神の存在について自問します。これらのすべてのものを通して、霊である自分の魂のしるしを認めます。「人間の中にある永遠なるものの種は、物質だけに還元することはできないので」、このような霊魂の起源はただ神のうちにしかありえません。世界と人間は、第一原理でも究極目的でもないことを示します。両者は、初めも終わりもない存在そのものにあずかっています。ですから、これらの多様な「道」によって、人間は、いっさいのものの第一原因、究極目的である一つの実在が存在するということを知ることができます。すべての人は、この実在を「神」と呼んでいます。人間はその諸能力によって、人格神の存在を知ることはできます。しかし、人間が神と親密な交わりを結ぶことができるように、神は自由にご自分を人間に啓示し、信仰をもってこの啓示を受け入れることのできる恵みをお与えになりました。とはいえ、神の存在の証明は、信仰を受け入れるように人の心を整え、信仰が人間理性に対立するものではないことを悟らせる助けともなりうるのです。

神認識に関する教会の教え

「わたしたちの母である聖なる教会は、人間理性の自然の光によって、また被造物を通して、万物の起源と目的である神を確実に知ることができると考え、教えています」。この能力なしに、人間は神の啓示を受け入れることはできません。人間がこの能力を持っているのは、「神にかたどって」(創世記1∙27)造られたからです。それにもかかわらず、人間は自分が置かれている歴史的状況の中で、ただ理性の光だけで神を知ることに多くの困難を覚えます。神について、神と人との関係について知らなければならない真理は、目に見える物の世界を完全に超越する真理です。この種類の真理を人間の行為に移し、人間の行為に影響するときには、自己服従と自己放棄を要求します。このような真理を把握するために、人間の知性は、感覚と想像や原罪の結果乱れた欲望に妨げられます。このような障害のため、自分が望まない、自分にとって疑わしいことや不確実な結論を、あまりにもたやすく、間違いであるとする人が多いのは当然です。ですから人間は、ただ人間理性を超えることがらに関してだけではなく、「それ自体、理性によって把握できる宗教的、道徳的諸真理に関しても、神の啓示に照らされる必要があるのです。それは、これらの真理が人類の現状の中で、すべての人に、容易に、揺るぎない確実さをもって、誤りを含まず、知られうるためです」。

どのように神について語るべきか

教会は神を知る人間理性の能力を主張することにより、教会がすべての人に、またすべての人と、神について語りうる自信を表明しています。この確信が、他の宗教、哲学と科学、また無信仰者と無神論者との対話の出発点なのです。わたしたちの神認識には限界があるので、神に関するわたしたちのことばにも限界があります。わたしたちは被造物に基づいてしか神について語ることができませんし、わたしたち人間の限られた知り方、考え方に沿ってしか、神について語ることができないのです。被造物はすべて、神と何らかの類似を持っていますが、とくに神の似姿として、神に似せて造られた人間がそうです。したがって、被造物の多様な完全さ(真、善、美)は神の無限な完全さを反映するものです。ですから、わたしたちは被造物の完全さに基づいて神について語ることができます。「造られたものの偉大さと美しさから推し量り、それらを造ったかたを認めるはず」(知恵13∙5)なのですから。神はすべての被造物を超越します。ですから、「えもいわれぬ、人知を超えた、見えざる、把握できない」神を、人間的表象と混同しないために、わたしたちのことばに付きものである限られた、表象的で、不完全な点をたえず訂正しなければなりません。わたしたちの人間的なことばは、つねに神の神秘以下のものです。神についてこのように話すとき、わたしたちのことばは人間的な表現であることは確かですが、実際に神ご自身に触れています。しかしながら、無限で純一の神をありのままに表すことはできないのです。事実、次のことを想起しなければなりません。「創造主と被造物の間には類似が認められても、それ以上に大きな相違が認められます」。また、「わたしたちが神について知ることができるのは、神はこうであるということではなく、こうではないということであり、他の諸存在がどのように神に関連しているかということです」。「創造主なくして、被造物は消え失せます」。ですから、信者はキリストの愛に促されて、生きている神の光を、神を知らないか、または拒絶する人々に伝えなければならないことを自覚しています。

人間を訪れる神

神の啓示

神はご自分の「いつくしみ深い計画」を啓示される

「神はその愛と英知によって、自分を啓示し、また、託身のみことばであるキリストにより、聖霊において、人々を父に近づかせ、神性にあずからせるみ旨の神秘を明らかにしようとなさいました」。

「近寄りがたい光の中に住まわれる」(一テモテ6∙16)神は、お望みのままに造られた人間をご自分の神的生命にあずからせ、御ひとり子においてご自分の子らにしようとしておられます。神はご自分を啓示しながら、人間が神に応答し、自分自身の能力の限界を超えて神を知り、愛することができるようになさいました。神は人間にご自分を徐々に伝え、超自然的啓示を受け入れるよう、段階的に人間を準備なさいます。御自ら行われるこの啓示の頂点は、人となられたみことばであるイエス・キリストそのものならびにその派遣です。

啓示の諸段階

原初から、神はご自身を示される

神は、ことばによって万物を造り、かつ保ち、被造物の中に自らについての恒久の証明を与え、また至高の救いへの道を開く意図をもって、初めから人類の最初の親に自分を現しました」。神は人間を輝かしい気品と正しさで覆いながら、ご自分との親密な交わりに招かれました。

この啓示は、人祖の罪によって中断されることはありませんでした。実際、神は、「堕落後は、あがないを約して、救いの希望を抱かせました。そして忍耐をもって善を行って救いを求めるすべての人に永遠の生命を与えるべく、つねに人類のことをおもんぱかりました」。「人があなたに背いて親しい交わりを失ってからも、死の国に見捨てることなく、……たびたび人と契約を結ばれました」。

ノアとの計画

ひとたび人類の一致が罪によって分断されると、神はまず、人類を各民族ごとに救おうとしておられます。大洪水後のノアとの契約は「国々」、すなわち、「それぞれの地に、その言語、氏族に従って」(創世記10∙5)まとめられた人々に対する神の救いの計画の原理を表します。

多様な諸民族のこの宇宙的、社会的、宗教的な状態は、失墜した人類の傲慢を抑えるためでした。事実、人類はその邪悪さからバベルの塔の建築に見られるように、自力で一つになることを図りました。しかし、罪の結果、諸民族とその君主たちが多神教と偶像崇拝に走ることによって、この暫定的な救済計画はたえず歪曲の危険にさらされました。

神はアブラハムを選ぶ

ノアとの契約は諸民族の時代が続く限り、福音が全世界に告げられるまで効力を保ちます。聖書は、これら諸民族の若干の偉大な人物に敬意を表しています。たとえば、「正しい人アベル」、キリストの前兆であった王である祭司メルキゼデク、正しい人々「ノア、ダニエル、ヨブ」(エゼキエル14∙14)などです。こうして、聖書は、キリストが「散らされているすべての神の子たちを一つに集める」(ヨハネ11∙52)まで、ノアの契約に従って生きる人々がどれほど高度な聖徳に達しうるかを示しているのです。

四散した人類を集めるため、神はアブラムを選び、「生まれ故郷、父の家を離れ」(創世記12∙1)るよう促されました。そして、アブラハム、すなわち、「多くの国民の父」(創世記17∙5)としました。神はアブラハムに「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」(創世記12∙3)といわれました。

アブラハムから出た民族は族長たちになされた約束の継承者、選ばれた民となり、いつの日か一つの教会のうちにすべての神の子が集められるまで、その準備をするよう召されました。この民が根となり、後に信仰者となった異邦人がこれに接ぎ木されます。

旧約時代の族長たち、預言者たちおよびその他の人物たちは、教会のすべての典礼伝統の中で聖者としてつねにあがめられてきましたし、また今後もあがめられていくはずです。

神はご自分の民イスラエルを育てる 

族長たちの時代の後、神はイスラエルをエジプトでの奴隷の状態から解放して、ご自分の民となさいました。神はシナイ山でこの民と契約を結び、モーセを通して、民に律法を与えられました。それは、この民がご自分を生きている真の唯一の神、摂理の父、公正な裁き主として認め、神に仕え、約束された救い主を待つようにさせるためでした。

イスラエルは神の祭司的な民、「主のみ名がつけられ」(申命記28∙10)た民です。「はじめに神の語りかけを受けた」民、アブラハムの信仰に従う「兄」にあたる民です25。

預言者たちによって、神はその民のうちに救いの希望と、すべての人々にもたらされ、心のうちに刻まれるはずの、新しい永遠の契約への待望の心を培われます。預言者たちは神の民の根本的なあがない、民のあらゆる不忠実な行いの浄化、すべての国の人々を含む救いを告げ知らせます。この希望を担うのは、とくに主の貧しい人々と謙遜な人々です。サラ、リベカ、ラケル、ミリヤム、デボラ、アンナ、ユディト、エステルのような女性たちは、イスラエルの救いの生き生きとした希望を保ちとおしました。その中のもっとも清らかな人物がマリアです。

「仲介者であり、全啓示の完結」であるキリスト

神はみことばのうちにすべてを語られた

「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」(ヘブライ1∙1-2)。人となられた神の御子キリストは父の唯一の、完全な、決定的なことばです。キリストにおいて神はすべてを語られましたが、キリスト以後、そのほかのことばはありません。このことを、わけても十字架の聖ヨハネが、ヘブライ人への手紙1章の1から2節を注解しながら、明晰に語っています。

「神は唯一のみことばである御ひとり子をわたしたちに与えることにより、この唯一のみことばのうちにすべてを一度に話されたので、それ以上話すことはないのです。……それは、以前、預言者たちに部分的に話されたことを、ご自分のすべてである御子をわたしたちに与えることによって、神はことごとく語られたからです。したがって、今日になってもなお神に何かを尋ねたり、あるいは何かの示現や啓示を望むような人がいるなら、その人はキリストだけに目を注がず、他の何かを、また新奇なものを探すことによって、愚かじみたことをするだけではなく、神を傷つけることになるでしょう」。

もはや他の啓示はない

「したがってキリスト教的経綸は、新しい決定的な契約として、ついに過ぎ去ることなく、わたしたちの主イエス・キリストの栄光ある再現以前には、もはやいかなる新しい公的啓示も期待されるべきものではありません」。しかし、たとえ啓示は完結したにしても、明白にし尽くされてはいないのです。キリスト者の信仰は、幾世紀にもわたって、それが含むすべての意義を徐々に把握していかなければなりません。

キリスト後の長い年月の間には、「私的な」といわれる啓示があって、その幾つかは教会権威から認められています。しかし、それらの啓示は、ゆだねられた信仰の遺産には属しません。それらの役割は、キリストの最終的啓示を「改善し」、「補足する」ことではなく、歴史のある時期に、キリストの啓示をより十全に生きるのを助けることにあります。信者は教会の教導権に導かれ、その信仰心によって、これらの啓示の中に、教会に向けられたキリストあるいは聖人たちの真正な呼びかけを識別し、受け入れることができます。

キリストによって完結された啓示を凌駕し、あるいは修正するものであると主張する「諸啓示」を、キリスト教信仰は承認することができません。たとえば、このような「啓示」を土台にしている幾つかのキリスト教以外の宗教、また、新興宗教の宗派がこれにあたります。

神の啓示の伝達

神は、「すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(一テモテ2∙4)。その真理とは、キリスト・イエスのことです。したがって、キリストはすべての国民、すべての人に告げ知らされ、こうして、啓示が世界の隅々まで及ばなければなりません。 「神は、万民の救いのために啓示したそのことが、永久に、かつ完全に保たれ、あらゆる世代に伝えられるよう、いともやさしく取りはからわれました」。

使徒伝承

「主キリストは至高の神の全啓示が自らにおいて完了されるため、かつて預言者によって約束された福音を自ら実現し、かつご自分の口をもって宣布しましたが、これを救いに関するあらゆる真理と道徳の源として、すべての人にのべるよう、また彼らに神のたまものを与えるよう使徒たちに命じました」。
使徒の宣教
主の命令に従い、福音の伝達は二つの方法で行われます。
――口述で。「キリストのことばを聞き、キリストとともに生活し、そのわざを目撃して知ったこと、あるいは聖霊の示唆から学んだことを説教と模範と制度をもって伝えた使徒たちによって」。
――書によって。「同じ聖霊の霊感により救いの知らせを書き物にした使徒たちとその周りの入たちによって」。
使徒の後継者によって続けられる宣教
「使徒たちは、生きた完全な福音が、つねに教会に保存されるよう、司教たちを後継者として残し、彼らに『自分たちの教導職を与えました』」。実際、「使徒的宣教は、霊感の書に特別に示されていますが、不断の継承によって世の終わりまで保たれねばなりませんでした」。聖霊のうちにあって遂行されるこの生きた伝達は、聖書とは異なるものとして聖伝と呼ばれます。いうまでもなく、この聖伝は聖書と密接に結びついています。この聖伝により、「教会は、その教義と生活と典礼とにおいて、自らあるがままのすべてと、信じることのすべてを永続させ、あらゆる世代に伝えるのです」。「聖なる教父たちのことばは、聖伝のこの活力的な現存を証明するもので、その富は信じかつ祈る教会の慣行と生活に注ぎ込まれています」。こうして、御父がみことばによって、聖霊のうちに、ご自分についてお知らせになったことは、教会の中に現存し、働き続けています。「かつて語った神は、不断に愛する御子の浄配と語らい、福音の生きた声は聖霊によって教会に、また教会によって世界に響き渡り、そして聖霊は、信じる者をすべての真理に導き、彼らのうちにキリストのことばを豊かに宿らせるのです」。

聖伝と聖書の関係

共通の源泉

「聖伝と聖書とは互いに固く結ばれ、互いに共通するものがあります。なぜならば、どちらも同一の神的起原を持ち、ある程度一体をなし、同一の目的を指している」からです。どちらも、「世の終わりまで、いつも」(マタイ28∙20)弟子たちとともにとどまることを約束されたキリストの神秘を、教会の中に現存させ、実らせるものです。

伝達の二つの異なる方法

「聖書は、聖霊の霊感によって書かれたものとしての神のことばです」。「聖伝は、主キリストと聖霊から使徒たちに託された神のことばを余すところなくその後継者に伝え、後継者たちは、真理の霊の導きのもとに、説教によってそれを忠実に保ち、説明し、普及するようにするものです」。

したがって、啓示の伝達と解釈をゆだねられた教会が、「啓示されたすべてのことについて自分の確信を得るにあたって、聖書だけに頼らないのはそのためです。それゆえ、どちらも同じ敬謙と敬意をもって尊敬されるべきものです」。

使徒伝承と教会伝承

ここで述べられている聖伝は使徒たちに由来するもので、使徒たちがイエスの教えと模範から受けたことと、聖霊によって学んだこととを伝えます。実際、初代のキリスト信者はまだ書としての新約聖書を持っていませんでしたし、新約聖書そのものが、生きた伝承の形成の次第を示しています。

地方教会では時とともに、神学、おきて、典礼、あるいは信心上の「諸伝承」が生まれました。これらと上述の聖伝とは区別されなければなりません。諸伝承は、個々の様式を持っているので、その中から、異なる場所、異なる時代にも適応した表現を大伝承(聖伝)が受け取ります。そしてその大伝承に照らし合わされ、教会の教導権の指導のもとで、諸伝承は維持されたり、修正または放棄されたりするのです。

ゆだねられた信仰の遺産についての解釈

 教会全体にゆだねられた信仰の遺産
 聖伝と聖書の中に含まれるゆだねられた信仰の遺産は、使徒たちによって教会全体に託されています。「この委託物によって、聖なる民全体が、その牧者を中心にして、使徙たちの教えと、信者の交わりと、パンを裂くことと、祈りとを不断に続けています。そのために、伝えられた信仰を守り、実践し、信奉するにあたって、司教と信者との特殊な一致が実現します」。
教会の教導権
「書きもの、あるいは口伝による神のことばを権威をもって解釈する役目は、キリストの名で権威を行使する教会の生きた教導権だけに任せられています」。教会の教導権を持っているのはペトロの後継者、ローマ司教と結ばれた司教たちです。「しかし、この教導権は神のことばの上にあるものではなく、むしろ、これに奉仕し、伝えられたことだけを教えるのです。すなわち、神の命令と聖霊の援助によって、神のことばを敬謙に聞き、清く保存し、忠実に説明し、そして信ずべき神の啓示として示すすべてのことを、信仰のこの唯一の委託物からくみ取るのです」。信徒は、「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾ける」(ルカ10∙16)とキリストが使徒たちにおおせになったことばを想起し、司牧者が多様な形で述べる教えと指針とを素直に受け入れます。
信ずべき教義
教会の教導権は、教義を決定的に宣言する場合、すなわち、キリストの民に信仰による決定的な同意を義務づける形で、神の啓示の中に含まれる諸真理を提示する場合や、これと不可分のつながりを持つ諸真理を決定的な形で提示したりする場合には、キリストから受けた権限を最高度に行使します。わたしたちの霊的生活とこれらの教義の間には、有機的なつながりがあります。教義はわたしたちの信仰の道に設けられた灯火で、その道を照らし、確実なものとします。また、逆に、わたしたちの生活が正しければ、わたしたちの知性と心は素直に信仰の教義の光を受け入れるでしょう。各教義の相互関連と一貫性は、キリストの神秘の啓示全体の中に見いだすことができます。「カトリック教義の諸真理とキリスト教信仰の基礎との関係は種々異なっているものですから、それらの諸真理の間に秩序、すなわち、『順位』が存在します」。
超自然的な信仰の感覚
すべての信者は、啓示された真理の理解と伝達に関与します。自分たちを教え、自分たちに「真理をことごとく」(ヨハネ16∙13)悟らせる聖霊の塗油を受けているからです。「信者の総体は、信仰において誤ることができないのであって、この特性は、『司教をはじめとして信徒の果てに至るまで』信者の総体が信仰と道徳のことがらについてあまねく賛同を示すとき、神の民全体の超自然的な信仰の心を通して現れます」。「事実、神の民は真理の霊によって起こされ、支えられているこの信仰の心によって、聖なる教職の指導のもとに、ひとたび聖徒たちに伝えられた信仰を損なうことなく固く守り、正しい判断をもってその信仰をいっそう深く掘りさげ、それを生活のうちにより完全に具体化していくのです」。
信仰の理解力の増大
ゆだねられた信仰の遺産の内容とことばの理解は、聖霊の助けにより、教会生活の中で発展することができます。それは次のことによってです。

――「それを心のなかで思いめぐらす信者たちの黙想と研究」、とくに「啓示された真理についての神学的探究」によって。
――「〔信者たちの〕体験する霊的な実在についての深い理解」によって。「神のことばを読んで成長する」ことによって。
―― 「司教職の継承とともに真理の確かなたまもの(カリスマ)を受けた人たちの説教」によって。「それで、聖伝と聖書と教会の教導権とは、神のきわめて賢明な配慮によって、一つは他のものから離れては成り立たず、全部が一緒に、そしておのおのが固有のしかたで、聖霊の働きのもとに、救霊に有効に寄与するように、互いに関連し、結合されていることは明らかです」。

要約

使徒たちはキリストからゆだねられたものを、聖霊の霊感のもとに、説教と書物とによって、キリストの栄光に輝く再臨の日まで、すべての世代に伝達しました。「聖伝と聖書とは、神のことばの一つの聖なる委託物を形づくっています」。旅する教会はこのゆだねられた遺産に、鏡の中で見るかのように、あらゆる富の泉である神を見つめます。「教会は、その教義と生活と典礼とにおいて、自らあるがままのすべてと、信じることのすべてを永続させ、あらゆる世代に伝えるのです」。超自然的な信仰の感覚のおかげで、神の民の総体は神によって与えられた啓示のたまものをたえず受け入れ、それをより深く理解し、ますます完全に生活の中で実践していきます。神のことばを権威をもって正しく解釈する任務は、教会の教導権、すなわち、教皇と教皇に結ばれた司教にのみゆだねられています。

聖書

キリスト―聖書の唯一のみことば

神は、限りない慈悲によって人間にご自分を啓示するため、人間のことばで語られます。「実際、かつて永遠の父のみことばが、人間の弱い肉をつけて、人々に似たものとなったように、人間の用語で表された神のことばは、人間の話に酷似するものとなっています」聖書のあらゆることばを通して、神はただ一つのことばを語られます。それは唯一のみことばであり、その中でご自分のすべてを説明なさいます。「思い出してください。聖書の初めから終わりまで述べられているのは、神の一つの同じみことばです。すべての聖書記者の口から響き出るものは、一つの同じみことばです。そのみことばは、初めから神のもとにおられる神として時間的な存在ではないから、音節を必要となさいません」。それゆえ、教会は主のからだを崇敬するのと同じように、聖書をつねに敬ってきました。教会は、神のことばとキリストのからだの食卓から受ける生命のパンで、たえず信者を養っていきます。教会は聖書の中に、つねにその糧と力を見いだします。なぜなら、聖書の中で、単なる人間のことばではなく、神のことばそのものを受け取っているからです。「聖書において、天におられる父は、深い愛情をもって、つねにご自分の子供たちと会って、互いに語り合うのです」。

聖書の霊感と真理

神が、聖書の作者です。「聖書に含まれ、かつ、示されている神の啓示は、聖霊の霊感によって書かれたものです」。
「尊き母なる教会は、旧約および新約の全部の書をそのすべての部分を含めて、使徒的信仰に基づき、聖なるもの、正典であるとしています。なぜならそれらの書は、聖霊の霊感によって書かれ、神を作者とし、またそのようなものとして、教会に伝えられているからです」。神は、人間である聖書記者に霊感を授けました。「神は、聖書の著作にあたって、固有の能力と素質を持った人間を選んで、これをお使いになりました。それは神が彼らの内に、また彼らによって働く間に、彼らが、神が望むことをすべて、そしてそれだけを、真の作者として書くためです」。霊感によって書かれた書は、真理を教えます。「それゆえ、霊感を受けた作者、つまり、聖書作者が断言していることは、聖霊から断言されたこととすべきであり、したがって、聖書は、神がわたしたちの救いのために書かれることを望んだ真理を堅く、忠実に、誤りなく教えるものであるといわなければなりません」。とはいえ、キリスト教信仰は「書物の宗教」ではありません。キリスト教は神の「ことば」の宗教であって、そのことばは、「記されているだけの無言のことばではなく、受肉して生きているみことばです」。聖書が死んだ文字となることのないように、生ける神の永遠のことばであるキリストが、「聖書を悟らせるために」聖霊によってわたしたちの「心の目を開いて」くださることが不可欠です。

聖書の解釈者である聖霊

聖書の中では、神は人間的な表現で人間に話されます。したがって、聖書を正しく解釈するには、人間の著者たちが実際に主張しようと意図したことと、神が著者たちのことばを通してわたしたちに示そうとされたこととに留意しなければなりません。聖書記者たちの意図を発見するために、当時の状況と文化、当時使われていた「文学類型」、当時普通であった感じ方、話し方、物語り方を考慮する必要があります。「実際、種々の方式での歴史的な、あるいは預言的な、あるいは詩的な書において、またその他の表現形式において、真理は違った方法で語られ、かつ表現されています」。しかし、聖書は霊感によって記されたものですから、これを正しく解釈するには、前述のものに劣らず重要な、もう一つの解釈原理があります。それなしには、聖書は「死んだ文字」にとどまるでしょう。「聖書は、それが書かれたのと同じ霊の光のもとに読まれ、解釈されなければなりません」。第2バチカン公会議は、聖書を、霊感を与えた聖霊に忠実に解釈するため、三つの基準を示しています。①「聖書全体の内容と一体性」に特別な注意を払うこと。なぜなら、聖書は異なる書から成り立っていても、神の計画の一貫性のゆえに一つだからです、その計画の中心とも心ともいうべきもの、それはイエス・キリストであり、イエスの死と復活以来、それが明らかにされたのです。「キリストの心とはキリストの心を知らせる聖書を指しています。この心は受難の前には閉じられていました。すなわち、聖書の意味は、明らかでなかったのです。しかし、聖書は受難後に開かれました。なぜなら、キリストの受難後、聖書の知識を持っている人々は預言をどのように解釈すべきかを考察し、識別できるからです」。
②「教会全体の生きた伝承」に従って聖書を読むこと。教父たちの教えによると、聖書は、文字どおりに読むよりも、教会の心で読むほうがまさっています。事実、教会はその伝承に神のことばを生き生きと保ち続けており、さらに、「霊が教会に与える霊的意味に従って」聖書を霊的に解釈する力を聖霊が教会に与えるのです。
③信仰の類比に留意すること。「信仰の類比」とは、信仰の諸真理が、それら相互においても、啓示の教え全体においても一貫している、という意味です。
聖書の意味
古くからの一つの伝統に従えば、聖書のことばの意味は、文字どおりの意味と霊的意味との二つに区別することができます。後者は寓意的、道徳的、天上的意味とに細分されます。これら四つの意味は根本的には一致し、教会の中にあって聖書を読むとき、読書を豊かにするものです。文字どおりの意味。これは聖書のことばが表している意味で、正しい解釈の規則に従う聖書解釈によって考案されます。「聖書のすべての意味は、文字どおりの意味を土台にしています」。霊的意味。神の計画の一貫性のおかげで、聖書の文だけではなく、また、文が語ることがらや出来事もまた、別のことを示すしるしでありえます。
①寓意的意味。わたしたちは、聖書に示されているさまざまな出来事がキリストに関連づけて何を意味しているかを認めることによって、これらの出来事の意味をより深く理解できます。たとえば、紅海の通過はキリストの勝利を意味し、またそのことから、洗礼を意味します。

②道徳的意味。聖書に記されている出来事は、わたしたちを正しい行動に導くはずです。それらは「わたしたちに警告するため」(一コリント10∙11)に書かれました。
③天上的意味。ことがらや出来事の永遠の意味を考えることもできます。それらの出来事は、わたしたちを天の「祖国」に導くもの(ギリシア語でアナゴゲ-άναγωγή)です。たとえば、地上の教会は天上のエルサレムのしるしです。中世のある二行詩は、これら四つの意味を次のように要約しています。「字義は出来事を、寓意的意味は何を信じるべきかを、道徳的意味は何を行うべきかを、天上的意味はどこに向かうべきかを教える」。「このような諸原則に従って、聖書の意味を深く理解し、説明するために努力し、いわば、準備的な研究によって、教会の判断が熟するようにするのが聖書解釈者の任務です。実際、聖書解釈に関するこれらすべてのことは、結局は神のことばを保存し、解釈する神的命令と使命とを果たす教会の判断のもとにおかれています」。 「もし、カトリック教会の権威がわたしをそう促すのでなければ、わたしは福音を信じはしないでしょう」。

聖書の正典

どの書が聖書のリストのうちに入れられるべきかを教会に識別させたのは、使徒伝承です。その完全なリストが聖書の「正典」と呼ばれます。それは旧約聖書四十六書(エレミヤ書と哀歌を一っに数えれば四十五)と新約聖書二十七書からなります。
旧約聖書:創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、ヨシュア記、士師記、ルツ記∙サムエル記上∙下∙列王記上∙下、歴代誌上∙下、エズラ記、ネヘミヤ記、トビト記、ユディト記、エステル記、マカバイ記一∙二、ヨブ記、詩編、歳言、コヘレトの言葉、雅歌、知恵の書、シラ書(集会の書)、イザヤ書、エレミヤ書、哀歌、バルク書、エゼキエル書、ダニエル書、ホセア書、ヨエル書、アモス書、オバデヤ書、ヨナ書、ミカ書、ナホム書、ハバクク書、ゼファニヤ書、ハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書。
新約聖書:マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる福音書、使徒言行録、ローマの信徒への手紙、コリントの信徒への手紙一∙二、ガラテヤの信徒への手紙、エフェソの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、テサロニケの信徒への手紙一∙二、テモテヘの手紙一∙二、テトスヘの手紙、フィレモンヘの手紙、ヘブライ人への手紙、ヤコブの手紙、ペトロの手紙一∙二、ヨハネの手紙一∙二∙三、ユダの手紙、ヨハネの黙示録。
旧約聖書
旧約聖書は、聖書の欠くことのできない部分を成しています。その諸書は霊感によって書かれ、永続する価値を持っています。なぜなら、古い契約は決して無効になったわけではないからです。実際、「旧約の経綸は何よりもまず、万物のあがない主キリストの到来を準備し、預言的に知らせるために立てられました」。「不完全かつ一時的なことも含んでいますが」、旧約聖書の諸書は人を救う神の愛の教育法をよく示しています。それらの書は、「神に関する崇高な教えと人間生活に関する有益な知恵と祈りのすばらしい宝を納め、かつまた、わたしたちの救いの神秘を秘めています」。キリスト者は旧約聖書を神の真のことばとして敬います。教会は、旧約聖書が新約聖書によって無効にされたとしてこれを退ける考え(マルキオン主義)を、いつも強硬に排斥してきました。
新約聖書
「神のことばは、すべての信じる者にとって救いのための神の力ですが、そのことばは、新約聖書においてとくに優れた方法で示され、そしてその力を発揮しています」。新約聖書の諸書は神の啓示の決定的真理をわたしたちに伝えます。その中心的内容は、人となられた神の御子イエス・キリスト、そのわざ、教え、受難、栄光化、そして聖霊の働きに基づくキリストの教会の発足です。福音書は、「わたしたちの救い主である託身のみことばの生涯と教えとに関するおもな証言ですから」、全聖書の中心となるものです。福音書の成立には三つの段階を区別することができます。

>  ①イエスの生涯と宣教。教会が断固として主張し続けることですが、「教会は四福音書の歴史性をためらわずに断言し、神の子イエスが人間の間で生を送り、彼らの永遠の救いのため天に上げられる日まで、実際に行いまた教えたことを、それらの福音書が忠実に伝えていることを主張します」。
>  ②口伝。「使徒たちは、主の昇天後、キリストの栄えある出来事に教えられ、真理の霊の光に照らされる、確信を与えられて持っていたいっそう深い理解をもってキリストの言行を聴衆に伝えていました」。
>  ③福音書。「聖書作者は四福音書を書くにあたって、口伝と書き物とによって伝えられていた多くのことがらの中から選択し、あることがらを総合し、あるいは教会の事情に留意しながら説明し、そして宣教の形式を保ちながら、イエスに関して、つねに真理と真実とをわたしたちに知らせるようにしました」。四福音書は教会の中で一つの卓越した位置を占めていますが、そのことは典礼が払う崇敬とそれがあらゆる時代に聖人たちに及ぼした比類のない影響力とによって示されています。「福音書以上に優れ、貴重で、光に満ちた教えはほかにありません。わたしたちの主であり師であるキリストが、そのことばによって教え、行いによって実現したことを見、心に銘記してください」。「念禱の間に、わたしの霊魂を養っているのは何よりも福音書です。その中に、わたしの哀れな霊魂に必要なすべてを見いだします。そこに新たな光、隠された、神秘的な意味をいつも発見します」。
旧約聖書と新約聖書の一貫性
教会はすでに使徒時代から、またその後の伝承の中でたえず、予型論を用いて二つの契約の間に見られる神の計画の一貫性を明らかにしてきました。この予型論は旧約時代の神のわざのうちに、時が満ちて人となられた御子において神が実現されたことの前表を見分けます。したがって、キリスト者は旧約聖書を、死んで復活されたキリストに照らして読むのです。この予型論的な読み方によって、旧約聖書のくみ尽くすことのできない内容が明らかになります。しかし、旧約聖書は、主ご自身によってあらためて確認されたように、それ自体で啓示としての価値を保っていることを忘れるべきではありません。実際、新約聖書もまた、旧約聖書に照らして読まれる必要があります。古代教会のカテケージスは、たえず旧約聖書を活用しています。古くからいわれているように、「新約が旧約のうちに秘められ、旧約が新約のうちに明らかとなる」ために、新約聖書は旧約聖書の中に隠され、旧約聖書は新約聖書の中で明らかにされるのです。予型論は、「神がすべてにおいてすべてになられる」(一コリント15∙28)ときの、神の計画の完成に向かう力強い歩みを示すものです。ですから、たとえば、族長たちの召し出しやエジプト脱出は、神の計画の中のそれぞれの段階を示しているので、固有の価値を失ってはいません。

教会生活の中での聖書

「神のことばは、教会にとっては支えと気力となり、教会の子供にとっては、信仰の力、魂の糧、霊的生命の清く尽きない泉となるような威力と性質を持っています」。「キリスト信者には、聖書に近づく多くの機会が与えられなければなりません」。「したがって、聖書研究はあたかも神学の魂のようなものでなければなりません。ことばの奉仕職、すなわち、司牧的説教、要理教授、各種のキリスト教教育、この中で、典礼中の説教は特別の地位を占めるべきですが、これらは、聖書のことばによって、健全な栄養と聖なる活力を与えられます」教会は「すべてのキリスト信者……に、しばしば聖書をひもといて、『イエス・キリストの崇高なる知識』(フィリピ3∙8)を学ぶよう、特別にまた強く勧めます。『実際、聖書を知らないことは、キリストを知らないことです』。

要約

聖書全巻は、一冊の書です。この一冊の書、それはキリストなのです。「聖書全巻はキリストについて語り、聖書全巻はキリストにおいて完成するからです」。「聖書は神のことばを含んでおり、それは霊感によるので、真に神のことばなのです」。聖書の作者は神であり、聖書記者に霊感を与えながら、彼らのうちにあって、彼らを通して働かれます。こうして、神は彼らの書が救いの真理を誤りなく教えることを保証しておられます。霊感によって書かれた聖書を解釈するにあたっては、まず、神がわたしたちの救いのために聖書記者を通して啓示しようとされたことに留意しなければなりません。霊に由来するものは、霊の働きによってしか十分には理解されないのです。教会は、旧約聖書の四十六書と新約聖書の二十七書を、霊感によるものとして受け入れ、敬います。四福音書が中心的位置を占めますが、それはイエス・キリストを中心としているからです。新約∙旧約聖書の一貫性は、神の計画と啓示との一貫性に由来します。旧約聖書は新約聖書を準備し、新約聖書は旧約聖書を成就します。両者は相互に照らし合います。両者とも、神の真のことばです。「教会は主の聖体と同様に、聖書をつねに尊敬し……てきました」。この二つはキリスト者の全生活の糧であり、規範です。「あなたのみことばは、むたしの道の光、わたしの歩みを照らすともしび」(詩編119∙105)。

私は信じます

信仰による従順

啓示によって、「見えざる神は、大きな愛によって、あたかも友に対するように、人間に話しかけ、彼らと住まいをともにしています。それは、彼らを自分との交わりに招き、これにあずからせるためです」。この招きに対するふさわしい回答が信仰です。信仰によって、人間は、その知性と意志とをまったく神に従わせます。人間は啓示する神に心底から同意します。聖書は、啓示する神への人間のこの応答を「信仰による従順」と呼んでいます。信仰によって従う(「従う」oboedireは「傾聴する」ob-audireに由来)とは、聞いたことばに自由に自分をゆだねることにほかなりません。その真理が、真理そのものである神によって保証されているからです。アブラハムは、聖書が示しているこの従順の模範です。おとめマリアは、それをもっとも完全に具現したかたです。
アブラハム「信じるすべての人の父」
 ヘブライ人への手紙は、先祖たちの信仰をたたえる箇所で、とくにアブラハムの信仰を力説しています。「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです」(ヘプライ11∙8)。信仰によって、アブラハムは約束の地で寄留人、旅人として暮らしました。信仰によって、サラは約束の子を懐胎することができました。信仰によって、アブラハムは一人息子を犠牲としてささげました。ヘブライ人への手紙には「信仰とは、望んでいることがらを確信し、見えない事実を確認すること」(ヘブライ11∙1)だと述べられていますが、アブラハムはこの信仰の定義を具現しています。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」(ローマ4∙3)。この「強い信仰」のおかげで、アブラハムは「信じるすべての人の父」(ローマ4∙11,18)となりました。旧約聖書では、この信仰をあかしする人の話を数多く読むことができます。ヘブライ人への手紙は、「神に認められ」(ヘブラィ11∙2,39)るようにさせた昔の人々の模範的な信仰をたたえています。しかし、「神は、わたしたちのために、さらにまさったものを計画してくださった」(ヘブライ11∙40)のです。すなわち、「信仰の創始者また完成者である」(ヘブライ12∙2)御子イエスを信じる恵みです。
マリア「信じたかたは、なんと幸いでしょう」
マリアは、信仰による従順をもっとも完全に具現します。信仰をもって、マリアは天使ガブリエルによるお告げと約束を受諾しました。「神にできないことは何一つない」(ルカ1∙37)ということばを信じ、「わたしは主のはしためです。おことばどおり、この身に成りますように」(ルカ1∙38)と同意したのです。エリサベトはマリアに、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じたかたは、なんと幸いでしょう」(ルカ1∙45)とあいさつしました。マリアはこの信仰のゆえに世の人からも幸いな者と宣言されるのです。マリアの信仰は生涯にわたって、ご自分の御子イエスが十字架上で死ぬという最後の試練に遭ったときですら、揺らぐことはありませんでした`マリアは神のことばの「成就」をいつも信じていました。ですから教会は、マリアを信仰をもっとも純粋に生きたかたとして敬うのです。

「私は自分が信頼しているかたを知っています」(ニテモテ1・12)

神のみを信じる
信仰はまず、神に対する人間の人格的な帰依です。これは同時に、神が啓示されたあらゆる真理への自由な同意を伴います。キリスト者の信仰は神への人格的な帰依と神が啓示された真理への同意ですから、だれか一人の人間を信じることとは違います。全面的に神に信頼し、神が語られることを固く信じるのは、正しく、よいことなのです。神でないものをこのように信じることはむなしく、誤っています。
神の御子イエス・キリストを信じる
キリスト者にとって、神を信じることには必ず、神が遣わされたかた、すなわち、神のみ心にかなう「愛する御子」を信じることが伴います。神は御子に聞くようにと、わたしたちに命じられました。イエスご自身が弟子たちに、「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」(ヨハネ14∙1)といわれたのです。わたしたちがイエス・キリストを信じることができるのは、このかたご自身が神であり、人となられたみことばだからです。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいるひとり子である神、このかたが神を示されたのである」(ヨハネ1∙18)。御子は「父を見た」(ヨハネ6∙46)ので、彼だけが神を知らせ、示すことができるのです。
聖霊を信じる
イエスの霊を受けることなしに、イエス・キリストを信じることはできません。イエスとはどのようなかたであるかを人間に知らせるのは聖霊です。実際、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とはいえないのです」(一コリント12∙3)。「霊はいっさいのことを、神の深みさえも究めます。……神の霊以外に神のことを知る者はいません」(一コリント2∙10-11)。神だけが、神のすべてをご存じです。わたしたちが聖霊を信じるのは、聖霊が神であるからです。
教会は唯一の神、父と子と聖霊への信仰をいつも公言します。

信仰の特徴

信仰は恵みである
聖ペトロが、イエスはキリスト、生きている神の御子であると公言したとき、イエスはペトロに、このことを表したのは人間ではなく、イエスの「天の」(マタイ16∙17)父であると言明しておられます。信仰は神のたまものです。神から授かった超自然的徳です。「このような信仰を起こすには、神の先行的かつ援助的恩恵と聖霊の内的助力が必要です。聖霊は、人の心を動かして、神に向かわせ、精神の目を開いて、『すべての者に、真理を受け入れること、そして信じることの甘美さを』味わわせます」。
信仰は人間的行為である
信じることが可能なのは、ただ、神の恵みと聖霊の内的な助けによります。そうではあっても、信じることはまさに人間的な行為なのです。神に信頼し、神から啓示された真理に同意することは、人間の自由にも知性にも反することではありません。そもそも、人間関係の場合(たとえば男と女が結婚するようなとき)でも、相手が話してくれるその人自身のことやその考えなどを信じ、その約束に信頼してその人との関係を結ぶことは、人間の尊厳に背くことではありません。そうであればなおさらのこと、「ご自分を啓示される神に信仰によって知性と意志を全面的に服従させ」、神との親しい交わりに入ることで、わたしたちの尊厳が傷つけられることはないのです。信仰においては、人間の知性と意志は神の恵みに協力します。「信じるとは、恵みによって神に動かされた意志の命じるままに、神の真理に同意する知性の行為です」。
信仰と知性
啓示された真理がわたしたちの自然の理性にとって真実であり理解できるということが、信じる動機とはなりません。わたしたちが信じるのは、「欺くことも欺かれることもない啓示する神の権威のため」です。「わたしたちの信仰が『道理にかなった供え物』となるように、神は聖霊の内的助けに天啓の外的証拠が結合されることを望みました」。だから、キリストと聖人たちの奇跡、成就した預言、教会の発展と聖性、その豊かさと安定が、「神の啓示のもっとも確実で、すべての人の理解力によく応じたしるし」となり、また、信仰による同意が「決して精神の盲目的な動きではない」にとを示す信憑性の動機となるのです。信仰は確実、しかも、あらゆる人間の認識よりも確実なものなのです。なぜなら、それは偽ることのできない神のことばそのものに基づいているからです。確かに、啓示された真理は人間の理性や経験にとっては定かではないように思えることがあるでしょう。しかし、「神的光が与える確実性は、自然理性の光が与える確実性よりも強いのです」。「たとえ理解できないことが無数にあっても、そのことが信仰の確実さを疑わせることにはなりません」。「理解することを求める信仰」。信仰者が信じる神をもっとよく知り、啓示されたことをもっとよく理解したいと望むことは、信仰に付きものです。他方、知識が深まるにつれて信仰はより強まり、ますます愛に燃え立ちます。信仰の恵みは「心の目」(エフェソ1∙18)を開き、啓示の内容、すなわち、神の計画の全体、信仰の神秘、それらの間のつながり、また、啓示された神秘の中心であるキリストとその信仰の神秘との関係について、生き生きとした理解を持たせます。ところで、「聖霊は、啓示についての理解がますます深くなるように、不断にそのたまものをもって信仰を完全なものにします」。ですから、聖アウグスチヌスのことばに従えば、「信じるために理解し、理解するために信じる」ということになります。信仰と学問。「信仰は理性を超えるものですが、両者間には決して真の対立はありえません。諸神秘を啓示し、信仰を授けてくださる神ご自身が、人間精神に理性の光を注がれたのです。神はご自分の示していることを否定することはおできになりませんし、真理が真理と対立することも決してありえません」。「したがって、あらゆる知識の分野における学問的研究は、真実の学問的方法によるものであって、倫理の法則に従って行われるものであれば、決して信仰に対立することはないはずです。世俗の現実と信仰の現実とはともに同じ神に起源を持つものだからです。むしろ、謙虚と忍耐をもって事物の秘密を知ろうと努力する者は、万物を支えて、そのものとして存在せしめている神の手に知らずに導かれているようなものです」。
信仰の自由
人間らしくあるためには、「神に対する人間の信仰による応答は、自由意志によるものでなければなりません……。それで、何人といえども、自分の意志に反して信仰を受け入れるように強制されてはなりません。実際、信仰行為は、その性質上、自由意志によるものです」。「神は自分に霊と真理とをもって仕えるよう人々を招いています。それで、人間は良心において束縛されてはいますが、強制はされていません。……このことは、イエス・キリストにおいてもっともよく示されています」。キリストは信仰と回心を促しはしましたが、決して強制はなさいませんでした。「真理に証明を与えはしましたが、それを反対者に力づくで押しつけることはしませんでした。その国は……十字架に上げられたキリストが、人間を自分に引きつける愛によって発展します」。
信仰の必要性
イエス・キリストを信じ、また、イエスをわたしたちの救いのために遣わしてくださった神を信じることは、救いを得るために必要です。「『信仰がなければ、神に喜ばれることはでき〔ず〕』(ヘブライ11∙6)、神の子らとしての身分にあずかることもできません。信仰なしにはだれも決して義とされることはなく、『最後まで信仰を保たない限り』(マタイ10∙22、24∙13)永遠の生命を得ることはないでしょう」。
信仰を保ち続けること
信仰は、神が人間に与えてくださった無償のたまものです。わたしたちには、このはかりしれない恵みを失うことがありうるのです。聖パウロはテモテに警告しました。「雄々しく戦いなさい、信仰と正しい良心とを持って。ある人々は正しい良心を捨て、その信仰は挫折してしまいました」(一テモテ1∙18-19)。信仰に生き、信仰において成長し、最後まで信仰を貫くために、わたしたちは神のことばによって信仰を養わなければなりません。信仰を強めてくださるよう、主に願わなければなりません。信仰は「愛の実践」(ガラテヤ5∙6)を伴い、希望に支えられ、教会の信仰の中に根を下ろさなければなりません。
永遠の生命の始まりである信仰
信仰は、地上の歩みが目指す至福直観の喜びと光を、いわば前もって味わわせます。その日、わたしたちは神を「顔と顔とを合わせて」(一コリント13∙12)、「ありのままに」(一ヨハネ3∙2)見るでしょう。したがって、信仰はすでにこの永遠のいのちの始まりです。「わたしたちは、すでに今から、信仰によって得られる神の祝福を鏡に映るもののように眺めています。それは、いつか享受できると信仰によって保証されているすばらしいものを、すでに所有しているといえるのです」。けれども、今は、「〔わたしたちは〕目に見えるものによらず、信仰によって歩んで」(ニコリント5∙7)いて、神を「鏡におぼろに映ったもの〔のように〕一部しか」(一コリント13∙12)知らないのです。信じる神に照らされてはいても、信仰はしばしばやみを経験します。試練に遭いかねません。わたしたちが生きている世界は、信仰がわたしたちに教えることからしばしばかけ離れているように見え、悪、苦しみ、不正、そして死の体験は、福音と矛盾するように思えます。このようなことは、信仰を揺るがせ、失わせる誘惑にもなりかねません。そのときこそ、信仰の証人に目を向ける必要があります。「希望するすべもなかったときに」(ローマ4∙18)信じたアプラハム、「信仰の旅路」にあって、御子の苦しみとその墓のやみをともにしながら、「信仰の暗夜」に入った聖母マリア、その他多くの証人がいます。「このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(ヘブライ12∙1-2)。

わたしたちは信じます

「主よ、あなたの教会の信仰を顧みてください」

信仰は人格的な行為、つまり、ご自分を啓示する神の呼びかけに対する人間の自由な応答です。しかし、信仰は孤立した行為ではありません。一人で生きることができないように、だれも一人で信じることはできません。自分で自分に生命を与えることができないように、だれも自分に信仰を与えることはできません。信仰者は、信仰を他の人から受け取りました。それを他の人に伝えなければなりません。わたしたちのイエスと人々への愛は、他の人に自分の信仰について話すように駆り立てます。信者一人ひとりは、信仰者たちの大きな鎖の一つ一つの輪のようなものです。わたしは他の人々の信仰に支えられることなしに信じることはできませんし、また、自分の信仰によって、わたしは他の人々の信仰を支えることに貢献しているのです。「わたしは信じます」――これは、主として洗礼のとき、信じる者の一人ひとりによって個々に宣言される教会の信仰を表します。「わたしたちは信じます」――これは、公会議に集まった司教たち、あるいはもっと一般的に、典礼祭儀に集まった信者たちが公言する教会の信仰を表します。「わたしは信じます」――これはまた、その信仰によって神に答え、「わたしは信じます」、「わたしたちは信じます」と告白するようわたしたちに教える、わたしたちの母である教会自身の信仰告白でもあります。まず教会が信じて、わたしの信仰を支え、養い、助けます。至るところで主を公言するのは、まず教会です(わたしたちは「テ∙デウム」の中で、「世界に広がる聖なる教会はあなたをたたえます」と歌います)。そして、わたしたちもまた、教会とともに、教会に結ばれて、やむにやまれず「わたしは信じます」、「わたしたちは信じます」と公言するのです。わたしたちが信仰およびキリストのうちにある新しいいのちを洗礼によって授かるのは、教会を通してです。「ローマ儀式書」では、洗礼の司式者は「あなたは神の教会に何を求めますか」と尋ね、洗礼志願者はまず「信仰を求めます」と答えることになっています。そしてさらに「信仰によって何が与えられますか」、「永遠のいのちが与えられます」との問答が続きます。救いは、ただ神のみから来ます。しかし、わたしたちは教会を通して信仰のいのちをいただくわけですから、教会はわたしたちの母です。「わたしたちは教会を、わたしたちの新しいいのちの母であると信じているのであって、わたしたちの救いの創始者として信じているのではありません」。教会は、わたしたちの母ですから、またわたしたちの信仰の養育者でもあります。

信仰のことば

 わたしたちは信仰を伝える文言を信じるのではなく、それが表す現実、信仰によって「触れる」ことのできる現実を信じるのです。「信仰者の(信仰の)行為の対象は文言ではなく、文言が表している現実です」。しかし、この現実に近づくために、わたしたちは信仰を表明する文言を用います。これらは信仰を表現し、伝え、共同で祝い、自分のものにし、信仰にいっそう深く生きることを可能にします。「真理の柱であり土台である」(一テモテ3∙15)教会は、聖なる者たちにひとたび伝えられた信仰を忠実に守ります。キリストのことばを保ち続けるのは教会です。使徒たちの信仰告白を代々に伝えるのは教会です。母親が子供たちにことばを習わせ、それによって理解し、伝えることを教えるように、母なる教会はわたしたちに信仰のことばを学ばせ、信仰を理解し、それを生活に取り入れるように導いていきます。
唯一の信仰
教会は昔から、多くの言語、文化、民族、国の中にあって、唯一の信仰をたえず公言してきました。唯一の主から授けられ、唯一の洗礼によって伝えられ、すべての人間には唯一の神∙唯一の父が存在するだけであるとの確信となって定着した信仰です。この信仰の証人であるリヨンの聖イレネオは次のように言明しています。「教会は、地の果てに至るまで全世界に散らされてはいても、使徒たちとその弟子たちから信仰を受け取り、……この使信とこの信仰とをただ一つの家に住むかのように注意深く守り、一つの魂、一つの心であるかのように等しく信じ、一つの口しか持たないかのように、声を合わせてこれらのことをのべ伝え、教え、伝達しています」。「たとえことばは地方ごとに異なっていても、伝承の内容は一つで同じだからです。ゲルマニアに設立されている諸教会が違う信仰や伝承を持っているわけではなく、イベリア人の所にある諸教会も、ケルト人の所にある諸教会も、さらに東方、エジプト、リビア、そして世界の中央に設立されている諸教会も同様です」。「実に、教会の使信は真実で、確かなものです。教会においてこそ、全世界における唯一の同じ救いの道が見いだされるのです」。「わたしたちは、教会から受けたこの信仰を注意深く守ります。なぜなら、信仰はすばらしい器に納められたきわめて高価な預かり物のように、神の霊の働きのもとにたえず若返り、またそれを納めている器をも若返らせているからです」。

要約

信仰は、ご自分を啓示される神に、人間が自分のすべてをあげて人格的に帰依することです。信仰は、神がご自分の行いとことばによって、ご自分についてなされた啓示に対する知性と意志の同意を伴います。したがって、「信じる」とは、二つのことにかかわっています。神と真理です。すなわち、真理を証言する神を信頼して、真理を受け入れるのです。わたしたちは、父と子と聖霊である神のみを信じるべきです。信仰は神の超自然的なたまものです。信じるために、人間は聖霊の内的な助けを必要とします。「信じる」とは、意識した、自由な人間的な行為で、人間の尊厳に相応するものです。「信じる」とは、教会の行為です。まず、教会の信仰があり、これがわたしたちの信仰を生み、支え、養います。教会は、信じる者すべての母です。「教会を母として持たない者は、だれも神を父として持つことはできません」。「わたしたちは、書かれた、あるいは伝えられた神のことばに含まれ、教会が神から啓示されたものとして信じるように提示するすべてのことを信じます」。信仰は救いに必要です。キリストご自身、これを言明しておられます。「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」(マノレコ16∙16)。「信仰とは、来世でわたしたちに至福をもたらす認識を前もって味わわせることです」。

使徒信条

天地の創造主、
全能の父である神を信じます。
父のひとり子、わたしたちの主
イエス・キリストを信じます。
主は聖霊によってやどり、
おとめマリアから生まれ、
ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、
十字架につけられて死に、葬られ、
陰府(よみ)に下り、
三日目に死者のうちから復活し、
天に昇って、
全能の父である神の右の座に着き、
生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。
聖霊を信じ、
聖なる普遍の教会、
聖徒の交わり、
罪のゆるし、
からだの復活、
永遠のいのちを信じます。アーメン。

 

ニケア・コンスタンチノープル信条

わたしは信じます。唯一の神、
全能の父、
天と地、
見えるもの、見えないもの、すべてのものの造り主を。
わたしは信じます。唯一の主イエス・キリストを。
主は神のひとり子、
すべてに先立って父より生まれ、
神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、
造られることなく生まれ、父と一体。
すべては主によって造られました。
主は、わたしたち人類のため、
わたしたちの救いのために天からくだり、
聖霊によって、おとめマリアよりからだを受け、
人となられました。
ポンティオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ、
苦しみを受け、葬られ、
聖書にあるとおり三日目に復活し、
天に昇り、父の右の座に着いておられます。
主は、生者(せいしゃ)と死者を裁くために栄光のうちに再び来られます。
その国は終わることがありません。
わたしは信じます。主であり、いのちの与え主である聖霊を。
聖霊は、父と子から出て、
父と子とともに礼拝され、栄光を受け、
また預言者をとおして語られました。
わたしは、聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます。
罪のゆるしをもたらす唯一の洗礼を認め、
死者の復活と
来世のいのちを待ち望みます。アーメン。

キリスト教の信仰宣言

信条

 「わたしは信じます」と言明する人は、「わたしは、わたしたちが信じていることに同意します」といっています。信仰による交わりには、信仰を表す共通の言語が必要で、これが皆の規準となり、また一致して同じ信仰を公言することを可能にします。使徒時代の当初から、教会は固有の信仰を簡潔な、皆の規準となる一定のことばで表明し、伝えてきました。しかし、教会はまたきわめて早くから、信仰の核心を有機的に箇条としてまとめ、とくに洗礼志願者のために用意しました。「信仰のこのまとめは、人間の憶説によるものではありません。聖書全体の中からもっとも重要な点を選んで、信仰の教えをただ一つに要略したものです。ちょうど、ごく小さな一粒のからし種の中に数多くの枝が含まれているように、この信仰のまとめは、わずかなことばの中に、旧約聖書と新約聖書に含まれている真の敬神の知識をすべて包括しています」。信仰のこれらのまとめは、「信仰宣言」と呼ばれます。キリスト者が宣言する信仰をまとめたものだからです。「クレド」とも呼ばれますが、これは、最初のことばが普通「クレド(わたしは信じます)」で始まっているからです。また「信仰のシンボルム(信条)」とも呼ばれます。ギリシア語の「シュンボロン(σύμβολον)」は、元来、二つに割った物(たとえば公印)の半分を意味しました。認識票として提出するために割り符は合わされて、携帯者を識別するしるしとされました。したがって、信仰のシンボルムは信者同士の割り符、交わりの目印のようなものなのです。「シュンボロン」には、選び集めたもの、コレクション、要略という意味もあります。「信条」は信仰のおもな教えを選び集めたものです。ですから、カテケージスの第一の、基本的な規準となるわけです。最初の「信仰宣言」は洗礼のときに行われます。「信条」は何よりも洗礼用の信条なのです。洗礼は「父と子と聖霊のみ名によって」(マタイ28∙19)授けられるので、洗礼の際に宣言する信仰は、三位一体の神の三者に関して、それぞれ区切って述べられます。したがって、信条は三部分に分けられます。「第一に、神の第一のペルソナ(御父)と創造の感嘆すべきわざについて、次に、神の第二のペルソナ(御子)と人間のあがないの神秘について、最後に、わたしたちの聖化の泉、根源である神の第三のペルソナ(聖霊)について」。これが「わたしたちの(洗礼の)刻印の三つの部分です」)。「以上の三部分は互いに関連していながら、区別されます。教父たちがしばしば用いた表現に従えば、これらは『節』と呼ばれます。事実、わたしたちの肢体には、おのおのを区別し分けている幾つかの関節があるように、信仰宣言でも、わたしたちが一つ一つ区別して信じる教えに、正しく『節』の名がつけられました」。すでに聖アンブロジオが述べている古い伝承では、信条を十二節に分ける習慣もありました。これは、使徒伝来の信仰の全体を使徒の数で象徴しています。時の経過とともに、異なる時代の必要にこたえて、多くの信仰宣言(信条)が現れました。使徒時代の諸教会と古代の諸教会の諸信条、聖アタナシオ信条といわれる「クイクムクエ」信条、幾つかの教会会議(トレド、ラテラン、リヨン、トリエント)の信条、幾人かの教皇の信仰宣言、たとえば「ダマソ教皇の信条」や、パウロ6世の『神の民のクレド』(1968年)などがあります。教会の歴史のさまざまな段階で現れた信条のいかなるものも、時代後れで無用なものとみなすことはできません。これらはさまざまな形にまとめられていますが、わたしたちが今日、つねに変わることのない信仰を把握し、その理解を深めるための助けとなっています。すべての信条の中でも、とくに教会の歴史の中で重要な地位を占めているものが二つあります。使徒信条。こう呼ばれるのは、まさに使徒たちの信仰の忠実なまとめとみなされているからです。これはローマ教会の古い洗礼信条です。その優れた権威は、「使徒たちの頭∙ペトロの座があり、共同の宣言をもたらした教会であるローマ教会が守る信条である」ことに由来します。ニケア∙コンスタンチノープル信条。その優れた権威は、最初の二つの公会議(325年、381年)に由来します。この信条は、東方と西方のすべての主要な教会で、今日なお共通のものとなっています。本書は、いわば「もっとも古いローマのカテキズム」である使徒信条に従って信仰を説明していきます。しかし、しばしばいっそう明示的で、より詳細なニケア∙コンスタンチノープル信条にたえず照らし合わせながら、説明を補足することにします。わたしたちの全生涯を「教えの規範」(ローマ6∙17)にゆだねた洗礼の日のように、いのちを与えるこの信条を受け入れましょう。信仰をもって信条を唱えることは、父と子と聖霊である神との交わりに入ることであり、また、わたしたちに信仰を伝え、信じるわたしたちを懐に抱く全教会との交わりにも加わることなのです。「この信条は霊的刻印であり、わたしたちの心に深く刻まれるもの、そしてその心をいつも守っているもの、つまりわたしたちの魂の宝です」16)。

「天地の創造主、全能の父である神を信じます」

わたしは神を信じます

「わたしは唯一の神を信じます」

わたしたちの信仰宣言は、神から始まります。神は「初めであり、終わりであり」(イザヤ44∙6)、すべてのものの源であり目的だからです。信条は、父である神から始まります。父は聖三位一体の神の第一のペルソナだからです。信条は、天地の創造から始まります。創造は神のすべてのわざの初め、土台だからです。「わたしは神を信じます」。信仰宣言のこの第一の言明は、もっとも根本的なものです。信条の全体が神について述べています。たとえ、人間や世界について述べているとしても、神との関係のもとで述べているのです。神のおきてがその第一戒の展開であるのと同様に、信条のすべての条項は最初の条項とのかかわりにおいてこそ意味を持つものなのです。他の条項はご自分を徐々に人間に啓示された神をよりよく知らせるものです。「信者はまず、神を信じることを宣言します」。ニケア∙コンスタンチノープル信条は、このことばで始まります。旧約の神の啓示に根ざしている神は唯一であるという宣言は、神の存在の信仰と切り離すことができない、実に根本的な宣言なのです。神は比類のないかたで、唯一の神しか存在しません。「キリスト教信仰は、本性上、実体上、本質上、唯一である神が存在することを公言します」。選ばれた民イスラエルに、神はご自分が唯一であることを啓示されました。「聞け、イスラエルよ、われらの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6∙4-5)。預言者たちを通して、神はイスラエルとすべての国に、唯一の神であるご自分に心を向けるよう促しておられます。「地の果てのすべての人々よ、わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。……わたしの前に、すべての膝はかがみ、すべての舌は誓いを立て、恵みのみわざと力は主にある、とわたしにいう」(イザヤ45∙22-24)。イエスご自身、神は「唯一の主」であると宣言し、心を尽くし、魂を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして愛さなければならない、と確認しておられます。同時に、ご自分が「主」であることを悟らせます。「イエスは主である」と公言することは、キリスト教信仰に固有なことです。これは唯一神の信仰に反しません。また「主であり、いのちを与える」聖霊を信じることは、唯一の神のうちにいかなる分離をももたらしはしないのです。「わたしたちは次のことを固く信じ、はっきりと宣言します。永遠、無限、不変、全能、理解することもいい表すこともできないかたである父と子と聖霊が、唯一のまことの神であることを。位格は三位であるが、本質、実体、本性はまったく単純で一つであることを」。

神はご自分の名を啓示される
神はご自分の民イスラエルにご自分の名を知らせて、御自らを啓示されました。名というもの、その人の本質、その人自身、その人の生き方を表します。神には名があります。非人格的な力ではありません。そもそも自身の名を告げることは、他の人々に自分を知らせることです。いわば、自分を差し出して、近づきやすいものにし、より親密に知られ、個人的に呼びかけられることができるようにするのです。神はご自分の民に、ご自分を徐々に、種々の名で啓示されました。しかし、旧約および新約のための根本的な啓示は、エジプトからの脱出とシナイ山での契約の端緒となった、あの燃える柴の中で神がモーセに現れ、ご自身の名を啓示されたことです。

生きている神
神は、燃え尽きることのない柴の間からモーセをお呼びになり、「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(出エジプト3∙6)、といわれました。神は父祖たちの神、旅する族長たちを呼ばれ、導かれたかたです。彼らとの約束を覚えておられる、忠実で、思いやりのある神です。彼らの子孫を奴隷の状態から解放するために来られるのです。いつどこででも、それができ、それを望み、その計画を実現するために全能の力を注がれる神です。
「わたしは、わたしはあるという者である」 モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神がわたしをここに遣わされたのです』といえば、彼らは、『その名は一体何か』と問に違いありません。彼らに何と答えるべきでしょうか」。神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」といわれ、また、「イスラエルの人々にこういうがよい。『わたしはある』というかたが、わたしをあなたたちに遣わされたのだと。……これこそとこしえにわたしの名、これこそ、世々にわたしの呼び名」(出エジプト3∙13-15)。「わたしは、あるという者である」、または、「わたしは、わたしはあるという者である」、あるいはまた、「わたしは、わたし自身で存在する者である」ということばでご自身の神秘な名(YHWH)を明かすことにより、神はご自分がどのようなかたであるか一またどのような名で呼ばれるべきかを示されました。神が神秘であるのと同じように、神の名は神秘的です。それは明かされた名であると同時に、名づけることの拒否ともとれます。まさにそのことから、それは神をありのままにもっとも正しく表現することになります。事実、神はわたしたちの理解とことばのすべてを無限に超越しておられます。神は、「ご自分を隠される神」(イザヤ45∙15)なのです。そのみ名は名状しがたいものですが、人間に近づかれる神です。神はみ名を明かしながら、同時に、ご自分の永久的な忠実を啓示されます。神は過去においてそうであったように(「わたしはあなたの父の神である」〈出エジプト3∙6〉)、将来においても忠実であられます(「わたしは必ずあなたとともにいる」〈出エジプト3∙12〉)。「わたしはある」という名を明かされる神は、救いのためにつねに民のもとにおられる神としてご自分を現されるのです。ご自分のほうへ引き寄せる神の神秘的な現存を前に、人間は自らの卑小さを発見します。燃える柴を前にして、モーセは履物を脱ぎ、聖なる神に向き合って顔を覆いました。至聖なる神の栄光を前にしたイザヤは叫んでいます。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者」(イザヤ6∙5)。イエスが行われた奇跡を目の当たりにしたペトロは、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(ルカ5∙8)と叫びました。しかし、神は聖なるかたですから、ご自分の前で罪びとであることを認める人間をゆるすことがおできになります。「わたしは、もはや怒りに燃えることはない。〔なぜなら〕わたしは神であり、人間ではない〔からである)お前たちのうちにあって聖なる者」(ホセア11∙9)。使徒ヨハネも同じことをいいます。「わたしたちは神のみ前で安心できます、心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです」(一ヨハネ3∙19-20)。聖なるかたへの畏敬から、イスラエルの民は神のみ名を口にしません。聖書を読む場合には、啓示された名の替わりに、神の称号「主」(Adonai、ギリシア語ではΚύριος〈キュリオス〉)を用います。イエスの神性がたたえられるのは、「イエスは主である」との称号によってです。
「いつくしみとあわれみの神」 イスラエルの民が神から離れて、金の子牛をあがめるという罪を犯した後、神はモーセの執り成しを聞き、不忠実な民に同行することを承諾し、その愛を示されました。栄光を示してくださるように願うモーセに、神、「わたしはあなたの前にすべてのわたしのよいたまものを通らせ、あなたの前に主〔YHWH〕という名を宣言する」(出エジプト33∙19)といわれます。こうして、主はモーセの前を通り過ぎて宣言されました。「主、主〔YHWH、YHWH〕、あわれみ深く恵みに富む神、忍耐強く、いつくしみとまことに満ちた者」(出エジプト34∙6)と。そこでモーセは、主はゆるす神であると告白します。「わたしはある」、または、「ある」という神のみ名は、神の忠実さを示します。実際、神は、人々の罪による不忠実と、それに値する罰にもかかかわらず、「幾千代にも及ぶいつくしみを守られます」(出エジプト34∙7)。神は、ご自分の御子をお与えになるほどに、ご自分が「あわれみ豊かである」(エフェソ2∙4)ことを啓示されます。イエスはわたしたちを罪から解放するためにご自分のいのちをささげることにより、ご自身が神の名をお持ちであることを示されます。「あなたたちは、人の子を上げたときに、初めて、『わたしはある』ということが分かるだろう」(ヨハネ8∙28)。
神のみが存在する  世紀の流れの中で、イスラエルの信仰は神の名の啓示に含まれている豊かさを展開し、深めていくことができました。神は唯一であり、ほかに神は存在しません。神は世界と歴史を超越するかたです。天と地は神に創造されまし。「それらが滅びることはあるでしょう。しかし、あなたは永らえられますべては衣のように朽ち果てます。……しかし、あなたが変わることはありません。あなたの歳月は終わることがありません」(詩編102.27-28)。神のうちには「移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません」(ヤコブ1∙17)。神は永遠から永遠まで「ある者」であり、そのため、いつまでもご自分に忠実であり、その約束を守られます。したがって、「わたしは、わたしはあるという者である」という、えもいわれぬ名の啓示は、神のみが「自ら存在する(EST)」という真理を含んでいま。すでに聖書のギリシア語七十人訳と、その後の教会伝承が神のみ名を理解したのは、まさにこのような意味においてです。すなわち、神は存在と完全性の充満であり、初めも終わりもありません。すべての被造物はそれぞれの存在と所有を神から受けましたが、神だけは存在そのものであり、ご自分の存在のすべてはご自分よりのものです。

「あるという者」である神は真理と愛である

「あるという者」である神はイスラエルの民に、ご自分を「いつくしみとまことに満ちた者」(出エジプト34∙6)として啓示されました。この二つの語に、神のみ名の豊かさが要約して表現されています。神はそのすべてのわざの中で好意といつくしみと恵みと愛とを示されますが、また、信頼性、不変性、忠実さ、真理をも表されます。「〔わたしは〕あなたのいつくしみとまことのゆえにみ名に感謝をささげます」(詩編138∙2)13。神は真理です。なぜなら、「神は光であり、神にはやみがまったくない」(一ヨハネ1∙5)からです。神は「愛」(一ヨハネ4∙8)です。使徒ヨハネが教えているとおりです。「みことばの頭はまことです。あなたはとこしえに正しく裁かれます」(詩編119∙160)。「主なる神よ、あなたは神、あなたのみことばは真実です」(サムエル下7∙28)。したがって、神の約束はいつも果たされます。神は真理そのもので、そのことばは欺くことがありません。ですから、わたしたちはすべてのことにおいて、神のことばの真理と忠実さに、全幅の信頼をもって自分をゆだねることができます。人間の罪と失墜の始まりは、神のことば、好意、忠実さを疑わせようとした誘惑者の虚言によるものです。神の真理は被造界全体の秩序を保ち、世界を治める知恵です。おひとりで天地を造られた神だけが、神とのかかわりの中で造られたすべてのものについての真の知識を与えることがおできになります。神は、ご自分を啓示されるときにも真実です。神に由来する教えは「真理の教え」(マラキ2∙6)です。世に御子を遣わされたのは、「真理についてあかしをするため」(ヨハネ18∙37)でした。「わたしたちは知っています。神の子が来て、真実なかたを知る力を与えてくださいました」(一ヨハネ5∙20)。イスラエルの民は歴史の中で、神が自分たちに自らを啓示し、すべての民の間から自分たちをご自分の民として選ばれた理由は、無償の愛以外には何もなかったということを悟ることができました。また、神が自分たちを救い、不忠実と罪をゆるし続けてくださったのも、愛によってであることを、預言者たちのおかげで悟ることができました。イスラエルの民に対する神の愛は、子に対する父の愛にたとえられています。この愛は、幼子に向けられる母親の愛よりも強いものです。神は、花婿が花嫁を愛するよりも深くその民を愛されます。この愛は、もっともひどい不忠実に対しても揺らぐことがありません。そしてついには、このうえなく貴重なたまものをお与えになります。「神は、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3∙16)。神の愛は「永遠」(イザヤ54∙8参照)です。「山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしのいつくしみはあなたから移らない」(イザヤ54∙10)。「わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなくいつくしみを注ぐ」(エレミヤ31∙3)。聖ヨハネはさらに推し進めて、「神は愛です」(一ヨハネ4∙8,16)といっています。神の存在そのものが愛なのです。時が満ちて御ひとり子と愛の霊を遣わすことによって、神はご自分のもっとも隠れた内奥を示されます。神は永遠に父と子と聖霊の愛の交わりでありますが、その交わりにわたしたちをもあずからせようと、お決めになったのです。

唯一神を信じる信仰の意義

唯一の神を信じ、自分の存在のすべてを挙げて愛することは、わたしたちの全生活にはかりしれない影響をもたらします。神の偉大さと威光を知ること「まことに神は偉大、神を知ることはでき〔ない〕」(ヨブ36∙26)。そのため、「第一に神に仕え」なければなりません。感謝に生きること一神が唯一のかたであるなら、わたしたちの存在のすべて、わたしたちが所有しているもののすべては神に由来します。「あなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか」(一コリント4∙7)。「主はわたしに報いてくださった。わたしはどのように答えようか」(詩編116∙12)。人類は一つであり、すべての人間は真の尊厳を備えた存在であるということを認識すること人間はだれであれ、「神にかたどり、神に似せて」(創世記1∙26参照)造られています。被造物を正しく用いること一唯一神への信仰は、神でないすべてのものを、それがわたしたちを神に近づける限り用い、神から離れさせる限り用いないようにさせてくれます。「わたしの主、わたしの神、あなたからわたしを遠ざけるすべてのものを取り上げてください。わたしの主、わたしの神、あなたにわたしを近づけるすべてのものをわたしにお与えください。わたしの主、わたしの神、あなたに自分のすべてをささげるため、自我への執着を取り除いてください」。あらゆる状況の中で、たとえ逆境にあっても神に信頼すること。イエスの聖テレジアの一つの祈りが、これをみごとに表しています。
「何ものにも心乱さず、何ものをも恐れない。
すべては過ぎ行く。
神のみ変わらず。
忍耐は万事を得る。
神を持つ者に欠けるものはない。
神のみで足りる」。

要約

信仰は、ご自分を啓示される神に、人間が自分のすべてをあげて人格的に帰依することです。信仰は、神がご自分の行いとことばによって、ご自分についてなされた啓示に対する知性と意志の同意を伴います。したがって、「信じる」とは、二つのことにかかわっています。神と真理です。すなわち、真理を証言する神を信頼して、真理を受け入れるのです。わたしたちは、父と子と聖霊である神のみを信じるべきです。信仰は神の超自然的なたまものです。信じるために、人間は聖霊の内的な助けを必要とします。「信じる」とは、意識した、自由な人間的な行為で、人間の尊厳に相応するものです。「信じる」とは、教会の行為です。まず、教会の信仰があり、これがわたしたちの信仰を生み、支え、養います。教会は、信じる者すべての母です。「教会を母として持たない者は、だれも神を父として持つことはできません」。「わたしたちは、書かれた、あるいは伝えられた神のことばに含まれ、教会が神から啓示されたものとして信じるように提示するすべてのことを信じます」。信仰は救いに必要です。キリストご自身、これを言明しておられます。「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」(マノレコ16∙16)。「信仰とは、来世でわたしたちに至福をもたらす認識を前もって味わわせることです」。

「父と子と聖霊のみ名によって」

キリスト者は「父と子と聖霊のみ名によって」(マタィ28∙19)洗礼を受けます。洗礼の前に、父と子と聖霊への信仰を告白することを求める三つの質問に、「信じます」と答えます。「すべてのキリスト者の信仰は、三位一体に基づいています」。キリスト者は父と子と聖霊の「名(単数)によって」洗礼を受けます。父と子と聖霊「それぞれの名(複数)によって」ではありません。神は唯一で、全能の父、そのひとり子、聖霊は、至聖なる三位一体だからです。至聖なる三位一体の神秘は、キリスト者の信仰と生活の中心的な神秘です。それは、神ご自身のうちなる神秘です。したがって、信仰の他のすべての神秘の源、それらを照らす光なのです。信仰の「諸真理の順位」の中で、もっとも基本的で本質的な教えです。「救いの全歴史は、まことの唯一の神、父と子と聖霊が自らを啓示し、罪から離れる人間と和解し、一致する道と方法との歴史にほかなりません」。本節では、至福なる三位一体の神秘がどのように啓示されたか(1)、教会はこの神秘に関する信仰の教理をどのように築いてきたか(2)、最後に、御子と聖霊の派遣により、父である神が、どのように創造とあがないと聖化の「いつくしみ深い計画」を実現なさっているか(3)を簡潔に説明します。教父たちはテオロギア(Θεολογία神ご自身の啓示)とオイコノミア(Οίκονομία 神の救いのわざ)を区別します。前者は三位一体の神ご自身のいのちの神秘を、後者は自らを啓示してそのいのちを分かち与える神のすべてのわざを表します。テオロギアはオイコノミアを通してわたしたちに啓示されますが、逆に、テオロギアがオイコノミアのすべてを解明します。神のわざは神ご自身のうちにあることを明らかにし、逆に、神ご自身の神秘がそのすべてのわざの理解を助けるわけです。人間の間でも類似のことが見られます。人格は行為を通して自らを表し、逆に人格をよく知れば知るほど、その人の行為が理解されます。三位一体は厳密な意味での信仰の神秘、「神から啓示されなければ知ることのできない神のうちに秘められた神秘」です。確かに神は、創造のわざや旧約時代の間になされた啓示の中で、ご自分が三位一体であることを暗示されました。しかし、神ご自身が三位一体であることは、理性のみでは知りえないばかりか、神の御子の受肉と聖霊の派遣以前には、イスラエルの民の信仰によっても知りえなかった神秘です。

三位一体である神の啓示

子によって啓示された父多くの宗教においても、神は「父」と呼ばれています。そのような神は、しばしば「神々と人間の父」とみなされています。イスラエルの民の間で神が父と呼ばれるのは、世界の創造主としてです。しかし、それだけではありません。神は、その「長子である」(出エジプト4∙22)イスラエルとの契約、ならびにおきての授与のゆえに父と呼ばれます。神はまた、イスラエルの王の父とも呼ばれています。そしてとくに、そのいつくしみ深い保護のもとにある、「貧しい人々」、孤児、寡婦の父なのです。神を「父」と呼ぶことにより、信仰のことばはおもに二つの面を示します。すなわち、神はいっさいのものの根源で、超越的権威であること、また同時に、そのすべての子らを思いやり、深く配慮されることです。親としてのこの神のいつくしみは、母にもたとえることができます。この表現によって神の内在性と、神とその被造物間の親密さがいっそうよく表されます。このように、信仰のことばは、人間にとって、ある意味で神の最初の代理者である親との人間体験から引き出されています。しかし同時に、その体験を通して、人間の親が誤りやすく、父性と母性の姿をゆがめかねないこともはっきりしています。ですから、神は人間の性の区別を超越することを指摘しておかなければなりません。神は男でも女でもなく、神なのです、人間の父性と母性の起源、尺度ではあっても、それを超越した存在です。神ほどに父であるものは、一人もいません。イエスは、神は類例のない特別な意味での「父」であることを明かされました。すなわち、神は単に創造主として父なのではなく、ひとり子との関係において永遠に父であり、ひとり子も父との関係において永遠に子なのです。「父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」(マタイ11∙27)。ですから、使徒たちはイエスを「初めに神とともにあって、神であることば」(ヨハネ1∙1参照)、「見えない神の姿」(コロサイ1∙15)、「神の栄光の反映、神の本質の完全な現れ」(ヘブライ1∙3)であると宣言しました。その後、使徒伝承に従って、教会は、325年、ニケアでの初めての公会議で、子は「父と同一実体のもの」である、すなわち、父と一体の神であると宣言しました。381年にコンスタンチノープルで行われた第2回の公会議は、ニケア信条のこの表現を維持し、次のように宣言しています。「神の御ひとり子、よろず世のさきに、父より生まれ、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られずして生まれ、父と一体〔同一実体〕なり」。
聖霊によって啓示された父と子  イエスはその死と復活の前、「別の弁護者」、すなわち、聖霊を遣わすことを約束されました。創造のとき以来働かれ、かつて「預言者たちを通して語られた」聖霊は、今、弟子たちとともに、弟子たちのうちにあって、弟子たちを教え、導き、「真理をことごとく悟らせ」(ヨハネ16∙13)ようとしておられます。このように、聖霊はイエスや御父とは区別された神のペルソナとして啓示されています。聖霊の永遠の起源は、この世への派遣において啓示されます。聖霊は使徒たちと教会に、子の名によって父から、また、父のもとに一度戻られた子ご自身から派遣されます。イエスが栄光に入られた後の聖霊派遣は50、聖三位一体の神秘をくまなく啓示します。聖霊に関する使徒伝承の信仰は、381年にコンスタンチノープルで開催された第2回の公会議において、わたしたちは「主であり、生命の与え主である聖霊を」信じます、ということばで宣言されました。教会はこれにより、父を「全神性の源泉と起源」として認めます。とはいえ、聖霊の永遠の起源は子のそれと結ばれているのです。「わたしたちは、聖霊が三位一体の第三のペルソナであり、神である父と子と一体であるとともに、同等であり、唯一の実体、唯一の本性を持っ神であることを信じます。……しかも聖霊は、ただ父だけの霊でも、子だけの霊でもなく、父と子との霊と呼ばれます」。教会のコンスタンチノープル会議信条は、「聖霊は父と子とともに拝み、あがめられる」と宣言しています。信条の西方教会伝承は、聖霊は「父と子より出で」と宣言します。1438年のフィレンツェ公会議は、これを次のように詳述しました。「聖霊は……その本質およびその実体は父と子からであり、両者から、あたかも単一の根源から、一つの息吹によって、永遠の昔に発出したのです。……父は、父であることを除いて、自分のすべてを自分のひとり子を生むことによって与え、子は父から永遠の昔に生まれ、この父から永遠の昔に生まれた子から聖霊が永遠の昔に発出したのです」。(父)と子よりという文言は、381年のコンスタンチノープル信条には出ていません。しかし、古い西方ならびにアレクサンドリア伝承に従い、教皇聖レオがすでに447年に、これを教義として公言しました。これは、ローマ教会が451年のカルケドン公会議で381年の信条を知り、受け入れる以前のことでした。そして徐々に(8世紀から11世紀の間に)ラテン典礼ではこの語を信条の中に入れて唱えるようになりました。ラテン典礼でニケア∙コンスタンチノープル信条の中に(父)と子よりが導入されたことについては、今日でも、東方教会との論争点になっていま。東方教会伝承は、まず、父が聖霊の究極的根源であることを表しています。聖霊が「父のもとから出る」(ヨハネ15∙26)と宣言することにより、この伝承は、聖霊が父から子を通して発出すると宣言しているのです。西方教会は、聖霊が父と子(Filioque)より発出するということにより、まず、父と子の同一実体としての交わりを表しています。この表現は、「合法的で正しい」ものです。なぜなら、同一実体としての交わりにおける聖三位の永遠の序列のゆえに、父は「本源のない本源」として聖霊の究極的根源であり、また同時に、ひとり子の父としてひとり子と一つになった本源、聖霊が発出する「いわば唯一の本源」でもあるのです。両教会の見方は互いに正当に補完するものです。これは、柔軟に考えさえすれば、同じ三位一体の神秘に対する信仰の同一性を損なうことはありません。

信仰に関する教えの中での三位一体

三位一体の教義の形成   聖三位一体という啓示された真理は、教会の当初から、主として洗礼を授けることを通して、いつも教会の生きた信仰の根底に置かれてきました。この真理は、洗礼式の信仰宣言では一定の形式をもって表現されていた、ということが分かります。教会の宣教、カテケージス、祈りの中に定式化された定句は、すでに使徒たちの書に見られ、感謝の祭儀の中で踏襲されている次のあいさつからも明らかです。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同とともにあるように」(ニコリント13∙13)。最初の数世紀に、教会は三位一体の信仰をより明示的に表明することに努めました。この信仰について自らの理解を深めると同時に、それをゆがめていた誤謬に反駁するためです。これは、教父たちの神学的研究に助けられ、キリストの民の信仰心によって支えられた、古代の諸公会議の仕事でした。教会は三位一体の教理の形成のため、「実体」、「ペルソナ」または「ヒュポスタシス」、「関係」などの哲学に由来する概念を借りて、固有の用語を展開していかなければなりませんでした。そうしながら、教会は信仰を人間の知恵に従わせたわけではなく、これらの語にまったく新しい意味を与え、以後は、「入間の尺度で測り得るすべてのものを無限に超える」神秘を意味するようにしたのです。教会は「実体」(たびたび「本質」あるいは「本性」と置き換えられる)という語を用いて、神の一体性を示し、「ペルソナ」または「ヒュポスタシス」の語を用いて互いに実際に区別される父と子と聖霊を示し、「関係」の語を用いて、それぞれの区別は相互の関係によることを示します。
三位一体の教義   三位は一体です。三つの神々ではなく、三者としての唯一の神、すなわち、「実体として一つである三位の神」を、わたしたちは信じています。三者が唯一の神性を分かち持つのではなく、それぞれは神そのものなのです。 「父は子と同じ存在、子は父と同じ存在、父と子は聖霊と同じ存在、すなわち、本性において唯一の神です」。「三つのペルソナのそれぞれが、神的実体、神的本質ないし本性という、同じ状態なのです」。神の三者はそれぞれ実際に区別されています。「神は唯一ではあるが、孤独ではありません」。「父」と「子」と「聖霊」は神の存在の様式を示す単なる呼称ではなく、実際に区別されたかたがたです。「子は父ではなく、父は子ではなく、父も子も聖霊ではありません」。三者の区別は、それぞれの起源の関係に由来します。「父が生み、子は生まれ、聖霊は発出します」。一体の神は、三位です。神の三者は、相互関係のうちにあります。各ペルソナ間の実際の区別は、一体の神を分割することによって生じるものではなく、相互の関係によるものです。「各ペルソナの相互関係を表す名によって、父は子に、子は父に、聖霊は両者に対するものとして表されています。相互関係にある者として三つのペルソナが語られますが、ただ一つの本性または実体を信じているのです」。実際、「相互関係の間柄の違いを除けば、三位のすべてが一つです」。「この一体性のゆえに、父全体は子のうちにあり、また聖霊のうちにあります。子全体は父のうちにあり、また聖霊のうちにあります。聖霊全体は父のうちにあり、また子のうちにあります」。「神学者」という称号を与えられたナジアンズの聖グレゴリオは、コンスタンチノープルの洗礼志願者のために三位一体の信仰を次のように要略しました。 「何よりもまず、このすばらしい預かりものを守ってください。わたしはそのために生き、そのために戦っています。これを胸に抱いて死ぬつもりですが、これはわたしにあらゆる不幸を耐えさせ、あらゆる快楽を軽んじさせるものです。この預かりものとは、父と子と聖霊への信仰宣言です。わたしは、今日、それをあなたにゆだねます。ゆだねた上で、わたしはあなたを水の中に入れ、引き上ぼます。わたしはその預かりものをあなたの生涯の伴侶、保護者として授けます。わたしはあなたに唯一の、全能の神を授けます。神は唯一ですが、それぞれ区別された三位として存在しておられます。神において、三位は区別したものとして存在しています。神において、実体または本性の相違はなく、上下関係もありません……。無限の同じ本性を持たれる無限の三位です。おのおのが、神の全体であり……、三位がともに神の全体です……わたしが唯一の神を思い始めるや否や、すでに三位がわたしをその光輝で覆ってしまわれます。三位を思い始めるや否やたちまち、唯一の神がわたしをとらえてしまわれます……」。

神のわざと三位一体の役割

「ああ、至福の光なる三位、ああ根源的一致!」。神は、永遠の至福、不死のいのち、消えることのない光です。神は愛、父と子と聖霊です。神は自由に、ご自分の至福のいのちの栄光を分かち合おうとしておられます。それは、愛する御子において世界創造以前から抱いておられた「秘められた計画」(エフェソ1∙9)です。この計画により、「イエス・キリストによって神の子にしようと、前もってお定めになったのです」(エフェソ1∙5)。すなわち、「神の子とする霊」(ローマ8∙15)によってわたしたちを「御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められ」(ローマ8∙29)たのです。この計画は、「永遠の昔にわたしたちのために与えられた」(二テモテ1∙9)恵みで、三位の愛から直接に出たものです。それは、創造のみわざ、人祖の失墜後の救いの全歴史、子と聖霊の派遣ならびにそれが永続される教会の派遣の中で展開されていきます。神の救いの営みはすべて、三位の共同のわざです。三位には、唯一のまったく同じ本性しかないのと同じように、ただ一つの同じわざしかありません。「父と子と聖霊は被造物の三つの本源でなく、ただ一つの本源です」。そうでありながら、おのおののかたがそれぞれに固有の特性に従って共同のわざを行われるのです。ですから、教会は新約聖書に従い、「父である神は一つで、すべてはそのかたから出ている。主イエス・キリストは一つで、すべては彼によって成っている。聖霊は一つで、すべてはその中にある」と宣言します。神の三位の固有な特性を明らかにするのは、とくに受肉という御子の派遣と、たまものとして与えられる聖霊の派遣です。聖三位の共同かっ個々のわざである神の救いの営み全体は、それぞれの特性と唯一の本性を知らせます。したがってキリスト者の全生活は、決して聖三位を分離することなく、聖三位のそれぞれと交わることなのです。御父の栄光をたたえる者は、御子によって聖霊のうちにそうするのであり、キリストに従う者は、その人を御父が引き寄せ、聖霊が動かされるので、そうするのです。救いの営み全体の究極目的は、神によって創造された人々が至福である三位一体の完全な一致のうちに入ることにあります。しかし、わたしたちはすでに今、至聖である三位一体の住みかとなるよう招かれています。「わたしを愛する人は、わたしのことばを守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしはその人のところに行き、一緒に住む」(ヨハネ14∙23)、とキリストはいわれます。「ああ、わたしの神、わたしの礼拝する三位一体よ、わたしがまったく自分を忘れ、わたしの霊魂があたかもすでに永遠に住んでいるかのように、安らかに、静かに、あなたのうちにとどまるようお助けください。ああ、わたしの不変の神よ、何事もわたしの平和を乱さず、わたしをあなたから引き離すことなく、たえず、あなたの神秘の深みにいっそう深く分け入らせてください。わたしの魂を鎮め、これをあなたの天のみ国、あなたの喜ばれる住まい、あなたの憩いの場としてください。わたしが片時も、わたしの魂に住まわれるあなたを孤独にしておくことなく、すべてを挙げて信仰に目覚め、礼拝しつつ、あなたの創造のみわざにこの身のすべてをゆだねて、あなたとともにとどまりますように」。

要約

至聖なる三位一体の神秘は、キリスト者の信仰と生活の中心的神秘です。神のみが、ご自分が父と子と聖霊であることを啓示して、ご自身のことをわたしたちに知らせることができます。神の御子の受肉は、神が永遠の父であり、子は父と同一実体のものであること、すなわち、子は父のうちに、父とともにあり、父と同じ唯一の神であることを明らかにします。御子の名によって御父から遣わされ、「〔御〕父のもとから」(ヨハネ15∙26)御子によって遣わされた聖霊の派遣は、聖霊が父と子と同じ唯一の神であることを明らかにします。「聖霊は父と子とともに拝み、あがめられます」。「聖霊は究極的な本源としての父から発出し、また父が子にそのことを永遠にお与えになられたがゆえに、交わりにある父と子から発出します」。「父と子と聖霊の名による」(マタイ28∙19)洗礼の恵みによって、わたしたちは至聖なる三位一体のいのちに、「この世では信仰によっておぼろげに、死後は永遠の光の中で」あずかるように召されています。「カトリックの信仰とは、三位である唯一の神、一体の神である三位を、互いに混同することなく、また実体を分かつことなくあがめることです。父のペルソナと子のペルソナと聖霊のペルソナとはそれぞれ異なっていますが、父と子と聖霊は唯一の神で、栄光は等しく、その尊厳はともに永遠です」。聖三位の存在が互いに切り離すことができないのと同様に、働きも互いに切り離すことができません。しかし、唯一の働きの中で、三位はそれぞれに固有な働きを示されます。このことはとくに、受肉という御子の派遣と、たまものとしての聖霊の派遣において現れます。

全能の神

神のすべての属性の中で、信条ではただ「全能」だけが挙げられています。これを公言することには、わたしたちの生活にとって大きな意義があります。わたしたちは神の全能がすべてのものに及ぶことを信じます。なぜなら、神はすべてを創造し、すべてを治め、すべてがおできになるからです。神の全能には、いつくしみがこもっています。なぜなら、神はわたしたちの父であられるからです。さらに、それは隠されたものです。なぜなら、それは「弱さの中でこそ十分に発揮される」(ニコリント12∙9)ものなので、信仰だけが識別できるからです。

聖書は、すべてに及ぶ神の力をたたえてうむことがありません。神は、「ヤコブの勇者」(創世記49∙24。イザヤ1∙24など参照)、「万軍の主」(詩編24∙10)、「強く雄々しい主」(詩編24∙8)と呼ばれています。神が「天において、地において」(詩編135∙6)全能であるのは、それらを創造されたからです。したがって、神におできにならないことは何一つなく、造られたものを望みのままに用いられます。神は宇宙の主であり、宇宙の秩序を定められたので、森羅万象はまったく神に従い、神の意のままになります。神は歴史の主です。思いのままに人々の心と出来事とをつかさどられます。「あなたはつねに偉大な力を備えておられる。あなたのみ腕の力にだれが逆らえよう」(知恵11∙21)。「全能のゆえに、あなたはすべての人をあわれまれる」(知恵11∙23)

神は全能の父です。神の父性と神の権能という二つの面が相互に作用し合いながら、それぞれの意味∙内容を明らかにしてくれます。実際、神は父としてのご自分の全能を、わたしたちの必要を配慮したり、わたしたちを子とする(「わたしはあなたがたにとって父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、全能の主はこう仰せられる」くニコリント6∙18〉)ことによって、また、その無限のあわれみを通して示しておられます。さらに、罪を思いのままにゆるすことで、ご自分の権能を極限まで表しておられるのです。

神はご自分の全能を恣意的に用いられるようなことは決してありません。「神にあっては、能力と本質、意志と知性、知恵と正義はただ一つの同じものなので、神の正しい意志やその賢明な知性にないことは、神の能力にもありえないのです」。

全能の父である神への信仰は、悪と苦しみの体験によって試みられることがあります。神は存在せず、悪を妨げることもおできにならないと思えるようなことがあります。ところが、神は御子が進んで自らを無とし、復活したというきわめて神秘なしかたで、ご自分の全能を示し、悪に打ちかたれました。このように、十字架につけられたキリストは神の力、神の知恵なのです。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」(一コリント1∙25)。キリストの復活と栄光化に際して、御父はご自分の「力」を働かせ、「わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる」ご自分の「力が、どれほど大きなものであるか」(エフェソ1∙19-22)を示されました。

ただ信仰によってのみ、わたしたちは神の全能の人目にはつかない道をたどることができます。この信仰は自らの弱さを誇ることで、キリストの力を引き寄せます。おとめマリアが、この信仰の最高の模範です。マリアは「神にできないことは何一つない」(ルカ1∙37)ことを信じ、「力あるかたが、わたしに偉大なことをなさり、そのみ名は尊い……」(ルカ1∙49)といって、主をあがめることができました。

「したがって、わたしたちの信仰と希望を強固にするために最適なものは、神におできにならないことは何もないと、心中に深く刻まれた信念にほかなりません。実際、神の全能の概念を持ちさえすれば、〔信条で〕引き続き述べられている信じなけれぱならない一つ一つのこと、大変偉大で、まったく理解しがたく、また自然の通常の法則をはるかに超えることがらに閧しても、理性はそれらを直ちに、容易に、何のためらいもなく容認するでしょう」。

要約

わたしたちは正しい人ヨブとともに、「あなたは全能であり、み旨の成就を妨げることはできないと悟りました」(ヨブ42∙2)と宣言します。

教会は聖書の教えを忠実に受け継ぎ、しばしば「全能で永遠である神」に(「全能、永遠の神よ……」と)祈りをささげますが、それは「神にはできないことは何一つない」(ルカ1∙37)ことを固く信じているからにほかなりません。

神はわたしたちを罪から回心させ、恵みによって友愛関係を取り戻させることによって、ご自分の全能を現されます(「全能の神よ、あなたのゆるしは限りなく、そのあわれみはすぺてに及ぴます」)。

神の愛は全能だと信じないならば、御父がわたしたちを創造し、御子がわたしたちをあがない、聖霊がわたしたちを聖化してくださると、どうして信じられるでしょうか。

創造主

創造についてのカテジークス

「初めに、神は天地を創造された」(創世記1∙1)。聖書はこの荘重なことばで始まっています。信条はこのことばを踏襲して、全能の父である神を「天地の創造主」、「見ゆるもの、見えざるもの、すべての造り主」と宣言します。ですから、まず創造主について、次に被造界について、最後に人祖の堕罪について述べることにしますが、神の御子イエス・キリストはこの堕罪からわたしたちを救いに来られたのです。創遙は「神の救いのすべての計画」の土台、キリストを頂点とする「救いの歴史の始まり」です。逆に、キリストの神秘は創造の神秘を解く決定的な光となります。すなわち、何のために「初めに、神は天地を創造された」(創世記1∙1)のか、その目的を明らかにします。初めから、神はキリストにおける新たな創造の輝きを意図しておられました。ですから、キリストにおける新たな創造を祝う復活徹夜祭の朗読は、創造の物語から始まります。ビザンチン典礼では、伝統的にこの物語が主の大祝日の徹夜典礼での第一朗読になっています。古代の史料によれば、洗礼志願者の教育も同じ順序で行われました。創造についてのカテケージスはきわめて重要です。これは人間として、またキリスト者としての生活の根底にかかわっています。つまり、「わたしたちはどこから来たのか」「どこに行くのか」「わたしたちの起源は」「わたしたちの目的は」「万物はどこから出て、どこに向かうのか」という、あらゆる時代の人々が提起する基本的な問題に対して、キリスト者の信仰に基づく回答を明確にするものだからです。起源と究極目的に関する質問は不可分であり、また、その回答はわたしたちの生活と行為の意味、ならぴに方向にとって決定的なものです。宇宙と人間の起源に関する問いかけは数多くの科学的探求の対象となり、手宙のヰ齢や大きさ、生物の生成、人間の出現に関する知識を驚くほど豊かにしました。これらの発見によってわたしたちは、創造主の偉大さを賛美し、そのあらゆるわざと学者や探求者に与えられている知恵や知識に対して神に感謝するよう促されま丸これらの人々はソロモンとともに、こういえるはずです。「存在するものについての正しい知識を、神はわたしに授けられた。宇宙の秩序、元素の働きをわたしは知った。……万物の制作者、知恵に教えられたからである」(知恵7∙17-21)。これらの探求に特別に寄せられる大きな関心というのは、自然科学の領域を超えた別の次元の問いかけのほうがもっと強いのです。ただ単に、宇宙が物質的にいつ、どのように生じたのか、人間はいつ出現したのかを知ることではなく、むしろ、その起源の意味を明らかにすることに関心があるのです。すなわち、起源は偶然なのか、盲目的な運命、あるいは何かの必然によるのか、それとも知性と善意を備えた超越的存在、神と呼ばれるかたによるのか。そして、もし、世界が神の英知と善に由来するなら、なぜ悪が存在するのか、悪はどこから来るのか、その責任はだれにあるのか、悪からの解放はあるのか、といった一連の問題が続出します。キリスト者は当初から、起源の問題について、自分たちの信仰とは異なる回答と対決させられてきました。古代の宗教と文化の中には、起源に関する多くの神話が見られます。ある哲学者たちによれば、すべては神、世界が神、もしくは世界の生成がそのまま神の生成だということになります(汎神論)。他の人々によると、世界は神の必然的流出で、この泉から流れ出て、これに回帰します。また他の人たちは、永久に戦う二つの原理、善、と悪、光とやみの存在を主張しました(二元論、マニ教)。こうした考えをする人々の中には、世界(少なくとも物質界)は失墜から生じた悪いものであって、拒絶するか超克すべきものだと主張するものもいます(グノーシス主義)。他の人々は世界は神に創造されたことを認めますが、神はあたかも時計の製造者のように、ひとたび造られた世界の動きを、それに内在する法則に任せたと主張します(理神論)。また、他の人々は世界がそれを超越する者に由来することを承認せず、つねに存在していた物質の慟きのみの結果とみなします(唯物論)。以上の仮説は、起源の問題がいつどこにおいても提起されていることを示しています。この探求は人間につきものなのです。確かに人間の知性は、万物の起源の問題に対する回答を見いだす能力をすでに持っています。実際、創造主である神の存在は、人間理性の光に照らし、そのわざを通して確実に知ることができます。しかし、この知識は誤謬によってしばしば不明瞭になり、ゆがめられてしまいます。そこで、このことを正しく理解するために、信仰が理性を強め照らします。「信仰によって、わたしたちは、この世界が神のことばによって創造され、したがって見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」(ヘブラィ11∙3)。創造の事実は人間生活全体にとってきわめて重要なことですから、神はご自分の民に、創造に関して知れば益になることをすべて、いつくしみ深く啓示されました。創造主についてあらゆる人間が持つことのできる自然の知識を超えて、神は徐々にイスラエルの民に創造の神秘を明かされました。族長たちを選び、イスラエルをエジプトから脱出させ、イスラエルを選んでご自分の民を生み、育てられた神は、ご自分を、地のすべての民を所有し、全地を所有するかた、ひとり「天地を造られた」(詩編115∙15、124∙8、134∙3)かたとして示されます。したがって創造の啓示は、唯一の神がその民と結ばれた契約の啓示とその実現から、切り離すことはできません。創造はこの契約に向かう第一歩として、神の全能の愛の最初の普遍的あかしとして啓示されました。こうして、創造の教えは預言者たちの告知、詩編や典礼の祈り、選ばれた民の知恵の省察の中で、ますます強く表されていきます。創造について記された聖書のあらゆることばの中でも独自の地位を占めているのが、創世記の最初の三章です。文書資料として見れば、これらの章はおそらく源泉を異にしていると思われます。霊感を受けた記者はこの三つの章を聖書の冒頭に置くことによって、荘重に、創造の真実、被造界が神を起源とし目的としていること、その秩序と善性、人間の使命、罪の悲劇と救いの希望を述べようとしました。これらの章はキリストの光に照らし、聖書の一貫性と教会の生きた伝承に従って読むなら、「初め」の神秘、つまり、創造、堕罪、救いの約束に関するカテケージスの主要な源泉であり続けるのです。

三位一体の神のわざである創造

「初めに、神は天地を創造された」(創世記1∙1)、聖書のこの書き出しには三っのことが明言されています。永遠の神は、ご自分以外のすべてのものが存在し始めるようにしてくださいました。神だけが創造主です(「創造する」という動詞――ヘブライ語でbara――はいつも神を主語とします)。存在するすべてのもの(「天地」という語がそれを表しています)は、それに存在をお与えになった神に依存しています。「初めにことばがあった。……ことばは神であった。……万物はことばによって成った。成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一っなかった」(ヨハネ1-3)。新約聖書は、神は万物を愛する御子である永遠のみことばによって造られたことを啓示しています。「天にあるものも地にあるものも……万物は御子において造られたのです。万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています」(コロサイ1∙16-17)。教会は、聖霊も創造のわざを行っていることを信じています。聖霊は「生命の与え主」、「創造主である霊」(「創造主である聖霊、来てください〈Veni, Creator Spiritus〉」)、「あらゆる善の泉」です。御父の創造の働きと一つで切り離すことができない御子と聖霊の働きは、旧約聖書において暗示され、新約聖書のうちに啓示され、教会の信仰宣言で明言されています。「唯一の神が存在します。……このかたは父であり、神であり、創始者であり、実行者です。万物をご自分によって、すなわち、そのみことばと知恵とによって造られた創造主です」。「み手」のように働かれる「御子と聖霊によって」造られました。創造は聖三位の共同のわざです。

「世界は神の栄光のために造られた」

「世界は神の栄光のために造られた」、これは聖書と聖伝とがつねに教え、たたえている根本的な正しい教えです。聖ボナベントゥラは、神が万物を造られたのは「栄光を増大するためではなく、その栄光を現し、分かち合うためだ」と説明します。まことに、神が創造される理由は、ご自分の愛と善以外に何もありません。「被造物を造るためにみ手を開けたのは、愛のかぎです」。また、第1バチカン公会議は次のように説明しています。「この唯一のまことの神は、自分の幸福を増し、または獲得するためではなく、被造物に与える善によって自分の完全さを表すために、自分の善と全能の力とによって、自由な計画をもって、時の始めから、霊的被造物と物質的被造物とを等しく無から創造されました」。神の栄光、それは神の善が表され、伝えられることにほかなりません。これこそ、世界が造られた目的です。神はわたしたちを「イエス・キリストによって神の子にしようと、み心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです」(エフェソ1∙5-6)。「実に、神の栄光とは生きている人間にあり、人間の生命とは神を見ることにあります。覆われた状態での神の現れが地上の生きものすべてに生命を与えるとすれば、みことばによる御父の顕現は、それにもまして、神を見る人々に生命を与えるはずです」。創造の究極目的は、「万物を造られたかた(神)が、ご自分の栄光と同時にわたしたちの幸福をも配慮しつつ、っいに『すべてにおいてすべてとなられる』(一コリント15∙28)」にとなのです。

創造の神秘

神は英知と愛によって創造される  わたしたちは、神が英知をもって世界を造られたことを信じます。世界は何かの必然、盲目的運命、または偶然によって現れたのではありません。世界は、ご自分の存在、英知、善に被造物をあずからせることを望まれた神の自由な意志から生じたことを、わたしたちは信じます。「あなたは万物を造られ、み心によって万物は存在し、また創造された」(黙示録4∙11)。「主よ、みわざはいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた」(詩編104∙24)。「主はすべてのものに恵みを与え、造られたすべてのものをあわれんでくださいます」(詩編145∙9)。
神は「無から」創造される  創造なさるために、神は前もって存在する何ものも、いかなる助けも必要とされないことをわたしたちは信じています。創造はまた、神の実体の必然的な流出でもありません。神は「無から」自由にお造りになられるのです。 「神が、世界をそれ以前に存在する素材から造り出されたのでしたら、何の不思議もありません。人間である職人でさえ、素材を与えられるならば、すべて望むままにそれを細工することができます。ところが、神の力が現れるのは、お望みになるすべてのものを無からお造りになるというところなのです」。聖書において、「無から」創造されるという信仰は、約束と希望を豊かに含む教えとして示されています。たとえば、七人の息子の母親はその子らの殉教を励まし、こう語ったのでした。 「わたしは、お前たちがどのようにしてわたしの胎に宿ったのか知らない。お前たちに霊といのちを恵んだのでもなく、わたしがお前たち一人ひとりの肢体を組み合わせたのでもない。人の出生をつかさどり、あらゆるものに生命を与える世界の造り主は、あわれみをもって、霊といのちを再びお前たちに与えてくださる。それは今ここで、お前たちが主の律法のためには、いのちをも惜しまないからだ。……子よ、天と地に目を向け、そこにある万物を見て、神がこれらのものをすでに在ったものから造られたのではないこと、そして人間も例外ではないということを知っておくれ」(二マカバイ7∙22-23,28)。無から創造することができる神は、聖霊によって罪びとたちのうちに清い心を造りながら、魂のいのちを与え、復活によって、死者たちにはからだのいのちを与えることがおできになります。神は「死者にいのちを与え、存在していないものを呼び出して存在させる」(ローマ4∙17)かたなのです。また、みことばによってやみに光を輝かせることのできた神は、ご自分を知らない人々に信仰の光を与えることもおできになります。
神は秩序あるよい世界を創造される  もし神が英知をもって創造なさるのであれば、被造物には秩序があるはずです。「あなたは、長さや、数や、重さにおいて、すべてに均衡がとれるようにはからわれた」(知恵11∙20)。それらのものは、「見えない神の姿」(コロサイ1∙15)である永遠のみことばのうちに、みことばによって造られたので、神の似姿として神との親しい交わりに召されている人間の用に供されています。神の知性の光にあやかる人間の知性は、神が被造物を通してわたしたちに語られることを理解することができます。いうまでもなく、それにはかなりの努力と、創造主とそのわざとを前にした謙虚さ、ならびに畏敬の精神を必要とします。神の善から生まれた被造物はその善にあやかります(「神は見て、よし、きわめてよしとされた」〈創世記 1∙4,110,12,18,21,31〉)。神は、被造物が人間のための贈り物、人間にゆだねられた遺産となることをお望みになりました。教会は、物質界のすばらしさをも含めて、被造物がよいものであることを、反対者に対して幾度も繰り返し弁護しなければなりませんでした。神はご自分のすべてのわざより無限に偉大なかたです。その「威光は天よりも高く」(詩編8∙2参照)、「大きなみわざは究めることもできません」(詩編145∙3)。しかし、神は最高の、自由な創造主、存在するすべてのものの第一原因ですから、被造物のもっとも奥深いところに内在しておられます。「〔わたしたち〕は神の剌こ生き、動き、存在します」(使徒言行録、7.28)。聖アウグスチヌスのことばによれば、神は「わたしのもっとも奥深いところよりも奥深く、わたしのもっとも高いところよりも高く」おいでになるのです。神が、創造の後、被造物を放棄することはありません。初めに存在を与えるだけではなく、一瞬一瞬その「存在」を支え、動く能力を与え、目的に導かれま丸創造主に対するこの全面的な依存を認めることは、英知と自由、喜びと信頼の源となります。「あなたは存在するものすべてを愛し、お造りになったものを何一つ嫌われない。憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。あなたがお望みにならないのに存続し、あなたが呼び出されないのに存在するものが果たしてあるだろうか。いのちを愛される主よ、すべてはあなたのもの、あなたはすべてをいとおしまれる」(知恵11∙24-26)。

神は計画を実現されるー神の摂理

被造界は固有の善と価値とを備えていますが、創造主からまったく完成したものとして造られたものではありません。神が定めた、これから到達しなければならない究極の完成に「向かう途上」にあるものとして造られました。神がご自分の被造物をこの完成に向かって導かれるはからいのことを、摂理と呼びます。「神は、ご自分が造られたすべてのものを摂理によって保ち、治められます。『この世の果てから果てまでその力を及ぼし、すべてのものを巧みにつかさどり』(知恵8∙1参照)、また被造物の自由な行動をも含めて、『神の前に隠れることができるものは何一つない』(ヘブライ4∙13)のです」。聖書の教えは異口同音に、摂理のはからいは具体的∙直接的であり、ささいなことがらから世界と歴史の大きな出来事に至るまで、すべてを配慮すると述べています。聖書は、出来事が進行する過程で神が絶対の主権を持っておられることを断固主張します。「わたしたちの神は天にいまし、み旨のままにすべてを行われる」(詩編115∙3)。そして、キリストについては、「このかたが開けると、だれも閉じることなく、閉じると、だれも開けることがない」(黙示録3∙7)と述べています。「人の心には多くのはからいがある〔が、〕主のみ旨のみが実現する」(箴言19∙21)。ですから、聖書の第一の作者である聖霊は、第二原因について触れることなく、さまざまの行為をしばしば神に帰しています。それは原始的な「話し方」ではなく、神の首位、歴史と世界に対する主権を想起させるものであり、神への信頼を培う奧深い方法なのです。詩編の祈りはこの信頼の偉大な学びやです。イエスは、子らのささいな必要にも心を配られる天の御父の摂理に対して、子としての信頼を寄せるように求めておられます。「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』……といって、思い’悩むな。……あなたがたの天の父は、これらのものが皆あなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは皆加えて与えられる」(マタイ6∙31-33)。
摂理と第二原因  神は、ご自分の計画を実現する最高の主です。しかし、その実現のために、被造物の協力もお求めになります。それは弱さのしるしではなく、全能の神の偉大さといつくしみのしるしです。実際、神は被造物に存在を与えられるだけではなく、被造物が自ら行動し、互いに原因および出発点となり合って、ご自分の計画の達成に協力する資格をお与えになるのです。神は人間に地を従わせ、支配する責任をゆだね、摂理に自由に参与できるようになさいます。そのために神は、人間を、創造のわざを発展させ、自分たちと隣人の益のためにそのわざの調和を完成させるための要因、知性と自由を備えた原因となさるのです。人間はしばしば無意識のうちに神のみ旨に協力していますが、意識的にも、行為と祈りとによって、また、苦しみによっても、神の計画に進んで加わることができます。そのとき人間は、完全に「神の協力者」(一コリント3∙9)、神の国の協力者となるのです。神は被造物のすべての行為のうちで働いておられます。これは、創造主である神への信仰と切り離すことのできない真理です。第二原因の中で、また、それらを通して働くのは第一原因です。「あなたがたのうちに働いて、み心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(フィリピ2.13)。この真理は被造物の尊さを減じるどころか、いっそう高めます。神の力と英知と善とによって無から引き出された被造物は、その存在の起源となるものから切り離されるなら何もできません。「創造主なくしては被造物は消えうせる」からです。ましてや、恵みの助けなしには、その究極の目的に到達するすべもありません。
摂理と悪のつまずき  全能の父であり、秩序あるよい世界の創造主である神が全被造物を配慮しておられるなら、なぜ悪が存在するのでしょうか。この避けがたい、緊急の、神秘で、悲痛な問題には、どのような即答も満足がいかないでしょう。この問題に答えうるのは、キリスト教の教えの全体です。そしてそれは、以下のような内容となります。被造物はよいものであり、罪は悲劇的な出来事です。神は忍耐強い愛から、契約により、あがないをもたらす御子の受肉により、聖霊を与えることにより、人々を教会に集めることにより、秘跡の力により、至福ないのちへの招きにより、人間を迎えに来ておられます。そして、自由意志を持つ被造物がこれに同意するよう呼びかけておられます。しかしまた、恐るべき神秘ですが、それに逆らうこともできるのです。キリスト教の教えの全体が、悪の間題に対する回答となっています。神は、なぜ、何の悪も存在しないほどの完全な世界を造られなかったのでしょうか。神は無限の力を持っておられるので、つねによいものを造ることがおできになれるはずです。しかし、神は無限の英知と善とをもって、世界を究極の目的に「向かう途上」のものとして創造することを自由にお望みになりました。神の計画によって、この生成には、ある存在が出現すれば他のものが消滅し、より完全なものがあればより不完全なものも存在し、自然的な形成もあれば破壊もあることになっています。したがって、被造物が完成に至らない限り、物理的善と物理的悪とが共存するのです。理性的で自由意志を備えている被造物である天使と人間は、自由に選択し愛を優先させることによって究極目的に向かって進まなければなりません。ここで、正道を踏み外すこともありえます。実際、彼らは罪を犯しました。こうして、道徳的悪が世界に入りましたが、これは物理的悪とは比較にならないほど重大なものです。神は直接にも、間接にも、いかなる意味においても、道徳的悪の原因ではありません。それにもかかわらず、神は被造物の自由を尊重して、道徳的悪を妨げません。また、神秘としかいえませんが、そこから善を引き出すことがおできになるのです。 「全能の神は……、最高に善であられるので、悪からでも善を引き出すほどに力あるよいかたでなかったとしたら、そのわざのうちに何らの悪の存在もゆるさなかったはずです」。このように、神がその全能の摂理により、被造物によって作られた悪、たとえそれが道徳的悪であっても、その悪の結果から善を引き出すことがおできになることを、人々は時とともに理解することができるのです。ヨセフは兄弟たちに次のように語っています。「わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。……あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです」(創世記45∙8、50∙20)。これまでに行われた最大の道徳的悪は、神の御子を排斥し殺害したことです。これはあらゆる人問の罪が原因ですが、神は満ちあふれる恵みによって、そこから最大の善であるキリストの栄光とわたしたちのあがないを引き出されました。とはいえ、悪が善になるわけではありません。「神を愛する者たちには、万事が益となる」(ローマ8∙28)。聖人たちの証言がこの真理を確認し続けています。たとえば、シエナの聖カタリナは「自分たちに起こることがらにつまずき、反抗する人々」に語っています。「すべては愛から生じます。すべては人間の救いに向けられています。神が行われるのは、ただこの目的のためです」。

また、聖トマス∙モアは殉教を間近にして、娘にこう書いています。「起こることは何であれ、神様のお望みなのだ。ところで、神様が望まれることはすべて、たとえわたしたちには最悪に見えても、最善のものなのだよ」。
ノリッジのジュリアンはこういっています。「神様のお恵みによって学んだことですが、わたしは信仰をしっかり守り、すべてがよくなることを同様に固く信じなければなりません……あなたは、すべてがよくなることが分かるでしょう」。わたしたちは、神が世界と歴史の主宰者であることを固く信じています。しかし、多くの場合、摂理によって敷かれた道を知りません。ただ、道の終わりに至り、完全な知識を得て、「顔と顔を合わせて」(一コリント13∙12)神を見るとき、初めて摂理の道を十分に知ることができます。神はその道を通して、被造物に悪と罪の悲劇を踏み越えさせながら、天地を造られた目的である最終の安息の日の休息へと導いておられるのです。

要約

神は世界と人間の創造により、ご自分の全能の愛と英知とを最初に普遍的に示し、その「いつくしみ深い計画」を初めて告げられました。この計画の目的は、キリストにおける新しい創造です。創造のわざはとくに御父に帰せられますが、父と子と聖霊が創造の唯一の、不可分の根源であることもまた信仰の真理です。神だけが世界を自由に、直接に、いかなる助けもなしに創造されました。いかなる被造物も、厳密な意味で「創造する」ために要する能力、つまり、かつてまったく存在しなかったものを生じさせ、存在させる(「無から」存在に招く)無限の能力を持ってはいません。神はご自分の栄光を現し、また、分かち与えるために世界を創造されました。神がご自分の被造物を創造された目的である栄光とは、被造物が神の真、善、美にあずかることです。宇宙を造られた神は、「万物をご自分の力あることばによって」(ヘブライ1∙3)支えておられる御子であるみことばと、いのちを与える創造主である聖霊とを通して、宇宙を存在させ続けておられます。神の摂理とは、全被造物を英知と愛をもって究極の目的に導かれる、神のはからいです。キリストは、わたしたちの天の御父の摂理に子としての全幅の信頼を寄せるよう、わたしたちを促しておられます。また使徒ペトロも、「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」(一ペトロ5∙7)といって、同じことを勧めています。神の摂理は、被造物の行為を通しても働きます。神は人間を、ご自分の計画に自由に協力させてくださいます。神が物理的悪や道徳的悪の存在をおゆるしになっているということは神秘であり、神はその神秘を、悪に打ちかつために死んで復活された御子イエス・キリストによって明らかにされました。なぜそうなのかということについては、わたしたちは永遠の生命のうちにおいてしか完全に知ることはできません。もし悪からさえも善を生じさせえないのであれば、神は悪の存在をゆるされなかったでしょう。わたしたちは信仰によって、これを確信しています。

天と地

天使

使徒信条は、神は「天地の創造主」であると宣言し、また、ニケア∙コンスタンチノープル信条は、「見ゆるもの、見えざるものすべての造り主」と述べています。聖書にある「天と地」という表現は、存在するすべてのもの、全被造界を意味します。それはまた、被造界のうちには、天と地を結ぶと同時に区別する役目をもったきずながあるということも示しています。「地」は人間の世界です。「天」(しばしば複数形が用いられます)は大空を示しますが、また同時に、「天の」父である(マクイ5∙16参照)神の固有な「場」も意味します。したがって、終末的な栄光としての「天」という意味もあるのです。さらに「天」は、神を取り巻く霊的被造物一天使一の「場」も意味しています。第4ラテラン公会議の信仰告白は、次のように宣言しています。神は「時の始めから、霊的被造物と物的被造物、天使と地上の世界のそれぞれを無から造られ、次に、精神と肉体の両方を具えた人間を造られました」。
天使の存在は信仰の真理である 物質的ではない、聖書によって通常天使と呼ばれている霊的存在者がいるということは、信仰の真理です。その点、聖書の教えと聖伝とは一致しています。
天使とは何か  聖アウグスチヌスは次のように語っています。「『天使』とは、本性ではなく役目を指していることばです。それでは、その本性を何と呼ぶのですか、とあなたは問うでしょう。その答えは霊です。役目は、と問われれば、天使と答えます。何であるのかといえば、それは霊で、何をするのかというのであれば、それは天使なのです」。天使は全存在をあげて神に仕える者、神の使者です。天使たちは「いつもわたし〔イエス〕の天の父のみ顔を仰いでいる」(マタイ18∙10)ので、「主の語られる声を聞き、みことばを成し遂げるもの」(詩編103∙20)なのです。天使は純粋に霊的な被造物として、知性と意志を備えています。「わたし」という個であり、不死の被造物です。さらに、その完全さは目に見える全被造物を凌駕します。天使たちの栄光の輝きがそのことを示しています。
キリストは「そのすべての天使とともに」おられる  キリストは天使界の中心です。「人の子〔が〕栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき」(マタイ25∙31)とあるとおり、天使たちはキリストのものです。天使たちがキリストのものであるのは、キリストによって、キリストのために造られたからです。「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました」(コロサイ1∙16)。天使たちが何よりもキリストのものであるのは、キリストによって救いの計画の使者とされたからです。「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか」(ヘブライ1∙14)。天使は世界創造のときから、救いの歴史を通して、この救いを何らかの形で告げ、神の計画の実現に奉仕しました。たとえば、天使は地上の楽園を閉ざし、ロトを守り、ハガルとその子を救い、アブラハムの手を止め、律法は天使の働きを通して伝えられ、さらに天使は、神の民を導き、誕生や召し出しを告げ、預言者たちを助けました。これらは、天使の働きのうちの幾つかにすぎません。最後に、天使ガブリエルは、イエスの先駆者である洗礼者ヨハネの誕生と、イエスの誕生を告げています。人となられたみことばの生涯は、その受肉から昇天まで、天使たちの礼拝と奉仕に囲まれています。神は「その長子をこの世界に送るとき、『神の天使たちは皆、彼を礼拝せよ』といわれました」(ヘブラィ1∙6)。キリストが誕生したときの天使たちの賛歌は、教会の賛歌の中にたえずこだましています。「いと高きところには栄光、神にあれ……」(ルカ2∙14)。天使は幼子イエスを守り、荒れ野で仕え、また、かつてのイスラエルのように彼らを通して敵の手から救われることができたにもかかわらず、死の苦悶の中にあるイエスを力づけました。キリストの受肉と復活の喜ばしい知らせを告げるのも、また天使です。天使はキリストの再臨のときにこれを告げ、審判の席にはべるはずです。
教会生活における天使  すべての教会生活が、天使たちの神秘的で強力な助けの恩恵に浴します。典礼で、教会は天使たちと声を合わせ、三回「聖なるかな」を歌って神を礼拝します。教会は天使の助けを呼び求めます(たとえば、死者の典礼の天使たちがあなたを天国に導き……の祈りや、ビザンチン典礼の『ケルビム賛歌』の中などで)。教会は、特定の天使たち(聖ミカエル、聖ガブリエル、聖ラファエル、守護の天使)の祝日を祝います。人間は生まれてから死ぬときまで、天使たちの保護と執り成しを受けています。「おのおのの信者はいわばそれぞれの保護者や牧者のような天使に付き添われ、いのちに導かれます」。キリスト者はすでにこの世にいるときから、信仰によって、神と一つに結ばれた天使たちや人々との至福な交わりにあずかっているのです。

見える世界

豊かで、多様な、秩序ある見える世界を造られたのは、神ご自身です。聖書は創造主のわざを、七日目の「安息」で完成される六日間の神の「仕事」として象徴的に述べています。創造に関しては、聖書は神がわたしたちの救いのために啓示された教えを述べていますが、その教えにより、わたしたちは「すべての被造物の深遠な本性∙価値∙神の賛美への方向づけを認め」ることができるのです。自分の存在を創造主である神に負わないものは、何一つ存在しません。世界は、神のことばによって無から造られたときに始まりました。ありとあらゆるもの、自然界のすべて、人間の全歴史はこの原初の出来事に基づいています。それが、世界と時間の始まりです。それぞれの被造物は固有の善と完全さを備えています。「六日」のわざのおのおのについて「神はこれを見て、よしとされた」と述べられています。「万物は、造られたものであるという条件そのものによって、それぞれの安定、真理、善、固有の法則、秩序を賦与されています」。神は一つ一つが独自の存在であることを望まれました。したがって、異なる被造物は、それぞれのしかたで、神の無限の英知と善の一面を反映しています。そのため、人間は各被造物に固有の善を尊重して、事物の濫用を避けなければならないのです。濫用は創造主を軽んじ、人間とその環境に害をもたらします。神は被造物間の相互依存をお定めになりました。太陽と月、ヒマラヤスギと小さな草花、わしとすずめなどのような数え切れない相違点を持つものが存在するということは、いかなる被造物も自らだけでは存続していけないということを教えてくれます。これらは相互に依存して相補い、互いの役に立っています。宇宙の美。造られた世界の秩序と調和は、存在するさまざまなものの多様性と相互関係によって生じたものです。人間はこれらの関係を、自然の法則として徐々に発見していきます。これらは科学者たちの驚嘆の念を駆り立てます。被造界の美は創造主の無限の美を反映しますが、人間の知性と意志に畏敬と服従の念を抱かせずにはおきません。被造物間の順位は、不完全なものからより完全なものへと進む「六日」にわたる創造のわざの順序によって表されています。神はすべての被造物を愛し、おのおのに、すずめにさえ心を配られます。イエスのことばによれば、「あなたがた〔人間〕は、たくさんのすずめよりもはるかにまさって」(ルカ12∙7)おり、「人間は羊よりもはるかに大切なもの」(マタイ12∙12)なのです。人間は創造のわざの頂点です。霊感によって書かれた創世記の物語はこれを表すため、人間の創造を他の被造物のそれと明確に区別しています。あらゆる被造物は同じ創造主を持ち、その栄光に向けられているので、相互の閭には連帯があります。「主よ、すべての被造物の中で、あなたはたたえられますように、
とくに兄弟である太陽によって。
あなたはその太陽によって、わたしたちに昼は光をお与えになります。
太陽はその大いなる輝きから光を投げかけて美しく
いと高きあなたの象徴をわたしたちに贈ります。……
わたしの主よ、姉妹である水のゆえに、あなたはたたえられますように。
水は大いに役立ち、まことに謙虚で
貴重で、清らかです。……
わたしの主よ、姉妹である母なる大地のゆえに、あなたはたたえられますように。
大地はわたしたちを抱き、養い
色とりどりの花々と草々を生み出し
さまざまな果実を実らせます。……
わたしの主をほめたたえよ。
深くへりくだって
主に感謝し、仕えよ」。「六日」にわたるわざの終わりである安息日。聖書によれば、「第七の日に、神はご自分の仕事を完成されました」。こうして「天地万物は完成され」、神は第七の日に「仕事を離れて」、その日を祝福し、聖別なさいました(創世記2∙1-3)。霊感によるこれらめことばは有益な教えに富んでいます。創造の際、神は安定した土台と法則を設けられました。これらは、信仰者が信頼をもって寄り頼むことのできるもの、また神の契約の揺るがない忠実さのしるし、保証となります。他方、人間はこの土台に忠実にとどまり、創造主がこれに刻まれた法則を尊重しなければなりません。被造物は安息日のため、したがって、神の崇敬と礼拝のために造られました。被造物の秩序には神への礼拝が刻み込まれています。「何ものも神の礼拝に優先させてはならない」と聖ベネディクトの修道会則は述べ、人間の関心事の正しい順序を示しています。安息日はイスラエルの律法あ中核をなすもので丸おきてを守るとは∙創造のわざのうちに表された神の英知とみ旨に従うことにほかなりません。八日日。しかし、わたしたちにとっては新しい一日が加わりました。キ∙リストの復活の日です。七日目で第一の創造が完了します。そして八日目に、新しい創造が開始されるのです。創造のわざは偉大なあがないのわざによってその頂点に達しますが、第一の創造はその意味と頂点をキリストによる新しい創造のうちに見いだします。この新しい創造のすばらしさは、第一の創造をはるかに超えるものです。天使は、たえず神の栄光をたたえて他の被造物に対する救いの計画に奉仕する、霊的被造物です。「天使は、わたしたちに益するすべてのことに協力します」。

要約

天使は、主であるキリストを取り囲んでいます。とくに、人間救済の使命がまっとうされるよう、キリストに仕えます。教会は天使たちを崇敬します。天使たちは、この世で旅する教会を助け、すぺての人間を守ります。神は被造物の多様性、それぞれに固有な善、相互依存、秩序をお定めになりました。物的被造物のすぺては、人類の益になるように定められています。人間、また人間を通して全被造物は、神の栄光のために存在しています。被造物のうちに刻まれた法則と事物の本性に由来する相互閧係とを尊重することは、英知の原理であり、道徳の基礎です。

人間

「神をかたどって」

「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(創世記1∙27)。人間は被造物の中で比類のない地位を占めています。というのは、(1)「神にかたどって」造られ、(2)その独自の本性の中に、霊的世界と物質的世界とが一っになっており、(3)「男と女」に造られ、(4)神との親しい交わりにあずかれるようにしていただいているからです。見えるすべての被造物の間で、ただ人間だけが「創造主である神を知り愛することができます」。人間は、「神が一そのもの自体のために望んだ一地上における唯一の被造物です」。人間だけが知と愛によって神のいのちにあずかるよう招かれています。人間はこの目的のために造られましたが、まさに、そこにこそ、人間の尊厳の基本的根拠があるのです。 「何が原因で、あなたは人間にこれほど大きな尊厳をお与えになったのでしょうか。それは、はかりしれない愛にほかなりません。その愛をもって、あなたはお造りになったものをご自分のうちに眺め、その愛のとりことなられました。実際、あなたが人間を造られたのは愛によってであり、また、人間をあなたの終わりない善を味わいうる存在になさったのも、愛によってです」。人間一人ひとりは神にかたどられているので、ペルソナとしての尊厳が備わっており、単なる物ではなく、人格なのです。人間は自分を知り、自分を所有し、自分を自由に与え、他の人々と親しく交わることができます。また、人間は恵みによって創造主と契約を結び、自分に代わってだれも行うことのできない信仰と愛をもって神に応答するように召されています。神は万物を人間のために創造なさいました。そして人間は、神に仕え、神を愛し、被造物のすべてを神にささげるために造られました。 「このような配慮に包まれて存在し始めるものは、一体何者なのでしょうか。人間です。人間は、神の御目には他のすべての被造物にまさって貴重な、偉大で感嘆すべき生きものです。天も地も海も、ありとあらゆる被造物が存在するのは人間のためです。神はこの人間の救いを最重要視されたので、人間のために御ひとり子さえ惜しまなかったほどです。実際、神は人間をご自分のもとに上げ、右の座に着かせようと、いつもあらゆる手段をとられたのです」。「実際、人間の神秘は肉となられたみことばの神秘においてでなげればほんとうに明らかにはなりません」。 「聖パウロの教えによれば、人類の起源には二人の人がいます。アダムとキリストです……。聖パウロによれば、最初のアダムはいのちを受けた人間として造られましたが、最後のアダムはいのちを与える霊的存在です。最初のアダムは最後のアダムによって造くられ、そのかたから霊魂を受け、それによって生きています……。第二のアダムは第一のアダムを造りながら、ご自分の像を刻みました。ですから、第二のアダムは第一のアダムの役割を担い、その名を受け取りました。それはご自分にかたどってお造りになったものが滅びてしまわないようにするためでした。第一のアダムと第二のアダム、前者には始まりがありますが、後者には終わりがありません。本当は、第二のかたが第一なのです。第二のかたご自身、「わたしは最初の者にして、最後の者である亅とおおせになっているとおりです」。起源が共通なので、人類は一つです。実際、神は「一人の人からすべての民族を造り出されました」(使徒言行録17∙26)。 「人類は神において起源を一にするとは、何というすばらしい世界観でしょう。……人類の本性は一つです。すなわち、肉体と不滅の霊魂とによって成り立っています。世界における直接の目的と使命は一つです。住まいも一つ、すなわちこの大地です。すぺての人間は自然法によって地の実りを利用し、いのちを養い、発達させることができます。超自然の目的も一つ、神ご自身で、人問はすぺて神に向かわなければなりません。この目的に達する手段も一つです。……キリストによって行われた贖罪のわざでも一つに結ばれています。」「人類の連帯と愛」というこの法則は、個々人、文化、民族の豊かな多様性を排除することなく、人間は皆、真に兄弟姉妹であることをわたしたちに保証しています。

「肉体と霊魂から成っている一つの存在」

神にかたどって造られた人間は、肉体的であると同時に霊的です。聖書の物語はこの事実を象徴的なことばでこういい表しています。「主なる神は土のちりで人を形づくり、その鼻にいのちの息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2∙7)。したがって、人間のすべては神の意志のとおりにできたものです。聖書がいう魂とは、しばしば人間のいのち、あるいは人間のペルソナ全体を示します。しかしまた、人間の内部のもっとも奥深いもの、もっとも大事なもの、すなわち、人間を特別に神の似姿にするものをも指しています。つまり、「霊魂」は人間の中の霊的原理を意味します。人間の肉体は、「神の似姿」の尊厳にあずかります。それが人間の肉体であるのは、まさに、霊魂によって生かされているからです。人間の全体がキリストのからだに結ばれ、聖霊の神殿となるように召されています。 「肉体と霊魂が一つになっている人間は、肉体的な状況のもとでは物質界の諸要素を自己の中に集約しています。その結果、物質界は人間を通してその頂点に達し、人間を通して創造主の賛美を自由に歌いあげるのです。したがって肉体の生活を軽蔑することはゆるされません。反対に肉体は神によって造られ、最後の日に復活するものですから、善なるもの、栄誉に値するものとして取り扱わなければなりません」霊魂と肉体とは根底から結びついているので、霊魂を肉体の「形相」というべきです。すなわち、物質から成る肉体は霊魂のおかげで、生きた人間のからだとなっているのです。人間のうちなる精神と物質とは結合した二つの本性ではなく、この結合によってただ一つの本性が形成されています。教会の教えによれば、各霊魂は直接神によって創造されたものであって、親から「作られた」ものではありません。教会はまた、霊魂は不滅であると教えています。霊魂は死のときに肉体から分離しますが、消滅することなく、最後の復活のときに、再び肉体と結ばれます。ときとして、魂は霊と区別されることがあります。たとえば聖パウロは、「主が来られるとき」、わたしたちの「霊も魂もからだも何一つ欠けたところのない」「非のうちどころのないものとして」保たれるようにと祈っています(一テサロニケ5∙23)。教会の教えでは、この区別は霊魂の中に二つのものを認めるということではありません。「霊」は人間が創造のとき以来、超自然的目的に向けられ、その魂は無償で神との交わりに高められることができることを意味しています。霊性についての教会の伝統は心を強調しますが、その心とは聖書的な意味での「人間のもっとも深いところ」(エレミヤ31∙33参照)を意味しており、それによって人は神を受け入れるか拒否するかを決定することになるのです。

「男と女に創造された」

男と女は神によって創造されました。すなわち、神は、お望みにより、男と女が、一方では人格として完全に平等であり、他方では男と女という違いを持つものとして造られました。「男であること」「女であること」は神が望まれたよいことです。男にも女にも譲りえない尊厳があり、その尊厳は創造主である神に直接由来します。男と女は、同じ尊厳を備えた「神の似姿」です。「男として」、また「女として」、両者とも創造主の英知と善を反映します。神を決して男性のイメージで受けとめてはなりません。神は男でも女でもありません。神は純粋な霊で、そのうちに性別はありません。しかし、男と女の「美点」、たとえば、母親、父親、夫婦のそれは、神の無限の完全さのある側面を反映するものです。神は、ともに造られた男と女とが相互のために生きるように望まれました。聖書のさまざまな表現を通して、神のことばがこのことを理解させてくんます。「人がひとりでいるのはよくない。彼に合う助ける者を造ろう」(創世記2∙18)。いかなる動物も、人にとってこのような「相手」になることはできません。神が男から抜き取ったあばら骨で女を「造り上げ」、男のところへ連れて来られると、男は感嘆の叫び、愛と共感の叫びをあげました。「これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」(創世記2∙23)。男は、女が同じ人間でちるもう一人の「自分」であることを発見するのです。男と女は「相互のために」造られました。しかし神は男と女を「半分半分の人間」、あるいは「不完全な人間」として造られたのではありません。神が男と女を造られたのは相互の交わりのため、お互いが相手の「助け手」となるためです。両者は人間としては平等であり(「わたしの骨の骨……」)、男生、女性としては補い合うものです。結婚で神は両者を結び合わせ、両者が「一体となって」(創世記2∙24)、人間のいのちを伝えることができるようになさいます。「産めよ、増えよ、地に満ちよ……」(創世記1∙28)。子孫に人間のいのちを伝えることにより、男と女は、夫婦として、親として、独自に創造主のわざに協力します。神の意図によれば、男と女は、神の「協力者」として地を従わせる使命を持っています。この支配権は、横暴で破壊的なものであってはなりません。「存在するものすべてを愛される」(知恵11∙24)創造主にならって、男と女は、他の被造物に対する摂理に参与するように招かれています。したがって、神が自分たちにおゆだねになった世界に対する責任を負っています。

楽園における人間

最初の人間は、ただよいものとして創造されただけではなく、創造主との親しい交わり、自分自身、また周囲の被造物との調和のうちに置かれていました。これ以上に優れたものは、ただキリストによる新しい創造の栄光だけです。教会は、聖書の象徴的なことばを新約聖書と聖伝とに照らし合わせて権威をもって解釈し、人祖アダムとエバは原初の義と聖性の状態にあったことを教えています。この原初の聖性の恵みとは、神のいのちへの参与でした。この優れた恵みのおかげで、人間は生活のあらゆる面で支えられていました。神との親しい交わりにとどまっていさえすれば、人間は死ぬことも苦しむこともなかったはずです。人問の内的調和、男と女との調和、そして人祖とすべての被造物との間の調和の状態は、「原初の義」と呼ばれています。神が当初から人間にお与えになった世界の「支配」は、何よりも先に、ほかならぬ人間自体の中で自己支配の形で実現されていました。人間はその存在の全体にわたって完壁であり、秩序を保っていました。というのも、感覚的快楽、この世の富の所有欲、理性の命令に反する自己主張の三つの欲に捕らえられていなかったからです。神との親密さのしるしは、神が人間を園に置かれたことにあります。そこで人間は「耕し、守る」(創世記2∙15)ために暮らします。この仕事は苦しみではなく、男と女が神に協力して見える被造界を完成させるという仕事でした。神の計画によって人間のために備えられた原初の義によるこの調和全体が、やがて人祖の罪によって失われることになります。

要約

神よ、「あなたはご自分にかたどって人を造り、造り主であるあなたに仕え、造られたものをすべて支配するよう、全世界を人の手におゆだねになりました」。人間は、人となられた一「見えない神の姿」(コロサイ1∙15)である一神の御子の似姿を写し出すように前もって定められています。それはキリストが多くの兄弟姉妹の長子となるためです。人間は「肉体と霊魂から成っている一つの存在者」です。信仰の教えによれば、不滅の霊魂は神によって直接に創造されます。「神は人間を孤独なものとして造られたのではありません。神は最初から『人間を男と女に造られた』(創世記1∙27)のであり、彼らの共同生活は人格的交わりの最初の形態です」。啓示はわたしたちに、堕罪以前の男と女の原初の義と聖性の状態とを教えています。楽園での男女の生活の至福は、神との親しい交わりに由来するものでした。

堕罪

罪が増したところに、恵みはなおいっそう満ちあふれた

神は無限に善であり、そのすべてのわざはよいものです。ところが、苦しみや自然界の災害被造物固有の限界に付随するものと思われる悪一を経験しない者、とくに道徳的悪の問題を抱えていない者はだれもありません。悪はどこから来るのでしょうか。「わたしは悪の由来を探しましたが、答えを得られませんでした」と聖アウグスチヌスは述懐しています。そして、この悲痛な探求が解決を見たのは、ただ生ける神への回心によってでした。「不法の秘密〔悪の神秘〕」(ニテサロニケ2∙7)は信心の秘められた真理に照らして、初めて明らかになります。キリストにおける神の愛の啓示は、悪の広がりと同時に、恵みの満ちあふれる豊かさを明らかにしました。したがって、悪の起源の問題を考察するにあたっては、悪に対する勝利者であるただ一人のかた、すなわち、キリストに信仰の目を注がなければなりません。罪の現実罪は人間の歴史に現れています。それを無視し、この暗い現実に他の名を与えようとするのはむだなことです。罪とは何かを理解するためには、まず、人閭が神に結ばれている深いきずなを認める必要があります。この関係を抜きにしては、人間の生活と歴史につねに重くのしかかっている罪の悪の正体が暴かれることはありません。なぜなら、罪とは、神を拒絶し、神に反対することにほかならないからです。罪の現実、わけても原罪の現実は、神の啓示に照らしてしか明らかにされません。啓示が神についてわたしたちに与える知識なしには、罪を明確に認めることはできず、罪を単なる未成熟さ、心理的弱さ、間違い、不適切な社会構造の必然的結果などとみなしがちです。神は、人間がご自分を愛し、また人間相互が愛し合うために自由意志をお与えになりました。人間に対する神のこの意図を知って初めて、罪は与えられた自由の濫用であることが理解されてくるのです。信仰の本質的真理である原罪啓示の漸進的な進展とともに、罪の現実も明らかにされました。旧約時代の神の民は、人間の境遇の苦の問題を創世記の中で語られている堕罪の出来事に照らして理解しようとしましたが、この物語の究極の意味を把握することはできませんでした。それはただ、イエス・キリストの死と復活に照らしてのみ明らかにされます。アダムを罪の源と認めるには、恵みの泉としてのキリストを知らなければなりません。復活したキリストによって遣わされた弁護者である聖霊は、罪をあがなうかたを啓示して、「罪について〔の〕世の誤り」(ヨハネ16∙8)を明らかにするために来られたのです。原罪についての教えは、イエスがすべての人の救い主で、すべての人は救いを必要とし、その救いはキリストのおかげですべての人に差し出されているという福音の、いわば「裏」にあるものです。キリストの思いを持つ教会は、原罪の啓示に異を唱えるならば、キリストの神秘が傷つけられてしまうことを知っています。堕罪の物語の読み方堕罪の物語(創世記3章参照)は比喩的なことばを用いていますが、原初の出来事、すなわち、人間の歴史の初めに起こった出来事を明言しています。人間の全歴史が、人祖の自由意志に基づいて犯された原初の過ちの影響を受けているということは、信じなければならない確かなことである、と啓示は教えています。

天使の堕罪

人祖の不従順な選択の背後には、神に反対する誘惑者の声があります。この誘惑者は、羨望から人祖を死に追いやります。聖書と聖伝とは、この者はサタンまたは悪魔と呼ばれる堕天使であると見ています。教会の教えによれば、サタンは初め、神に造られたよい天使でした。「悪魔、およびその他の悪霊も、本性上はよいものとして神に造られましたが、自ら悪となりました」。聖書はこの天使たちの罪について述べています。この「堕罪」は、被造の霊が自由な選択によって、神とその支配を徹底的に、また撤回できない方法で拒絶したことにあります。天使たちのこの反抗は、「神のようになる」(創世記3∙5)という人祖を誘惑した者のことばにうかがい知ることができます。「悪魔は初めから罪を犯している」(一ヨハネ3∙8)し、「偽り者であり、その父だから」(ヨハネ8∙44)です。神の無量の慈悲に欠けるところがあるからではなく、天使たちの選択が撤回できないものであることこそ、その罪をゆるされえないものにします。「死後の人間に悔い改めの余地がないのと同様に、堕罪の後の天使たちには悔い改めの余地はありません」。聖書は、「最初からの人殺し」(ヨハネ8∙44)とイエスから呼ばれ、御父から受けた使命に背かせようとあえてイエスさえも試みた者の、有害な影響を明らかにしています。「悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです」(一ヨハネ3∙8)。サタンのわざのうちでもっとも重大な結果をもたらしたものは、人間を神に背かせた欺瞞の誘惑でした。とはいえ、サタンの力は無限ではありません。被造物にすぎないのです。純粋霊なので強力ではあっても、被造物であることに変わりはありません。神の国の建設を妨げることはできないのです。サタンは世にあって、憎悪により神とイエス・キリストによるみ国に抵抗し、その行動は人間各自と社会に一霊的に、間接的には身体的にも一重大な損害を与えはしますが、人間と世界の歴史を力と優しさをもって導いておられる神は、その摂理に基づいてそれをゆるしておられます。神が悪魔の行動を妨げておられないのは深い神秘ですが、「神を愛する者たちには、万事が益となるようにともに働くということを、わたしたちは知っています」(ローマ8∙28)。

原罪

自由意志の試練神は人間をご自分にかたどって造り、親しい交わりを結ばれました。霊的被造物として、人間がこの親しい交わりを生きることができるのは、ただ、神に自由に服従することによってです。これを表しているのが、善悪の知識の木からは決して食べてはならない、という禁止です。「食べると必ず死んでしまう」(創世記2∙17)と、神はいっておられます。「善悪の知識」(創世記2∙17)の木は、被造物としての人間が信頼をもって自由に認め、尊重しなければならない超えがたい限界を、象徴的に表しています。人間は創造主に従属します。創造の法則と、自由意志の行使を規制する道徳的規範とに従うべきなのです。人間の最初の罪悪魔に誘惑された人間は創造主への信頼を心の中で失い、自由意志を濫用して神のおきてに背きました。これが、人間の最初の罪です。その後のすべての罪は神への不従順、神のいつくしみへの信頼の欠如なのです。この罪で、人間は自分自身を神に優先させ、まさにそのことによって、神を軽んじました。すなわち、人間は神に逆らい、被造物として要求されることに逆らい、したがって、自分自身の善に反して、自我を優先させたのです。聖性の状態に置かれた人間は、神によって栄光のうちに完全に「神化される」はずでした。しかし、人間は悪魔の誘惑に従って、「神なしに、神に先だち、神に従わずに」、「神のようになろう」としました。聖書は、この最初の不従順の悲劇的な結末を示しています。アダムとエバは直ちに原初の聖性の恵みを失いました。二人は、神が自分の特権だけを守ることに執着しておられるのだと誤解して、神を恐れます。原初の義のおかげで維持されていた調和は破れ、肉体に対する霊魂の制御力は弱められました。男と女の緊密な交わりには摩擦が生じ、両者の関係は欲望と支配に左右されます。被造界との調和も断ち切られ、見える被造界は人間にとってなじみのない、敵意あるものとなってしまいました。人間の罪のゆえに、被造界は腐敗に隷属するようになります。ついに、不従順の場合はこうなると明白に告げられた結末、すなわち、人間はそこから取られたちりに返るということが現実のものとなります。つまり、死が人類の歴史の中に入ります。この最初の罪以来、罪が世界中に「蔓延」します。カインによるアベルの兄弟殺し、罪に基づく全世界的な堕落などを挙げることができますが、イスラエルの歴史の中でも、罪は頻繁に、とくに契約の神への不忠実、モーセの律法に対する違反として現れ、キリストのあがないのわざの後でも、キリスト者の間で、数限りもなく現れています。聖書と伝承は、人類史に見られる罪の存在と普遍的広がりをたえず述べてやみません。「神の啓示によって知らされるこれらのことは、人間の経験と一致します。すなわち、人間は自分の内心をふり返ってみれば、自分が悪に傾いていて、多種多様の悪の中に沈んでいることを発見します。それらの悪が、人間をつくった善なる神から来ることはありません。人間はしばしば神を自分の根源として認めることを拒否し、また自分の究極目的への秩序づけを壊し、自分自身と他人と全造物界とに対する調和を乱しました」。アダムの罪が人類にもたらした結果すべての人間はアダムの罪に巻き込まれています。聖パウロはこう断言しました。「一人の人の不従順によって多くの人が罪びととされた」(ローマ5∙19)、「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」(ローマ5∙12)と。罪と死の普遍性に対して、使徒パウロはキリストによる救いの普遍性を説きます。「一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされていのちを得ることになったのです」(ローマ5∙18)。教会は、聖パウロに続いて、つねに次のように教えてきました。人間を抑圧するはかりしれない悲惨と、人間の悪への傾き、死すべき運命の由来は、アダムの罪およびアダムがわたしたちすべてに罪を伝えたという事実との関連なしには理解できません。その罪とは、人が生まれながらに担っている罪、すなわち「霊魂の死」です。信仰に基づくこの確信によって、教会は、自分で罪を犯したことのない幼児にさえ、罪がゆるされるために洗礼を授けます。アダムの罪がどのようにしてすべての子孫の罪となったのでしょうか。人類全体はアダムのうちに、「ただひとりの人間の一つのからだのように」存在しているのです。この「人類はただ一つ」であることにより、すべての人問は、キリストの義に結ばれているのと同じように、アダムの罪に巻き込まれています。とはいえ、原罪が子孫に伝わっていくということは、わたしたちには十分に理解できない神秘です。しかし、わたしたちは、アダムが原釖の聖性と義を自分一人のためだけではなく、すべての人間のために受けたことを、啓示によって知っています。誘惑者に負けたアダムとエバは個人としての罪を犯しましたが、この罪は人間本性を傷つけ、その本性が堕罪の状態で子孫に伝わります。この罪は生殖によってすべての人間に伝えられますが、それは、原初の義と聖性とを失った人間の本性が伝達されるということになります。このため、原罪は類比的な意味で「罪」と呼ばれているのです。それは「うつされた」罪であって犯した罪ではなく、状態であって行為ではありません。原罪は、一人ひとりのものであるにもかかわらず、アダムの子孫であるだれにとっても、その人が犯した過ちではありません。原罪は原初の義と聖性の欠如です。しかし、原罪によって人間本性が全面的に腐敗したわけではありません。人間本性の本来の固有な能力は傷つき、無知と苦と死に支配されるままになり、罪への傾き(この傾きが「欲望」と呼ばれます)を持つようになりました。洗礼は、キリストの恵みのいのちを与えて原罪をぬぐい去り、人間を神に向けさせます。しかし、人間の本性を弱め、悪への傾きを持たせた原罪の影響は人間のうちに依然として存在し、霊的戦いを促します。原罪が全人類に伝わるという教会の教えが明確にされたのは、とくに5世紀において、わけてもペラギウス説に対する聖アウグスチヌスの省察によってでしたが、さらに16世紀にプロテスタントの宗教改革に対抗した形でもなされました。ペラギウスは、人間は自由意志の自然の力によって、神の恵みの必要な助けなしに、道徳的によい生活を送ることができると主張しました。つまりペラギウスは、アダムの罪の影響を単なる悪い模範の影響にすぎないと考えました。逆に、初期のプロテスタント宗教改革者たちは、最初の罪によって人間は根底から堕落し、その自由意志は失われたと教えていました。そして一人ひとりの人間が受け継いだ罪を、克服できない悪への傾き(欲望)と同一視しました。教会が原罪に関する啓示の意味をとくに明らかにしたのは、529年の第2オランジュ教会会議と、1546年のトリエント公会議においてです。厳しい戦い‥‥原罪の教え一キリストによる贖罪の教えと対をなすもの一は、人間の状況と世界における人間の行為とについての明晰な識別の目を与えます。人間は自由を失ってはいませんが、人祖の罪の結果、悪魔にある程度支配されるようになりました。原罪は「死の国を所有する悪魔の権力下に置かれた奴隷状態」をもたらしました。人間本性が傷つき、悪に傾いている事実を無視することは、教育、政治、社会活動、道徳の分野で重大な過ちを生じさせます。原罪とすべての人が犯す罪の結果は、世界全体を罪の泥沼に陥れています。これが、聖ヨハネのいう「世の罪」(ヨハネ1∙29)です。世の罪というこのことばはまた、人間の罪の結実である社会状況と社会構造とが個人にもたらす悪い影響も指しています。「全体が悪い者の支配下にある」(一ヨハネ5∙19)という世界の悲劇的な状況は、人生を戦いにします。「やみの権力に対する苦しい戦いは、人間の歴史全体に行きわたっています。それは世の初めから始まったものであって、主がいわれるように、最後の日まで続きます。人間はこの戦いに巻き込まれているので、善につくためにはつねに戦わなければならず、神の恩恵の助けと大きな努力なしには、自己の統一を確立することもできません」。

「あなたは人を死の支配するままにしておかれませんでした」

堕罪の後、人間は神に見捨てられませんでした。かえって、神は人間を呼び、悪に対する勝利と堕罪からの再起を神秘的に告げられます。創世記のこのくだりは、「原福音」と呼ばれています。これが、あがない主メシアについての、蛇と「女」との間の戦い、および「女」の子孫の最終的な勝利についての、最初の告知であるからです。キリスト教の伝承はこの部分に、「新しいアダム」についての告知を見ています。この新しいアダムは「十字架の死に至るまで」(フィリピ2∙8)の従順によって、アダムの不従順を償って余りありました。また、多くの教父と教会博士は、「原福音」の中で告げられた女性は「新しいエバ」としてのキリストの母マリアであると解釈しています。マリアは、罪に対するキリストの勝利の恵みを最初に、比類のないしかたで受けたかたです。マリアは原罪のすべての汚れから守られ、生涯、神の特別な惠みによって、いかなる罪も犯しませんでした。しかし、神はなぜ、最初の人間が罪を犯すのを妨げなかったのでしょうか。大聖レオは、「キリストのえもいわれぬ恵みは、悪魔が羨望によってわたしたちから奪ったものよりも優れたたまものをわたしたちに与えました」と答えています。また聖トマス∙アクィナスは次のように答えました。「人間の本性は、罪の後により高い目的に向けられました。これに異議を申し立てるものは何もありません。まったくそのとおりで、神はより大きな善を生じさせるために悪が行われるのを妨げなかったのです。聖パウロはこれを、「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました亅(ローマ5∙20)といっています。そして、「復活賛歌亅は歌います。『かくも偉大なるあがない主をいただくに値した罪は、何と幸いなことか(アダムの罪、キリストの死によってあがなわれた罪、栄光の救い主をもたらしたこの神秘よ)亅と」。

要約

「神が死を造られたわけではなく、いのちあるものの滅びを喜ばれるわけでもない。……悪魔のねたみによって死がこの世に入〔った〕」(知恵1∙13、2∙24)。サタンと呼ばれる悪魔や他の悪霊たちは、神とその意図に仕えることを自由意志を濫用して拒絶したために失墜した天使です。神に背いた彼らの選択は撤回できないものです。彼らは、神に対する自分たちの反抗に人間を加担させようと企てています。「人間は神によって義の中に置かれたのですが、悪霊に誘われて、歴史の初めから、その自由を濫用し、神に対立するものとなり、自分の完成を神のほかに求めました」。最初の人としてのアダムは、ただ自分のためだけでなく、すべての人間のために神から与えられた原初の聖性と義を、その罪によって失いました。アダムとエバは子孫たちに、自分たちの最初の罪のゆえに傷つけられ原初の聖性と義を失った人間の本性を伝えました。この欠如の状態が「原罪」と呼ばれます。原罪の結果、人間の本性は強さを失い、無知と苦と死に支配され、罪への傾き(この傾きが「欲望」と呼ばれます)を持つようになりました。「したがってわたしたちは、トリエント公会議の教えに従い、原罪は人間本性とともに「模倣によってではなく、生殖によって亅伝えられたものなので「一人ひとりの人間のものである亅と主張します」。キリストがもたらした罪への勝利は、罪によって失ったものよりも優れたたまものをわたしたちに与えました。「罪が増したところには、惠みはなおいっそう満ちあふれました」(ローマ5∙20)。「この世界はキリスト者の信仰にとっては、創造主の愛によって造られ保たれており、罪の奴隸状態に陥りましたが、キリストの十字架の死と復活とによって、「悪しき者亅の権力が破壊され、解放された世界です」。

「イエス・キリスト、神のひとり子、わたしたちの主」

神は御子を遣わされたという福音

「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法のもとに生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者をあがない出して、わたしたちを神の子となさるためでした」(ガラテヤ4∙4-5)。これこそ、神の子イエス・キリストの福音なのです。すなわち、神はその民を訪れ、アブラハムとその子孫にされた約束を果たされました。しかも、それはあらゆる予想を上回るものでした。ご自分の愛する子を遣わされたのです。

わたしたちは信じ、公言します。皇帝アウグストゥス1世、ヘロデ大王のときに、ベツレヘムでイスラエルの一人の娘からユダヤ人として生まれ、大工を職とし、皇帝ティベリウスの治下、総督ポンティオ∙ピラトの命により、エルサレムで十字架につけられ、死んだナザレのイエスは、人となられた神の永遠の御子です。イエスは「神のもとから来〔られた〕」(ヨハネ13∙3)かた、「天からくだって来た者」(ヨハネ3∙13、6∙33)、肉となって来られたかたです。「ことばは肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。……わたしたちは皆、このかたの満ちあふれる豊かさの中から,恵みの上に、さらに恵みを受けた」(ヨハネ1∙14,16)といわれているとおりです。

わたしたちは聖霊の恵みに動かされ、御父に引き寄せられて、イエスが「キリスト、生ける神の子」(マタイ16∙16参照)であると信じ、公言します。聖ペトロが告白したこの信仰の岩の上にこそ、キリストはご自分の教会を建てられたのです。

キリスト教の信仰を伝えるとは、まず、イエス・キリストを告げ知らせて、キリストヘの信仰に導くことにあります。当初から、最初の弟子たちはキリストを告げ知らせる望みに燃え立っていました。「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(使徒言行録4∙20)。弟子たちは、あらゆる時代の人々がキリストとの交わりの喜びをともにするように招きました。 「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、いのちのことばについて。一このいのちは現れました。御父とともにあったが、わたしたちに現れたこの永遠のいのちを、わたしたちは見て、あなたがたにあかしし、伝えるのです。一わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです」(一ヨハネ1∙1-4)。

カテジークスの中心はキリストである

「要理教育の概念の中には、「父のひとり子……亅ナザレのイエス・キリスト自身が含まれていることをまず認めなければなりません。このキリストは、わたしたちのために苦しみ、そして死なれましたが、すでに復活されたので、わたしたちとともにつねに生きておられます。一……要理教育を施すということは、……キリスト自身において実現された神の不変の計画をそのキ.リストにおいて明らかにすることにほかなりません。それはまた、キリストのわざとことばの意味とキリストが行われたしるしの意味とを理解するよう努めることです」。カテケジスの目的は「キリストとの交わり……に入るところにあります。……キリストだけがわたしたちを聖霊において父の愛に導き、至聖三位の生活にあずからせることができます」。

「要理教育においては、神のみ子、託身のみことばキリストが伝えられ、ほかのものはキリストにかかわりがある限り教えられ、またキリストだけが教え、ほかの人は、キリストの代理者……として、キリストがその人の口で語る限りで教えるものです。……『わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになったかたの教えである』(ヨハネ7∙16)というキリストの不思議なことばはすべての要理教師に当てることができるはずです」。

したがって、キリストを伝える使命を受けた者は、まず、「キリストを知ることのすばらしさ」を求めなければなりません。「キリストを得、キリストのうちにいる者」となるため、「すべてをちりあくたとみなし」、「キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達し」(フィリピ3∙8-11)なければなりません。

キリストヘの愛に燃える知識から、キリストを告げ知らせ、「福音を告げ」、他の人々をイエス・キリストヘの信仰に導きたいという願望が生じるのです。同時に、この信仰をますますよく知る必要を感じます。これを目指して、信条の順序に従い、まず、イエスのおもな称号(呼び名)である、キリスト、神の子、主、についての説明がなされます(第2項)。次いで信条は、キリストの生涯のおもな神秘である受肉(第3項)、死と復活(第4、5項)、最後に、栄光化(第6、7項)という順序で進められます。

イエス

イエスとは、ヘブライ語で「神は救う」という意味です。お告げのとき、天使ガブリエルはイエスにこの固有名詞を与えますが、それはイエスの身分と同時に使命をも表しています。「神おひとりのほかに、罪をゆるすこと〔は〕でき〔ない〕」(マルコ2∙7)のですから、まさに神こそ、人となられた永遠の御子であるイエスにおいて、「ご自分の民を罪から救われる」(マタイ1∙21)のです。こうして、神はイエスのうちに人間を救われる救済史全体を集約なさいました。救済史の中で、神はイスラエルをエジプトから脱出させて、「奴隷の家」(申命記5∙6)から解放することで満足なさいませんでした。さらに、彼らをその罪から救われます。罪はつねに神への侮辱ですから、神だけがそれをゆるすことがおできになります。ですから、イスラエル人たちは罪の普遍性を徐々に認識しながら、ただあがない主である神のみ名にすがるほかに救いを求めることはできなくなります。イエスの名は、神ご自身のみ名が、罪の普遍的、決定的なあがないのために人となられた御子に現存しているということを意味します。イエスの名だけが救いをもたらす名です。以後、すべての人は、イエスの名を呼び求めることができます。御子は受肉によって万人と結ばれたからです。したがって、「わたしたちが救われるべき」名は、「天下に」、この名のほかには「人間には与えられていないのです」(使徒言行録4∙12)。

キリスト

キリストということばは、「油を注がれた者」という意味の「メシア」というヘブライ語のギリシア語訳に由来するものです。それがイエスの固有の名前となったのは、それが意味する神からの使命を彼が完全に成就されたからにほかなりません。イスラエルでは、神から与えられた使命を果たすために聖別された者たちに、神のみ名によって油が注がれていました。王たち、祭司たち、また、まれに預言者たちがそうでした。神ご自身のみ国を決定的に打ち建てるために遣わされるメシアとして待望されていたのは、とくに「油を注がれた者」です。メシアは、王ならびに祭司として、さらに預言者として、主の霊によって油を注がれるはずでした。イエスはその祭司、預言者、王の三つの任務において、イスラエルのメシア待望にこたえられたのです。天使は羊飼いたちに、イエスの誕生をイスラエルに約束されたメシアの誕生として告げました。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。このかたこそ主メシアである」(ルカ2∙11)。イエスは初めから、「父から聖なる者とされて世に遣わされ」(ヨハネ10∙36)、おとめであるマリアの胎内に「聖なる者」として身ごもられたのです。ヨセフは、「聖霊によって」胎内に子を宿したマリアを妻として「迎え入れる」ように神から召されました(マタイ1∙20)。それは、「キリストと呼ばれる」(マタイ1∙16)イエスが、ダビデのメシア家系に属するヨセフの妻から生まれるようにするためでした。イエスのメシアとしての聖別は、神から遣わされたことを明らかにします。「もとより、それはほかならぬその名が表していることであって、キリストという名には油を注いだかた、注がれたかた、注油そのものが示されているのです。油を注いだかたは御父、油を注がれたかたは御子、御子は注油である聖霊において油を注がれました」。そのメシアとしての永遠の聖別については、地上での生活中には、ヨハネから洗礼を受けられたときに明らかにされました。そのとき、「神は、聖霊と力によって、このかたを油を注がれた者となさいました」(使徒言行録10∙38)。それは、メシアとして「このかたがイスラエルに現れるため」(ヨハネ1∙31)でした。イエスは行いとことばとにより「神の聖者」として認められることになります。多くのユダヤ人、ならびに彼らと希望をともにする若干の異邦人は、イエスのうちに、神からイスラエルに約束された「ダビデの子」であるメシアの基本的特徴を認めました。イエスはメシアの称号を受け入れました。もともとそう呼ばれる権利があったからです。しかし、喜んで受け入れたわけではありません。なぜなら、この称号は当時の一部の人々からはあまりにも人間的な、基本的には政治的な考え方で受け取られていたからです。イエスは、ご自分をメシアと認めたペトロの信仰宣言を受け入れましたが、続いて、人の子であるご自分の受難が間近に迫ったことを告げられました。イエスはご自分のメシアとしての王権の本来の意味を明らかにして、「天からくだって来た」(ヨハネ3∙13)人の子の超越的な身分と同時に、苦しむしもべとしてのあがないの使命「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分のいのちをささげるためにきた」(マタィ20∙28)ことを打ち明けられました。したがって、イエスの王権の真の意味は、十字架の上で初めて明らかにされたのです。さらに、復活後に初めて、そのメシアとしての王権がペトロによって神の民の前で宣言されました。「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(使徒言行録2∙36)。

神のひとり子

神の子という称号は、旧約聖書の中では、天使、選ばれた民、イスラエルの子らと、その王に与えられています。その場合、この称号は、神と特別に親しい関係を持つ人々と神との間に結ばれた養子身分を表しているのです。約束された王であるメシアを「神の子」というときの字義どおりの意味では、必ずしも人間以上の者であることを指しているわけではありません。したがって、イエスをイスラエルのメシアとして、神の子と呼んだ人々は、おそらくそれ以上のことを念頭に置いてはいなかったでしょう。ところが、ペトロがイエスを「生ける神の子キリスト」と公言したときの事情はこれとは異なります。なぜなら、イエスは「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(マタイ16∙17)と荘厳に答えておられるからです。同じく、パウロはダマスコヘの途上で起こった回心についてこう述べています。「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、み心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされ〔ました〕」(ガラテヤ1∙15-16)。パウロはこの後「すぐあちこちの会堂で、『この人こそ神の子である』と、イエスのことをのべ伝え」(使徒言行録9∙20)ました。教会の礎とされたペトロによってまず宣言されたこの考えは、当初から使徒たちの信仰の核心となっていきます。ペトロが、メシア∙イエスに神の子の超越的性格を認めることができたのは、イエスがそれを明白に表されたからです。イエスは最高法院で、「では、お前は神の子か」という告発者たちの尋問に、「わたしがそうだとは、あなたたちがいっている」(ルカ22∙70)と答えられます。すでにそれ以前、イエスはご自分を、父を知る「子」、これまでに神がご自分の民に遣わされた「しもべたち」とは異なる者、天使たちにすらまさる者といわれましたご自分の子としての身分を弟子たちのそれと区別しておられます。そのため、「だから、あなたがたはこう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ』」(マタイ6∙9)と命じられた場合のほかは、決して「わたしたちの父」とはいわれませんでした。さらには、「わたしの父であり、あなたがたの父であるかた」(ヨハネ20∙17)といい、この区別を強調しておられます。福音書は、キリストの洗礼および変容という二つの厳粛なときに、キリストを「わたしの愛する子」と呼ばれる御父の声を伝えています。イエスはご自分を「神のひとり子」(ヨハネ3∙16)と呼び、この称号によってご自分の永遠からの存在を断言しておられます。また「神のひとり子の名を」(ヨハネ3∙18)信じるようにお求めになります。キリスト者のこの信仰宣言はすでに、十字架上のイエスを前にした百人隊長の叫び、「本当に、この人は神の子だった」(マルコ15∙39)に表れていました。イエスの死と復活の神秘を前にして初めて、信仰者は「神の子」の称号の究極の意味を把握することができます。キリストの神の子としての身分が栄光を受けた人性の権能のうちに現れるのは、復活の後です。「聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです」(ローマ1∙4)。使徒たちは、「わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ヨハネ1∙14)、と公言することができたのです。

神がモーセに明かされた神秘な名YHWHは、旧約聖書のギリシア語訳ではκύριος(キュリオス=主)と訳されています。したがって、主は、イスラエルの神の神性を表すための通常の名となっていました。新約聖書は「主」の称号が持つこの特別な意味を御父のみならず、そこが新しいことですが、イエスにも当てはめて、イエスが神であることを認めています。イエスご自身、詩編110の意味についてファリサイ派の人々と議論されたときにはこの称号を暗にご自分に当てはめられましたが、使徒たちに語られたときには明らかに、これをご自分に帰しておられました。公生活中、自然界、病気、悪霊、死、および罪を制圧されたイエスのわざは、神としての主権をあかしするものでした。福音書ではしばしば、人々は「主」とお呼びしてイエスに話しかけています。この称号は、イエスに近づいて、助けと治癒を期待する人々の尊敬と信頼とを示すものでした。聖霊に促されて、イエスが神であるという神秘を認識しているということを表しているわけです。復活したイエスに出会ったときには、「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20∙28)というトマスのことばのように、これがイエスヘの礼拝のことばとなりました。この場合、「主」の称号は愛情の意味合いを持っています。そしてキリスト教伝統においては、「主だ」(ヨハネ21∙7)ということばを使うときには、いつもこの愛情が込められるようになっていきます。教会の初期にできたさまざまの信仰宣言は、当初から、イエスに主という神の称号を与えています。これは、父である神に固有の力と誉れと栄光がイエスのものであるとの主張にほかなりません。というのも、イエスは「神の身分」(フィリピ2∙6)であり、御父がイエスを死者の中から復活させ、栄光のうちに高く上げることによって、イエスの主権を明らかにされたからです。また、キリスト教の歴史の初めから世界と歴史とに対するイエスの主権が主張されてきましたが、それは、人間は自分の自由をいかなる地上の権力にも絶対にゆだねてはならず、ただ父である神と主イエス・キリストのみにゆだねるべきである、ということを意味します。皇帝は「主」ではないのです。教会は、「全人類史のかぎ、中心、目的は、主であり師であるキリストのうちに見いだされることを信じ」ています。キリスト者の祈りには、「主」の呼び名が目立ちます。祈りへの招きの「主は皆さんとともに」、あるいは祈りの結びの「わたしたちの主イエス・キリストによって」、さらに、信頼と希望とにみなぎる叫び「マラン∙アタ」(主は来られる!)、「マラナ∙タ」(主よ、来てください〈一コリント16∙22〉)、「アーメン、主イエスよ、来てください」(黙示録22∙20)などです。

要約

イエスという名は、「神は救う」という意味です。おとめマリアから生まれた幼子は「イエス」と名づけられました。「この子は自分の民を罪から救うからです」(マタイ1∙21)。「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人閭には与えられていないのです」(使徒言行録4∙12)。キリストという名は、「油を注がれた者」、「メシア」という意味です。イエスがキリストであるのは、「神が聖霊と力によってこのかたを油注がれた者となさ〔った〕」(使徒言行録10∙38)からです。イエスは「来るべきかた」(ルカ7∙19)であり、イスラエルの希望の的でした。神の子という称号は、イエス・キリストとその父である神との独自な、永遠の関係を意味します。イエス・キリストは父のひとり子であり、ご自分も神であられます。キリスト信者となるためには、イエス・キリストは神の御子であると信じることが必要です。主という称号は、神としての主権を意味します。イエスを主と公言したり、呼んだりすることは、イエスが神であると信じることにほかなりません。「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である亅とはいえないのです」(一コリント12∙3)。

イエス・キリストは「聖霊によって人となり、おとめマリアから生まれ」

みことばはなぜ人(肉)となられたか

ニケア∙コンスタンチノープル信条に従い、わたしたちはこれに答えてこう公言します。「主は、わたしたち人類のため、また、わたしたちの救いのために天よりくだり、聖霊によって、おとめマリアより御からだを受け、人となられた」と。みことばが人となられたのは、わたしたちを神と和解させて救うためでした。神は「わたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました」(一ヨハネ4∙10)。「御父は御子を世の救い主として遣わされました」(一ヨハネ4∙14)。「御子は罪を除くために現れました」(一ヨハネ3∙5)。 「わたしたちの本性は、病んでいたのでいやしを、罪におちていたので再起を、死んでいたので復活を必要としていました。わたしたちは持っていた宝を失っていたので、これを取り戻す必要がありました。やみの中に閉じ込められていたので、光が必要でした、とりことなっていたので救い主を、囚人となっていたので助けを、奴隷であったので解放者を待ち望みました。このような重大な理由があったので、神は心を動かし、わたしたち人間の本性にまで下って、訪れてくださったのではないでしょうか。人間はそれほど惨めで、不幸な状態にあったのです」。みことばが人となられたのは、わたしたちが神の愛を知るためです。「神は、ひとり子を世にお遣わしになりました。そのかたによって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました」(一ヨハネ4∙9)。「神は、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。ひとり子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るためである」(ヨハネ3∙16)。みことばが人となられたのは、わたしたちの聖性の模範となるためです。「わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。……」(マタイ11∙29)。「わたしは道であり、真理であり、いのちである。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14∙6)。また変容の山で、御父は「これに聞け」(マルコ9∙7)と命じておられます。イエスは真福八端の模範、「わたしがあなたがたを愛したように」(ヨハネ15∙12)互いに愛し合いなさいという新しいおきての規範です。この愛は、キリストの後に従って自分を実際にささげることを含んでいます。みことばが人となられたのは、わたしたちを「神の本性にあずからせる」(二ペトロ1∙4)ためです。「みことばが人となられ、神の御子が人の子となられたのは、人がみことばに結合することで神と親子の縁を結び、神の子となるため」であり、「神の子が人となられたのは、わたしたちを神とするためなのです」。「神のひとり子は、わたしたちがご自分の神性にあずかることを望み、わたしたちの本性を受け入れて人となり、人間が神となるようになさいました」。

受肉

「みことばは肉となられた」(ヨハネ1∙14)というヨハネの表現を踏襲して、教会は神の御子がわたしたちの救いを実現するために人性をとられたことを「受肉」と称しています。教会は、パウロが遺した賛歌の中で、受肉の神秘を次のように歌います。
「互いにこのことを心掛けなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです。キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、しもべの身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2∙5-8)。ヘブライ人への手紙も、同じ神秘についてこう述べています。
「それで、キリストは世に来られたときに、次のようにいわれたのです。「あなたは、いけにえやささげものを望まず、むしろ、わたしのためにからだを備えてくださいました。あなたは、焼き尽くすささげものや罪をあがなうためのいけにえを好まれませんでした。そこで、わたしはいいました。「ごらんください。わたしは来ました。……神よ、み心を行うために」』」(ヘブライ10∙5-7、ギリシア語版詩編40∙7-9の引用を含む)。神の御子が真に受肉されたと信じることは、キリスト教信仰の特徴的な点です。「イエス・キリストが肉となって来られたということを公にいい表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります」(一ヨハネ4∙2)。これこそ、教会がその当初から、「キリストは肉において現れた」という「秘められた偉大な真理」(一テモテ3∙16)を奏でるときに持ち続けてきた喜ばしい確信なのです。

まことの神、まことの人

他に例を見ない神の御子の受肉という事実から導き出される唯一の結論は、イエス・キリストが一部分は神で一部分は人であるとか、神的なものと人間的なものとの雑然とした混合体であるなどというようなことではありません。神の御子は、真に神のままで、真に人となられました。イエス・キリストはまことの神、まことの人です。教会は最初の数世紀の間、この信仰の真理をゆがめた異端に対してこれを擁護し、その内容を明確にしなければなりませんでした。初期の異端は、キリストの神性よりも人性のほうを否定するものでした(グノーシス派の仮現説)。すでに使徒時代から、キリスト教は「肉において来られた」神の御子が真に人となられたことを強調してきました。しかし3世紀から教会は、サモサタのパウロに抗議してアンチオキアで教会会議を開催するなどして、イエス・キリストは神の養子ではなく、本性から神の御子であることを明言しなければなりませんでした。最初の公会議であるニケア会議は、325年、その信条の中で、神の御子は「造られずして生まれ、父と同一実体のもの(homousios)」であると公言し、「神の御子は無から造られた者であり」、父とは「別の実体ないし本質から」造られたと主張した、アリウスを排斥しました。ネストリウス派の異端は、キリストにおいては人間としてのペルソナが神の御子の神的ペルソナに結合されていると考えました。これに対して、アレキサンドリアの聖チリロと第3番目の公会議である431年のエフェソ会議は、「みことばは、そのペルソナのうちに理性的魂によって生かされる肉体をご自分と一つに結び合わせて人となられた」と公言しました。キリストの人性の主体は神の御子の神的ペルソナ以外になく、これが人性を受け、受胎のときから自分自身のものとしたのです。そのため、431年にエフェソ公会議は、マリアは神のみ子を人として胎内に宿すことにより、正真正銘神の母となられたと宣言しました。「マリアが神の母であるのは、神のみことばがマリアから神性を受けたからではなく、神のみことばが、理性的魂を備えた聖なる肉体をマリアから受けたからです。みことばがそのペルソナにおいてこの肉体と結ばれているので、みことばは肉に従って生まれるといわれるのです」。キリスト単性論者たちは、キリストにおける人性は神の御子の神的ペルソナの性に高められ、もはや人性として存在しないと主張しました。この異端に対して、第4番目の公会議である451年のカルケドン会議は、次のように宣言しました。 「わたしたちは皆、教父たちに従って、心を一つにして次のように教え、宣言します。わたしたちの主イエス・キリストは唯一の同じ子です。彼は神性を完全に所有し、同時に人間性を完全に所有します。真に神であり、同時に理性的魂と肉体とから成る真の人間です。神性において父と同一実体であるとともに、人間性においてわたしたちと同一実体です。『罪を除いては、すべてにわたしたちと同じです』。神性においてはこの世の前に父から生まれ、人間性においては、終わりの時代にわたしたちのため、またわたしたちの救いのために、神の母処女マリアから生まれました。
同じ唯一のキリスト、主なるひとり子であり、二つの本性において、混合、変化、分割、分離せずに存在します。この結合によって二つの本性の差が取り去られるのではなく、むしろおのおのの本性の特質は保存され、(両方の本性は)唯一のペルソナ(位格)、唯一のヒュポスタシス(自立存在)にともに含まれています」。カルケドン公会議の後、ある人々はキリストの人性を人格的主体として考えるようになりました。これに対して、第5番目の公会議である553年のコンスタンチノープル会議は、「聖三位の一者であるわたしたちの主イエス・キリストには唯一の自立存在(またはペルソナ)だけが存在する」と宣言しました。したがって、キリストの人性におけるすべては、単に奇跡にとどまらず、苦しみも、死さえも、その固有の主体である神的ペルソナに帰すべきです。「肉において十字架につけられたかた、すなわち、わたしたちの主イエス・キリストは、真の神、栄光の主、聖三位の一者です」。教会はこのように、イエスはまことの神であり、同時にまことの人であると公言します。イエスは真に神の御子で、人となり、わたしたちの兄弟となられました。しかも、そうなられながら依然として神であり、わたしたちの主なのです。 ローマ典礼は、「キリストは神のままでありながら、神ではないものを担われた」と歌います。また、聖ヨハネ∙クリゾストモの典礼は次のように宣言し、歌っています。 「ああ、神のひとり子、みことばよ。あなたは不死のかたでありながら、わたしたちの救いのため、聖なる神の母、終生おとめであるマリアによって人となられました。あなたは人となられても変わることなく、しかも、十字架につけられました。ああ、神なるキリスト、あなたは死によって死を打ち砕き、聖なる三位の一者として、父と聖霊とともに賛美されます。わたしたちをお救いください」。

神の御子が人間であるということはどういうことか

受肉の神秘な結合において、人間性は「取り上げられたのであって消滅したのではない」ので、教会は時代がたつにつれて、知性と意志の働きを備えたキリストの人間的魂と人間的肉体のまぎれもない現実を強調しなければなりませんでした。同時に、ことあるごとに、キリストの人性はそれを担われた神の御子の神的ペルソナに固有のものであることも指摘する必要がありました。キリストのすべて、人として行われたことのすべては「聖三位の一者」のものです。したがって、神の御子はご自分の人性に、聖三位の中のご自分に固有のペルソナの存在様式をお与えになります。こうして、魂においても肉体においても、キリストは聖三位の神的行動様式を人として表されます。 「神の御子は……人間の手をもって働き、人間の頭をもって考え、人間の意志をもって行動し、人間の心をもって愛しました。彼は処女マリアより生まれ、真実にわたしたちの一人となり、罪を除いては、すべてにおいてわたしたちと同じでした」。キリストの人としての魂と知識ラオディケアのアポリナリスは、キリストにおいて、みことばは人間的霊魂に取って代わったと主張しました。教会はこの誤謬に対して、永遠の御子は人間の理性的魂をも担われたと公言します。神の御子が担われたこの人間的魂は、真の人間としての知識を備えています。人間的なものであるこの知識には限界があり、時空の中で存在するものとして、具体的状況に従って機能しました。このため、神の御子は人間となって、「知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛され」(ルカ2∙52)ることを受け入れたばかりか、人間である以上、経験によって学ぶべきことを尋ねたりしなければならないという人間の条件に従いました。このことは、自分を無にして「しもべの身分」(フィリピ2∙7)をとられた実情に対応していました。しかし同時に、神の御子のこの真に人間としての知識は、ご自分のペルソナの神的いのちを表していました。「神の御子の人性は、それ自体によってではなく、みことばとの結合によって、神にふさわしいすべてのことを知り、自らのうちに表していました」。何よりも、人となられた神の御子が御父について抱いておられた親密で直接的な知識がそうです。御子はまた、ご自分の人間的知識の中に、人間の心の隠れた思いを見通す神の洞察力が含まれていることを示されました。キリストは、人となられたみことばのペルソナにおいて神の知恵と結合していましたから、ご自分が啓示しなければならなかった神の永遠の計画の知識を、人間として十分に持っておられました。この分野で、何かを知らないといわれたことがありますが、同じことについて、他の場合には、それを啓示する使命を受けていないと言明しておられます。教会はこれと並行して、第6回公会議で次のように公言しています。キリストは本性上二つの意志と二つの働き、すなわち、神としての本性と人としての本性によるそれぞれの意志と働きを持っていますが、いうまでもなく、二っの意志と働きは協調して、対立することはありません。したがって、人となられたみことばは、わたしたちの救いのために御父と聖霊とともに神として決定されたすべてのことを、御父への従順から人間としての意志によって受け入れられたのです。キリストの人間としての意志は「神としての意志に従い、抵抗も反対もせず、かえって、この全能の意志に従属しています」。キリストの真の肉体みことばは肉となって真の人性を担われましたから、キリストの肉体には限界がありました。そのため、イエスの人間としての容貌を「描く」ことができます。第7回公会議で、教会はキリストが聖画像で表されるのが当然であると認めました。また、教会は、イエスの肉体において「本来見えないかたである神がわたしたちの目に見えるものとなられた」ことをつねに認めてきました。キリストの肉体の個人的特徴は神の御子の神的ペルソナを表しています。神の御子はご自分の人間としてのからだの特徴をまったくわがものとされたので、聖画像に表されたそれを崇敬の対象とすることができます。神の御子の聖画像を崇敬する信者は、「それに表現されているかたを崇敬している」のです。人となられたみことばのみ心イエスはご生涯中、苦悩や受難の中にあってもわたしたち一人ひとりを思い、わたしたち各自のためにご自分を渡されました。神の御子は「わたしを愛し、わたしのために身をささげられた」(ガラテヤ2∙20)のです。イエスはわたしたちの一人ひとりを、人間としての心で愛されました。そのために、わたしたちの罪によって、わたしたちの救いのために刺し貫かれたイエスのみ心は、「神であるあがない主が永遠の御父とすべての人間にたえず寄せておられる愛の卓越したしるし、象徴とみなされています」。

要約

神によって定められた時に、御父のひとり子、永遠のみことば、御父の実体的な似姿が、人となられました。そのかたは、神性を失うことなく、人性を担われました。イエス・キリストは、神としてのペルソナを備えた、真の神であり、真の人でもあるかたです。それゆえ、神と人間との唯一の仲介者なのです。イエス・キリストは神性と人性という二つの本性を持っておられます。この二つの本性は混同することなく、神の御子の唯一のペルソナのうちに結合されています。真の神、真の人であるキリストは、人間としての知性と意志とを持っておられますが、その知性と意志は、御父と聖霊と共同で持っておられる神的知性と意志とに完全に協調し、これに従属しています。したがって、受肉は、みことばの唯一のペルソナにおける神性と人性との感嘆すべき結合の神秘です。

聖霊によって人となり…

「時が満ちる」(ガラテヤ4∙4)こと、すなわち約束および準備段階の完了は、マリアヘのお告げから始まります。マリアは、「満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿って」(コロサイ2∙9)いるかたを懐妊するように招かれます。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(ルカ1∙34)、とマリアは尋ねますが、「聖霊があなたにくだります」(ルカ1∙35)ということばで、それは霊の力によるものだという神からの答えがなされます。聖霊の派遣はつねに御子の派遣と一体となっており、その派遣のわざと結ばれています。聖霊はおとめマリアの胎内を聖化し、神の力によってマリアを懐妊させるために遣わされました。「いのちの与え主」である聖霊は、御父の永遠の御子をマリアと同じ人間性を持ったものとして宿すようにしたのです。おとめマリアの胎内で人となられた御父のひとり子は、人として存在したその初めから、「キリスト」、すなわち聖霊によって油を注がれたかたなのです。もっとも、このことは、羊飼い、占犀術の学者たち、洗礼者ヨハネ、弟子たちへと、漸進的に明らかにされていきます。つまり、イエス・キリストの全生涯は、どのようにして「神は聖霊と力によってこのかたを油注がれた者となさ〔った〕」(使徒言行録10∙38)かを明らかにしていくものです。

…おとめマリアから生まれ

カトリック教会がマリアについて信じることは、キリストについて信じることに基づいていますが、また一方では、マリアについての教会の教えが、キリストヘの教会の信仰を解明していきます。マリアについての永遠からの予定「神は御子をお遣わしになりました」(ガラテヤ4∙4)。しかし、その「からだを備えるため」に、神は一人の女性の自由な協力を望まれました。そのため、永遠から、神は御子の母として一人のイスラエルの娘、ガリラヤのナザレに住む「ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめ、その名はマリア」(ルカ1∙26-27)というユダヤ人の娘を選んでおられました。 「あわれみの父は、女が死への役割を持ったと同様に女が生命への役割を持つようにと、母として予定された婦人の承諾が受肉に先だつことを望まれました」。旧約の時代を通して、マリアの使命は聖女たちの使命によって準備されていました。まず、エバがいます。不従順の罪を犯しはしましたが、悪魔に打ちかつ子孫の約束と、生きとし生けるものの母となる約束とを受けます。この約束のおかげで、サラは高齢にもかかわらず、一人の息子を宿します。あらゆる人間的な期待に反して、神はご自分の約束に対する忠実さを示すため、無力で、弱者とみなされていた女たち、サムエルの母アンナ、デボラ、ルツ、ユディト、エステル、その他多くの女性を選ばれます。マリアは、「主の謙虚な貧しい人々、すなわち信頼をもって主から救いを希望しそれを受ける人々の中で、……とくに秀でています。……ついにこの婦人すなわち卓越したシオンの娘とともに、約束に対する長い待望の時期が終わり,時が満ちて新しい計営(救いの営み)が始まります」。無原罪の宿り救い主の母となるため、マリアは「これほどの任務にふさわしいたまものを神からいただきました」。天使ガブリエルはお告げのときに、「恵まれたかた」とあいさつしています。マリアは、使命を告げられてこれに信仰によって自由に同意できるには、神の恵みに満たされていなければなりませんでした。時の流れとともに、教会は神の「恵みに満たされた」マリアがその母の胎内に懐妊された瞬間からあがなわれていたことを明らかに知るようになりました。教皇ピオ9世によって1854年に宣言された無原罪の宿りについての教義が、これを告白しています。 「人類の救い主キリスト・イエスの功績を考慮して、処女マリアは、全能の神の特別な恩恵と特典によって、その懐胎の最初の瞬間において、原罪のすべての汚れから、前もって保護されていました」。マリアが「ご自分の御やどりの最初の瞬間から」飾られていた「まったく特別な聖性の輝き」は、全面的にキリストに由来するものです。マリアは「子の功徳が考慮されて格別崇高なるしかたであがなわれ」たのです。御父は他のいかなる人間にもまして、マリアを「キリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました」(エフェソ1∙3)。「天地創造の前に」神は、マリアを「愛して、ご自分の前で」聖なる者、汚れない者にしようと、「キリストにおいてお選びになりました」(エフェソ1∙4)。東方教会の教父たちは、神の母を「まったく聖なる者」(パナギアンΠαναγίαν)と呼び、「聖霊によって造られ、新しい被造物に形成された者、あらゆる罪の汚れを免れた者」として祝います。神の恵みにより、マリアはその全生涯にわたって自分で罪を犯すことはまったくありませんでした。「おことばどおり、この身になりますように」男を知らずに聖霊の力によって「いと高きかたの子」を産むという告知を受けて、マリアは神にできないことは何一つないことを確信し、「信仰による従順」によって、「わたしは主のはしためです。おことばどおり、この身になりますように」と答えました(ルカ1∙37-38)。こうしてマリアは、神のことばに同意してイエスの母となり、いかなる罪にも妨げられることなく、神の救済のみ旨を心から受託し、神の恩恵によって、子から出て子とともにあるあがないの神秘に仕えるために、子とその働きに完全に自分をささげたのです。「聖イレネオがいっているとおり、マリアは『従順によって、自分と全人類にとって救いの原因となった亅のです。このために少なからざる古代の教父は……、『エバの不従順のもつれがマリアの従順によって解かれ、処女エバが不信仰によって縛ったものを、処女マリアが信仰によって解いた』と好んで説いています。そしてエバと比較して、マリアを『生ける者の母』と呼び、『エバによって死、マリアによって生命』としばしば述べています」。神の母マリア福音書で「イエスの母」(ヨハネ2∙1、19∙25)と呼ばれているマリアは、その子の誕生前からすでに、聖霊に促されたエリザベトから、「わたしの主のお母さま」(ルカ1∙43)と呼ばれています。実に、聖霊によってマリアに宿り、肉によって真にマリアの子となられたかたは、ほかならぬ御父の永遠の御子.聖三位の第二のペルソナです。教会は、マリアが真に神の母(テオトコスΘεοτόκος)であると公言します。おとめマリア教会は、信条作成の当初から、イエスが聖霊の力のみによっておとめマリアの胎内に宿られたと公言し、この出来事の肉体的な面について言及して、イエスは「精子なしに、聖霊によって」身ごもられたと断言しています。教父たちは処女受胎を、まことに神の御子がわたしたちと同じ人間として来られたことのしるしとみなしています。
アンチオケの聖イグナチオ(2世紀初頭)は、こう述べています。「皆さんがわたしたちの主について深く確信しているように、主は肉によれば、まことにダビデの子孫として生まれ、神の意志と力によれば、神の御子であり、まことにおとめからお生まれになりました。主は、わたしたちのためにポンティオ∙ピラト……のもとで、わたしたちのために肉においてまことに十字架につけられました。主はまことに苦しみを受け、まことに復活されました」。福音書の物語は処女受胎を、人間のあらゆる理解、能力を超える神のわざとして受け取っています。天使はヨセフに、そのいいなずけのマリアのことについて、「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」(マタイ1∙20)と告げました。教会はこれを、預言者イザヤを通して与えられた「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む」(イザヤ7∙14一マタイ1∙23に引用されているギリシア語訳による)という神の約束の実現とみなしています。マルコ福音書と新約聖書の書簡とがマリアの処女受胎について語っていないのを見て、当惑する人がいました。また、もしかするとこれは、史実を主張することを意図しない伝説ないし神学的説明にすぎないのではないかと考える人もいました。この問題には次のように答えるべきです。イエスが処女受胎によって生まれたという信仰は、当時のユダヤ教徒や異教徒の側からの激しい反対、嘲笑、または無理解に出合いました。この信仰は異教徒の神話に影響されたのでもなければ、時代の考えに順応して形づくられたものでもありません。この出来事の意味を把握するには、「諸神秘の相互関係」の中での、つまり、受肉から復活に至るまでのキリストの諸神秘の全体の中での、この位置づけを眺める信仰が必要です。アンチオケの聖イグナチオは、すでにこの相互関係を明らかにしています。「この世の支配者は、マリアの処女性とその出産、また主の死を知りませんでした。これらは、神の沈黙のうちに実現された、高々と宣言すべき三つの神秘なのです」。「終生の乙女」であるマリア教会は、処女である母への信仰を深めるにつれ、マリアは人となられた神の御子を産んだときをも含めて、真に終生の処女性を保たれたと公言するに至りました。事実、キリストの誕生は、「母の完全な処女性を傷つけることなくかえって聖化しました」。教会の典礼は、マリアを「終生の処女(アエイパルテノス άειπαρθένος)」としてたたえます。これに対し、聖書はイエスの兄弟姉妹について語っているではないか、という反対の声が上がります。教会はつねに、このようなくだりはおとめマリアの他の子供を指しているのではない、と受け止めてきました。聖書によれば、「イエスの兄弟」(マタイ13∙55)と呼ばれるヤコブとヨセフは、明らかに「もう一人のマリア」(マタイ28∙1)と呼ばれているキリストの弟子マリアの息子たちです。イエスの兄弟姉妹と呼ばれている人々はイエスの近親なのです。旧約聖書では、近親はしばしば兄弟か姉妹と呼ばれています。イエスはマリアのひとり子です。しかし、マリアは霊的な意味で、イエスが救いに来られたすべての人の母です。「マリアは子を生み、神はその子を多くの兄弟、すなわち信者たちの長子(ローマ8∙29)とされました。マリアはこの兄弟たちを生み育てるために母の愛をもって協力されます」。神の計画の中で、おとめのままで母となられたマリア神は救いの計画の中で、なぜ御子がおとめから生まれるよう定められたのでしょう。信仰の目は、啓示全体と関係づけながら、この神秘の理由を見いだすことができるのです。これらの理由は、キリストご自身にも、そのあがないをもたらす派遣にも、また、マリアがすべての人のためにこのキリストの派遣を受諾したことにもかかわっています。マリアの処女性は、神のみが御子を受肉させてくださったことを示します。イエスの父は神だけです。イエスは「人性をとったからといって、決して御父から離れることはありませんでした。……神性においては本性上御父の御子であり、人性においては本性上その母の子ですが、二つの本性においてまさしく神の御子なのです」。イエスが聖霊によっておとめマリアの胎内に宿られたのは、新しい創造を始める新しいアダ厶だからです。「最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です」(一コリント15∙47)。キリストの人性は、身ごもられたときから、聖霊に満たされていました。神がイエスに「霊を限りなくお与えになるから」(ヨハネ3∙34)です。わたしたちは、あがなわれた人類の頭であるかたが持つ「満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、さらに恵みを受けた」(ヨハネ1∙16)のです。新しいアダムであるイエスは、処女受胎によって生まれることによって、信仰により聖霊において神の子らとされる人々の新しい誕生の発端となられます。「どうして、そのようなことがありえましょうか」(ルカ1∙34)。神のいのちにあずかることは「血によってではなく肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神による」(ヨハネ1∙13)ものです。このいのちは処女の状態で受け取ることになります。なぜなら、それはまったく霊によって人間に与えられるからです。人間が神に召されるのは、神の花嫁になるようなものです。このことはマリアがおとめのままで母となられたことにおいて完全に実現したのです。マリアは、処女性のしるしである少しも疑いの曇りのない信仰と神のみ旨への純粋な自己奉献という特質を備えているという意味で、処女です。信仰によってこそ、マリアは救い主の母となることができました。「マリアが幸いなのは、キリストの肉体を宿したからよりも、キリストヘの信仰を自分のものとしたからなのです」。マリアはまた、教会の象徴であり、それを完璧に実現しているという意味で、処女でもあり、母でもあります。「教会は信仰をもって受け入れた神のことばを通して、自らもまた母となります。事実、教会は、宣教と洗礼をもって、聖霊によって懐胎されて神から生まれた子供たちを、新しい不死の生命に生むからです。教会はまた処女でもあります。すなわち花婿に誓った忠実を清く完全に守るからです」。

要約

神はエバの子孫の中から、御子の母としておとめマリアを選ばれました。「恵みに満ちた」マリアは、「あがないのもっとも優れた実」です。マリアは、母の胎内に宿った最初の瞬間から原罪のいささかの汚れも受けず、自分で罪を犯すことも生涯にわたってまったくありませんでした。マリアは、まことに「神の母」です。人となられた神の永遠の御子の母だからです。この御子ご自身、神であられます。マリアは「御子を懐妊したときも産んだときも処女であり、妊娠中もその乳房をもって育てたときも、終生処女のままでした」。マリアの全存在が「主のはしため」(ルカ1∙38)なのです。おとめマリアは「自由な信仰と従順をもって、人類の救いに協力しました」。マリアは「全人類の名において」同意しました。その従順によって、生けるものの母、新しいエバとなりました。

キリストの全生涯は神秘である

イエスの幼年時代とナザレでの生活の神秘

準備神の御子が地上に来られたことは重大な出来事でしたので、神は幾世紀にもわたってそれを準備なさいました。「最初の契約」に見られる祭儀とささげ物、前表と象徴などを、キリストヘ向かうように仕向けられました。さらに神は、イスラエルに相次いで起こった預言者たちの囗を通して、キリストを告げられました。そのうえ、異邦人の心のうちにもキリストの到来へのおぼろげな期待を抱かせました。洗礼者聖ヨハネはキリストの直前の先駆者として、道を備えるために神によって遣わされた者です。「いと高き方の預言者」(ルカ1∙76)であるヨハネは、すべての預言者にまさる、最後の預言者であり、福音の端緒となり、母の胎内ですでにキリストの到来を迎え、「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1∙29)と呼ぶ「花婿」(ヨハネ3∙29)であるイエスの「友」であることを喜んでいます。「エリヤの霊と力で」(ルカ1∙17)イエスに先だち、説教と悔い改めの洗礼、ついには、殉教によってイエスをあかししました。教会は毎年、待降節の典礼を行いながら、メシアヘの待望を再現します。キリスト者は救い主の最初の来臨に向かう長期の準備に心を合わせながら、再臨への熱い待望を新たにするのです。先駆者の誕生と殉教を祝うことで、教会は、「あのかたは栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハネ3∙30)というヨハネの願望を自分のものとします。降誕の神秘イエスは貧しい家族の一員として、家畜小屋の貧しい環境の中でお生まれになりました。ただの羊飼いたちが、この出来事の最初の証人です。しかも、この貧しさのうちに、天の栄光が現れました。教会は、この夜の栄光を飽かずに歌い続けます。
「今日、おとめが永遠なるかたを産み
地は近づきがたいかたに洞穴をささげ
天使と羊飼いは彼をたたえ
博士たちは星を仰いで進む。
ああ、わたしたちのためにお生まれになった、
幼子よ、永遠の神よ」。神に対して「幼子のようになること」は、天の国に入る条件です。そのためには、へりくだって幼子となる必要があります。さらにまた、神の子となるには、神によって、「新たに生まれる」(ヨハネ3∙7)必要があるのです。降誕の神秘がわたしたちのうちに成就するのは、キリストがわたしたちのうちに形づくられるときです。降誕は、この「驚嘆すべき交換」の神秘です。
「ああ、驚嘆すべき交換よ!人類の創造主は生きた肉体をとっておとめから生まれ、男を介せずに人となり、わたしたちにその神性を贈られた。」
イエスの幼年時代の神秘
イエスが誕生八日目に受けられた割礼は、イエスがアブラハムの子孫、契約の民の一員となり、律法に従い、イスラエルの民の礼拝を行うように派遣されたしるしです。イエスは実際に、生涯中この礼拝に加わられました。このしるしは、洗礼という「キリストの割礼」の前表です。公現は、イエスがイスラエルのメシア、神の御子、世の救い主であることを表すものです。公現の祝日は、イエスのヨルダン川での洗礼やカナの婚礼という事実にも気をとめながら、占星術の学者たちが東方から訪れてイエスを礼拝したことを記念します。周辺の異教徒たちを代表するこの「占星術の学者たち」のうちに、福音書は、受肉による救いの福音を歓迎する諸国民の初穂を見ています。占星術の学者たちはユダヤ人の王を拝むためにやって来ました。彼らのエルサレム訪問は、ダビデの星であるメシアの光に導かれて、諸国の王となるかたをイスラエルに求めていることを表しています。この訪問は、異教徒がユダヤ人に目を向け、彼らから旧約聖書に記されたメシアについての約束を受け入れないかぎり、イエスを見いだし、彼を神の御子、世の救い主として礼拝できないことを示しています。公現は、数多くの異教徒が族長たちの家族に加わり、「アブラハムの子孫に約東された栄光」をかちえることを表しているのです。イエスの神殿での奉献は、イエスが主に属する初子であることを示します。シメオンとアンナは、全イスラエルの待望を込めて、ビザンチンの伝統がそう呼んできた救い主の出迎えを行っているのです。このときイエスは、待望のメシア、「異邦人を照らす光」、「イスラエルの誉れ」とたたえられ、同時に、「反対を受けるしるし」であると告げられました。マリアに予告された苦しみの剣は、神が「万民のために整えてくださった」救いをもたらす十字架の、もう一つの、完全で、比類のない奉献を告げるものです。エジプトヘの避難とえい児の殺害は、光に逆らうやみの対立を表しています。「みことばはご自分の民のところへ来られたが、民は受け入れなかった」(ヨハネ1∙11)のです。キリストの全生涯は迫害の連続でした。弟子たちもキリストとともに迫害を受けます。イエスのエジプトからの帰国はかつての「エジプト脱出」を想起させ、イエスを決定的な解放者として表すものです。
ナザレにおけるイエスの生活の神秘
イエスは生涯の大半を、大多数の人と同じ境遇を分かち合われました。平凡な日常生活、手仕事の生活、神の律法に従ったユダヤ人の宗教生活、地域の人たちとの生活など。この時期の全体にっいて、わたしたちに啓示されているのは、イエスが両親に仕え、「知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」(ルカ2∙52)ということだけです。イエスは母マリアと養父ヨセフとに服従することによって、十戒の第四戒をまっとうされました。これは、天の御父に対する子としての従順を地上で表すしるしです。イエスが毎日マリアとヨセフに仕えられたことは、ゲツセマネの園での「わたしの願いではなく、み心のままに行ってください」(ルカ22∙42)という祈りに見られる従順の前表であり、先取りなのです。キリストは、ナザレでの日常生活における従順により、アダムの不従順によって破壊されたものの再建をすでに始めておられたのです。ナザレでの生活は、だれもがきわめて日常的な道を通してイエスに結ばれることが可能であることを教えます。 「ナザレは、わたしたちがイエスの生涯が初めてわかるようになる所です。福音を学ぶ所です。……まずそれは沈黙の教訓で丸この大切な、欠いてはならない精神の状態、沈黙をもう一度評価し直したいものです。……第二は家庭生活の教訓です。このナザレが家庭、その愛の共同体、その簡潔で単純な美しさ、聖にして侵すことのできない家庭生活の特質を教えてくれますように。……第三は労働の教訓です。ナザレは大工の息子の家でした。ここでわたしは、労働が人間にとっては厳しくても、あがないの力を備えたおきてであることを理解し、ほめたたえたいのです。……終わりにあたり、このナザレから全世界の労働者の皆さんに挨拶を送るとともに、皆さんの偉大な模範であり兄弟であるかた、皆さんの正しい願望を宣言する預言者であるイエス・キリストの姿をお見せしたいと思います」。マリアとヨセフがエルサレムの神殿でイエスを見つけたという事件は、福音書がイエスの少年時代について沈黙を破るただ一つの出来事です。ここでイエスは、ご自分が神の子であることから生じる使命に全面的にささげられているという神秘をかいま見せられました。マリアとヨセフは「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを知らなかったのですか」ということばの「意味が分からなかった」にもかかわらず、信仰によってこれを受け入れ、マリアはイエスが静かに平凡な生活にうずもれておられた間、片時も忘れることなく、「これらのことをすべて、大切に心に納めて」おられました。

イエスの公生活の神秘

イエスの洗礼
イエスの公生活の始まりは、ヨルダン川でヨハネから洗礼をお受けになったときです。ヨハネは、「罪のゆるしを得させるために悔い改めの洗礼」(ルカ3∙3)をのべ伝えていました。おびただしい罪びと、徴税人、兵士、ファリサイ派、サドカイ派の人々、娼婦たちなどがやって来て、ヨハネから洗礼を受けました。「そのとき、イエスが来られた」のです。洗礼者ヨハネはためらいますが、イエスは願い続けて、洗礼を受けられました。そのとき、聖霊がはとの形でイエスの上にくだり、「これはわたしの愛する子」(マタイ3∙13-17)と宣言する、天からの声がします。これはイエスを、イスラエルのメシア、神の御子として現す出来事(「公現」)でした。イエスの側からすると、その洗礼は神の苦しむしもべとしての使命の受諾であり、その開始でもあります。イエスは罪びとの列に加わります。イエスはすでに「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1∙29)であり、はや、流血の死の「洗礼」を先取りしておられます。御父のみ旨に余すところなく従い、わたしたちの罪のゆるしのため死の洗礼に愛をもって同意することで、すでに「正しいことをすべて」(マクイ3∙15)行っておられます。イエスの受諾にこたえて、御父からの声があり、御子がご自分の心にかなう者であることを示されます。受胎のときからイエスを満たしていた聖霊が彼の上にくだり、「とどまります」。イエスは全人類のために霊の泉となるのです。洗礼の際、アダムの罪が閉ざしていた「天がイエスに向かって開いた」(マタイ3∙16)のです。イエスが水に入り、霊がくだることによって水は聖化されます。これは新しい創造の前触れです。イエスはご自分の洗礼において、その死と復活とを先取りされました。 キリスト者は洗礼の秘跡によってこのイエスに同化されます。キリスト者はこのへりくだりと悔い改めの神秘にあずかり、イエスとともに水に下らなければなりません。それは、イエスとともに水から上がり、水と霊によって再生し、御子において神の愛する子となり、「新しいいのちに生きる」(ローマ6∙4)ためです。「洗礼によってキリストとともに葬られましょう。キリストとともに復活するために。キリストとともに下りましょう。キリストとともに上げられるために。キリストとともに上がりましょう。キリストにおいて栄光を受けるために」。
「キリストの上に起こったすべてのことは、洗礼の後に」わたしたちの上にも起こったのです。すなわち「聖霊が天からわたしたちの上にくだり、天の栄光の塗油が行われ、御父の声によって、神の子とされたのです」。
イエスの誘惑
福音書は、イエスはヨハネから洗礼を受けられた直後、一時、荒れ野で一人過ごされたといっています。「霊によって荒れ野に送り出された」イエスは、四十日間食を断ってそこにとどまります。その間、野獣とともに暮らし、天使たちはイエスに仕えました。この期間の終わりに、サタンがイエスを三度試み、神への孝心を試練にかけようとします。それは、楽園でのアダム、荒れ野のイスラエルの民が受けたすべての誘惑を凝縮した攻撃でした。イエスが誘惑を退けられると、悪魔は「時が来るまで」(ルカ4∙13)イエスを離れます。福音記者は、この神秘な出来事の救済史的な意味を教えています。最初のアダムが誘惑に屈したのに対して、新しいアダムであるイエスは、最後まで忠実を貫きました。イエスはイスラエルの民の召命を完遂なさいます。かつて荒れ野で四十年の間神を挑発していた民とは反対に、キリストはご自分が神のみ旨にまったく従順な神のしもべであることを表されました。こうして、イエスは悪魔に打ちかたれたのです。イエスは強い者を縛り上げて、彼が略奪したものを奪い返しました。荒れ野での誘惑者に対するイエスの勝利は、御父への子としての愛による至高な従順の表れである受難の勝利を先取りするものです。誘惑に対するイエスの対応は神の御子のメシアとしてのあり方を示していますが、それはサタンがイエスにもちかけたこと、人々がメシアに期待したこととは正反対のものです。こうして、キリストはわたしたちのために誘惑者に対して勝利を収められたのです。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できないかたではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブラィ4∙15)。教会は、毎年、四旬節の四十日間を通して、荒れ野でのイエスの神秘に心を合わせます。「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤヘ行き、神の福音をのべ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』といわれた」(マルコ1∙14-15)。「キリストは父のみ旨を果たすために、地上に天の国を開始されました」。ところで、御父のみ旨とは、「人々を神のいのちにあずかるよう高めること」にあります。御父は御子イエス・キリストの周りに人々を集めて、これを実現されます。この集まりが教会であり、教会は地上における神の国の「芽生えと開始」なのです。キリストは「神の家族」として集う人々の中心を占めておられます。ことばと、神の支配を表す奇跡と、弟子たちの派遣とによって、人々をご自分の周りに招集されます。キリストは神の国の到来を、とくに、十字架上の死と復活という偉大な過越の神秘によって実現されました。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(ヨハネ12∙32)。すべての人はキリストと一つになるよう招かれています。
神の国の告知
あらゆる人が、神の国に入るように招かれています。このメシア的神の国は、まずイスラエルの民族に告げられましたが、すべての国の人を迎え入れるよう定められたものです。神の国に入るには、イエスのことばを受け入れなければなりません。 「主のおことばは、畑にまかれた種と比べられます。信仰をもって主のことばを聞き、キリストの小さな群れの中に数えられる者は、神の国そのものを受けたのです。それから種は自らの力で芽生え、収穫のときまで成長します」。神の国は貧しい人々と小さい人々、すなわち、謙虚な心でこれを迎える人たちのものです。イエスは「貧しい人に福音を告げ知らせるために」(ルカ4∙18)遣わされました。イエスはこのような人々は幸いだと言明されます。「天の国はその人たちのもの」(マタイ5∙3)だからです。御父は、知恵ある者や賢い者には隠されていることを、これらの「小さな人々」にこそ示されるのです。イエスは、ベツレヘムの飼い葉桶から十字架に至るまで、貧しい人々の生活を体験されました。飢え、渇き、貧窮を経験されます。なおそのうえに、ご自分をすべての貧しい人々の立場に置き、こうした人たちへの積極的な愛を神の国に入るための条件となさいました。イエスは罪びとを神の国の食卓に招かれます。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである」(マルコ2∙17)。イエスは罪びとに回心を促されますが、これなしには神の国に入ることができないからです。しかし、罪びとへの御父の限りない慈悲と、「悔い改める一人の罪びとについて〔の〕天にある大きな喜び」(ルカ15∙7)をも、ことばと行いによって示されました。この愛の至高のあかしは、「罪がゆるされるように」(マタイ26∙28)ご自分のいのちを犠牲にされたことにあります。イエスは、たとえ話を通して、神の国に入るよう促しておられます。これはイエスの教えの特徴でした。たとえ話を用いて人々を神の国の祝宴に招き、同時に、根源的な選択を迫ります。すなわち、み国を得るためには、すべてを捨てなければなりません。ことばだけではなく、行動が要求されます。イエスのたとえ話は、人間にとっては鏡のようなものです。人は、イエスのことばを固い土のように受け入れるか、それともよい土のように受け入れるか、いただいたタラントンで何をするのか、と問われます。イエスとこの世における神の国とが、それとなくたとえ話の核心に隠されています。「天の国の秘密」(マタイ13∙11)を悟るには、神の国に入ること、つまり、キリストの弟子となることが必要です。「外」にいる人々(マルコ小11)には、すべてがなぞのままです。
神の国のしるし
イエスのことばには数多くの「奇跡と、不思議なわざと、しるし」(使徒言行録2∙22)が伴い、神の国がイエスのうちに到来していることを明らかにします。これらは、イエスが預言されたメシアであることを示します。イエスが行われた奇跡は、イエスが御父から遣わされたことを示し、イエスを信じるよう促します。イエスは信仰をもって訴える人々の願いをかなえられます。そのとき、奇跡は御父のわざを行われるイエスヘの信仰を強め、イエスが神の御子であることを明らかにします。しかし、奇跡はまた、つまずきのもとともなりうるのです。奇跡は、人々の好奇心や魔力を見たい望みを満たすものではありません。きわめて明白な奇跡を行っているにもかかわらず、イエスはある人たちから排斥され、これらは悪魔によるものであるととがめられさえします。イエスは、ある人々を飢え、不正義、病気、死など、この世の不幸から解放することによって、メシアとしてのしるしを示されました。しかし、イエスが来られたのはこの世のあらゆる不幸をなくすためではなく、もっとも重大な隷属、すなわち、罪の奴隷の状態から人々を解放するためでした。罪は神の子らとしての召命を妨げ、ありとあらゆる人間的束縛の原因となるのです。神の国の到来はサタンの支配の破滅を意味します。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ている」(マクイ12∙28)。イエスの悪魔払いは、人々を悪霊の支配から解放します。これは、「この世の支配者」に対するイエスの大勝利を先取りするものでした。神の国はキリストの十字架によって決定的に打ち建てられます。「神は木の上から支配されました」。「天の国のかぎ」公生活の初めから、イエスはご自分のそばに置くため、また、ご自分の使命に参加させるために、十二人をお選びになりました。そして、ご自分の権限に参与させ、「神の国をのべ伝え、病人をいやすために遣わ」(ルカ9∙2)されます。彼らはいつまでも、キリストのみ国の協力者となります。キリストが彼らを通して教会を導かれるからです。 「わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いをともにし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」(ルカ22∙29-30)。十二人の使徒団の中で、シモン∙ペトロが首位を占めます。イエスはペトロに特別な使命をおゆだねになりました。御父からの啓示を受けて、ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16∙16)と宣言しました。それで、キリストはペトロに、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」(マタイ16∙18)と宣言されました。「生きた石」であるキリストは、ペトロの上に建てられた教会に死の力に対する勝利を保証なさいます。ペトロは自ら告白した信仰のゆえに、教会の揺るがない岩となります。ペトロは、この信仰がなくならないように守り、兄弟たちの信仰を固める使命を受けます。イエスはペトロに、「わたしはあなたに天の国のかぎを授ける。あなたが地上でつなぐことは天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタィ16∙19)といって、特別な権限をおゆだねになりました。「かぎの権能」は、教会という神の家を治めるための権威を意味します。「よい羊飼い」(ヨハネ10∙11)であるイエスは復活された後に、「わたしの羊を飼いなさい」(ヨハネ21∙15-17)といって、ペトロのこの任務を追認されました。「つなぎ、解く」権能は、罪をゆるし、教義上の判断を下し、教会の規律に関する決定を行う権威を意味します。イエスはこの権威を、使徒たちの奉仕の務め、とくに、ペトロの奉仕の務めを通して教会におゆだねになりました。そしてこのペトロだけには明白に天の国のかぎをゆだねられました。神の国の前兆 変容ペトロが、イエスをメシア、生ける神の子であると告白したときから、イエスは「ご自分が必ずエルサレムに行って、……苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められ」(マタイ16∙21)ました。ペトロはこのことばを受け入れず、他の弟子たちもこのことばを理解できませんでした。これを背景にして、イエスの変容という神秘的な出来事が語られています。変容はある高い山の上で、イエスが選んだ三人の目撃者、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの前で行われました。イエスの顔と衣服はまばゆいばかりに輝き、モーセとエリヤが現れ、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話して」(ルカ9∙31)いました。三人は雲に覆われ、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」(ルカ9∙35)という声が天から聞こえました。つかの間、イエスは神的栄光を示し、ペトロの信仰告白を裏づけられました。イエスはまた、「栄光に入る」(ルカ24∙26)には、エルサレムで十字架を経なければならないことを示されます。かつて、モーセとエリヤは山上で神の栄光を見、律法と預言者たちはメシアの苦しみを予告しました。イエスの受難は御父のみ心によるものであり、御子は神のしもべとして行動なさいます。雲は聖霊が臨んでおられることを示します。「聖三位の三者がそろって現れました。御父は声のうちに、御子は人間のうちに、聖霊は輝く雲のうちに」。「あなたは山上で変容なさいました。弟子たちは可能な限り、神であるキリスト、あなたの栄光を見つめました。それは、弟子たちが十字架につけられたあなたを見たとき、あなたが進んで苦しみを受けられたことを悟り、あなたが真に御父の輝きであることを世に告げ知らせることができるようになるためでした」。公生活の始めには洗礼があり、キリストの過越の始めには変容がありました。イエスの洗礼によって、「わたしたちの第一の再生の神秘が明らかにされました」。これはわたしたちの洗礼です。変容は、わたしたちの復活である「第二の再生を示す秘跡です」。わたしたちはすでに今、キリストのからだの諸秘跡のうちで働かれる聖霊によって、主の復活にあずかります。変容は「わたしたちの卑しいからだを、ご自分の栄光あるからだと同じ形に変えてくださる」(フィリピ3∙21)キリストの栄光の再臨を、前もってわたしたちに味わわせます。しかし、それはまた、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」(使徒言行録14∙22)ことをわたしたちに想起させるものでもあります。「ペトロは、山上でキリストとともに暮らそうと望んだときには、そのことをまだ理解していませんでした。ペトロよ、キリストはあなたの死後のために、これをあなたにとっておかれたのです。今、キリストはこういわれます。地上で労苦し、仕え、軽蔑され、十字架につけられるために下りなさい。いのちであるかたが殺されるために下り、糧であるかたが飢えるために下り、道であるかたが途上で疲れるために下り、泉であるかたが渇くために下られました。それにもかかわらず、あなたは労苦することを拒むのですか」。エルサレムに向かうイエス「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」(ルカ9∙51)。この決断は、イエスが死を覚悟してエルサレムに上られたことを物語っています。イエスは、すでに三度、ご自分の受難と復活について予告しておられました。そしてエルサレムに向かう途中では、「預言者がエルサレム以外のところで死ぬことは、ありえない」(ルカ13∙33)と語られます。イエスは、かつてエルサレムで殺された預言者たちの殉教のことを思い起こされます。それにもかかわらず、「めん鳥がひなを羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」(マタイ23∙37)といって、エルサレムの人々がご自分のもとに集まるように呼び続けられるのです。エルサレムを目前にしたときには、エルサレムのために泣き、「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない」(ルカ19∙42)といって、再びご自分の心の願いを表されました。イエスのメシアとしてのエルサレム入城エルサレムは自分のメシアをどのように迎えたのでしょうか。いつもはご自分を王として担ぎ出そうとする民衆の手から逃れておられたイエスは、時を選び、「〔ご自分〕の父ダビデ」(ルカ1∙32)の町にメシアとして入城する準備をこと細かになさっておられます。イエスはダビデの子、救いをもたらす者として、歓呼の声に迎えられます(ホサナは「まず救ってください」という意味です)。「栄光に輝く王」(詩編24∙7-10)であるイエスは、「ろばに乗って」(ゼカリヤ9∙9)入城なさいます。すなわち、教会の予型であるシオンの娘エルサレムの心を、策略や暴力によってではなく、真理をあかしする謙虚さによってかちとられるのです。ですから、この日にイエスの王権を認めるのは、子供たちや「神における貧しい者たち」です。彼らは、天使がイエスの誕生を羊飼いたちに告げたときのように、歓呼の声でイエスを迎えるのです。そして教会は、「祝福あれ、主の御名によって来る人に」(詩編118∙26)というこの歓呼を、キリストの過越の記念祭である感謝の祭儀の「感謝の賛歌(聖なるかな)」の中で今でも繰り返しています。イエスのエルサレム入城は、メシアである王がその死と復活による過越を通して実現しようとなさっているみ国の到来を表します。教会はこれを枝の主日の典礼で記念し、聖週間を開始します。

要約

まさに、「キリストの生活全体が不断の教えでした。つまり、その沈黙、奇跡、わざ、祈り、人間への愛、弱い者と貧しい者への特別な愛、人々のあがないのために引き受けた十字架上の犠牲、さらに復活そのものが、ことばの遂行であり、啓示そのものの成就です」キリストの弟子たちは、自分のうちにキリストが形づくられるように、キリストに似たものとならなければなりません。「わたしたちがキリストの生命の諸神秘のうちに摂取されるのは、わたしたちがキリストに似た姿になり、キリストとともに死に、ともに復活し、ついにはキリストとともに支配するに至るためです」。羊飼いや占星術の学者のように、ベツレヘムの飼い葉桶の前にひざまずき、か弱い幼子の姿に隠れた神を拝むことによって、わたしたちはこの世で神に近づくことができます。イエスは、マリアとヨセフとに対する従順や、ナザレでの長い年月のつつましい労働を通して、家庭と労働とによって織り成される日常生活における聖性の模範を示されます。イエスは、公生活の始めである洗礼のときから、受難の「洗礼」によって成就されるあがないのわざのために完全に奉献された「神のしもべ」です。荒れ野での誘惑は、謙虚なメシアであるイエスが、御父の望まれる救いの計画に全面的に従われることによってサタンに打ちかたれたことを示します。天の国は、キリストによって地上で開始されました。「この国は、キリストのことばとわざと現存によって人々の前に現れます」。教会はその天の国の芽生え、始まりです。そのかぎはペトロにゆだねられています。キリストの変容の目的は、受難を前にして使徒たちの信仰を強めることにありました。「高い山」に登られたのは、ゴルゴタの丘に登るための準備でした。教会の頭であるキリストは、そのからだである教会が保有し、諸秘跡の中で輝いている「栄光の希望」(コロサイ1∙27)を表されます。イエスは、罪びとたちの反対によって非業の死を遂げることを知りながら、進んでエルサレムに向かわれました.イエスのエルサレム入城は、神の国の到来を明らかにします。子供たちや謙虚な人々からご自分の町に迎えられる王であるメシアは、その死と復活という過越を通してその到来を実現されるのです。

イエス・キリストは「ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に葬られた」

イエスと律法

十字架上の死と復活というキリストの過越の神秘は、使徒たちおよび彼らに続く教会が世界に告げ知らせるべき福音の核心を成しています。神の救いの計画は、「ただ一度」(ヘブライ9∙26)の御子イエス・キリストのあがないの死によって実現されました。イエスは自ら、ご自分の過越の前にも後にも、「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」(ルカ24∙26)と、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明なさいました。教会はこの教えを忠実に受け継いできています。イエスの受難は、「長老、祭司長、律法学者たちから」排斥され(マルコ8∙31)、彼らが、「人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるため」に「異邦人に」引き渡した(マタイ20∙19)ために、歴史的な出来事となりました。したがってわたしたちは、福音書が忠実に伝え、他の歴史資料が明らかにしている、イエスの死の状況を信仰によって解明することを通して、あがないの意味を十分に悟ることができるのです。イエスの公生活の当初から、ファリサイ派の人々とヘロデ党の人々とは祭司長、律法学者たちと一緒になって、イエスを殺すことで意見が一致していました。イエスは、その行動(悪魔払い、罪のゆるし、安息日に行われたいやし、浄∙不浄のおきてに関する律法の独自の説明、徴税人や公の罪びととの親しさのために、悪意を持つ人々の目には悪霊に取りつかれているように見えました。彼らはイエスを、冒漬する者、偽りの預言者、つまり、律法によって石打ちの死刑に当たるとされていた宗教的犯罪を犯す者として糾弾します。したがって、イエスの行為とことばの多くは、エルサレムの宗教指導者、ヨハネ福音書がしばしば「ユダヤ人」と呼ぶ指導者にとっては、「反対を受けるしるし」でした。イエスの行為につまずいたのは、イスラエル人の群衆よりもこの指導者たちです。ただしファリサイ派の人々とイエスとの間には、論争上の対立をするという関係があっただけではありませんでした。現に、あるファリサイ派の人々は、危険が迫っているとイエスに警告しています。また、イエスは、マルコ12章34節に登場する律法学者など、ファリサイ派のある人たちを称賛し、また何度もファリサイ派の人々の家で食事をしています。イエスは、神の民の宗教的エリートである彼らの幾つかの教説を認めます。たとえば、死者の復活、施し、断食、祈りなどのような信心業、神を父と呼ぷこと、神への愛と隣人愛とをおもなおきてとして認めることなどです。多くのイスラエルの人の目には、イエスが選ばれた民の次のような重要な教えに反して行動しているように見えました。
――律法のおきてを文字どおりに、ファリサイ派の人々の場合は口伝の解釈に従って、完全に守ること。
――エルサレムの神殿は、神が特別に住まわれる聖所として、イスラエルの宗教活動の中心であること。
――いかなる人間にもあずかることをゆるさない栄光を持つ、唯一の神を信じること。イエスは山上の説教の始めに、第一の契約の際シナイ山上で神から授けられた律法を、新しい契約の恵みに照らして示し、厳粛な警告を与えられました。 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきりいっておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらのもっとも小さなおきてを一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国でもっとも小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、またそうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる」(マタイ5∙17-19)。イエスはイスラエルのメシア、天の国でもっとも偉大なかたとして、ご自分のことばに従い、律法をきわめてささいなおきてに至るまで完全に果たさなければなりませんでした。しかも、イエスはそれを完全に果たすことのできた唯一のかたです。ユダヤ人は、自ら告自しているように、ささいなおきてをも含めて律法を完全に守ることができませんでした。例年の贖罪の日に、イスラエルの人たちが自分たちの律法違反のゆるしを神に願ったのは、このためです。実際、律法は一つの全体を成しているので、ヤコブが指摘するように、「律法全体を守ったとしても、一つの点で落ち度があるなら、すべての点について有罪となる」(ヤコブ2∙10)のです。文字として書かれていることがらだけではなく、精神においても律法を完全に遵守するという原則は、ファリサイ派の人々には大事なことでした。ファリサイ派の人々はこれを力説することにより、イエスの時代の多くのユダヤ人たちを激しい宗教的情熱に導きました。もしそれが「偽善者的」な論議に終わるのでなければ、この情熱は、すべての罪びとに代わってただ一人の正しい人が律法を完全に守るという、前代未聞の神の介入のために神の民を準備させることができるはずでした。律法を完全に成就するということは、律法のもとに生まれた御子、神である立法者にのみできることでした。イエスの場合、律法はもはや石板ではなく、神のしもべであるイエスの「中」、「心に」(エレミヤ31∙33)刻まれたものです。事実、そのしもべは「裁きを導き出して、確かなものとし」(イザヤ42∙3)、「民の契約」(イザヤ42∙6)となられました。イエスは、「律法の書に書かれているすべてのことをたえず守らない者」が受ける「律法ののろい」をご自分の上に負われるまでに律法を成就なさいました。なぜなら、キリストは「最初の契約のもとで犯された罪のあがないとして」(ヘブライ9∙15)死んでくださったからです。ユダヤ人や彼らの宗教的指導者の目には、イエスは「ラビ」として映りました。しばしば、律法のラビ流の解釈の枠内での論争もしておられます。しかし同時に、イエスは律法学者たちと衝突しないわけにはいきませんでした。なぜなら、彼らの間にご自分の解釈を提示するにとどまらず、「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったから」(マタイ7∙29)です。書かれた律法をモーセに授けるためにかつてシナイ山上で響きわたったその同じ神のことばが、イエスにおいて、今一度至福の山で語られるのです。このことばは、律法を廃止するのではなく、神からの最終的な解釈を供することによって律法を完成します。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、……と命じられている。しかし、わたしはいっておく」(マタイ5∙33-34)。この同じ神的権威をもって、イエスはまた、神のことばを無にしているファリサイ派の人々の「人間のいい伝え」幾つかを非難されます。イエスは、さらに推し進めて、ユダヤ人の日常生活にとっては非常に重大な食べ物の浄∙不浄にかかわる律法を、神の側から解釈し、その「教育的な」意味を明らかにしながら、完成なさいました。「すべて外から人のからだに入るものは、人を汚すことができない。……すべての食べ物は清められる」といわれたイエスは、さらにことばを続けて、「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から悪い思いが出て来るからである」(マルコ7∙18-21)といっておられます。神的権威をもって律法を決定的に解釈したイエスは∙幾人かの律法学者と衝突されました。この学者たちは、イエスの律法解釈がこれに伴う「天からのしるし」によって裏づけられたにもかかわらず、受け入れなかったのです。とくに安息日の問題に関してそうでした。イエスはしばしば、ラビ的な論証を用いて、安息日の休息は神への奉仕や治癒のわざを通してまっとうされる隣人への奉仕によっては乱されない、と指摘されます。

イエスと神殿

イエスと、唯一の神ならびに救い主へのイスラエルの信仰

律法とエルサレムの神殿に関する教えがイスラエルの宗教的指導者に対するイエスの側からの「反対を受ける」要因であったとすれば、優れた神のわざである罪のあがないにおけるイエスの役割は、彼らにとっては真のつまずきの石であったのです。イエスは、ファリサイ派の人々と同じように、徴税人や罪びととも親しく食卓を囲んだことで、ファリサイ派の人々をつまずかせました。イエスは、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している」(ルカ18∙9)幾人かのファリサイ派の人々に、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招いて悔い改めさせるためである」(ルカ5∙32)と言明しておられます。さらに話を進め、ファリサイ派の人々に向かって、罪はだれでも犯すのであるから、救いを必要としないと主張する者は自分自身に目をふさいでいることになる、と宣言しておられます。イエスはとくに、罪びとに対するご自分の慈悲深い態度を神ご自身の態度と同一視されることで、人々をつまずかせました。事実、イエスは、罪びととともに食事をすることによって、彼らをメシアの祝宴に迎えることを示されました。また、とりわけ、罪をゆるすことでイスラエルの宗教的指導者たちをジレンマに陥らせました。すなわち、彼らはおののいて「神おひとりのほかに、いったいだれが、罪をゆるすことができるだろうか」(マルコ2.7)といい、次の二者択一を迫られたのです。つまり、罪をゆるすイエスについて、人間でありながら神と等しい者のようにふるまうことによって神を冒漬しているというべきか、あるいは彼のいうことが真実であって、彼のうちに神のみ名が現れて現存しているというべきか、のいずれかを選択するように迫られたのです。「わたしに味方しない者はわたしに敵対する」(マタイ12∙30)といえるほどのイエスの絶対的な要求を正当化できるものは、イエスが神であるから、ということ以外にはありえません。イエスがご自分を「ヨナにまさるもの、∙ソロモンにまさるもの」(マタイ12∙41-42)、あるいは神殿より偉大なものであるといわれるとき、さらには、ご自分についての説明の中でダビデがメシアをダビデ自身の主であると呼んだことを指摘されるとき、また、「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」(ヨハネ8∙58)、「わたしと父とは一つである」(ヨハネ10∙30)と断言されるときなどについても、同じことがいえます。イエスはエルサレムの宗教指導者に、自ら行っている御父のわざのゆえにご自分を信じるよう促されました。しかし、このように信じるには、人は神秘な方法で自分自身に死に、神の恵みに引き寄せられて、天から新たに誕生しなければなりませんでした。メシアに関する旧約時代の約束がイエスにおいてこれほど驚くべき方法で実現するのを前にして、イスラエルの指導者たちは回心を求められたわけですから、イエスは漬聖者として死に値すると判断した、最高法院の悲劇的な考え違いも理解できます。このように、最高法院の議員たちは無知と不信仰によるかたくなな心とによって行動していたのでした。

要約

イエスはシナイ山上の律法を廃止したのではなく、その究極の意味を明らかにし、律法に対する罪をあがなうという方法で、それを完成されました。イエスはユダヤ人の祭日にエルサレムに巡礼し、神殿への崇敬を表し、人々のただ中にあるこの神の住まいを熱烈に愛されました。神殿はイエスの神秘の前表です。イエスは、ご自分の死と救いの歴史の新たな時代が開始することの現れとして、神殿の崩壊を予告されました。新約においては、イエスのからだが最終的な神殿となります。イエスは、罪をゆるすといった、ご自分が救い主であり、神であることを明らかにする行為をなさいました。かなりのユダヤ人は、イエスが人となられた神であることを認めず、イエスを自分を神としている人間とみなし、瀆聖者として裁いたのです。

イエスの裁判

イエスに対するユダヤ人指導者たちのさまざまな考え
エルサレムの宗教的指導者の間には、ファリサイ派のニコデモや、アリマタヤ出身の有力者ヨセフのように、ひそかにイエスの弟子であった人がいただけではなく、以前からイエスについての意見が分かれていて、ヨハネ福音書に記されているように、受難の直前でさえ、不完全ながら「議員の中にもイエスを信じる者は多かった」(ヨハネ12∙42)のです。したがって、聖霊降臨の後「祭司も大勢この信仰に入り」(使徒言行録6∙7)、「ファリサイ派の数名が信者になり」(使徒言行録15∙5)、聖ヤコブが「幾万人ものユダヤ人が信者になって、皆熱心に律法を守っています」(使徒言行録21∙20)と聖パウロにいうことができたのも、驚くに足りません。エルサレムの宗教的指導者の間では、イエスに対してどのような態度にでるべきか、意見の一致が見られませんでした。ファリサイ派の人々は、イエスに従う人たちを破門すべきであると主張しました。「このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」(ヨハネ11∙48)と懸念する者たちに、大祭司カイアファは預言しながら、「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済むほうが、あなたがたに好都合だとは考えないのか」(ヨハネ11∙50)と提案しました。最高法院は、イエスを涜聖者として死刑にすべきだと宣言しましたが、処刑する権利を持たなかったため、政治的反逆のかどでローマ総督に引き渡しました。こうしてイエスは、「暴動のかどで」(ルカ23∙19)告発されたバラバと同列に置かれます。大祭司たちは、政略的な脅迫の手でピラトにイエスの処刑を迫りました。
イエスの死の責任はユダヤ人全体にはない
福音書の叙述に見られるように、イエスの裁判は歴史的には複雑な出来事でした。したがって、神だけがご存じである裁判の当事者たち(ユダ、最高法院、ピラト)個人の罪がどうであろうと、また、操られた群衆が死刑にすべきだと叫んだり、聖霊降臨の後に使徒たちが回心を促しながらユダヤ人たちの態度を非難したとしても、イエスの死の責任をエルサレムのユダヤ人全体に帰すことはできません。ご自分を殺す人たちを十字架上でゆるされたイエスも、イエスの考えに従って語ったペトロも、指導者を含むエルサレムのユダヤ人が「無知」のためにイエスを殺したことを認めました。ましてや、「その血の責任は、我々と子孫にある」(マタイ27∙25)と全群衆が叫んだからといって、イエスの死の責任をあらゆる時代の、あらゆる場所のユダヤ人にまで及ぼすことはできません。教会は第2バチカン公会議で、次のように宣言しました。「キリストの受難の際に犯されたことの責任を、その当時のユダヤ人すべてに無差別に負わせたり、今日のユダヤ人に負わせることはできません。……ユダヤ人は神から排斥された者とか、のろわれた者とか、あたかも聖書から結論されるかのようにいってはなりません」。
キリストの受難の責任はすべての罪人にある
教会は教導職に携わる人々の教えや聖人たちの証言に基づき、「罪びとたちこそ、キリストが忍ばれたすべての苦痛を招いた責任者であり、協力者であった」ことをつねに意識していました。教会は、わたしたちの罪がキリストご自身を傷つけるという事実を念頭において、ためらうことなく、イエスの死の苦しみに対するもっとも重い責任はキリスト者にあると考えています。それにもかかわらず、キリスト者はその責任をあまりにもしばしばユダヤ人に押しつけてきました。「わたしたちはいつも繰り返し罪を犯す人々を、この恐ろしい罪の犯人とみなさなければなりません。イエス・キリストに十字架の責め苦を与えたのがわたしたちの罪である以上、過ちと悪に陥る人々は、確かに、罪によって、自分の心におられる神の御子を改めて十字架につけ、侮辱するのです。この場合、わたしたちの罪はユダヤ人の罪よりも重いことを認めなければなりません。事実、使徒パウロがいっているように、ユダヤ人は、もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったはず(一コリント2∙8)だからです。これに反して、わたしたちは彼を知っていると宣言しています。ですから、わたしたちがわたしたちの行為によって神の御子を否認するとき、何らかの形で殺害者として御子に手をかけているのです」。「キリストを十字架につけたのは悪魔ではありません。あなたこそ、悪徳と罪を大いに楽しむことによって、悪魔とともにキリストを十字架につけたのであり、今もなお、それを続けています」。

神の救いの計画におけるキリストのあがないの死

「イエスは神のお定めになった計画によって引き渡された」
イエスの非業の死は、さまざまな事情が不幸に絡み合った偶然の結果ではありません。それは神の計画の神秘に属します。聖霊降臨の日、聖ペトロが初めての説教で、「神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じの上で」(使徒言行録2∙23)このかたを彼らに引き渡されたと、エルサレムのユダヤ人に説明しているとおりです。ただし聖書のこの表現は、イエスを引き渡した者たちは神によって前もって定められたことをただ筋書どおりに実行したにすぎない、といっているのではありません。時の一刻一刻は、神の目には現在です。したがって、「予定」の永遠の計画には、神の恵みに対する各自の自由な応答が含まれています。「事実、この都で、ヘロデとポンティオ∙ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なるしもベイエスに逆らいました。そして、実現するようにとみ手とみ心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです」(使徒言行録4∙27-28)。神は、ご自分の救いの計画を実現するように、こうした人たちの無分別から生じる行為を妨げなかったのです。
「聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死なれた」
「正しいしもべ」の死刑による神の救いの計画は、以前から聖書の中で、普遍的あがないの神秘、すなわち、人間を罪の奴隷の状態から解放するあがないの神秘として告げられていました。聖パウロは、自分が「受けた」という信仰宣言の中で、「キリストは、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだ」(一コリント15∙3)と述べています。イエスのあがないの死は、とくに、イザヤ書にある苦しむしもべの預言を実現しました。イエスご自身、自らの生と死の意味を、この苦しむしもべに照らして述べておられます。復活の後イエスは、エマオの弟子たちに、ついで使徒たちに、このような聖書の説明をなさいました。
「神は罪とかかわりのないかたを、わたしたちのために罪となさいました」
したがってペトロは、神の救いの計画に対する使徒たちの信仰を、次のように表すことができました。「あなたがたが先祖伝来のむなしい生活からあがなわれたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました」(一ペトロ1∙18-20)。原罪に続く人々の罪は、死をもって罰せられます。神は御子を奴隷の身分で、すなわち、罪のゆえに堕落し、死に定められた人間の身分で遣わすことにより、「罪と何のかかわりもないかたを、わたしたちのために罪となさいました。わたしたちはそのかたによって、神の義を得ることができたのです」(ニコリント5∙21)。イエスご自身は、とがめを受けるような罪を犯されませんでした。 しかし、御父とともにつねに抱いていたあがないをもたらす愛によって、罪のために神から離反しているわたしたちの境遇を引き受け、十字架上ではわたしたちの一人として、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15∙34)と叫ぶことができたのです。このように、神は御子を、わたしたち罪びとの連帯責任者となって、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡され」(ローマ8∙32)、わたしたちが「御子の死によって神と和解させていただ〔ける〕」(ローマ5∙10)ようにしてくださったのです。
神はご自分のほうから、普遍的なあがないの愛を示された。
神はわたしたちの罪のために御子を死に渡して、わたしたちのための計画がわたしたちのすべての功績に先だついつくしみの愛のはからいであることを示されました。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(一ヨハネ4∙10)。「わたしたちがまだ罪びとであったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ5∙8)。この愛はだれをも除外しない愛です。イエスは迷い出た羊のたとえの結びで、そのことを指摘しておられます。「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父のみ心ではない」(マタイ18∙14)。イエスは「多くの人の身代金として自分のいのちをささげる」(マタイ20∙28)と言明されます。この「多くの人」というのは限定語ではありません。人類を救うためにご自分を死に渡されるただ一人のあがない主に、人類全体を対照させているのです。教会は使徒たちに続いて、キリストは例外なしにすべての人のために死なれたと教えます。「〔キリストは〕過去、現在、未来のすべての人間のために苦しみました」。

キリストはわたしたちの罪のためにご自分を御父にささげられた

キリストの全生涯は御父へのささげものであった。
自分の意志を行うためではなく、お遣わしになったかたのみ旨を行うために天からくだった神の御子は、「世に来られたときに、次のようにいわれたのです。……『ごらんください。わたしは来ました。……神よ、み心を行うために。』……このみ心に基づいて、ただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです」(ヘブライ10∙5-10)。神の御子は人となられた最初の瞬間から、ご自分のあがないの使命の中で実現するという神の救いの計画を引き受けられます。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになったかたのみ心を行い、そのわざを成し遂げることである」(ヨハネ4∙34)。「全世界の罪を償う」(一ヨハネ2∙2)ためのイエスの自己奉献は、御父との愛の交わりを表すものです。「わたしはいのちを捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる」(ヨハネ10∙17)。「わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである」(ヨハネ14∙31)。イエスの全生涯は、御父のあがないをもたらす愛の計画をまっとうする望みに駆り立てられたものでした。人となられたのは、あがないのために受難を受諾するためだったからです。「『父よ、わたしをこの時から救ってください』〔といおうか)しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ」(ヨハネ12∙27)。「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」(ヨハネ18∙11)。さらに十字架上では、すべてが「成し遂げられる」(ヨハネ19∙30)前に、「渇く」(ヨハネ19∙28)といわれます。
「世の罪を取り除く神の子羊」
洗礼者ヨハネは、罪びとと並んで自分のもとに来られたイエスに洗礼を授けてから、イエスのうちに世の罪を取り除く小羊を認めて、それを人人に知らせました。こうして、イエスは囗を開かず、ほふり場に引かれ、多くの人の罪を担う苦しむしもべであり、また、エジプトからの過越でイスラエル民族のあがないの象徴となった過越の小羊であることを明らかにしたのです。キリストの全生涯は、仕え、また多くの人の身代金として自分のいのちをささげる、というその使命を表しています。
イエスは人類のあがないに向けられた御父の愛を心底からご自分のものとする
イエスは人々に対する御父の愛を、人間としてのご自分の心に受け入れ、人々を「この上なく愛し抜かれ」(ヨハネ13∙1)ました。「友のために自分のいのちを捨てること以上に大きな愛はない」(ヨハネ15∙13)からです。こうして、イエスの人性は苦しみと死に臨んで、人々の救いを望まれる神の愛の自由で完全な道具となりました。実際、イエスは、御父と御父が救おうとされる人間への愛によって、自由に受難と死を受け入れられたのです。「だれもわたしからいのちを奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる」(ヨハネ10∙18)。ご自分から進んで死に向かわれたときの、神の御子のあの威厳に満ちた自由は、ここに由来します。
イエスは最後の晩さんで前もってご自分のいのちをささげられた
イエスは「引き渡される夜」(一コリント11∙23)、十二使徒とともに食事を取られた間に、ご自分の自由な奉献を最高度に表されました。イエスは受難の前夜、まだ捕らえられていなかったとき、この使徒たちとの最後の晩さんを、人々の救いのために自ら進んで行われる御父への奉献の記念とされました。「これは、あなたがたのために与えられるわたしのからだである」(ルカ22∙19)。「これは、罪がゆるされるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(マタイ26∙28)。イエスがこのときに制定されたエウカリスチアは、ご自分のいけにえの記念となりました。イエスはご自身の奉献に使徒たちを組み入れ、この奉献を永続させるようお命じになります。こうして、イエスは使徒たちを新しい契約の祭司に定められたのです。「彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです」(ヨハネ17∙19)。
ゲッセマネでの苦悩。
イエスは、最後の晩さんでご自分を前もってささげられた新しい契約の杯を、続くゲツセマネの苦悩の中で御父の手から受け取られ、「死に至るまで従順でした」(フィリピ2∙8)。イエスは「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ26∙39)と祈られます。このように、イエスはご自分の人性にとって死がいかに恐ろしいものであるかを表しておられます。事実、イエスの人性はわたしたちのそれと同様、永遠の生命に向けられています。ところがその人性は、わたしたちのそれとは違って、死を生じる罪からまったく免れており、またとくに、「いのちの導き手」、「生きている者」である神の御子によって担われているのです。御父のみ旨が行われることを人として受諾されたイエスは、ご自分の死を、「十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を」(一ペトロ2∙24)担ってくださるためのあがないの死として受け入れられました。
キリストの死は比類のない決定的ないけにえである
キリストの死は、世の罪を取り除く神の小羊による人間の決定的あがないを成就した過越のいけにえであると同時に、新しい契約のいけにえであって、これにより、人間は、多くの人の罪がゆるされるために流された血によって神と和解し、神との交わりを回復しました。キリストのいけにえは比類のないもので、あらゆるいけにえを完成させ、それらを超越するものです。このいけにえはまず、父である神ご自身のたまものです。御父こそ、わたしたちをご自分と和解させるために、御子を死に渡されました。それは同時に、人となられた神の御子の奉献であり、御子はわたしたちの不従順を償うため、自由に、愛をもって、ご自分のいのちを、聖霊によって御父にささげられました。
イエスはわたしたちの不従順に代わって従順となられた「一人の人の不従順によって多くの人が罪びととされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです」(ローマ5∙19)。イエスは死に至るまで従うことにより、多くの人の罪を担い、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負い、自分のいのちを償いのいけにえとしてささげる苦しむしもべの役をまっとうされました。イエスはわたしたちの過ちの償いを果たし、わたしたちの罪のゆえに自ら御父に償いをささげられました。イエスは十字架上でご自分のいけにえをまっとうされるキリストのいけにえにあがないと償いの価値をもたらしたのは、その限りない愛にほかなりません。キリストはわたしたち皆を知り、愛してご自分のいのちを奉献されました。「キリストの愛がわたしたちを駆り立ててい〔ま〕す。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人のかたがすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります」(二コリント5∙14)。人間はだれであれ、もっとも聖なる者であっても、すべての人間の罪を負い、すべての人のために自分をいけにえとしてささげることはできません。キリストは神の御子であって、あらゆる人間を超越すると同時に包括し、また全人類の頭でもあるので、いけにえとなってすべての人をあがなうことがおできになったのです。トリエント公会議は、「キリストは十字架上での受難により、わたしたちを義とする功徳を積まれた」と教え、永遠の救いの源であるキリストのいけにえの比類のない性格を強調しました。教会は、「めでたし、わたしたちの唯一の希望である十字架よ!と歌って、十字架を崇敬します。わたしたちはキリストのいけにえに結ばれる十字架の死は、神と人との唯一の仲介者であるキリストの比類のないいけにえです。しかし、キリストは、人となられた神のペルソナにおいて「ある意味で自らをすべての人間と一致させ」られたので、「神のみが知っておられる方法によって、すべての人に復活秘義にあずかる可能性を提供されます」。キリストはわたしたちのために苦しみを受け、その足跡に続くように模範を残し、弟子たちがそれぞれの十字架を背負って、ご自分に従うよう促しておられます。こうして、あがないの恩恵を受ける人々をご自分のあがないのいけにえにあずからせようとしておられます。これは、御母マリアによって最高度にまっとうされました。御母は他のだれよりも緊密に御子のあがないの苦しみの神秘にあずかられたのです。「十字架のほかに、天に上るはしごはありません。」

要約

「キリストは、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死なれました」(一コリント15∙3)。わたしたちの救いは、神が先にわたしたちを愛された神の愛によって実現されます。「神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(一ヨハネ4∙10)。「神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ〔られ〕ました」(ニコリント5∙18)。イエスはわたしたちの救いのために、自ら進んでご自分をささげられました。イエスはこの奉献を、最後の晩さんのときに「これは、あなたがたのために与えられるわたしのからだである」(ルカ22∙19)ということばで前もって示し、実現なさいました。キリストは「多くの人の身代金としてご自分のいのちをささげる」(マクイ20∙28)ため、すなわち、「弟子たちをこの上なく愛し抜かれる」(ヨハネ13∙1)ために来られました。それは、人々が先祖伝来のむなしい生活からあがなわれるためでした。これこそが、キリストのあがないの意味であり目的なのです。イエスは「十字架の死に至るまで」(フィリピ2∙8)御父を愛し、御父に従い、苦しむしもべの贖罪の使命をまっとうし、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負われました。

イエス・キリストは葬られた

イエスは、「神の恵みによって、すべての人のために」、「死」(ヘブライ2∙9)を味わわれたのです。救いの計画において、神がはからわれたことは、ただ御子が「わたしたちの罪のために死」(一コリント15∙3)なれるだけではなく、「死を味わわれる」ことでした。すなわち、御子は十字架上で息絶えた瞬間から復活されるまでの間に、死の状態、つまり、ご自分の霊魂と肉体との分離の状態を体験されました。この、埋葬されたまま死者のもとに下っておられるという、亡くなられたキリストの存在のありようは神秘です。それは、墓に納められたキリストが宇宙全体に平和をもたらす人類の救いを成就して神の大安息に入られたことを示す、聖土曜日の神秘です。埋葬されたからだとともにおられるキリストキリストが墓にとどまられたことは、生前の苦しむことのできる状態と復活したキリストの現実の栄光の状態とが結びついていることを表しています。その「生きている」同じかたは、「わたしは一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて」(黙示録1∙18)いるということがおできになるのです。 「神(御子)は、人間本性の定めに従い、死が霊魂と肉体とを分離することを妨げられませんでした。しかし、復活によって両者を新たに相互に結びつけられました。こうして、ご自身が死と生の合流点となられ、死によって生じた人間本性の分解をご自分のうちでやめさせ、ご自身、分離したそれぞれの部分のための再結合の源となられました」。殺された「いのちへの導き手であるかた」と「復活されて生きておられるかた」とは同一のかたなのですから、神の御子キリストが、死によって互いに分離されたご自分の霊魂と肉体とを担い続けられるのは当然のことでした。 「キリストの死の際に霊魂が肉体から分離したことで、キリストの唯一の位格(ペルソナ)が二つに分かれたわけではありません。キリストの肉体と霊魂は、当初からみことばのペルソナのうちに同じ資格で存在していました。死によって両者は分離しましたが、それぞれ、同一のみことばと結ばれていたのです」。「あなたは、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておられない」キリストは、死によってこの世における人間としての生存を閉じました。したがって、キリストの死は真の死です。しかし、キリストの肉体は御子のペルソナと結ばれていましたから、他の人々のような死体とはなりませんでした。その肉体は「死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかった」(使徒言行録2∙24)ので、「神の力がキリストの肉体を腐敗から守った」のです。キリストについては、「いのちある者たちの地から断たれた」(イザヤ53∙8)ともいえますし、また、「わたしのからだ〔は〕希望のうちに生きるであろう。あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない」(使徒言行録2∙26-27)ともいうことができます。「三日目」(一コリント15∙4、ルカ24∙46)に起こったイエスの復活が、そのしるしです。なぜなら、腐敗は四日目から現れると考えられていたからです。「キリストとともに葬られる」洗礼の本来の意味を十分に表現しているのは、浸水洗礼です。これは、新しいいのちに生きるためにキリストとともに罪に死ぬキリスト者の埋葬を効果的に表します。「わたしたちは洗礼によってキリストとともに葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しいいのちに生きるためなのです」(ローマ6’4)。要約イエスはすべての人のために死を味わわれました。死に、そして葬られたのは、まぎれもなく、人となられた神の御子です。キリストが墓にとどまっていた間、神としてのキリストのペルソナは、死によって互いに分離した霊魂と肉体とを担い続けておられました。したがって、キリストの死んだ肉体は「朽ち果てることがなかったのです」(使徒言行録13∙37)。

「イエス・キリストは死者のもとに下り、三日目に復活された」

キリストは死者のもとにくだられた

イエスは「低い所、地上に降りておられ〔ました)この降りて来られたかたが、昇られたのです」(エフェソ4∙9-10)。使徒信条は、キリストが死者のもとへお下りになられたことと三日目に死者の中から復活されたこととを、同じ一条で宣言しています。それは、キリストが、ご自分の過越によって、死の底からいのちをわき出させてくださったからです。
「キリストは、
死者のうちから復活し、
人類を照らす光。
世々に至るまで。アーメン」。イエスは「死者の中から復活した」(一コリント15∙20)という新約聖書に頻繁に出てくる言明は、キリストが復活に先だって、死者のもとにとどまられたことを表しています。使徒たちがイエスは死者のもとに下られたという説教をしたときに述べようとした第一の目的は、そこにあったのです。すなわち、イエスはすべての人間と同じく死を体験し、その霊魂は死者のもとに滞在して、彼らと一緒になられました。しかしキリストは、救い主としてそこに下り、捕らわれていた霊たちによい知らせを告げられたのです。キリストは死んで死者たちの住まいに下られたのですが、聖書はそこを陰府、またはシェオル(Sheol)ないしハデス(Άιδης)と呼んでいます。そこにいる者たちは神を見ることができないからです。悪人であるか正しい人であるかを問わず、とにかくすべての死者があがない主を待っていて、この状態にあったのです。とはいえ、「アブラハムのふところ」に迎えられた貧しい人ラザロのたとえでイエスが示されたとおり、両者のありさまは同じではありませんでした。「イエス・キリストが死者のもとに下られたときにお救いになったのは、まさに、アブラハムのふところにいる人のように解放者を待っていた聖なる霊魂たちです」。イエスが死者のもとに下られたのは、地獄に落ちた者たちをそこから救い出すためでも、地獄を破壊するためでもなく、ご自分に先んじた正しい人々を解放するためでした。「死んだ者にも福音が告げ知らされた……」(一ペトロ4∙6)。イエスが死者のもとに下られたということは、救いの福音をことごとく告げ知らせたということです。それは、イエスのメシアとしての使命の最終の段階であり、時間の上で凝縮されてはいますが、あがないのわざがあらゆる時代、あらゆる場所のあらゆる人間に及ぶことを表す広大無辺の意味を持つ出来事です。なぜなら、救われるすべての者はキリストのあがないにあずかるからです。したがってキリストは、「死んだ者」が「神の子の声」を聞き、「その声を聞いた者」が生きるために(ヨハネ5∙25)、死のふちに下られたのです。「いのちの導き手」であるイエスは、「死をつかさどる者、つまり悪魔」を「ご自分の死によって」無力にし、「死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たち」を解放されました(ヘブラィ2∙14-15)。それ以来、復活したキリストは「死と陰府のかぎ」(黙示録1∙18)を持たれ、「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスのみ名にひざまず」(フィリピ2∙10)くことになりました。「きょうは大沈黙が地上を覆っています。大沈黙とそれに孤独です。大沈黙があるのは王が墓に眠っておられるからです。「地はおそれて鎮まりました。」神が肉体において眠りにつかれ、世々の昔から眠りについていた人々を立ち上がらせたのです。……迷える羊を捜すように主が捜しに行かれたのは人祖です。主はまた、やみと死の陰に座る人々を訪ねることを望んでおられます。そうです、捕らわれの身であるアダムと、同じく捕らわれの身であるエバを苦しみから解き放つために、神と神の子は進んで行かれるのです。……『わたしはあなたの神である。それなのに、あなたのためにあなたの子となっためである。……あなたに命じる。眠りについている者よ、起きよ。わたしは、あなたが陰府の国にいつまでも捕らわれの身でいるためにあなたを造ったのではない。死者の中から起き上がれ。わたしは死者のいのちである』」。「イエスは死者のもとに下り」ということばで信条が宣言しているのは、イエスは実際に死なれ、またわたしたちのために死なれたことによって、死と「死をつかさどる」(ヘブライ2∙14)悪魔とに打ちかたれたということです。亡くなられたキリストは、神としてのご自分のペルソナと結ばれた霊魂の状態で、死者のもとに下られました。そして、ご自分に先だって死んだ正しい人々のために天国の門を開かれました。

歴史的できごとであると同時に超越的できごとである、キリストの復活

「わたしたち〔は〕、先祖に与えられた約束について、あなたがたに福音を告げ知らせています。つまり、神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのです」(使徒言行録13∙32-33)。イエスの復活は、キリストを信じるわたしたちの信仰の頂点となる真理です。これこそ、最初のキリスト者共同体が中心的な真理だと信じて生きたもの、伝承が根本的なものとして伝えたもの、新約聖書の諸書が明らかにしたもの、イエスの十字架上の死と並んでキリストの過越の神秘の本質的要素としてのべ伝えられてきたものなのです。
「キリストは死者のうちから復活された。
その死により、死に打ちかち、
死者にいのちを与えられた」。キリストの復活の神秘は実際の出来事で、新約聖書に記されているように、歴史的に確認された示現を伴いました。すでに聖パウロが56年頃、コリントの信徒に書いています。「わたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」(一コリント15∙3-4)。パウロはここで、自らがダマスコヘの途上で回心した後に知ったこと、つまり復活に関する生きた伝承のことを話しています。空の墓「なぜ、生きておられるかたを死者の中に探すのか。あのかたは、ここにはおられない。復活なさったのだ」(ルカ24∙5-6)。主の復活の一連の出来事の中で最初に出合うのは空の墓です。これは、それ自体直接の証拠ではありません。キリストのからだが墓になかったことについて、復活とは異なる解釈もなされえたであろうにもかかわらず、空の墓は当時のすべての弟子にとって本質的なしるしでした。弟子たちがこれを発見したことは、イエスの復活を認めるに至る第一歩でした。まず、聖なる婦人たちが、ついで、ペトロがそうでした。「イエスが愛しておられた」(ヨハネ20∙2)弟子は自分で墓に入り、「亜麻布が置いてあるのを」(ヨハネ20∙6)見て、信じたと伝えています。つまり、この弟子は空の墓のありさまを見て、イエスのからだがないのは人間の仕業ではないこと、またイエスはラザロの場合のように、この世の生活に戻ったにすぎないのではないことを確認したのです。復活者の出現マグダラのマリアと聖なる婦人たちは、安息日になるので金曜日の夕方に急いで葬られたイエスの遺体に香油を塗ろうとして墓に参り、復活者に最初に出会った人たちです。こうして、婦入たちは使徒たちにキリストの復活を伝える最初の使者となりました。その後、イエスはまずペトロに、ついで十二人の使徒たちに姿を現されました。兄弟たちの信仰を強めるように命じられていたペトロは、復活したかたに他の弟子たちよりも先に会います。そして一同は、ペトロの証言に基づいて、「本当に主は復活して、シモンに現れた」(ルカ24∙34)と叫ぶのです。イエスの復活後の日々に起こった一つ一つの出来事は、使徒たち、とくにペトロを、復活の朝に始まった新しい時代の建設作業に参加させていくことになります。使徒たちは復活されたイエスの証人として、教会の礎石であり続けます。最初の信者共同体の信仰は、彼らに知られていた人々、その大方はまだ暮らしをともにしていた人々の証言に基づいていました。「キリストの復活の証人」は、まずペトロと他の使徒たちですが、彼らに限られていたのではありません。パウロは、ヤコブとすべての使徒たち以外にも、イエスが同時に五百人以上に現れた、と明確に述べています。以上の証言を前にして、キリストの復活をその身体的側面を無視して解釈したり、歴史的事実として認めないことは不可能です。イエスはご自分の受難と十字架上の死とを予告されました。これらが実際に起こったとき、弟子たちの信仰が根底から揺り動かされたことは明らかです。イエスの受難によって受けた打撃はあまりにも強かったので、弟子たち(少なくともそのある者たち)は復活の知らせをすぐには信じなかったほどでした。福音書によれば、イエスが亡くなられた後の弟子たちは熱狂的な集団とはほど遠いもので、打ちのめされ(「暗い顔をして」〈ルカ24∙17〉)、恐れていましたですから、弟子たちは墓から戻った婦人たちのことばを信じず、「この話がたわ言のように思われた」(ルカ24∙11)のです。イエスは、復活の夜十一人に現れたとき、「その不信仰とかたくなな心をおとがめになりました。復活されたイエスを見た人々のいうことを信じなかったから」(マルコ16∙14)です。弟子たちは復活した現実のイエスを目の前にしても、まだ疑っていました。それほどに、弟子たちにとって復活はありえないものに思われたのです。それで、亡霊でも見たのではないかと思いました。「喜びのあまりまだ信じられず、不思議がって」(ルカ24∙41)いました。トマスも同様に疑いを抱きます。そして、マタイが報じるところによれば、ガリラヤでの最後の出現のときでさえ、「疑う者がいた」(マタイ28∙17)のです。ですから、イエスの復活は弟子たちの信仰(または信じやすさ)が作り出したものだという憶測は筋が通っていません。そうではなくて、使徒たちの復活信仰は、復活したイエスに現実にお会いするという直接的な体験から一神の恵みの働きのもとに一生まれたものなのです。キリストの復活した状態の人性復活したイエスは、触らせたり、食事をともにしたりして、弟子たちと直接に交わられました。こうして、ご自分が亡霊ではないことを認めるよう、またとくに、弟子たちにはからだを見せ、そのからだが苦しみを受け、十字架につけられたからだと同じであることを納得させようとしておられます。受難の傷跡をまだ帯びているからです。しかし、このからだは、同時に栄光のからだの新しい特性を備えています。もはや時空のうちには置かれず、望む所と時に思いのままに存在することができます。その人性はもはや地上に引き留めておくことはできない、御父の神的領域に属するものとなっているからです。したがって、復活したイエスは望みのままに、園丁の姿や、弟子たちになじみのものとは「別の姿で」(マルコ16∙12)、きわめて自由に出現しておられます。こうして、まさに弟子たちの信仰を呼び起こしておられたのです。キリストの復活は、この世のいのちへの復帰ではありませんでした。ヤイロの娘、ナインの若者、ラザロなど、ご自分の復活以前にキリストによって行われた蘇生の場合とは異なっています。この三人の蘇生は奇跡でした。奇跡的によみがえった彼らは、イエスの力によって通常のこの世の生活に戻っていきました。そして、いつかは再び死んだのです。キリストの復活は、本質的にこれとは異なります。復活したからだをもって、キリストは死の状態から時空を超えた別のいのちに移ります。復活したときのイエスのからだは、聖霊の力に満たされています。栄光の状態で神のいのちにあずかっているのです。ですから、聖パウロはキリストを天に属する人と呼ぶことができました。超越的な出来事としてのイエスの復活復活徹夜祭の『復活賛歌』では「幸いな夜よ、お前だけがキリストの死者の国からのよみがえりの時を知ることができた」と歌います。事実、イエスの復活の出来事自体を目撃した者はだれもおらず、福音記者のだれもこれを描写していません。復活が身体的にどのように行われたかを語りうる者は、だれもいませんでした。ましてや、その秘められた本質、つまり、別のいのちへの移行は感覚でとらえることはできないのです。空の墓のしるしと使徒たちが復活したキリストと出会った事実とによって確認される歴史的出来事であるキリストの復活は、相変わらず歴史を超越し、凌駕するものとして、信仰の神秘の核心を成しています。復活したキリストが、世にではなく弟子たちに、「ご自分と一緒にガリラヤからエルサレムに上〔り〕、今、民に対してイエスの証人となって」(使徒言行録13∙31)いる人々にご自分を現されるのは、そのためなのです。

聖三位のみわざとしての復活

キリストの復活は、被造界とその歴史への神ご自身の超越的な介入であるという意味で、信仰の対象です。キリストの復活において、神の三つのペルソナは、ともに働かれると同時にそれぞれの独自性を表されます。キリストの復活は御子キリストを「復活させられた」(使徒言行録2∙24)御父の力によって行われ、御父はこうして、御子の人性を一からだとともに一聖三位のうちに完全なしかたで迎え入れられました。イエスが「聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子」(ローマ1∙4)であるということが決定的に明らかにされます。聖パウロは、イエスの死んだ人性を生かし主としての栄光の状態に導いた、霊のわざによる神の力の顕現を力説します。御子についていえば、御子はご自分が持つ神の力によって自らの復活を成し遂げられました。イエスは、人の子が多くの苦しみを受け、死に、その後復活すべきことを告げておられます。他の箇所では、「わたしは、いのちを再び受けるために捨てる。……わたしはいのちを捨てることもでき、再び受けることもできる」(ヨハネ10∙17-18)と明白に断言しておられます。「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています」(一テサロニケ4∙14)。教父たちは、死によって分離した霊魂と肉体とに結ばれているキリストの神的ペルソナから、その復活を眺めます。「人間イエスの二つの部分にそれぞれ等しく存在しており、その死によって分離させられていたものが、神性が一つであることによって、再び一つのものとして結び合わされます。人間として合体していたものが分離することによって死に、分離したものが合体することによって復活するのです」。

キリストの復活の救済的意義

「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教はむだであるし、あなたがたの信仰もむだです」(一コリント15∙14)。復活は何よりも、キリストご自身が行い、かつ教えられたすべてのことを確証するものです。キリストは、復活をもって、ご自分の神的権威について前から約束しておられた決定的な証明を与えられました。したがってその教えは、たとえ人間の理解力をはるかに超えるものであっても、信じるに値するものであると確証されたことになります。キリストの復活は、旧約聖書と、生存中のイエスご自身の約束の成就です。「聖書に書いてあるとおり」ということばは、キリストの復活がこれらの預言を実現したことを示します。イエスが真に神であることは、復活によって確証されました。イエスはかつて「あなたたちは人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということが分かるであろう」(ヨハネ8∙28)といわれました。十字架につけられたイエスの復活は、このイエスが真に「わたしはある」というかたであり、神の御子であり、神であることをあかしするものです。聖パウロはユダヤ人たちに、「わたしたちも、先祖に与えられた約束について、あなたがたに福音を告げ知らせています。つまり、神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。それは詩編の第二編にも『あなたはわたしの子、わたしは今日あなたを産んだ』と書いてあるとおりです」(使徒言行録13∙32-33)と宣言することができました。キリストの復活は、神の御子の受肉の神秘に密接に結ばれています。復活は神の永遠の計画に沿った受肉の完成です。復活の神秘には二つの面があります。キリストは死によってわたしたちを罪から解放し、復活によって新しいいのちへの道を開かれました。その新しいいのちとは、まず義とすること、つまり、神の恵みの中にわたしたちを連れ戻すことです。それは、「キリストが……死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しいいのちに生きる」(ローマ6∙4)ためです。義とされるとは、罪による死に対して勝利を収め、新たに神の恵みに参与させていただくことです。それはまた、人を神の養子とします。人がキリストの兄弟となるからです。イエスご自身が、復活の後、「行って、わたしの兄弟たちにいいなさい」(マタィ28∙10)といういい方をして、弟子たちを兄弟とお呼びになりました。わたしたち人間は本来キリストの兄弟ではありませんが、無償の恵みによってキリストの兄弟とされます。なぜなら、神の養子とされることによって、わたしたちは、復活においてご自分を完全に現された御ひとり子のいのちに、実際にあずかることになるからです。実に、キリストの復活一および復活されたキリストご自身一は、将来のわたしたちの復活の始まりであり、源です。「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。……アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです」(一コリント15∙20-22)。このことが実現されるまで、復活されたキリストは信じる人々の心の中に生きておられます。キリスト者は復活されたキリストにおいて「来るべき世の力を体験し」(ヘブラィ6∙5)、そのいのちはキリストによって神のいのちの中に引き入れられます。それは、「もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださったかたのために生きる」(ニコリント5∙15)ためなのです。

要約

キリストの復活を信じるとは、実際に復活されたイエスに出会った弟子たちによって歴史的に証明された出来事、さらにキリストの人性が神の栄光に入られたという神秘的∙超越的な出来事を信じることです。空の墓と置かれていた亜麻布とは、それ自体、キリストのからだが神の力によって死と腐敗との束縛から免れたことを示しています。これらは、復活されたイエスとの出会いに弟子たちを備えさせました。「死者の中から最初に生まれたかた」(コロサイ1∙18)であるキリストは、すでに今から、わたしたちの霊魂を義とすることによって、後には、わたしたちのからだを復活させることによって、わたしたち自身の復活の源となられます。

「イエスは天に上がって、全能の、父である神の右に着かれた」

「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた」(マルコ16∙19)。キリストのからだは復活の瞬間から栄光化されていました。そのことは、その後ずっと備えておられる新しい超自然的特性からも明らかです。しかし、弟子たちと親しく飲食し、神の国について教えられた四十日間、その栄光は普通の人間の姿のうちに隠されたままでした。イエスの出現は、人性が雲と天とに象徴される神の栄光に決定的に入ることで最後になりました。以後、イエスは神の右の座に着いておられます。「月足らずで生まれたような」(一コリント15∙8)パウロに出現されましたが、これはパウロを使徒とするためのまったく例外的な特別なことでした。四十日の間、復活されたイエスの栄光が覆われていたことは、マグダラのマリアヘの神秘なことばからうかがい知ることができます。「わたし〔は〕まだ父のもとに上っていない。わたしの兄弟たちのところへ行って、こういいなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父であるかた、またわたしの神であり、あなたがたの神であるかたのところへわたしは上る』と」(ヨハネ20∙17)。これは復活されたキリストの栄光と、天に上げられて御父の右に着かれたキリストの栄光との間に、現れ方の相違があることを示します。昇天は歴史的出来事であると同時に超越的な出来事であって、一方から他方へ移ったことを示すものです。この最後の段階は、最初の段階、すなわち受肉の際に天からくだられたことと密接に結びついています。「父のもとから出た」かた、つまりキリストだけが「父のもとに戻る」ことがおできになります。「天からくだって来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない」(ヨハネ3∙13)のです。人間は自然の力で「父の家」、神のいのちと至福とに入ることはできません。ただキリストだけが人間にこの道を開くことがおできになりました。「だから、その肢体であるわたしたちは、わたしたちの頭であり本源であるかたがわたしたちに先だって行かれたところへわたしたちも行けると希望しているのです」。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せる」(ヨハネ12∙32)。イエスが十字架上に上げられることは天に上げられることを示し、また、それを予告しています。前者は後者の始まりです。新しい、永遠の契約の唯一の祭司であるイエス・キリストは、「人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神のみ前に現れて」(ヘブライ9∙24)くださいました。天にあって、キリストはつねにその祭司職を果たされます。「このかたはつねに生きていて」、「ご自分を通して神に」近づく「人々のために執り成しておられる」(ヘブライ7∙25)のです。キリストは、「すでに実現している〔将来の〕恵みの大祭司」(ヘブライ9∙11)として、天において御父を礼拝する祭儀の中心であり、司式者なのです。キリストは今や、御父の右の座に着いておられます。「御父の右の座とは、神としての栄光と誉れの意です。永遠から神の御子として、また御父と同一実体の神として存在しておられたかたが、人となられ、その肉体が栄光を受けられた後は、からだをもってそこに座しておられるのです」。御父の右の座に着かれたことはメシアの治世の始まりであり、「権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない」(ダニエル7∙14)という、人の子に関する預言者ダニエルの幻視の実現です。このときから、使徒たちは「終わることのない主の国」の証人となりました。要約キリストの昇天は、イエスの人性が天上の神のみ国に決定的に入られたことを示します。そこから再臨されるはずですが、それまでは人間の目には隠されています。イエス・キリストは教会の頭として、わたしたちに先んじて御父の栄光のみ国に入られました。こうして、そのからだの肢体であるわたしたちは、いつか、永遠にキリストとともにいるという希望のうちに生きることができるようになりました。イエス・キリストは、すべての人のためにひとたび天の聖所に入られるや、仲介者として絶え間なくわたしたちのために執り成し、聖霊が与えられることをつねに保証してくださいます。

「生者と死者を裁くために来られます」

キリストは栄光のうちに再び来られる

キリストはすでに教会を通して治めておられる「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」(ローマ14∙9)。キリストの昇天は、その人性において神ご自身の権能と権威にあずかることを意味します。イエス・キリストは主です。天でも地でもすべての支配力をお持ちです。「すべての支配、権威、勢力、主権の上に」おられます。それは、御父が「すべてをキリストの足もとに従わせ」(エフェソ1∙20-22)られたからです。キリストは宇宙と歴史の主であられます。人間の歴史、さらに全被造界はキリストのうちに「一つにまとめられ」、超越的な完成に達するのです。主であるキリストは、そのからだである教会の頭でもあります。天に上げられ、栄光を受けて、使命をまっとうされたキリストは、地上でご自分の教会のうちにとどまられます。キリストが聖霊によって教会の上に行使される権威の源は、あがないのわざです。教会のうちに「神秘としてすでに現存するキリストの国は」、「この神の国の地上における芽生えと開始」です。神の計画は、キリストの昇天のときから成就し始めました。わたしたちはすでに「終わりの時」(一ヨハネ2∙18)にいます。「それゆえに、すでに世々の終わりはわたしたちのもとに到来したのであり、世の一新は取り消しえぬものとして決定されたのであり、それは現世においていわば現実に前もって行われつつあります。事実、教会はすでに地上において、不完全ではありますが真の聖性で飾られています」。キリストのみ国の到来は、それを告げる教会の宣言を伴うさまざまな奇跡的しるしを通して、すでに示されています。…すべてがみ子に服従するときまでキリストのみ国は教会のうちにすでに現存しているとはいえ、まだ、王であるキリストが地上に来臨し、「大いなる力と栄光」(ルカ21∙27)とをもって完成されるには至っていません。悪い勢力は基本的にはキリストの復活によってすでに征服されていますが、み国はまだ、その勢力の攻撃を受けています。すべてがキリストに服従するまで、すなわち、「義が定住する新しい天と新しい地が実現するまでは、旅する教会は、現世に属するその諸秘跡と制度の中に、過ぎ去るこの世のすがたを示し、今日に至るまで陣痛の嘆きと苦しみの中で神の子らの現れを待ち望む被造物の間に住んでいます」。ですから、キリスト者は、とくに感謝の祭儀の中で、キリストの来臨を早めるために、「主よ、来てください」(黙示録22∙20)と祈るのです。キリストは昇天の前に、イスラエルが待望していたメシア王国、預言者たちのいう万人に正義と愛と平和の決定的秩序をもたらすはずのメシア王国が栄光のうちに打ち建てられる時はまだ来ていない、と明言されました。主によれば、現在の時は霊とあかしの時です。しかし、それはまた、いまだに苦悩のしるしを帯びている時、教会を容赦せずに終わりの時の戦いの火ぶたを切る悪による試練を抱えた時、目覚めて待望すべき時なのです。イスラエルの希望であるキリストの栄光に輝く来臨昇天以来、わたしたちには「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期」(使徒言行録1∙7)がたとえ分からないにしても、キリストの栄光の来臨は差し迫っています。その来臨とそれに先だつ最終の試練とがたとえ「抑えられている」にせよ、キリストの終末的来臨はいつでも起こりうるのです。栄光のメシアの到来がいつ実現するかは、イエスヘの「不信仰」(ローマ11∙20)のために一部の者がかたくなになった、「全イスラエル」がいつイエスをメシアだと認めるかにかかっています。これについて、聖ペトロは聖霊降臨の後ユダヤ人に語っています。「だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち返りなさい。こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるそのときまで、必ず天にとどまることになっています」(使徒言行録3∙19-21)。聖パウロがこれに呼応していいます。「もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からのいのちでなくて何でしょう」(ローマ11∙15)。異邦人の全体に続いてユダヤ人の全体がメシアの救いにあずかるようになるときにはじめて、神の民は「キリストの満ちあふれる豊かさ」(エフェソ4∙13)になるまで成長するでしょう。そのとき、「神がすべてにおいてすべてとなられる」(一コリント15∙28)のです。教会の最後の試練キリストの来臨の前に、教会は多くの信者の信仰を動揺させる最後の試練を経なければなりません。教会のこの世における旅路に伴う迫害は、そのとき、人生の諸問題の見せかけの回答を人々に与えて真理を捨てさせる偽宗教の形をとった、「不法の秘密の力」を現すでしょう。この偽宗教の最たるものは反キリストのそれで、人間が神と受肉された神の御子であるメシアに替わって自らに栄光を帰す、偽りのメシア観です。歴史を超越した形で行われる最後の審判を経た上で到来するはずのメシア時代への希望が歴史の中で実現される、と主張する人々が現れるたびごとに、この反キリストの偽宗教はこの世に姿を現してきました。教会は、いわゆる千年王国論として述べられた、終末的な、み国に関するこの歪曲された説明を、その緩和された形をも含めて、排斥しました。とくに政治的な形で提示された世俗的メシア観は「本質的に邪悪な」説である、として排斥しています。教会は、死んで復活された主に従って最後の過越を経なければ、み国の栄光に入ることはできないでしょう。したがって、み国が完成するのは、教会の歴史における発展的勝利によってではなく、悪の最後の猛攻に対する神の勝利によってなのです。その後神はご自分の花嫁を天からくだらせます。悪の反乱に対する神の勝利は、過ぎ去るこの世界の最終の宇宙的崩壊の後に、最後の審判の形をとって現れます。

生者と死者を裁くため

イエスは、預言者たちや洗礼者ヨハネに続いて、説教の中で最後の日の審判を予告されました。そのときには、各自の行為と心の秘密があらわにされるでしょう。そして、神が与える恵みを顧みなかったとがめるべき不信仰が断罪されることでしょう。隣人に対する態度が、神の恵みと愛とを拒否したか、あるいは受け入れたかを明らかにするはずです。イエスは最後の日に、「わたしの兄弟であるこのもっとも小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25∙40)といわれるはずです。キリストは永遠のいのちの主です。人間の行為と心とを最終的に裁く至上権は、世のあがない主であるキリストに属します。キリストはこの権利を十字架によって「かちとられました」。しかも御父は、「裁きはいっさい子に任せておられる」(ヨハネ5∙22)のです。ところで、御子は裁くためにではなく、救うため、ご自分のうちにあるいのちを与えるために来られました。このいのちの恵みを拒絶することで、おのおのはすでに自分自身を裁き、その行いに従って報いを受けています。そのうえ、愛の霊を拒否して、自らを永遠にのろわれた者にすることさえできるのです。

要約

主キリストはすでに教会を通して治めておられますが、まだこの世のすべてがキリストに従っているのではありません。キリストのみ国の勝利は、悪の勢力の最終的な攻撃の後に獲得されます。世の終わりの最後の審判の日に、キリストは栄光のうちに来臨し、悪に対する善の決定的勝利を実現されます。この善と悪とは、よい種と毒麦のように、歴史の中でともに育っています。時の終わりに、生者と死者を裁くために来られる栄光のキリストは、わたしたちの心のひそかな思いをあらわにされ、おのおのの人の行いに基づいて、恵みを受け入れたか拒絶したかに応じて報いを与えられます。

「聖霊を信じます」

「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とはいえない」(一コリント12∙3)。「神は、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった」(ガラテヤ4∙6)。信仰によるこの認識は、ただ聖霊の助けだけによって可能となります。キリストと交わるには、まず聖霊に動かされなければなりません。わたしたちに働きかけ、わたしたちのうちに信仰を生じさせてくださるのは聖霊です。信仰の最初の秘跡である洗礼によって、御父のうちに源泉を持ち、御子によってわたしたちに与えられるいのちが、教会の中で、聖霊により、親しく一人ひとりに与えられます。 洗礼は「聖霊において、御子を通して父である神による新たな誕生の恵みを与えます。事実、神の霊を持つ人々はみことばである御子のもと導かれ、御子は彼らを御父にささげ、御父は不死のいのちを彼らにお与えになります。したがって、霊なしには神の御子を見ることはできず、御子なしにはだれも御父に近づくことができません。なぜなら、御父を知るのは御子であり、神の御子を知るの聖霊によらなければならないからです」。

ご自身の恵みによってわたしたちのうちに信仰を芽生えさせ、唯一の御父とその御父が遣わされたイエス・キリストを知るという新しいいのちをわたしたちに得させるのは、ほかでもない聖霊なのです。しかし、聖霊は聖三位のペルソナのうちで最後に啓示されたかたです。「神学者」と呼ばれているナジアンズの聖グレゴリオは、このことを人間の条件にまで降りて来られた神の教育法によって説明しました。

「旧約聖書は、御父を明瞭に、御子を漠然と告げ知らせました。新約聖書は御子を明らかにし、聖霊の神性を垣間見せました。今や、聖霊はわたしたちの間ではっきりと認められ、わたしたちにご自分を明らかに示されます。確かに、まだ御父の神性を公言しなかったとき、御子を明確に宣言することは賢明ではなかったでしょう。御子の神性がまだ認められていなかったとき、聖霊を、やや不遜な表現を用いれば、何か余分重荷でもあるかのように付け加えるのは賢明ではなかったでしょう。……こうして、『栄光から栄光へ』と聖三位の光は徐々に輝き出ます」。

したがって、聖霊を信じるとは、聖霊が聖三位のペルソナの一者であり、御父と御子と同一の本質を持っておられるかた、「御父と御子とともに礼拝され、たたえられる」かたであると宣言することです。聖霊に関する神秘が「三位一体の神学」で取り扱われるのはこのためです。ここでは、神の救いの「営み」における聖霊について述べることにします。

聖霊は、救いの計画の始めから完成のときまで、御父と御子とともに働かれます。しかし、御子の受肉によって始まった「終わりの時」になって初めて、神的ペルソナとして啓示され、与えられ、認められ、受け入れられました。新しい創造の「初子」であり頭であるキリストにおいて成就された神の計画、すなわち、教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちは、注がれた聖霊によって人類のうちに具現します。

「神の霊以外に神のことを知る者はいません」(一コリント2∙11)。ところで、神を啓示する神の霊は、神のことば、生けるみことばであるキリストをわたしたちに知らせますが、ご自身のことについては話されません。「預言者を通して語られたかた」は、御父のことばを聞かせますが、ご自分のことは聞かせてくださいません。わたしたちが聖霊について知るのは、ただ、聖霊がみことばを啓示し、信仰によって迎え入れる心構えをさせてくださる働きによってです。キリストを「明らかにする」真理の霊は、ご自分から語るのではないのです。このような、ご自分を無にする神に固有の聖霊の態度は、なぜ「世は霊を受け入れることができない」かを説明するものです。それは、「世は、霊を見ようとも知ろうともしない」からです。これに反して、キリストを信じる人々は霊を知っています。それは、霊が彼らとともにおられるからです(ヨハネ4∙17)。

伝えられた使徒たちの信仰の交わりを生きる教会を通して、わたしたちは聖霊を知ることができます。すなわち、
――聖霊の霊感によって書かれた聖書、
――教会の教父たちがつねにあかししている聖伝、
――聖霊に支えられている教会の教導権、
――聖霊がことばとしるしとによってわたしたちをキリストに交わらせる、秘跡の典礼、
――聖霊がわたしたちのために執り成してくださる祈り、
――教会を築くカリスマと種々の奉仕、
――使徒的、宣教的生活のさまざまなしるし、
――聖霊がご自分の聖性を現し、救いのわざを続けられる聖人たちのあかし、を通して。

御子と聖霊の共同の派遣

御父がわたしたちの心に遣わされた御子の霊は、真の神です。御父や御子と同一実体のものであり、聖三位の隠されたいのちにおいても、世界に向けられた無償の愛においても、二者と切り離すことはできません。しかし、教会の信仰は、同一実体の分かっことのできない聖三位、いのちを与える聖三位を礼拝しながら、しかも三つのペルソナの区別を宣言します。御父が御子をお遣わしになるときは、つねに聖霊もお遣わしになります。御子と聖霊の派遣は共同のものです。両者は区別されますが、分離されえません。確かに、キリストは見えない神の見える姿であるということは明らかですが、そのキリストを啓示するのは、聖霊なのです。イエスがキリスト、「油を注がれたかた」であるのは、聖霊によって塗油されたからであり、受肉後に起こったすべてのことは、この霊の充満に由来するものです。そして、キリストが栄光を受けられてからは、今度はキリストが、御父のもとからご自分を信じる人々に霊を遣わすことがおできになるのです。ご自分の栄光を彼らに与えるとは、ご自分に栄光を与える聖霊を与えてくださるということです。そのとき御父によって、御子のからだの肢体であるご自分の子とされた人々への、御子と聖霊の共同の派遣が展開されていきます。人々を神の子とする霊の派遣は、信じる人々をキリストに一致させ、キリストに結ばれて生きるようにするためなのです。 「塗油の概念から考えられることですが……御子と聖霊との間には何の隔たりもありません。事実、からだの表面と塗られた油との間には理性も感覚も中間物を認めないのと同じく、御子と聖霊との接触は直接的です。ですから、信仰によって御子のからだに触れようとする者は、まず、油に触れなければなりません。実際、御子のからだのいかなる部分も聖霊によって塗られていないところはないのです。それゆえ、御子が主であることを受け入れる人々の信仰告白は、聖霊によってなされます。聖霊は、信仰によって近づく人をどこからでも迎えに来られるからです」。

聖霊の名、呼称、象徴

聖霊の固有名「聖霊」、これが、御父と御子とともにわたしたちが礼拝しあがめるかたの固有の名です。教会はこの名をキリストから教えられ、教会の新しい子らが洗礼を受けるとき、これを宣言します。「霊」とはヘブライ語ルアー(Ruah)の訳で、この語が本来意味するのは息、空気、風です。イエスはニコデモに、まさに風の表象を用いて、神の息であるかた、聖霊の超越的な新しさをほのめかしておられます。他方、霊と聖とは三者の神に共通な属性です。聖書、典礼および神学用語はこの二つの語を合わせて、他の場合に使用される「霊」と「聖」ということばに込められているものとはまったく別の意味で、ことばではいい表せない聖霊の神的ペルソナを表現しています。イエスは聖霊の到来を告げ、約束されるとき、このかたをパラクレートス(Παράκλητος)と呼んでおられます。この語の本来の意味は「そばに呼ばれた者」、弁護者です(ヨハネ14∙16,26、15∙26、16∙7参照)。パラクレートスは「慰め主」と訳されることがありますが、イエスこそ最初の慰め主であられます。イエスは、聖霊を「真理の霊」と呼ばれました。使徒言行録や信徒への手紙の中でもっとも多く用いられた聖霊という固有の名のほかに、聖パウロは、約束された霊(エフェソ1∙13、ガラテヤ3.14参照)、神の子とする霊(ローマ8∙15、ガラテヤ4∙6参照)、キリストの霊(ローマ8.9参照)、主の霊(ニコリント3∙17参照)、神の霊(ローマ8∙9,14、15∙19、一コリント6∙11、7∙40参照)という呼び名を用いています。また聖ペトロは、「栄光の霊」(一ペトロ4∙14)という呼称を用いています。聖霊のさなざまな象徴。水という象徴は洗礼における聖霊の働きを示します。すなわち、聖霊の助けが呼び求められると、水は新しい誕生をもたらす秘跡的しるしとなります。この世に初めて誕生するまでのわたしたちの成長が水の中で行われるように、洗礼水は神のいのちへの誕生が聖霊において行われることを、実際に示しています。ところが、「一つの霊によって、わたしたちは……洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったのです」(一コリント12.13)。したがって、霊ご自身が、十字架上のキリストから泉のようにほとばしり、わたしたちのうちで永遠のいのちへ向けてわき出る生ける水なのです。塗油。塗油という象徴もまた聖霊を示すもので、聖霊と同義語となっているほどです。キリスト者の入信式で、塗油は堅信の秘跡的しるしですが、これは東方教会において、いみじくも「博膏(ふこう)式」と呼ばれています。その意味内容を完全に把握するには、聖霊によって行われた最初の塗油、すなわち、イエスのそれに戻らなければなりません。キリスト(ヘブライ語で「メシア」)は、神の霊によって「油を注がれた者」を意味します。旧約時代でも、主の「油を注がれた者」がいて、その中でも傑出しているのがダビテでした。しかし∙イエスは比類のないしかたで神の油を注がれたかたです。なぜなら、御子が取られた人性が、全面的に「聖霊によって油を注がれた」からです。イエスは聖霊によって「キリスト」とされました。聖霊によっておとめマリアはキリストを懐妊しますが、その降誕の際に聖霊は天使を通してキリストであることを告げ、主のキリストを神殿でお迎えするようシメオンに働きかけます。聖霊こそキリストを満たすかたであり、キリストが治癒と救いのわざをなされるときには、聖霊の力がキリストから出るのです。イエスを死者の中から復活させたのも聖霊です。そのとき、死に打ちかった人性をもって完全に「キリスト」とされたイエスは、聖霊をあふれるほどに注がれ、「聖徒たち」が神の御子の人性に結ばれて、ついには「成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長する」(エフェソ4∙13)ようにはからわれます。聖アウグスチヌスは、キリストと結ばれて完全になったこの聖徒たちの総体を「全キリスト」と表現しています。。水が聖霊において与えられたいのちの誕生と産む力とを意味するのに対して、火は聖霊の働きの変革的な活力を象徴します。預言者エリヤは、「火のよう〔に〕登場し」「彼のことばはたいまつのように燃えて」(シラ48∙1)いました。カルメル山上ではその祈りによって、いけにえの上に天上から火をくだらせます。この火は、触れるものを変革する聖霊の象徴です。洗礼者ヨハネは、「エリヤの霊と力で」(ルカ1∙17)主に先だって行き、キリストが「聖霊と火で洗礼をお授けになる」(ルカ3∙16)かたであると知らせます。イエスはこの霊について、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることか」(ルカ12∙49)といわれました。また、聖霊は聖霊降臨の朝、「炎のような」舌の形で弟子たちの上にとどまり、彼らを満たしました。霊性の伝統は、「〝霊〟の火を消してはいけません」(一テサロニケ5∙19)ということばで表されているこの火の象徴を、聖霊の働きをもっとも如実に表すものとして取り上げています。雲と光。この二つの象徴は、聖霊の現れに際して切り離すことはできません。旧約時代における神の顕現のときから、雲は、時には暗く、時には輝き、その栄光の超越した部分を覆いながらも、いのちある救い主である神ご自身を啓示しています。モーセの場合、雲はシナイ山上で、集会の幕屋で、荒れ野を通る間に、またソロモンの場合、神殿の奉献に際して現れ出ました。ところで、以上の予型は、キリストにより、聖霊において実現されます。この聖霊はおとめマリアに臨み、マリアが懐妊して幼子イエスを産むように、「その影で」お包みになります。変容の山では聖霊が雲の形で現れ、イエス、モーセ、エリヤ、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを覆い、「『これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け』という声が雲の中から聞こえ」(ルカ9∙34-35)ました。また、昇天の日、イエスは同じ雲に覆われて、弟子たちの「目から見えなく」なられました。この雲はまた、再臨の日に栄光に輝く人の子を示すことになるのです。証印は、塗油の象徴に近いものです。事実、「父である神が認証された」(ヨハネ6∙27)のはキリストであり、御父はまた、キリストにおいてわたしたちにも証印を押されます。証印は洗礼、堅信、叙階にあたって聖霊の塗油の結果が消えないものであることを示します。そのため、証印という表象は、ただ一度しか受けられないこの三つの秘跡によって刻まれる消えない「霊印」を表すために、若干の神学的伝統の中で用いられています。。イエスは按手によって病人をいやし、子供たちを祝福されました。使徒たちもイエスのみ名において、同じようにしています。それどころか、使徒たちの按手によって聖霊が与えられました。ヘブライ人への手紙は、按手をこの手紙の教えの中でも「基本的な項目」としてあげています。全能の聖霊が注がれることを表すこのしるしを、教会は秘跡の儀式の中での聖霊の働きを求める祈りの中で用いてきました。。「イエスは神の指によって悪魔を追い出されます」。神の律法が「神の指で」(出エジプト31∙18)石板に書かれたのに対して、使徒たちの手にゆだねられた「キリストの手紙」は「生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた」(ニコリント3∙3)ものです。「ヴェニ∙クレアトル∙スピリトゥス(創造主である聖霊、来てください)」の聖歌では、聖霊を「御父の右手の指」と呼んでいます。はと。大洪水(洗礼に関する象徴)の終わりに、ノアが放ったはとはくちばしにみずみずしいオリーブの小枝をくわえて戻ってきましたが、これは土地が再び住めるようになったしるしでした。キリストが洗礼の水から上がられた後、聖霊ははとの形でキリストの上にくだってとどまりました。霊は受洗者の清められた心にくだってとどまります。ある聖堂では、聖体が祭壇の上につり下げられたはとの形の金属製聖櫃(columbarium)に安置されています。聖霊を表すはとの象徴は、キリスト教の聖画像では伝統的なものになっています。

約束の時代の霊と神のことば

初めから「時の満ちる」まで、みことばと御父の霊との共同の使命は隠されてはいたものの、すでに行われていたのです。その間、神の霊はメシアの時代を準備され、両者ともまだ完全に明らかにされてはいませんでしたが、すでに、待望の的となり、両者が現れるとき受け入れられるよう、約束されていました。ですから、教会は旧約聖書を読むとき、「預言者たちを通して語られた」霊がキリストについて何を示されたのかを、その中に探し求めるのです。ここで「預言者たち」といわれているのは、旧約時代であれ新約時代であれ、神のことばの告知や聖書の執筆に際して聖霊が霊感を与えたすべての人のことであると、教会は信じ考えています。ユダヤ人の伝統は、旧約聖書を、律法の書(モーセ五書)、預言者の書(キリスト教の用語で歴史書と預言書といわれるもの)、および諸書(とくに知恵文学に属するもの、わけても詩編)の三つに区別しています。創造においてすべての被造物の存在といのちの源は、神のことばとその息吹です。「被造物を治め、聖化し、生かすことは、聖霊にふさわしい働きです。聖霊は御父および御子と同一実体の神だからです。……神として、すべての被造物を力づけ、それらを御父および御子のうちに保たれるのです」。「人間に関していえば、神はまさにご自分の両手(すなわち、御子と聖霊)をもって人間を造り上げられました。……見えるものもまた神の姿を現すように、造り上げた肉の上に、ご自分の姿を描かれました」。約束の霊人間は罪と死によって醜く変貌しましたが、それでもなお「神にかたどられたもの」、御子にかたどられたものです。とはいえ、「神の栄光を受けられなくなり」、神に「似たもの」ではなくなりました。アブラハムになされた約束で開始した救いのわざは、御子ご自身が「人間の姿」を取ることにより、人間に栄光、すなわち「いのちを与える」霊を再び与えて、御父の「似姿」を取り戻させました。神は、あらゆる人間的な予想に反して、アブラハムに子孫を約束されますが、それは信仰と聖霊の力との実りでした。彼の子孫において地上のすべての民は祝福されるでしょう。この子孫とはキリストであり、キリストによって聖霊が注がれ、散らされている神の子たちは一つに集められるのです。神は、誓約によって自らに義務を負わせることによって、最愛の御子とご自分のものとされた民のあがないを準備される約束の霊とを与えるという義務も自らに負わせられたのです。神の顕現と律法に導かれて族長たちからモーセやヨシュア、そして偉大な預言者たちの使命を開始させる神の幻視のときまで、神の顕現が約束の道を照らし続けます。これらの顕現において、神のみことば(御子)は聖霊の雲の中ですでに「覆われた」形で啓示されていたのだと、キリスト教の伝承はつねに認めてきました。こうした神の教育法は、とくに律法の授与に表されています。律法は、民をキリストに導く「養育係」のようなものとして与えられましだ。しかし、神の「似姿」を失った人間を救うためには無力で、しかも、ますます罪を知らせるにすぎなかったため、聖霊への待望をかきたてたのです。詩編のうめき声が、これをあかししています。王国時代とバビロン捕囚時代において約束と契約のしるしである律法は、アブラハムの信仰から生まれた民の心と制度とを統御するはずでした。「わたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、……あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」(出エジプト19∙5-6)と神はいわれます。しかし、ダビデの後、イスラエル民族は誘惑に負け、他の国々のような王国になってしまいました。ところが、ダビデになされた約束の王国は聖霊のわざとなります。すなわち霊によって貧しい人々のものとなるのです。律法を無視することや契約への不忠実は死をもたらします。バビロン捕囚はこの死です。これは、約束の挫折に見えても、実際は救う神の神秘な忠実さを示し、約束された霊による再興の初めとなるものでした。神の民はこの浄化に耐えなければなりませんでした。神の計画の中で、バビロン捕囚はすでに十字架の影に覆われています。そして、捕囚から帰還する貧しい残りの者は、きわめて明白に教会を示す予型の一つとなっているのです。メシアとその霊への待望「見よ、新しいことをわたしは行う」(イザヤ43∙19)。預言の二つの路線、すなわちメシアヘの待望および新しい霊の告知の路線は、徐々に発展しながら、「イスラエルの慰め」と「エルサレムの救い」(ルカ2∙25,38)を待望する小さな「残りの者」、貧しい民に集中していきまず。 イエスがご自分に関する預言をどのように成就されたかは、すでに説明しました。ここでは、メシアとその霊との関係がよりはっきりと表れている預言だけに限定して述べます。待望のメシアの姿の特徴は、(「イザヤは、〔キリストの〕栄光を見た」〈ヨハネ12∙41〉という)インマヌエルの書、とくにイザヤのll章1から2節で現れはじめます。
「エッサイの株からひとつの芽がもえいで
その根からひとつの若枝が育ち
その上に主の霊がとどまる。
知恵と識別の霊
思慮と勇気の霊
主を知り、おそれ敬う霊」。メシアの姿の特徴は、とくに主のしもべの歌の中に示されます。これらの歌はイエスの受難の意味を告げ、また、イエスが多くの人を生かすためどのように聖霊を注ぐかを表しています。イエスがこれを成し遂げるのは、外部からの働きによってではなく、「しもべの身分」(フィリピ2∙7)になられることによってなのです。彼はわたしたちの死をご自分の身に受け、ご自分のいのちの霊をわたしたちに与えることができるのです。そこでキリストは、イザヤの次のくだりをご自分に当てはめながら、福音を告げ知らせ始められます(ルカ4∙18-19参照)。 「主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、
主の恵みの年を告げるためである」。聖霊の派遣に直接かかわりのある預言のくだりは、神が約束のことばを用いて、民の心にご自分の愛と忠実を表しながら語られる神託の部分ですが、聖ペトロは聖軍降臨の朝に、これが成就したことを宣言することになります。これらの約束によれば、「終わりの時に」、主の霊が人々の心を一新し、新しいおきてをそのうちに刻み、四散し分裂していた民を集め、和解させ、最初の被造界を新にしてくださるはずです。そして、神はそこで、人間とともに平和に住まわれます。「貧しい人々」、神の神秘な意図に完全に身をゆだねた謙虚で柔和な人々、人間の正義ではなくメシアの正義を待望する人々からなる民が存在し続けることができたのは、実は、約束の時代の間キリストの到来に備えるためになされた聖霊の隠れた偉大な働きだったのです。霊によって清められ、照らされたこの人たちの美しい心は、詩編の中に表されています。霊はこの貧しい人々のうちに、主のために「準備のできた民」を用意しているのです。

ときが満ちた時点でのキリストの霊

先駆者、預言者、洗礼者であるヨハネ「神から遺わされた一人の人がいた。その名はヨハネである」(ヨハネ1∙6)。ヨハネは「母の胎にいるときから聖霊に満たされて」(ルカ1∙15)いました。それは、おとめマリアが聖霊によって宿されたばかりのキリストご自身の力によるものです。こうして、マリアのエリサベト「訪問」は、神のその民への訪れとなりました。ヨハネは「来るはずのエリヤ」です。霊の火がそのうちに住み、訪れようとしておられる主の先駆者として進ませます。先駆者ヨハネをもって、聖霊は、「準備のできた民を主のために用意する」(ルカ1∙17)というわざを完了なさいます。ヨハネは「預言者以上の者」です。聖霊はヨハネをもって、「預言者たちを通して話される」ことを終了します。ヨハネは、エリヤによって始まった預言者たちの時代に終止符を打ちます。彼は、イスラエルの慰めが近づいていることを告げる、慰め主そのものの「声」です。真理の霊が行うように、ヨハネは「あかしをするため」「光についてあかしをするため」(ヨハネ1∙7)に来たのです。このように、ヨハネにおいて、霊は「預言者たちが探求したこと」、天使たちが「願っていたこと」をまっとうされます。「『”霊”がくだって、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』。わたしはそれを見た。だから、このかたこそ神の子であるとあかししたのである。……見よ、神の小羊だ」(ヨハネ1∙33-36)。聖霊は、人間を再び「神に似たもの」とするわざを、洗礼者ヨハネの働きによってあらかじめ示し始められます。そしてそれを、キリストとともにキリストにおいて実現されます。ヨハネの洗礼は人間を悔い改めさせるためのものでしたが、水と霊とによる洗礼は新しい誕生をもたらすものとなります。「恵みあふれたかた、喜びなさい」この上なく聖なる神の母、終生おとめであるマリアは、時が満ちた時点での御子と聖霊の派遣による何ものにも代えがたいすばらしい成果なのです。救いの計画の中で初めて、御父は御子と聖霊とが人間の間に住むことのおできになる住まいを見つけられます。ご自分の霊がこれを整えられたからです。この意味で、教会の伝承はしばしば、知恵に関するもっとも美しい聖書のテキストをマリアに当てはめて解釈しています。マリアは、典礼の中で「英知の座」として示され、たたえられています。マリアのうちに、霊がキリストと教会とにおいて成し遂げようとされる「神の偉大なわざ」が現れ始めたのです。聖霊は、マリアを恵みによって準備されました。「神性が、余すところなく、見える形をとって宿って」(コロサイ2∙9)いるキリストの母は、「恵みに満ちあふれたかた」でなければなりませんでした。マリアは、無償の恵みによって、人々の間でもっともつつましいかた、全能者のえもいわれぬたまものをもっとも素直に受け止めることができる者として、原罪の汚れなく宿られました。ですから、天使ガブリエルがマリアに、「シオンの娘」として、「喜びなさい」とあいさつしたのは、まことにふさわしいことでした。マリアが、永遠の御子を懐妊したときに歌った賛歌の中で、聖霊において御父にささげた感謝は、実は神の民全体、つまり全教会の感謝なのです。聖霊はマリアにおいて、御父のいつくしみ深い計画を実現されます。マリアは聖霊によって神の御子を懐妊し、出産します。そして、おとめでありながら、聖霊と信仰との力によって比類のない母となります。聖霊はマリアにおいて、おとめの子となられた御父の御子を現されます。マリアは神の決定的な顕現の「燃える柴」なのです。聖霊に満たされたマリアは、みことばを自分のからだから生まれた人間として示し、「貧しい人々」と諸国民の初穂となる人々に御子を知らせます。聖霊はマリアを通して、神の慈愛(神の「善意」)の的である人々をキリストとの交わりに迎え入れ始められます。謙虚な人たちが、いつも真っ先にキリストを迎えています。羊飼い、占星術の学者たち、シメオン、アンナ、カナの夫婦、そして最初の弟子たちがそうです。霊のこの働きの終わりに、マリアは、あの「婦人」、「すべていのちあるものの母」である新しいエバ、「全キリスト」の母となります。マリアはまさにこのような資格で、聖霊降臨の朝、霊が教会の誕生とともに始めようとする「終わりの時代」の始まりに、「心を合わせて熱心に祈〔る〕」(使徒言行録1∙14)使徒たちの間にいるのです。キリスト・イエス時が満ちて御子と聖霊とが果たされたすべての働きは、その受肉以来、御子が御父の霊によって油注がれたかたであるということにかかわるものです。イエスはキリスト、メシアなのです。
信条の第2章全体は、この光のもとで読まなければなりません。キリストのわざはすべて、御子と聖霊との共同の働きです。ここでは、イエスによる聖霊の約束と、栄光を受けたキリストが聖霊をお与えになったことについて述べるにとどめます。イエスは、死と復活とによって栄光を受けるまでは、聖霊について完全には明かしておられません。とはいえ、たとえば群衆に教えながら、ご自分の肉が人々のいのちの糧であると明かされたときのように、少しずつ教えておられます。また、ニコデモ、サマリアの女、仮庵祭に加わった人たちにも教えておられます。弟子たちには、祈りと、弟子たちが立てるべきあかしに関する教えの中で、公然と聖霊について語っておられます。イエスは、栄光を受ける「時」が訪れたときに、はじめて聖霊の到来を約束されました。なぜなら、イエスの死と復活とは先祖たちになされた約束の成就だからです。イエスの祈りに答えて、御父が真理の霊、別の弁護者をお与えになります。イエスの名によって、御父が聖霊をお遣わしになるのです。イエスは御父のもとから聖霊をお遣わしになります。それは、聖霊が御父から発出しているからです。聖霊がおいでになって、わたしたちは聖霊を知るでしょう。聖霊はいつまでもわたしたちとともにおり、わたしたちとともにとどまり、すべてを教え、キリストがわたしたちに話されたすべてを思い起こさせ、キリストをあかしし、わたしたちを真理のすべてに導き、キリストに栄光を帰されるでしょう。世に関していえば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにされるのです。ついに、イエスの「時」が到来します。イエスは死に直面して、ご自分の霊を御父の手におゆだねになります。そのとき、イエスは死に打ちかたれました。「御父の栄光によって死者の中から復活させられ」(ローマ6∙4)るや、弟子たちに「息を吹きかけ」て、聖霊をお与えになります。その「時」以来、キリストと聖霊との派遣は教会の派遣となるのです。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(ヨハネ20∙21)。

終わりの時代の霊と教会

聖霊降臨聖霊降臨の日(過越の七週間の終わりに当たる)に、キリストの過越は、聖霊の注ぎで完成します。そのとき、聖霊は神のペルソナとして現れ、与えられます。この日、主であるキリストはその満ちあふれるところから、霊をあふれるほどに注がれます。この日、聖三位が完全に啓示されます。この日から、キリストによって告げ知らせられた神の国は、キリストを信じる人々に開かれます。彼らは人間としての弱さを持ちながら、信仰によってすでに聖三位の交わりにあずかります。聖霊はたえず訪れ、世界を「終わりの時代」、教会の時代、神の国に導き入れます。その神の国はすでに始まっていますが、まだ完成したわけではありません。 「わたしたちは真の光を見、天上の霊を受け、真の信仰を見いだしました。そして、分かたれない聖三位を礼拝します。わたしたちを救ってくださったのは、聖三位だからです」。神の賜物である聖霊「神は愛です」(一ヨハネ4∙8,16)。神の愛は第一のたまものであり、この愛のうちに他のすべてのたまものが含まれています。この愛は「わたしたちに与えられた聖霊によって、わたしたちの心に注がれて」(ローマ5∙5)います。わたしたちは罪によって死んでいるか、あるいは少なくとも傷ついているので、愛のたまものの第一の効果は、わたしたちの罪のゆるしです。教会の中での「聖霊の交わり」(ニコリント13∙13)を通して、罪のためにそうではなくなっていたのに、再び神に似た者とされるのです。そのとき、聖霊はゆだねられたわたしたちの遺産の「保証」あるいは「初穂」を与えてくださいます。それは聖三位のいのちそのもの、イエスが「わたしたちを愛してくださったように」愛し合ういのちです。この愛(一コリント13章参照)はキリストに結ばれた新しいいのちの原理であって、その愛に生きることができるのは、「聖霊がくだって、〔わたしたちが〕力を」(使徒言行録1∙8)いただいたからです。この聖霊の力によってこそ、神の子らは実を結ぶことができます。わたしたちを真のぷどうの木に接いでくださった霊は、わたしたちに「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤ5∙22-23)の実を結ばせてくださいます。霊はわたしたちのいのちです。わたしたちが自分を捨てる度合いに応じて、霊の導きに従って生きることになるのです。 「聖霊は、わたしたちを楽園に復帰させ、天の国へ昇らせ、神の子らの身分に戻させてくださいます。また、神を父と呼び、キリストの恵みにあずかり、光の子と呼ばれ、永遠の栄光にあずかる勇気を与えてくださいます」。聖霊と教会キリストと聖霊との派遣は、キリストのからだであり、聖霊の神殿である教会において実現されます。このときから、両者の派遣はキリスト者を、聖霊において御父と交わっておられるキリストとの交わりにあずからせます。聖霊は人々をキリストに引き寄せるため、先に恵みを与えて彼らを準備してくださいます。聖霊は復活された主を示し、キリストのことばを思い起こさせ、キリストの死と復活の意味を悟らせてくださいます。また聖霊は、とくにエウカリスチア(感謝の祭儀)においてキリストの神秘を現在化し、それによって人々を和解させ、神との交わりに入れ、「多くの実を結ぶ」ことができるようにしてくださいます。したがって、教会の派遣はキリストと聖霊との派遣に追加されるものではなく、両者の派遣を表す秘跡なのです。つまり、教会はその全存在を挙げて、すべての成員とともに、聖三位の交わりの神秘を告げ知らせ、あかしし、現在化し、広めるために派遣されているのです(この問題については次の項で取り扱います)。「わたしたちは皆、ただ一つの同じ霊、すなわち聖霊を受け、相互に、また神と混ぜ合わされた状態になっています。というのは、個別では大勢であっても、キリストが御父およぴご自分の霊であるかたをわたしたち各自のうちに住まわせ、この唯一の、分かたれない霊が、互いに異なる者たちをご自分によって一致させ、……わたしたちが皆、ご自分においてただ一つのものであるかのようにしてくださるからです。思うに、キリストの聖なる人性の力がこれに結ばれているすべての人々をただ一つのからだに形づくられるのと同じように、わたしたちすぺてのうちに住まわれる神の唯一の分かちえない霊が、すぺての者を霊的一致に導かれるのです」。聖霊はキリストの塗油であるので、からだの頭であるキリストは、聖霊を肢体に注ぎ、これを養い、いやし、相互の機能を整え、生かし、派遣してあかしを立てさせ、ご自分の御父への奉献と、世界全体のための執り成しにあずからせてくださるのです。キリストは教会の諸秘跡を通して、ご自分のからだの肢体にご自分の聖なる聖化する霊をお与えになります(この問題は第2編で取り扱われます)。教会の諸秘跡において信者に提供されている「神の偉大なわざ」は、キリストに結ばれた新しいいのちの中で、霊に従って実を結びます(この問題は第3編で取り扱われます)。「霊は弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るぺきかを知りませんが、霊自らが、ことばに表せないうめきをもって執り成してくださるからです」(ローマ8∙26)。神のわざを完成なさるかたである聖霊は、祈りの師なのです(この問題は第4編で取り扱われます)。

要約

「あなたがたが子であることは、神が「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実からわかります」(ガラテヤ4∙6)。世の初めから終わりまで、神が御子を遣わされるときにはいつも、ご自分の霊も遣わされます。御子と聖霊との派遣は共同で、分かつことができません。時が満ちると、聖霊は、神の民の中でキリストを迎えるために行われていたすべての準備を、マリアにおいてまっとうされます。マリアのうちで行われた聖霊の働きによって、御父はインマヌエル、「わたしたちとともにおられる神」(マタイ1∙23参照)を世にお与えになります。神の御子は受肉に際して聖霊の塗油を受け、キリスト(メシア)として聖別されます。イエスはその死と復活とによって、栄光の主、栄光のキリストとされました。そして、その満ちあふれるところから使徒たちと教会とに聖霊を注がれます。頭であるキリストが肢体に注がれる聖霊は、教会を建て、生かし、聖化されます。教会は聖三位と人間との交わりの秘跡です。

「聖なる不変の教会を信じます」

教会の名と像

「キリストは諸民族の光なのですから、聖霊において参集したこの聖なる教会会議は、すべての造られたものに福音を告げることによって、教会の面上に輝くキリストの光をもってすべての人を照らすことをせつに望みます」。このことばは、第2バチカン公会議の「教会憲章』の冒頭に記されているものです。この冒頭のことばをもって、公会議は、教会に関する信仰箇条がキリスト・イエスに関する信仰箇条にまったく依存していることを表しています。教会は、イエスの光以外の光を持ちません。教会は、教父たちがよく用いる比喩に従えば、太陽の反射によって輝く月のようなものです。教会に関する信仰箇条はまた、それに先だつ聖霊に関する信仰箇条にも全面的に依存しています。「事実、聖霊がすべての聖性の源、贈り主であることを示した後、わたしたちは、まさにその聖霊が教会に聖性を備えたことを公言します」。教父たちの表現を借りれば、教会は「霊が咲き誇る」場です。教会が「聖」、「普遍」であり、また「一」、「使徒継承」(ニケア∙コンスタンチノープル信条の付加)であると信じることは、父と子と聖霊である神への信仰と切り離すことができません。しかしまたわたしたちは、使徒信条の中で、教会への信仰(《Credo Ecclesiam〉)と神への信仰(《Credo in De㎜》)とを違った表現を用いて宣言します(神の場合はinを付けますが、教会の場合は付けません)。それは、神とそのわざである教会とを混同しないため、また神がご自分の教会にゆだねられたすぺての恵みをはづきりと神ご自身のいつくしみに帰すためです。「教会」というギリシア語のエクレシア(έκκλεσίαはέκ-καλειν〈呼び出す〉に由来)は「招集」を意味します。人々の集いの意味ですが、宗教的な集いを意味することが多かったのです。この語はギリシア語訳旧約聖書の中で、選ばれた民の神前集会、とくに、イスラエル民族が律法を授かり、神の聖なる民とされたシナイでの集会を表すため、頻繁に用いられています。キリストを信じる人々の最初の共同体は、自らを「教会」と呼ぷことにより、この集会の継承者であると自認していました。教会の中で、神は全地の果てからご自分の民を「招集されます」。その派生語として英語のChurchやドイツ語のKircheが生まれたKるμα:加(キュリアケー)は、「主に属するもの」という意味です。キリスト教用語の「教会」は、典礼集会を指すと同時に、キリスト者の地域共同体、あるいはすべてのキリスト者の普遍的集いを示します。この三つの意味は実際には切り離すことができません。「教会」とは、神が全世界からお集めになる神の民のことです一の教会は地域共同体に存在し∙典礼集会、とくにエウカリスチアの集会として現れます。教会は神のことばとキリストの聖体とによって生かされて、キリストのからだとなっていくのです。教会のさまざまな象徴聖書には相互に関連し合う数多くの像と表象とがあり、神の啓示はこれらを通して教会のくみ尽くしえない神秘を示しています。旧約聖書に由来するさまざまな像は、神の民という一つの基本的概念を多様な形で表すものです。新約聖書では、これらのすべての像はキリストがこの民の「頭」となり、民がそのからだとなる事実から、新しい中心を見いだしています。この中心を軸として、「牧者生活、耕作一建築∙あるいはま嫁庭∙婚礼などから引き出された」種々の像がまとめられています。「教会は羊のさくであり、キリストはその必要唯一の入り口です。教会はまた羊の群れであり、神は自らその牧者となることを予告されました。この群れの羊たちは、人間である牧者たちに牧されているにせよ、キリスト自らによってたえず導かれ養われています。キリストはご自分の生命を羊たちのために与えたよき牧者であり、牧者たちの頭です」。「教会は耕作地もしくは神の畑です。この畑に古いオリーブの木が成長します。旧約の太祖たちはその木の聖なる根であり一その木においてユダヤ人と異邦人との和解が行われましたし、またこれからも行われるでしょう。教会は選らばれたぶどう畑として天上の農夫によって植えられました。キリストは真のぶどうの木であって、枝であるわたしたちに生命と実を結ぶ力を与えます。わたしたちは教会を通してキリストのうちにとどまるのであり、キリストなしには何もなしえません」。「教会はまた、たびたび神の建築と呼ばれます。主もご自分を、家を建てる人々一こよって捨てられはしたが、かえってすみの親石となった石にたとえておられます(マタィ21.42および類似の箇所:使徒言行録4∙11、一ペトロ2∙7、詩編118∙22)。教会は使徒によってこの土台の上に建てられ、この土台から堅固さと結集力を受けます。この建物は種々の名称をもって飾られます。すなわち、神の家族が住む神の家、霊における神の住居、人々のもとにおける神の天幕、またとくに聖なる神殿と呼ばれ、それが石造りの聖堂によって象徴されて、聖なる諸教父からたたえられ、典礼においては正当に、聖なる都、新しいエルサレムに比較されています。わたしたちはこの聖なる都において、生きた石としてこの地上で建設に加えられます。ヨハネは、この聖なる都を、世界の一新のときに神のもとより天からくだってくるもの、『夫のために着飾り準備の整った花嫁』として観想しています(黙示録21∙1-2)」。「教会は『上にあるエルサレム』、『わたしたちの母』(ガラテヤ4∙26)とも呼ばれ、汚れなき小羊の汚れなき花嫁として描かれます。キリストはこの花嫁を『愛し、彼女を聖とするために、おのれを彼女のために渡されました』(エフェソ5∙25-26)。キリストは彼女を、解きえない契りをもって、ご自分に結び合わせられました。そして彼女をたえず『養いはぐくまれます』(エフェソ5∙29)」。

教会の起源、創立および使命

教会の神秘を探るには、まず、聖三位の計画の中にある起源と、これが歴史の中で徐々に実現してきたこととを思い巡らさなければなりません。御父のみ心のうちに生まれた計画「永遠の父は、その英知といつくしみに基づくまったく自由な神秘的な配慮をもって全世界を創造し、人々を神の生命への参与にまで高めることを決定されました」。御父は御子においてすべての人間をこの神的いのちにあずかるように招いておられるのです。「父はキリストを信じる人々を聖なる教会として呼び集めることを決定されました」。この「神の家族」は、人類史の各段階に沿って、御父の配慮に従い、徐々に実現されていきます。教会は実に、「世の初めから予型によってあらかじめ示されていたもので、イスラエル民族の歴史と旧約を通してくしくも準備され、最後の時に設立され、聖霊を注がれることによって明示されました。それはさらに世の終わりに栄光のうちに完成されるでしょう」。世の初めから現れる教会の予型「世界は教会のために造られた」と初代教会の信者たちはいっていました。神はご自分のいのちに交わらせるために世界を創造し、この交わりはキリストのうちにすべての人間を「招集」することで実現されます。この「招集」された集いが、教会です。教会は万物の目的です。神が天使の失墜や人祖の罪のような痛ましい事態を妨げなかったのは、ただ、それらを、神の大きな力と世界に与えようと望まれる限りない愛とを示すための機会や手段となさるためでした。 「神の意志は創造の行為であり、造られたものが世界と呼ばれるのと同じように、その目的は人間の救いであり、そのために創設されたものが教会と呼ばれます」。神の民の招集は、罪が神と人間との交わりならびに人間同士の交わりを破壊したそのときに、すでに始まっています。教会の招集は、いわば、罪が引き起こした混沌に対する神の反応なのです。この再統合はすべての民族の内部でひそかに行われていきます。「どんな国の人でも、神をおそれて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」(使徒言行録10∙35)。神の民の招集の遠い準備はアブラハムの召し出しに始まり、神はアブラハムに大いなる国民の父となることを約束なさいました。直接の準備は、イスラエルが神の民として選ばれたときに始まります。イスラエルはこの選びによって、あらゆる国の未来における招集のしるしとなりましだ。しかし、すでに預言者たちは、イスラエル民族が契約を破り、遊女のようにふるまったことを糾弾しています。預言者たちは、新しい永遠の契約を告知します。「キリストはこの新しい契約を制定されました」。キリスト・イエスによって創立された教会時が満ちて御父の救いの計画を完遂することが、御子の使命です。ここに、御子の「派遣」の理由があります。「主イエスは、よきおとずれ、すなわち世々の昔から聖書の中で約束されていた神の国の到来を宣言して、ご自分の教会を始められました」。御父のみ旨を果たすため、キリストは地上に天の国を創始されました。教会は、「神秘としてすでに現存するキリストの国」です。「この国は、キリストのことばとわざと現存によって人々の前に現れます」。イエスのことばを受け入れることは、「み国そのものを受け入れる」ことにほかなりません。神の国の萌芽と始まりは「小さな群れ」(ルカ12∙32)で、イエスは彼らをご自分の周りに呼び集めに来られ、自らその牧者となられます。この人々はイエスの真の家族を形づくっています。このようにしてご自分の周囲に集めた人々に、イエスは新しい「行動のしかた」と同時に、独自の祈りを教えられました。主イエスはご自分の教会に、み国が最終的な完成を見るまで継続される組織を与えられました。まずペトロを長とする十二使徒を選ばれました。イスラエルの十二部族を表す十二使徒は、新しいエルサレムの礎石です。十二使徒とその他の弟子たちは、キリストの使命と権能、また、そのさだめにもあずかります。以上のすべての行為によってキリストはご自分の教会を準備し、打ち建てられます。しかし教会は、とくに、キリストがわたしたちの救いのためにご自身を余すところなくお与えくださったことによって誕生しました。キリストはこれを、聖体の秘跡を制定して先取りし、十字架上の死によって実現なさいました。「教会の起源と発展は十字架につけられたイエスの開かれた胸から流れ出た血と水によって表され」ています。「十字架上に眠るキリストのわき腹より、たえなる秘跡である全教会が生じたのです」。エバが眠っていたアダムのわき腹から造られたのと同じように、教会は十字架上で亡くなられたキリストの、やりで貫かれた心臓から生まれました。聖霊によって顕現した教会「父が子に地上で行うべきものとしてゆだねられたみわざが完成した後、ペンテコステの日に聖霊が遣わされました。それは、教会をつねに聖となすためでした」。そのとき、「教会は多くの人の前に公に表され、説教による魍民への福音の宣布が始められました」。教会はすべての人を救いに「招集」するものですから、本来、すべての民を弟子とするためキリストによって遣わされた宣教者なのです。この使命を果たすために、聖霊は「位階制度と霊能(カリスマ)との種々のたまものをもって教会を教え導きます」。したがって教会は、その創立者から受けたたまものに恵まれ、愛と謙虚と自己放棄を命じるそのおきてを忠実に守るとともに、キリストと神との国を告げ、諸国民のうちにそれを刷新する使命を受け、この国の地上における芽生えと開始を成しています」。栄光の中で完成する教会「教会は、天の栄光においてはじめて完成をみます」。それは、キリストが栄光のうちに到来される時です。その日まで、「教会は、世からは迫害を、神からは慰めを受けながら旅路を歩み続けます」。この世では、主から遠く離れた流謫の身にあることを自覚し、神の国の完全な到来、「栄光の中で、その王に再び結ばれる時」を切望しています。栄光における教会の完成と、教会を介して遂げられる世界の完成は、大きな試練なしには行われません。その時こそ初めて、「アダム以来のすべての義人は、『義人アベルより、選ばれた最後の人に至るまで』、父のもとに普遍的教会として集められるでしょう」。

教会の神秘

教会は、歴史の中にありながら、同時に歴史を超越しています。教会の見える現実のうちに神的いのちを担う霊的現実を見ることができるのは、「ただ信仰の目だけ」なのです。可視的でありながら霊的な教会「唯一の仲介者キリストは、ご自分の聖なる教会、信仰∙希望∙愛の共同体を、一つの目に見える組織としてこの地上に設立し、これを絶え間なく支え、この教会を通して、すべての人に真理と恩恵を広められます」。
教会は同時に、
――「位階制度をもって構成された社会でありながらキリストの神秘体」
――「見える集団でありながら霊的共同体」
――「地上の教会でありながら天上の善に富む教会」でもあります。
以上のような次元の異なる教会の姿が、全体として、「人間的要素と神的要素とからなる複雑な一つの実在を形成しているのです」。 「教会は、人間的であると同時に神的であり、見えるものでありながら、見えない要素に富み、活動に熱心であるとともに観想に励み、世の中にありながら旅することを特性とするのです。しかも、そこでは人間的なものが神的なものに、見えるものが見えないものに、活動が観想に、そして現在は求める未来の国に向けられ、かつ従属しています」。
「何というつつましさ!何という気高さ!杉の幕屋でありながら神の聖所。地上の住みかでありながら天上の宮殿。土造りの家であるのに宮廷。死すべきからだなのに光の神殿。高慢な者にとっては軽蔑の的であっても、キリストの花嫁。エルサレムの娘たちよ、教会は色は黒くとも、美しい。長い流謫の疲労と苦しみに青ざめながら、しかも、天上の装身具で飾られている」。神と人との一致の神秘としての教会神の計画の目的は、「あらゆるもの〔を〕キリストのもとに一つにまとめ」(エフェソ1∙10)ることです。キリストがご自分に固有のこの神秘を成就し、啓示されるのは教会においてなのです。パウロはキリストと教会との婚姻を、「偉大な神秘」(エフェソ5∙32参照)と呼んでいます。教会は自分の花婿であるキリストに結ばれているので、教会自身も神秘となります。聖パウロは教会のうちにある神秘を観想しながら、「あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望」(コロサイ1∙27)と叫びました。教会とは、この「決して滅びない」(一コリント13∙8)。愛による人間の神との交わりを目指して存在しているものです。したがって、教会の中のあらゆるものは、過ぎ行くこの世に結ばれた秘跡的な道具としてこの目的のために活用されます。「教会の組織は、キリストのメンバーの聖性に完全に従うものです。聖性は『偉大な神秘』に従ってはかられ、その神秘のなかで花嫁は花婿の贈り物に対して愛の贈り物でこたえます」。マリアは、しみやしわのない花嫁としての教会の神秘、つまり、その聖性を、わたしたちすべての者に先だって現しました。「教会のマリア的な面がペトロ的な面に先だっている」のはこのためです。救いの普遍的秘跡としての教会ギリシア語のμ”vorvov(ミュステリオン=神秘)という語は、ラテン語ではmysterium(神秘)とsacramentum(秘跡)という二つの語に訳されました。後の解釈によれば、sacramentumの語は、主としてmysteriumの語が表す救いの隠れた現実の見えるしるしを意味しています。この意味で、キリストご自身が救いの神秘であって、「キリスト以外の神秘はありえません」。キリストの聖なる、また聖化する人性の救いのわざが秘跡であり、これが教会の諸秘跡に現れ、働きます(東方教会ではこれを、『聖なる機密sancta mysteria』とも呼んでいます)。七つの秘跡は、頭であるキリストの恵みが、そのからだである教会に聖霊によって注がれるしるしであり、道具です。したがって、教会は自らが示す見えない恵みを保ち、分配します。この類比的な意味で、教会は「秘跡」と呼ばれるのです。「教会はキリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具です」。人間と神との親しい交わりの秘跡であること、これが教会の第一の目的なのです。人間同士の交わりは神との一致に根ざすものなので、教会はまた、人類一致の秘跡でもあります。教会において、この一致はすでに始まっています。「あらゆる国民、種族、民族、ことばの違う民」(黙示録7∙9)から人々を集めているからです。と同時に、教会は、将来やってくるはずのこの一致が完全に実現した姿の「しるしであり、道具」でもあります。秘跡として、教会はキリストの道具です。「教会はすべての人のあがないのため、キリストの手に握られた道具」、「救いの普遍的秘跡」であり、これによって、キリストは「人々に対する神の愛を明らかにし、実現されます。神は、「全人類が神の一つの民を構成し、キリストの一つのからだに結集して、聖霊の一つの神殿に建設される」ことを望まれました。教会は、「人類に対する神の愛の計画の見える現れ」です。

要約

「教会」という語は、「招集」という意味です。つまり、神の民を形づくるために神のことばによって招集され、キリストのからだに養われて、自らもキリストのからだとなる人々の集いを指しています。教会は神の計画の道であると同時に、目標でもあります。教会は、創造のときにその予型を示され、旧約時代の間に準備され、イエス・キリストのことばと行いとによって礎を築かれ、あがないの十字架と復活とによって実現されましたが、聖霊の派遣によって救いの神秘として現れました。教会は、地からあがなわれたすべての人々の集いとして、天の栄光のうちに完成します。教会は可見的でありながら霊的であり、位階的な集団でありながらキリストの神秘体でもあります。教会は、人間的と神的という二つの要素から成る一つの存在です。これこそ、信仰のみが受け入れることのできる教会の神秘なのです。教会は、この世における神と入々との交わりのしるしであり道具である、救いの秘跡です。

神の民である教会

「いかなる時代にも、いかなる民族においても、神をおそれ正義を行う人はすべて、神によみされています。しかし神は人々を個別的に、まったく相互の連絡なしに聖とされ救われることではなく、彼らを、真理に基づいて神を認め忠実に神に仕える一つの民として確立することをよしとされました。それで神はイスラエル民族をご自分の民に選んで、それと契約を結び、……徐々に教化されました。しかし、これらすべてのことは、キリストのうちに結ばれるあの新しい完全な契約……を準備し表象するためでした。……キリストはこの新しい契約、すなわち御血における新約を制定したのであって、肉に従ってではなく霊において一つに結ばれた民、神の新しい民となるように、ユダヤ人と異邦人のうちから一つの民を招集されました」。神の民の特徴神の民は、歴史上のすべての宗教的、民族的、政治的、あるいは文化的団体とは明確に異なった特徴を持っています。
――神の民である。:神は、いかなる民族にも固有の神としてこれに属することはない。しかし、かつては民ではなかった者たちから一つの民を形づくられ、「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民」(一ペトロ2∙9)としてご自分の民となさった。
――この民の一員となるのは、からだの誕生によってではなく、「上からの」誕生、「水と霊とによ〔る〕」(ヨハネ3∙3-5)誕生、すなわち、キリストヘの信仰と洗礼とによってである。
――この民の頭はイエス・キリスト(油を注がれた者、メシア)であり、同じ塗油、すなわち同じ聖霊が頭からからだに流れるので、「メシア的な民」である。
――「この民は、身分としては、神の子らの品位と自由とを備え、彼らの心の中には、あたかも神殿におけるがごとく、聖霊が住んでおられる。
――「この民は法律としては、キリストご自身が我々を愛されたように愛せよとの新しいおきてを有している」。これが、聖霊の「新しい」律法である。
――その使命は、地の塩、世の光であることである。「(この民は)全人類にとって、一致と希望と救いのもっとも堅実な芽生えである」。
――その目的は、「神の国を目指すものであり、その国は神ご自身によって地上に始められたが、さらに拡張されるべきものであって、ついには世の終わりに神によって完成される」のである。祭司的、預言者的、王的民イエス・キリストは、御父が聖霊によって油を注ぎ、「祭司、預言者、王」としてお立てになったかたです。神の民全体がキリストのこの三つの職務にあずかり、これに由来する使命と奉仕の責任とを担っています。信仰と洗礼とによって神の民に加わる者は、この民の独自の祭司としての召命にあずかります。「人々の中から選ばれた大祭司である主キリストは、新しい民を、『ご自分の父である神のための王国および祭司とされました』。すなわち、洗礼を受けた者は、再生と聖霊の塗油とによって、霊的な家および聖なる祭司職となるよう聖別されます」。「神の聖なる民はまた、キリストが果たされた預言者としての職務にも参加します」。とくに、信徒と聖職者とから成る民全体の超自然的な信仰心をもって、「ひとたび聖徒たちに伝えられた信仰を損なうことなく固く守り」、その理解を深め、世間のただ中でキリストの証人となるときに、この職務を果たすのです。さらに、神の民はキリストの王としての職務にあずかります。キリストはご自分の死と復活とによって万人をご自分に引き寄せ、その王職を果たされます。宇宙の王、主であるキリストはすべての人のしもべとなられました。「仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分のいのちをささげるために」(マタィ20∙28)来られたのです。キリスト者にとって、「仕えることは支配することです」。とくに教会は、「貧しい人や苦しむ人のうちに貧しく苦しんだその創立者の姿を認め」、彼らに仕えるのです。神の民は、キリストとともに仕える召命を生きることにより、その「王的身分」を現します。「キリストにおいて再生したすべての者は、十字架のしるしによって王とされ、聖霊の塗油によって祭司として聖別されます。それは、霊的な分別のあるすべてのキリスト者が∙わたしたちの役務としての祭司職は別として、すべてこの王族の一員であり、祭司職にあずかる者であることを自覚するためです。実際、ある人にとって、肉体を神に従わせて治めること以上に王的なことがあるでしょうか。清らかな良心を主にささげ∙自分の心の祭壇で、敬神の汚れないいけにえをささげることほどに祭司的なことがあるでしょうか」。

キリストのからだである教会

教会はイエスとの交わりである当初から、イエスは弟子たちと生活をともにし、彼らに神の国の神秘を明らかにし、ご自分の使命や、喜び、苦しみにあずからせてくださいました。イエスはご自分とご自分に従う者たちとのいっそう親密な交わりについて語っておられます。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。……わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハネ15∙4-5)と。また、ご自分のからだとわたしたちのからだとの神秘的で実在的な一致についても、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしのうちにおり、わたしもまたいつもその人のうちにいる」(ヨハネ6∙56)ということばで教えられます。イエスはご自分の姿が弟子たちの目には見えなくなったときにも、彼らをみなしごにはされませんでした。世の終わりまでともにおられると約束し、聖霊を遣わされました。こうして、イエスとの交わりは、ある意味でいっそう親密なものとなりました。「子は自分の霊を与えることによって、諸国民のうちから呼び集めた自分の兄弟たちを、自分のからだとして神秘的に構成されたのです」。教会をからだとみなすたとえは、教会とキリストとの間に存在する親密なきずなに光を投じます。教会はただキリストを囲んで集められたのではなく、キリストのうちに、そのからだのうちに統合されているのです。ところで、キリストのからだである教会の三つの面を、とくに浮き彫りにする必要があります。すなわち、キリストに結ばれていることによる教会所属者相互の一致、からだの頭としてのキリスト、キリストの花嫁としての教会です。「ただ一つのからだ」神のことばを受け入れ、キリストのからだの肢体となる信者は、キリストに密接に結ばれた者になります。「このからだの中で、キリストの生命が信じる者のうちに広げ与えられるのであって、彼らは諸秘跡を通して、苦しみを受けそして栄光を受けたキリストに、神秘的実在的な方法で結ばれるのです」。これはとくに、わたしたちをキリストの死と復活とに結びつける洗礼について、また、「わたしたちが主のからだに参与し、主との交わりとわたしたち相互の交わりにまで高められる」聖体の秘跡に関して当てはまります。からだは一つであっても、肢体は多様です。「キリストのからだの建設においても、それぞれ肢体と職務の相違があります。霊は一つであって、その豊かな富にふさわしく、また役務の必要に応じて、教会の益のために、いろいろのたまものを分け与えられます」。神秘体が一つであることは、信者の間に愛を生み、はぐくみます。「このために、一つの肢体が苦しめば、すべての肢体はともに苦しみ、一つの肢体が尊ばれれば、すべての肢体がともに喜ぶのです」。さらに、キリストのからだが一つであれば、あらゆる人間的分裂を克服することができます。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3∙27-28)。キリストがこのからだの頭であるキリストは「そのからだである教会の頭です」(コロサイ1∙18)。キリストは創造とあがないの源であり、御父の栄光に上げられ、「すべてのことにおいて第一の者となられ」(コロサィ1∙18)ました。とくに教会に対してそうであり、教会を通してご自分の支配を万物に及ぼされます。キリストはわたしたちをご自分の過越と一体化させてくださいます。キリストのからだのあらゆる肢体は、おのおののうちに「キリストが形づくられるまで」(ガラテヤ4・19)キリストに似た者となるよう努力しなければならないのです。「〔そのため〕わたしたちはキリストの生命の諸神秘のうちに摂収され、……頭に結ばれている肢体としてキリストの苦難にあずかり、キリストとともに栄光を受けるために、今はキリストとともに苦しみを耐え忍ぶのです」。キリストはわたしたちの成長に必要なものをお与えになります。キリストは、頭であるご自分に向けてわたしたちを成長させるため、ご自分のからだである教会のうちに、わたしたちが救いの途上で相互に助け合う手だてとなるたまものと奉仕とを用意してくださいます。したがって、キリストと教会とは「全キリスト(Christus totus)」を形づくるのです。教会はキリストと一つです。聖人たちはこの一致を強く自覚しています。 「だから喜び、感謝しましょう。わたしたちはただキリスト者になっただけではなく、キリストご自身になったのです。皆さん、神がキリストを頭としてわたしたちにお与えになった恵みのほどがわかりますか。驚嘆し、喜んでください。わたしたちはキリストとなりました。実際、キリストは頭であり、わたしたちはその肢体なのですから、キリストとわたしたちとで、一人の人間全体を形づくっているのです。……キリストの完全な姿、それは頭と肢体です。頭と肢体、といいましたが、それはどういうことでしょうか。キリストと教会にほかなりません」。
「わたしたちのあがない主は、ご自分が担われた教会とただ一つの、同じかたとなられました」。
「頭と肢体とは、いわば、神秘的な一つのペルソナです」。
裁判官に対するジャンヌ∙ダルクの次のことばが、聖なる教会博士たちの信仰を要約し、信仰者の良識を表しています。「イエス・キリストと教会ですが、わたしの考えでは、それは一つの全体で、これに異論の余地はないはずです」。教会はキリストの花嫁であるキリストと教会とは頭と肢体として一つのものですが、互いに関係している区別された二つのものでもあります。この面は、しばしば夫と妻の関係で表されています。教会の花婿であるキリストという考えは預言者たちによって準備され、洗礼者ヨハネによって宣言されました。キリストは、ご自身が「花婿」(マルコ2∙19)であるといわれました。使徒パウロは教会とキリストのからだの部分である各信者とを、主とただ一つの霊となるために「婚約した」キリストの花嫁である、と述べています。教会は汚れない小羊の汚れない花嫁、キリストに愛された花嫁であり、キリストはこの花嫁を「聖なるものと」(エフェソ5∙26)するためにご自分をささげ、永遠の契約によって教会をご自分に結びつけ、ご自身のからだのようにたえず配慮しておられるのです。「これは全キリスト、頭とからだ、多くのものからなるただ一つのものです。……話すのが頭であろうと、肢体であろうと、ほかならぬキリストが話しておられるのです。キリストは時には頭の役を取り、時には、からだの役を取られて話されます。『「二人は一体となる。」この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです』(エフェソ5∙31-32)といわれているではありませんか。また、主ご自身も福音書の中で、『二人はもはや別々ではなく、一体である』といっておられます(マタイ19∙6)。ご存じのように、実際は異なる二人の者がいるわけですが、それでも、二人は夫婦の契りでただ一体となります。……頭としては『夫』といわれ、からだとしては『妻』といわれるのです」。

聖霊の神殿である教会

「聖霊とキリストの肢体、つまり教会と呼ばれるキリストのからだとの関係は、霊魂と呼ばれる精神と肢体との関係と同じです」。「このキリストの霊が目に見えない原理となって、からだのすべての肢体を相互に結び合わせ、その最高の頭とも結び合わせています。なぜなら、この霊の全部がその頭に、また、からだと肢体の一つ一つの中にあるからです」。聖霊は教会を「生ける神の神殿」(ニコリント6∙16)となさいます。 「神のたまものは、教会にゆだねられました。……まさに、この教会には、キリストとの交わり、すなわち、不朽の保証、わたしたちの信仰の支え、神に向かって昇るわたしたちのはしごである聖霊が託されています。……実に、教会のあるところ、そこに神の霊もおられ、神の霊がおられるところ、そこに教会とすべての恵みとがあるのです」。聖霊は、「キリストのからだの異なるそれぞれの部分にあっていのちを与え救いをもたらす、あらゆる働きの原理です」。聖霊は多くのしかたで、キリストのからだ全体を愛のうちに築き上げます。すなわち、「造り上げることができる」(使徒言行録20∙32)神のことば、キリストのからだを形づくる洗礼、キリストの肢体に成長といやしを与える諸秘跡、そのたまものの中でとくに優れている使徒たちが受けた恩恵、善に基づいて行動させる徳、さらに、(「カリスマ」と呼ばれる)多様な特別の恵みによって築き上げられるのです。このカリスマによって聖霊は、信者たちを「教会の刷新とその発展のために役立ついろいろの仕事と職務を引き受ける用意がある者、またそれに適するものとされます」。カリスマ 非凡なものであろうと平凡で目立たぬものであろうと、カリスマは聖霊の恵みであって、直接∙間接に教会の益となり、教会の発展、人々の益に寄与し、世界の必要に応じるものです。カリスマは、それをいただく人々にとどまらず、教会の全成員が感謝して受け入れるべきものです。実際、カリスマは使徒的活力やキリストのからだ全体の聖性のための、恵みのすばらしい贈り物なのです。とはいえ、それは真に聖霊からのたまものでなければならず、また聖霊の正しい働きかけに完全に従って、つまり、カリスマの真の尺度である愛に基づいて行使されなければなりません。この意味で、カリスマの識別がつねに必要になってきます。どのようなカリスマであっても、教会の司牧者とのかかわりをもたなかったり、その判断に従わないようなことがあってはなりません。あらゆるカリスマが「益となるため」(一コリント12∙7)にそれぞれの多様性と補完性とをもって協力し合えるように、見守ってやる必要があります。「霊を消すことではなく、すべてをためし、よいものを保つことは、とくに彼ら(司牧者)の権限」だからです。

要約

キリスト・イエスが「わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをあらゆる不法からあがない出し、民をご自分のものとして清めるためでした」(テトス2∙14)。「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です」(一ペトロ2∙9)。神の民の一員となるのは、信仰と洗礼とによってです。「すべての人が神の民に属するよう招かれています」。それは、キリストに結ばれて、「人々がただ一つの神の家族、ただ一つの神の民となるためです」。教会は、キリストのからだです。死んで復活されたキリストは、霊と、秘跡、とくに聖体の秘跡における霊の働きとによって、信じる者の共同体をご自分のからだとなさいます。この一つのからだのうちには、多様な肢体と機能とがあります。すべての肢体は互いに結ばれ、とくに、苦しんでいる人、貧しい人、迫害されている人々と結ばれています。教会は、キリストを頭とするからだです。教会はキリストによって、キリストのうちに、キリストのために生きていますが、キリストは教会とともに、教会の中で生きておられます。教会は、キリストの花嫁です。キリストは教会を愛し、ご自分のいのちをささげられました。また、教会をご自分の血によって清め、すべての神の子を生む母となさいました。教会は、聖霊の神殿です。聖霊はいわば神秘体の魂であり、神秘体のいのち、多様性における一致、その豊かなたまもの、およぴカリスマの根源です。「こうして、全教会は、『父と子と聖霊の一致にかたどって一つに集められた民』であることを示しています」

教会は一つである

「これこそキリストの唯一の教会です。わたしたちはこの教会を信条の中で、一、聖、公(普遍)、使徒継承であると宣言します」。相互に不可分なこの四つの特質は、教会とその使命の本質的特徴です。教会はこれらを自ら得たわけではありません。聖霊を通して、ご自分の教会を一、聖、普遍使徒継承の教会となさったのはキリストであり、またキリストが、この四つの特質のおのおのを実現するように教会を促しておられるのです。教会が以上の特徴を神から受けていると認めるのは、信仰以外にありません。しかし、これらのしるしは歴史の中に現れ、人間理性にも明らかに語りかけています。第1バチカン公会議は、次のように述べています。「教会の特性として挙げることができる聖性、普遍的一致、揺るがない恒常性という事実を眺めただけでも、教会は信じるに値するのだという力強くてだれにでも通用する理由となり、教会は神から派遣されているのだという反論の余地のない証拠となります」。「教会の一致の聖なる神秘」教会は、その源からして一つです。「この神秘の最高の範型および源泉は三つの位格における唯一の神の単一性、『父と∙子と∙聖霊において』の単一性です」。教会は、その創立者からして一つです。「受肉された子は平和の君であり、自ら十字架によってすべての人を神に和解させ、一つの民、一つのからだのうちにすべての人の一致を再建した」からです。教会は、その「魂」からして一つです。「信じる者の中に住み、全教会を満たし治めておられる聖霊は、信者の感嘆すべき交わりを実現し、すべての人をキリストにおいて固く結び合わせて、教会の一致の源泉となっています」。したがって、一つであるということは、教会の本質そのものに属することです。 「何と驚嘆すべき神秘でしょうか。唯一の宇宙の御父、唯一の宇宙のみことば、さらに、唯一のどこにでも存在する聖霊がおられます。また、母となられたただ一人のおとめがおられますが、わたしは好んで、彼女を教会と呼んでいます。」とはいえ、この一っである教会は、最初からかなりの多様性を表しています。それは神のたまものが多種多様であり、これをいただく人々が多数であることに由来します。さまざまな民族と文化とが神の民の一致の中に集められ、教会の成員の間には、多様なたまもの、任務、境遇、生活様式が見られます。「教会という共同体の中にも、独自の伝統を保つ諸部分教会が合法的に存在します」。このように多種多彩な様相は、教会が一つであるということに反するものではありません。しかし、罪とその重い結果とが、一致のたまものをたえず損なおうとしています。ですから、使徒パウロは「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保っように努めなさい」(エフェソ4∙3)と励ましているのです。   一致のきずなとはどのようなものでしょうか。何よりも、「すべてを完成させるきずなである」(コロサイ3∙14)愛にほかなりません。しかし、旅する教会の一致はまた、共通の見えるきずなによっても保証されています。
――使徒伝来の唯一の信仰宣言によって、
――神への礼拝、とくに秘跡の共通の挙式によって、
――神の家族の兄弟的和合を維持する、叙階の秘跡による使徒継承によって。「これこそキリストの唯一の教会です。……わたしたちの救い主はご復活の後、この教会を牧するようにペトロに渡され、それを広め治めるようペトロと他の使徒たちにゆだねられました……。この教会は、この世に設立され組織された社会としては、ペトロの後継者と彼と交わりのある諸司教によって治められているカトリック教会のうちに存在します」。 第2バチカン公会議のエキュメニズムに関する教令は、次のように詳説しています。
「キリストのカトリック教会は救いの全般的な助けなのであって、この教会を通してのみ、救いの諸手段のすべての充満が得られます。主はペトロを頭とする唯一の使徒団に新約のすべての富をゆだねられたとわたしたちは信じます。それはキリストの唯一のからだを地上に造るためであり、すでに神の民にある程度属している人は皆、このキリストの唯一のからだに完全に合体しなければならないのです」。損なわれた一致ところが、「神のこの単一唯一の教会の中に、すでに初期のころから、ある分裂が起こりました。それを断罪すべきものとして使徒は激しく非難しています。後代になってもっと重大な不一致が起こり、かなり大きな諸集団がカトリック教会の完全な交わりから分かれましたが、時には、双方の人々の過失がなかったわけではありません」。キリストのからだの一致を損なう決裂(異端、背教、離教に区分される)は、人間の罪なしには起こらないことです。 「罪のあるところ、そこには多くのものの分離があり、分裂があり、異端があり、紛争があります。逆に、徳のあるところ、そこには一致があり、この一致によってすべての信者はただ一つのからだ、ただ一つの魂を持っていたのです」。このような決裂に由来する種々の教団の中で現在生まれる人々、また「キリストの信仰に育てられた人々に、分離の責めを負わせることはできません。カトリック教会は彼らを兄弟に対する尊敬と愛をもって抱擁します。……信仰により洗礼において義とされた者は、キリストに合体され、それゆえに正当にキリスト信者の名を受けているのであり、カトリック教会の子らから主における兄弟として当然に認められるのです」。さらに、カトリック教会の目に見える境界外には、「成聖と真理の要素が数多く」存在しています。「書き記された神のみことば、恩恵の生命、信仰、希望、愛、聖霊のその他の内的たまものや見える諸要素」などがそうです。キリストの霊は、これらの諸教会や諸教団を、キリストがカトリック教会におゆだねになった満ちあふれる恵みと真理とに由来する力を持った救いの手段として用いられます。こうしたすべての恵みは、キリストに由来し、キリストヘ導くもので、それ自体「カトリック的一致」へと招くものです。一致に向かって一致は「キリストがご自分の教会に当初から与えられたものであり、わたしたちはそれが失われることのできないものとしてカトリック教会の中に存在していることを信じ、世の終わりまでそれが日々成長していくことを希望します」。キリストはご自分の教会につねに一致のたまものをお与えになりますが、教会は、キリストが教会のために望まれる一致を維持し、強化し、完全にするため、たえず祈り、努力しなければなりません。ですから、キリストご自身、受難のときに、弟子たちの一致のため御父に祈り、またたえず祈り続けておられます。「父よ、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」(ヨハネ17∙21)。すべてのキリスト者の一致を回復するとの望みは、キリストのたまもの、聖霊の呼びかけです。この呼びかけにふさわしく応じるには、次のことが必要です。
――自らの召命にいっそう忠実にこたえようとする教会の不断の刷新一この刷新は一致への動きの原動力です。
――「福音に従ってより清い生活を送るように努力」するための心からの回心一分裂を引き起こすのは、信者たちがキリストのたまものに不忠実だからです。
――共同の祈り一実際、「回心と聖なる生活とは、キリスト教徒の一致のために行われる私的および公的祈願とともに、全エキュメニカル運動の魂とみなすべきであり、霊的なエキュメニズムと正当に呼ぶことができます」。
――兄弟的相互理解。
――信者、とくに司祭のための教会一致についての教育。
――神学者間の対話と、諸教会、諸教団のキリスト者間の会合。
――人々への奉仕の異なる分野におけるキリスト者間の協力。「一致を回復しようとする配慮は信者も牧者も含む全教会にわたることです」。しかしまた、「キリストの単一唯一の教会の中にすべてのキリスト教徒を和解させるというこの聖なる目標が人間の力と才能を超えるものであることを」知っておかなければなりません。したがってわたしたちは、「キリストの教会のための祈りと、父のわたしたちに対する愛と、聖霊の力とに」全幅の信頼を寄せるのです。

教会は聖である

「教会は聖であり、これを欠くことがないことを人は信仰によって信じています。事実、父と霊とともに『ただひとり聖なり』とたたえられる神の子キリストは、教会をご自分の花嫁として愛し、彼女を聖とするためおのれを彼女のために渡し、神の栄光のために彼女をご自分のからだとして自らに結び合わせ、聖霊のたまものをもって満たされました」。したがって、教会は「神の聖なる民」であり、その成員は「聖徒」と呼ばれます。キリストに結ばれた教会は、キリストによって聖化されます。また、キリストによって、キリストにおいて人々を聖化します。「キリストにおける人間の聖化と……神の栄光こそ、教会の他のすべての働きが目的として目指していることなのです」。教会を通してのみ、「救いの諸手段のすべての充満」が得られるのです。教会の中でこそ、わたしたちは「神の恩恵により聖性を獲得するのです」。「教会はすでに地上において、不完全ではあるが真の聖性で飾られています」。その成員が完全な聖性に至るのは、まだ先のことです。「これほど多くの優れた救いの手段に恵まれているキリスト信者はすべて、どのような生活条件と身分にあっても各自自分の道において、父ご自身が完全であるあの聖そのものの完成に達するよう主から招かれているのです」。愛はすべての者が召されている聖性の魂です。愛は「成聖のすべての手段を支配し、生かし、目的に導きます」。「わたしは、もし教会がいろいろなな異なる肢体からなりたっている一つのからだであるならば、あらゆる肢体の中でもいちばん必要で、もっとも高貴なものが欠けているはずはないと悟りました。教会にも一つの心臓があり、この心臓は愛に燃えていると悟ったのです。愛だけが教会の肢体を行動に駆り立てているのであって、万が一愛が消えるようなことがあれば、使徒たちは福音をのべるのをやめ、殉教者たちは自分の血を流すことを拒むであろうと悟りました。……わたしは悟ったのです。愛は、ありとあらゆる召命を含み、愛はすべてであり、あらゆる時代、あらゆる場所を包含する、一言でいえば、愛は永遠である、と」。「キリストは『聖にして、罪なく、汚れなく』、罪を知らず、ただ人々の罪を償うためにのみ来られたのですが、教会は自分のふところに罪びとを抱いているので、聖であると同時につねに清められるべきものであり、悔い改めと刷新との努力をたえず続けるのです」。教会の成員は、聖職者も含めて皆、罪びとであることを認めなければなりません。世の終わりが来るまでは、すべての人の中で、罪の毒麦が福音のよい種に混じっています。だから教会は、罪びとを集めているのです。この罪びとたちはキリストに救われてはいますが、つねに聖化の途上にあるのです。「教会が自分のふところに罪びとを抱えているとはいえ聖であるのは、教会自身が恩恵の生命しか持たないからです。教会の民が聖とされるのは、その生命により生きることによってです。もしその教会から離れるならば、罪と汚れに覆われ、教会の聖性の輝きが妨げられます。教会はこれらの罪のために苦しみ、償いを行いますが、それは教会が、ギリストの御血と聖霊のたまものを通してその罪から自分の子らをいやす権能を有しているからです」。教会は、ある信者たちを列聖することによって、つまり、彼らが諸徳を勇敢に実践し、神の恵みに忠実に生きたことを荘厳に宣言することによって、自分のうちにある聖化の霊の力を再認識し、聖人たちを模範ならびに取り次ぎ手として信者たちに示し、彼らの希望を支えます。「聖人は、教会の歴史を通してもっとも困難な時期にあって、つねに刷新の源、始まりとなった人たちでした」。事実、「聖性は、使徒的活動と宣教の努力の隠れた源泉、および絶対確実な規範なのです」。「教会は聖なる処女において、しみもしわもない完成にすでに到達しているのですが、キリスト者は罪を克服し聖性において成長するよう、まだ努力している段階にあります。したがってマリアに目を上げます」。マリアにおいて、教会はすでにまったく聖なるものなのです。

教会は普遍(カトリック)である

「普遍」の意味「カトリック」ということばは、「普遍」という意味です。これを文字どおり訳せば、「すべてに及ぶ」もしくは「すべてを含む」という意味になります。教会は次の二つの意味で普遍なのです。
まず、教会のうちにキリストが現存されるので、普遍です。「キリスト・イエスのおられるところ、そこに普遍教会があります」。教会はキリストのからだとして、その頭に結ばれて、すべてにおいてすべてを満たしているかたの満ちておられる場です。したがって、教会はキリストから、キリストが与えようとされた「救いの諸手段のすべての充満」を受けていることになります。その手段とは、正しく完全な信仰宣言、完全な秘跡生活、使徒継承による叙階された奉仕職です。この基本的意味で、教会は聖霊降臨の日から普遍なのです。またキリストの再臨の日まで、つねにそうであり続けるでしょう。教会が普遍であるのはまた、キリストによって全人類に派遣されているからです。
「人は皆神の新しい民に加わるように招かれています。そのためにこの民は、単一、唯一のものとして存続しながら、全世界に向かって、またあらゆる時代を通して広がるべきものです。それは、初めに人間性を一つのものとして造り、分散してしまったご自分の子らを、ついに一つに集めることを決定された神のご意向が成就されるためです。……神の民を飾るこの普遍性は、主ご自身からのたまものであって、カトリック教会はこのたまものによって、全人類をそのすべての富とともに、頭であるキリストのもとに、キリストの霊による一致において集中するよう、効果的に、たえず努力しているのです」。各部分教会は「普遍」である「キリストのこの教会は、信者の正当なすべての地方的集まりの中に真実に存在するのであって、その牧者たちに一致しているこれらの集まりそのものも、新約の中で教会と呼ばれています。……これらの教会の中で、キリストの福音の宣教によって信者が集められ、……主の晩さんの神秘が祝われます。これらの共同体の中に、たとえそれがしばしば小さく貧しく散在しているものであっても、キリストはそこに存在しておられ、キリストの力によって、一、聖、普遍、使徒継承の教会が集まるのです」。部分教会とは、第一に教区(東方教会ではエパルキア)のことであり、使徒継承に従って叙階された司教と結ばれて、信仰と秘跡とに生きるキリスト信者の共同体を意味します。部分教会は「全教会の像に似て形造られ、それらの中に∙またそれらから、唯一単一のカトリック教会が存在します」。諸部分教会は、その中の一つであり、「愛において首位を占める」ローマ教会との交わりによって、完全に普遍教会となっています。「ローマの教会は、より優れた起源を持つので、各教会、すなわち、世界中のすべての信者は、当然、この教会と一致していなければなりません」。「実際、人となられたみことばがわたしたちのもとにくだられてから、全世界にあるすべてのキリスト者たちの教会は当地(ローマ)の偉大な教会を唯一の礎、土台とみなしてきましたし、また今もそうです。なぜなら、主ご自身の約束に従えば、地獄の門は決してこの教会にまさったことがないからです」。「普遍教会をそれぞれ異なった部分教会の総合体、あるいは連合体のごときものと考えてはなりません。主キリストのご意志によって、召命と使命において普遍的な教会、その同じ教会が、風土、文化、社会などを異にするところに根をおろすとき、それぞれの特徴や表現を帯びるのです」。それぞれの地方教会に固有の、きわめて多様な教会規律、典礼、神学的∙霊的伝統は「一致の中にまとまっているので、分かたれない教会の普遍性(カトリック性)をいっそう輝かしく示しています」。カトリック教会に属する者はだれか「すべての人が神の民の普遍的一致に招かれており、また、カトリック信者もキリストを信じる他の人々も、さらには、神の恩恵によって救いに招かれているすべての人々も、種々のしかたでこの一致に属しており、あるいは秩序づけられているのです」。「キリストの霊を持ち、教会の制度の全体と教会に備えられたいっさいの救いの手段を受け入れ、また信仰宣言、秘跡、教会的統治および交わりのきずなによって、教皇と司教たちを通して教会を治めておられるキリストに、教会の見える組織の中で結ばれている人々は、教会の団体に完全に合体しています。しかし、たとえ教会に合体してはいても、終わりまで愛にとどまらず、『からだ』では教会のふところにとどまりながらも、『心』ではとどまっていない者は、救われないのです」。「洗礼を受けて、キリスト信者の名をいただいてはいるが、信仰の全体を認めていないか、あるいはペトロの後継者のもとにおける交わりの一致を守らない人々については、教会は自分が多くの理由で彼らと結ばれていることを知っています」「キリストを信仰し、洗礼を正しく受けた人々は、たとえ完全ではなくても、カトリック教会とのある交わりの中にいるのです」。東方諸教会とのこのような交わりはとくに深く、「ごくわずかのことが、主のエウカリスチアの祭儀をともに挙行するのを妨げているにすぎません」。教会と非キリスト者「福音をまだ受けなかった人々も、いろいろな意味で神の民へ秩序づけられています」。
教会のユダヤ人との関係。新しい契約における神の民である教会は、自分の神秘を深く探るとき、ユダヤ人とのつながりを見いだしています。「この民に、神は最初に語りかけられたのです」。キリスト教ではない他の諸宗教とは違い、ユダヤ人の信仰はすでに古い契約における神の啓示にこたえるものです。「神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。先祖たちも彼らのものであり、肉によれば、キリストも彼らから出られたのです」(ローマ9∙4-5)。なぜなら、「神のたまものと招きとは取り消されないもの」(ローマ11∙29)だからです。そのうえ、将来を考えるときには、旧約の神の民と新しい神の民とは、類似の目標、つまりメシアの到来(あるいは再臨)を志向しています。しかしそれは、一方が、死んで復活され、主、神の子と認められたメシアであるキリストの再臨への待望であるのに対して、他方は、世の終わりのメシア到来への待望なのです。ただし後者の待望のほうは、メシアの姿がはっきりせず、キリスト・イエスを知らないか認めないという悲しい状態を伴ったものなのです。教会のイスラム教徒との関係。「救いの計画は創造主を認める人々をも包容するものであって、そのような人々のうちには第一に、アブラハムの信仰を保っていると主張し、最後の日に人々を審判される唯一にしてあわれみ深き神を、わたしたちとともに礼拝するイスラム教徒が含まれます」。教会とキリスト教以外の諸宗教との結びつきは、まず、人類が共通の起源と目的とを持っているということです。 「神は全人類を地の全面に住まわせられたので、すべての民族は一つの共同体をなし、唯一の起源を有します。また、すべての民族は唯一の終極目的を持っており、それは神なのです。神の摂理といつくしみのあかし、さらに救いのはからいは、選ばれた者が聖なる都に集められる日が来るまで、すべての人に及びます」。教会は他の諸宗教のうちに、「まだ影と像のもとで」求められる、知られざる神、しかし遠く離れてはおられない神の探求があることを認めています。なぜなら、神はすべての人にいのちと息とすべてをお与えになり、万人が救われるのを望んでおられるからです。したがって、教会は、諸宗教の中に見いだされるよいもの、真なるものはすべて福音への準備であって、「ついには生命を得るようにとすべての人を照らされるかたから与えられたもの」とみなしています。しかし、人間の宗教的な実践には、自分の中の神の姿をゆがめる不完全さや誤謬も見られます。 「しばしば人々は、悪魔に欺かれて、自分たちの考えにむなしく迷い、神の真理を偽りと置き替えて、創造主よりも被造物に仕えたり、あるいは神なしにこの世に生きそして死んでゆくなど絶望の極みにさらされています」。罪によって四散し、道に迷うすべての子らを再び集めるためにこそ、御父は全人類を御子の教会に招集しようと望まれたのです。教会は、人類がその一致と救いとを見いだすはずの場です。教会は、「和解させられた世界」です。教会は、「聖霊の風にキリストの十字架の帆をいっぱいに張ってこの世を航海する」船です。教父たちが好んで用いる別のたとえによれば、大洪水から人々を救う唯一のものであったノアの箱船は教会の象徴だということになります。「教会の外に救いはない」教父たちがしばしば繰り返したこの主張を、どのように解釈すべきでしょうか。これを肯定形にすれば、救いはすべて、頭であるキリストからそのからだである教会を通して来ることを意味します。聖なる教会会議(公会議)は、「聖書と伝承に基づいて∙この旅する教会が救いのために必要であると教えます。なぜならキリストのみが仲介者であり救いの道であって、そのキリストはご自分のからだすなわち教会の中で、わたしたちにとって現存するものとなるからです。しかもキリストは、信仰と洗礼の必要性を明白なことばをもって教えることによって、人々がちょうど戸口を通してのように、洗礼を通してその中に入る教会の必要性をも同時に確認されました。したがって、カトリック教会が神によってイエス・キリストを通して必要不可欠なものとして建てられたことを知っていて、しかもなおその教会に入ること、あるいは教会の中に終わりまでとどまることを拒否するとすれば、このような人々は救われることはないでしょう」。「救われない」というこの主張は、自分の過ちによらずにキリストやキリストの教会を知らない人々には当てはまりません。 「本人の側に落ち度がないままに、キリストの福音ならびにその教会を知らずにいて、なおかつ誠実な心をもって神を捜し求め、また良心の命令を通して認められる神の意志を、恩恵の働きのもとに、行動をもって実践しようと努めている人々は、永遠の救いに達することができます」。「本人の側に落ち度がないままに福音を知らないでいる人々を、神はご自分だけがご存じの道で信仰〔それなしには神に喜ばれることはできない〕へ導くことがおできになるとはいえ、〔すべての人に〕福音をのべ伝えるという必須の義務と聖なる権利とを教会は持っています」。宣教は教会の普遍性からの要求である宣教命令。「『救いの普遍的秘跡』となるようにと神から諸国民のもとへ派遣された教会は、教会独自の普遍的性格そのものに促され、また、自分の創立者の命令に従いつつ、すべての人に福音をのべ伝えようと心掛けます」。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」(マタイ28∙19-20)。宣教の起源と目的。キリストによって与えられた宣教命令の本源は、聖三位の永遠の愛です。「旅する教会は、その本性上、宣教することを使命とします。なぜなら教会は、父なる神の計画による子の派遣と聖霊の派遣とにその起源を持っているからです」。そして、この宣教の究極の目的は、人々を、愛の霊における父と子との交わりにあずからせることにあります。宣教の動機。教会がいつの時代でも、やむにやまれぬ宣教活動の力をくみ取ったのは、万人に対する神の愛です。「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです」(ニコリント5∙14)。事実、神は「すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(一テモテ2∙4)。神はあらゆる人が、真理を知ることによって救われることを望んでおられます。救いは真理のうちにあります。真理の霊の働きに従う人々はすでに救いの道の途上にあります。しかし、この真理をゆだねられてりる教会は、行って、これらの人々の願望にこたえ、真理をもたらさなければなりません。教会は、救いの普遍的計画を信じているからこそ、宣教しなければならないのです。宣教の道。「聖霊は、教会のあらゆる使命の主要な働き手です」。宣教するようにと教会を導かれるのは聖霊です。「この使命は、貧しい人々に福音をのべ伝えるために派遣されたキリストご自身の使命を継承し、かつ歴史の流れを通してそれを展開させているものですから、教会も、キリストご自身が歩まれたそれと同じ道、すなわち貧しさ、従順、奉仕の道、そして死一キリストはこの死から、復活を通して勝利者として立ち上がられた一に至るまでの自己奉献の道を、キリストの霊に駆られて歩まなければなりません」。こうして、「殉教者の血はキリスト者の種」となるのです。しかし、旅する教会はまた、「教会の説く教えと福音を託された者の人問的弱さとの間に大きな隔たりがある」ことをも体験しています。神の民がキリストのみ国を広めるのは、ただ、「悔い改めと刷新」の道、「狭い十字架の道を進む」ことによってのみ可能です。事実、「キリストが貧困と迫害のうちにあがないのわざを完成されたように、救いの成果を人々に分かつためには教会も同じ道を歩くよう招かれています」。教会はその使命上、「全人類とともに歩み、世と同じ地上的成り行きを経験します。教会は人類社会の魂または酵母として存在し、それをキリストにおいて刷新して神の家族に変質させる使命をもっています」。したがって、宣教の努力は忍耐を必要とします。まず初めに、キリストをまだ信じていない人々あるいは集団に福音を告げ知らせます。ついで、世における神の現存のしるしであるキリスト者共同体を設立し、地方教会を創立します。各民族の文化に福音を根づかせるためインカルチュレーション(福音の文化内開花)の過程を進めます。宣教の努力を続けるとき、挫折を経験しないわけにはいきません。「人々、団体、国民に関しては、教会は漸進的に彼らに接触し∙またその中に浸透していき、こうしてついには彼らをカトリック的豊かさの中に受け入れるのです」。教会の宣教は、キリスト者の一致への努力を促します。というのは、「キリスト教徒の分裂は、洗礼によって教会に属していながらも教会の完全な交わりから離れている子らの中に、教会が自分に固有の完全な普遍性(カトリック性)を実現することを妨げ、そればかりでなく教会自身にとっても、生活そのものの現実の中に完全な普遍性(カトリック性)をあらゆる面から表現することがいっそう困難になる」からです。宣教の任務には、まだ福音を受け入れていない人々との尊敬を込めた対話が含まれています。信者はこの対話によって、「いわば、神の隠れた現存のように、すでに諸民族のもとに存在した真理と恩恵のすべて」をいっそうよく理解できるようになるので、大いに益するところがあります。信者たちがまだ知らない人々に福音を告げ知らせるのは、個々人と民族の間に広まっている真理と善を固め、補完し、高めるためであり、「神の栄光をあげ、悪魔を恥じ入らせ、人間に幸せをもたらすことを目指して」、誤謬と悪から彼らを浄化するためです。

教会は使徒伝承である

教会が使徒継承であるのは、使徒たちの上に建てられたからです。それには三つの意味があります。
――教会は「使徒という土台の上に」(エフェソ2∙20)建てられたものです。使徒たちはキリストご自身によって選ばれ、宣教に派遣された証人です。
――教会は、自分のうちに住まわれる霊に助けられて、使徒の教え、ゆだねられた善、使徒たちから聞いた健全なことばを守り、伝えます。
――教会は、キリストの再臨のときまで、使徒たちの司牧の任務を受け継ぐ人々の働きを通して、使徒たち自身によって教え、聖化し、導かれます。その任務を受け継ぐ人々とは、「ペトロの後継者である教会の最高牧者と一致し、司祭たちに補佐される」司教団のことです。 「永遠の牧者であるあなたは羊の群れをお見捨てにならず、使徒を通してたえず守り、御子の代理者と定められたこの牧者を通し、いつもわたしたちを治められます」。使徒たちの派遣イエスは御父から遣わされたかたです。宣教の初めから、イエスは「これと思う人々を呼び寄せられ、……十二人を任命〔されました)彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ」(マルコ3∙13-14)るためでした。そのときから彼らは、イエスから「遣わされた者」(ギリシア語ではアポストロイστoλα、すなわち「使徒」)となりました。イエスはご自身の使命を使徒たちを通して続けられます。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(ヨハネ20∙21)。したがって、使徒たちの務めはイエスご自身の使命の継続です。「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ」(マタイ10∙40)ると、イエスは十二使徒にいわれました。イエスは使徒たちを、御父から受けたご自分の使命をともに果たす者となさいました。「子は自分からは何事もできない」(ヨハネ5∙19,30)のですが、ご自分を遣わされた御父からすべてを受けられました。これと同様に、イエスがお遣わしになる人たちも、宣教の命令とそれを果たす機能とを与えてくださったイエスなしには何事もできません。したがってキリストの使徒は、自分たちが神から「新しい契約に仕える者」(ニコリント3∙6)、「神に仕える」(ニコリント6∙4)者、「キリストの使者の務め」(ニコリント5∙20)を果たす者、「キリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者」(一コリント4∙1)にふさわしい者とされたことを知っているのです。使徒たちの任務のうちには、他人に譲ることのできない領域があります。それは、キリストの復活の選ばれた証人、教会の土台であるということです。しかし、その任務にはいつまでも続けなければならない他の領域もあります。キリストは世の終わりまで、使徒たちとともにおられることを約束なさいました。「キリストから使徒たちにゆだねられたこの神的使命は、世の終わりまで続きます。なぜなら、彼らが伝えるべき福音は教会にとって、あらゆる時代を通して全生活の源泉であるからです。このために使徒たちは、…後継者を定めるよう配慮しました」。司教は使徒の後継者である使徒たちは、「自分たちにゆだねられた使命が自分たちの死後にも続けられるように、その直接の協力者たちに、いわば遺言の形で、自分たちによって始められた仕事を完成し堅固にする任務を課し、神の教会を牧するものとして聖霊が彼らを群れの中に置かれたその群れ全体に気を配るよう、彼らに勧めました。そこで使徒たちはこのような人々を立て、なおこの人々が死去したときには、その役職を試練を乗り越えた他の人々が受け継いでゆくように命じました」。「使徒たちの頭であるペトロー人に主から授けられたものであり、そしてその後継者に伝えられてゆくべきものである任務が永続するのと同じように、教会を司牧するという使徒の職務も永続するのであって、司教の聖なる任位によっていつまでも行使されるべきものです」。したがって教会は、「司教が教会の牧者として使徒の位置を継承したのであり、彼らに聞く人はキリストに聞き、彼らをさげすむ人はキリストと、キリストを遣わされたかたをさげすむものである」と教えるのです。使徒的使命教会全体は、ペトロと使徒たちの後継者を通して信仰と生活とがその起源とつながっているという意味で、使徒的です。また、教会全体が全世界に「遣わされている」という意味で、使徒的です。教会のすべての成員は、それぞれが異なった方法でこの使命に参加します。「キリスト者としての召し出しは、そのまま使徒職への召し出しでもあります」。「キリストの王国を全地に」広める目的に向けられた「神秘体の活動はすべて」「使徒職」と呼ばれます。「父から遣わされたキリストは教会の全使徒職の源泉であるから」、司祭や信徒の「使徒職の実りがキリストとの生きた一致にかかっていることは明白です」。召命、時代の要請、聖霊の多様なたまものに応じて、使徒的活動はきわめて多様な形を取ります。しかしどんなときも、とくにエウカリスチア(聖体)からいただく愛が、「全使徒職の魂ともいうべき」ものとなるのです。教会はその根源とそもそもの成り立ちから、一、聖、普遍、使律継承です。なぜなら、教会においてこそ、「天の国」、「神の支配」がすでに存在し、また、世の終わりに完成されるからです。それはキリストにおいて到来し、キリストに合体された人々の心の中で神秘的に成長し、世の終わりについに完全に現れるものです。そのとき、キリストにあがなわれ、キリストの中で「愛において神のみ前で聖なる者、汚れのない者」とされたすべての人間は一つに集められ、神のただ一つの民、「小羊の花嫁」、「天から、神のもとからくだり、神の栄光に輝く都」となります。そして「都の城壁には十二の土台があって、それには小羊の十二使徒の十二の名が刻みつけて」(黙示録21∙14)あります。

要約

教会は一つです。ただ一人の主を持ち、ただ一つの信仰を公言し、ただ一つの洗礼から生まれているからです。教会はただ一つの霊によって生かされた、ただ一っのからだを成しています。そして、ただ一つの希望にあずかり、終わりにはすべての分裂が克服されるでしょう。教会は聖です。至聖なる神が創立者だからです。その花婿であるキリストは、教会を聖化しようとして教会のためにご自分のいのちをささげられ、聖性の霊が教会にいのちをお与えになります。罪ぴとを抱えてはいますが、教会そのものは罪びとからなる罪なきものです。教会の聖性は聖人たちのうちに輝き出ます。マリアにおいて、教会はすでにまったく聖なるものなのです。教会は普遍です。信仰の全体を告げ、そのうちに救いのあらゆる手段を持ち、分かち与えるからです。教会はすべての民に遣わされて、すべての人に呼びかけます。あらゆる時代において、教会は「その本性上、宣教することを使命とします」。教会は使徒継承です。恒久的な土台、すなわち、小羊の十二使徒の上に建てられているからです。教会は破壊されないものです。神は真理を誤りなく保つように教会を支えておられます。それぞれの後継者である教皇と司教団のうちにいるペトロと使徒たちとを通して、キリストが教会を治めておられます。「わたしたちが信条の中で、一、聖、公(普遍)、使徒継承であると宣言するキリストの唯一の教会は、……ペトロの後継者と彼と交わりのある諸司教によって治められているカトリック教会のうちに存在します。しかし、この教会の組織の外にも成聖と真理の要素が数多く見いだされます」。

教会の位階制度

「キリスト信者とは、洗礼によってキリストに合体されたことにより神の民とされた者です。キリスト信者はこのゆえに、各人各様に、キリストの、祭司的、預言者的および王的任務にあずかり、各自に固有の立場に応じて、神が教会にこの世で果たすように託した使命を実践するよう召されています」。「すべてのキリスト信者は、キリストにおける新生のゆえに、尊厳性においても行為においても真に平等ですから、皆、それぞれ固有の立場と任務に応じて、キリストのからだの建設に協働します」。キリストはご自分のからだの部分の間に違いがあることを定めましたが、まさにその違いがからだの一致と使命の遂行に役立ちます。なぜなら、「教会の中には種々の役職がありますが、使命はただ一つだからです。使徒とその後継者は、主の名(とその権能)によって教え、聖化し、治める任務をキリストから受けました。しかし、信徒もまたキリストの祭司職、預言職、王職にあずかる者であり、教会と世間において、神の民全体の使命における自分の役割を果たすのです」。さらに、「聖職者の中にも、信徒の中にも、……福音的勧告の遵守の誓約によって、それぞれ特別のしかたで神に奉献され、教会の救いの使命に奉仕するキリスト信者がいます」。教会における奉仕職の根拠キリストご自身が、教会における奉仕職の源です。キリストがこれを定め、これに権威と使命、方向と目的とをお与えになりました。 「主キリストは、神の民を牧し、またつねに発展させるために、ご自分の教会の中に、からだ全体の善を目指す種々の役職を制定されました。事実、聖なる権能を有する役職者は、自らの兄弟たちに奉仕するのであって、それは、神の民に属するすべての人が、…救いに到達するようになるためです」。「聞いたことのないかたを、どうして信じられよう。のべ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうしてのべ伝えることができよう」(ローマ10∙14-15)。個人であれ、集団であれ、いかなる人も、自分で自分に福音を告げることはできません。「信仰は聞くことによって始まります」(ローマ10∙17)。だれも、自分で自分に福音を告げ知らせる命令と使命を与えることはできません。主から遣わされた者が、自分の権威ではなくキリストの権威によって語り、行動するのです。しかも、共同体の一員としてではなく、キリストの名によって共同体に語ります。だれも、自分で自分に恵みを授けることはできません。恵みは与えられ、差し出されるものです。このために、権威と資格とをキリストから受けた恵みの奉仕者が存在しなければなりません。司教と司祭は、頭であるキリストの代理者として働く使命と権能(「聖なる権限」)とを受け、助祭は、司教およびその司祭団と一致しながら、典礼とことばと愛の「助祭職」によって神の民に仕える力を受けているのです。キリストから遣わされた者たちが、自分自身では行うことも与えることもできないことを、神のたまものによって行い、与えることを可能にするこの奉仕の務めを、教会の伝統は「秘跡」と呼んでいます。教会の奉仕の務めは、固有の秘跡によって授けられるのです。教会の役務の秘跡的本性と密接に結ばれているのは、仕えるという特質です。事実、使命と権威とをお与えになるキリストにまったく依存する者として、役務者は真に「キリストのしもべ」です。これは、わたしたちのために「しもべの身分」(フィリピ2∙7)を進んで取られたキリストの姿に倣うものです。役務者が奉仕者として伝えることばと恵みは、自分たちのものではなくキリストのもので、キリストがこれらを他の人々のために彼らにゆだねたのです。ですから、役務者は進んで万人のしもべとなります。同様に、教会の役務が団体的性格を持つのも、その秘跡性に由来します。事実、宣教の当初から、主イエスは、「新たなるイスラエルの芽生えであったと同時に、聖なる位階制度の始まり」でもある「十二人」を定められました。この十二人はともに選ばれ、ともに派遣され、その兄弟的一致はすべての信者の兄弟的交わりに奉仕するものとなったのです。使徒団のこの一致は、三位一体の交わりの反映でもありあかしでもあるのです。それゆえ、各司教は、ペトロの後継者でもあり司教団の頭でもあるローマの教皇と結ばれている司教団の中で、それぞれの奉仕職を行使します。司祭たちは司教の指導のもとに、教区の司祭団の中でそれぞれの奉仕職を果たします。さらに、教会の役務が一人ひとりの人間にゆだねられているということも、その秘跡性に由来します。キリストの奉仕者は共同で行動しながら、またつねに一人ひとりの人間として行動しています。各自は個々に召されているのです。「あなたは、わたしに従いなさい」(ヨハネ21∙22)とキリストはいわれました。こうして、各自は共同の使命の中で、一人の人間として証人となり、使命を与えられたかたの前で責任を負い、「わたしは父と子と聖霊のみ名によってあなたに洗礼を授けます」、「あなたの罪をゆるします」といいながら、「キリストとして」人間各自のために行動します。したがって、教会における秘跡に基づく奉仕は、キリストの名で行われます。それは個人的な性質のものであると同時に団体的な形態を持つものでもあります。このことは、司教団とその頭であるペトロの後継者とを結ぶきずな、自分の部分教会に対する司教の司牧責任と普遍教会に対する司教団の共同の配慮との関係において現れます。司教団と、その頭である教皇キリストは十二人を立てたとき、「団体すなわち永続的な集団の形に制定され、彼らの中からペトロを選んでその頭とされました」。「主の制定によって、聖ペトロと他の使徒たちとが一つの使徒団体を構成していると同様の理由で、ペトロの後継者であるローマ教皇と使徒たちの後継者である司教たちとは、互いに結ばれています」。主キリストはペトロの名を与えられたシモンだけを教会の岩として、そのかぎを渡し、群れ全体の牧者に立てられました。「しかし、ペトロに与えられた結ぶ任務と解く任務が、自分の頭と一致する使徒たちの団体にも与えられたことは明らかです」。ペトロと他の使徒たちとのこの司牧の務めは、教会の土台を成しています。これは、教皇を頭とする司教たちによって継承されています。ローマの司教、ペトロの後継者である教皇は、「司教たちの一致と信者の大きな群れの一致との、永久の見える源泉であり基礎です」。「事実、ローマ教皇はその任務、すなわち、キリストの代理者ならびに全教会の牧者としての任務の力によって、教会の上に完全∙最高∙普遍の権能を有し、それをつねに自由に行使することができます。「司教団体すなわち司教団は、ペトロの後継者たるローマ教皇がその頭としてともに考えられるのでなければ、権威を持つことはありません」。この司教団も、それ自体として「全教会の上に最高、完全な権能を有する主体でもあります。ただし、この権能は、ローマ教皇が同意するときだけにしか行使できません」。「司教団は普遍教会に対する権限を公会議において荘厳なしかたで行使します」。しかし「ペトロの後継者によって公会議として確認されたか、あるいは少なくとも受け入れられたものでなければ、決して公会議ではありえません」。「この団体は多くの構成員から成るものとしては神の民の多様性と普遍性を示し、一人の頭の下に集められたものとしてはキリストの群れの一致を表しています」。「各司教は、おのおのの部分教会における一致の見える根拠であり基礎です」。各司教は、個別的には司祭と助祭に補佐され、「神の民の中で自分に任された部分の上にその司牧統治権を行使します」。しかし、司教団の一員としては、各自は全教会に対する配慮を分かち持っています。司教はこの配慮の任務をまず、「普遍教会の一部として自分の教会をよく治めることにより」果たします。またそうすることによって司教は、「諸教会のからだでもある全神秘体のために」寄与します。司教の配慮は、とくに貧しい人々、信仰のために迫害されている人々、全世界で働く宣教師たちに向けられるべきです。互いに隣接し同じ文化に属する部分教会は、教会管区を成したり、総大司教区や(教会)地方区と呼ばれているいっそう広範な地域を形成したりします。これらの地域の司教たちは集まって代表者会議、もしくは管区∙地方区会議を開くことができます。「同じように、諸司教団は、団体意識が具体的応用にまで導かれるように、今日多様豊富な寄与をすることができます。教える任務主の命令によれば、司教たちの「第一の義務は」、協力者である司祭たちとともに、「神の福音をすべての人に告げることです」。司教は「信仰の伝達者であって、新しい弟子たちをキリストに導く」、「キリストの権威を帯びている」使徒伝来の信仰の「真正なる師」です。教会が使徒たちから伝えられた信仰を純粋に保つため、キリストは、教会が真理そのものであるご自分の不可謬性を分かち持つように定められました。教会の生きた教導職の指導のもとに、神の民は「超自然的な信仰の心によって……信仰を損なうことなく固く守ります。教導職の使命は、神がキリストによってご自分の民と結ばれた契約の決定的性格を帯びています。この教導職は神の民を逸脱と誤りから守り、真正な信仰を誤りなく宣言する客観的な可能性を保証しなければなりません。したがって、教導職の司牧的任務は、神の民が自由をもたらす真理の中にとどまるように配慮することを目指しています。キリストは司牧者たちにこの任務を果たさせるため、信仰と道徳を誤りなく教えるというカリスマを付与されました。このカリスマは幾つかのしかたで行使されます。「司教団体の頭であるローマ教皇は、その職務の権能により、この不謬性を持つのであって、それは自分の兄弟たちを信仰に固める任を持つすべてのキリスト信者の最高の牧者および師として、信仰と道徳に関する教義を決定的に宣言するときです。……教会に約束された不謬性は、司教団体がペトロの後継者とともにその最高の教職を行使するとき、司教団体の中にも存在します。それはとくに公会議において行使されます。教会が、その最高の教導職によって、あることがらを「信ずべき神の啓示として」、またキリストの教えとして宣言するとき、それらの決定については「信仰の従順による同意が要求されます」。この不謬性は、「神の啓示の遺産の広がりと同じ広がりを有します」。神の助けは、ペトロの後継者と一致して教える使徒の後継者たちが、またとくに全教会の牧者であるローマの司教が、不謬の教義決定でも「決定的なしかた」での宣言でもなく、通常の教導職を行使して、啓示をよりよく理解させるための信仰∙道徳に関する教えを提示するときにも、与えられます。この通常の教えに対して、信者は「敬謙従順な心をもってそれに同意しなければなりません」。この同意は信仰の同意とは異なってはいても、それに沿うものです。聖化する任務司教はまた、「『最高の祭司職の恩恵の管理者』です」。司教はこの責任をとくに、自らささげるエウカリスチア(感謝の祭儀)において、あるいは協力者である司祭たちによってささげられるようにするエウカリスチアにおいて果たします。なぜなら、エウカリスチアは部分教会の生活の核心を成しているからです。司教と司祭たちは自分たちの祈りや仕事によって、ことばや秘跡の奉仕を通して教会を聖化します。また彼らは、「ゆだねられている人々に対して権威を振り回す」ことによってではなく、「群れの模範に」(一ペトロ5∙3)なることによって、教会を聖化します。こうして、「自分にゆだねられた群れとともに永遠の生命に達します」。統治する任務「司教はキリストの代理者および使者として、自分たちにゆだねられたそれぞれの部分教会を助言、勧告、模範をもって、なおまた権威と聖なる権能をもって統治します」。ただしその権威と権能は、師であるキリストと同じ奉仕の精神で部分教会を育成するために行使されなければなりません。「司教がキリストの名において自ら行使するこの権能は、たとえその行使が最終的には教会の最高権威者によって指揮されるものであっても、司教にとって固有の、本来の直接な権能です」。しかし、司教たちを教皇の代理者とみなすことは正しくありません。なぜなら、教皇の全教会に対する本来の直接の権威は、司教たちの権威を無効にするものではなく、かえって確認し、擁護するものだからです。司教たちの権威は、教皇の指導のもとに全教会との交わりの中で行使されるべきものです。よい牧者であるキリストは、司教の司牧的任務の模範であり、原型です。司教は自分自身の弱さを自覚して、「無知な人々や迷っている人々に同情することができます。配下の人々を自分の真実の子供のようにいつくしみ、……彼らに聞くことを拒んではなりません。……教会がイエス・キリストに一致し、イエス・キリストが父に一致しておられるように、信者たちは司教に一致しなければなりません」。 「皆さん、イエス・キリストが御父に従われたように司教に従い、使徒たちに従うように司祭に従いなさい。助祭を、神のおきてのように尊敬してください。だれであれ、教会に関することは司教を抜きにして行ってはいけません」。

信徒

「ここでいわれている信徒とは、聖なる叙階を受けた者ならびに教会の中に認可された修道身分に属する者以外のすべてのキリスト信者のことです。すなわち、洗礼によってキリストに合体され、神の民に加えられ、自分たちの様式においてキリストの祭司職∙預言職∙王職に参与するものとなり、教会と世界の中で自己の本分に応じてキリストを信ずる民全体の使命を果たすキリスト者のことです」。信徒の召命「信徒の独自の使命は、現世的なことがらに従事し、それらを神に従って秩序づけてゆくことによって神の国を追求することです。……彼らが密接に結ばれているすべての現世的なことがらが、たえずキリストに従って行われ、発展し、創造主とあがない主の賛美になるように、それらすべてに光をあて方向づけを与えることは、とくに彼らに託された使命です」。社会、政治、経済の分野にキリスト教の教えと生き方を浸透させるための手段を発見し、工夫するにあたっては、信徒の自発的な働きがとくに必要です。この自発的な働きは教会生活に不可欠の要素です。 「信徒は、教会生活の最前線に立っています。信徒によってこそ、教会は人間社会に生命を与える源となります。ですから信徒は、自分たちが単に教会の一員であるということだけではなく、教会そのものであるということを、今まで以上にはっきりと自覚しなければなりません。つまり、すべての者の頭である教皇と、交わりのうちに教皇と一致した司教たちに導かれた地上の信者の共同体、これが教会なのです。すべてのキリスト信者がそうですが、信徒は洗礼と堅信とによって神から使徒職に任じられたので、個人として、あるいは団体として、神の救いの知らせが世界中のすべての人に知られ、受け入れられるように努める義務と権利とを持っています。この義務は、人々が信徒によってしか福音を聞き、キリストを知ることができない場合には、いっそう緊急なものとなります。教会共同体の中で信徒の活動は必須であり、信徒の活動を抜きにした司牧者たちの使徒的活動は、多くの場合、十分な効果を上げえないのです。キリストの祭司職への信徒の参与「信徒はキリストにささげられ聖霊から塗油された者として、霊の果実が自分の中につねにより豊かに実るようにするという、すばらしい召命と手段を受けています。彼らがすべての仕事∙祈り∙使徒的活動∙結婚生活∙家庭生活∙日々の労苦∙心身の休養を聖霊において行い、なお生活のわずらわしさを忍耐強く耐え忍ぶならば、これらのすべてはイエス・キリストを通して神に喜ばれる霊的いけにえとなり(一ペトロ2∙5参照)、聖体祭儀の執行において主のからだの奉献とともに父に敬謙にささげられます。このように信徒もまた、どこにおいても聖なる行いをもって神に礼拝をささげる者として、世そのものを神に奉献するのです」。父母は、「キリスト教的精神のうちに夫婦の生活を送り、子女のキリスト教教育を配慮することによって」、特別なしかたでこの聖化の任務に参与します。信徒は必要な適性を備えているならば、恒常的に朗読奉仕者や祭壇奉仕者の奉仕職に任命されることもあります。「信徒は、奉仕者が不足し教会に必要と認められる場合には、法の規定に従い、朗読奉仕者または祭壇奉仕者ではなくとも、その若干の職務、すなわちことばの奉仕職を果たし、典礼の祈りを司式し、洗礼を授け、聖体を分配する職務を果たすことができます」。キリストの預言職への信徒の参与「キリストは、……聖職位階を通してばかりでなく、信徒を通しても、その預言者としての務めを果たされます。このためにキリストは信徒を証人に定め、信仰の心とことばの恩恵を授けられます」。 「人に教えて信仰に導くことは、説教者だけの働きではなく、すべての信者の務めでもあります」。信徒はまた、自分たちの預言者的使命を福音宣教、「すなわち、生活のあかしとことばとをもってなされるキリストの宣教」によっても遂行します。信徒による「この福音宣布……は、それが世間の普通の生活の中で行われること自体から、ある独特の性格と特別な力を獲得します」。 「この使徒職は、ただ生活によるあかしのみにあるものではありません。真の使徒職はことばをもって、信じない者にも……信者にもキリストを告げ知らせる機会を捜し求めるものです」。信徒の中で能力があり養成を受けた人たちは、要理教育、キリスト教関係の諸学の教授、広報活動の諸分野で協力することができます。「キリスト信者は、各人の学識、固有の権限、地位に応じて教会の善益に関し、自己の意見を教会の牧者に表明する権利およぴ時として義務を有します。同様にまた、信仰および道徳の十全性ならびに牧者に対する尊敬心を損なうことなく、共通の利益および人間の尊厳に留意し、自己の意見を他のキリスト信者に表明する権利と義務をも有します」。キリストの王職への信徒の参与死に至るまでの従順によって、キリストは弟子たちに王的自由のたまものを与えられました。それは、彼らも「自己放棄と聖なる生活をもって、自分の中にある罪の支配に打ちかつ」ためでした。 「自分のからだと魂を支配し、情欲に屈しない者は自我を治める者であり、その人を王と呼ぶことができます。なぜなら、自分自身を治めることができるからです。その人は自由で、自立心が強く、罪の奴隷となることがありません」。「そのうえ信徒は世の中に人を罪に押しやるような制度や生活条件があればこれを改善して、これらのすべてが正義の法則に基づくものとなり、また諸徳の実践の妨げよりもむしろ助けとなるように努力しなければをりません。こうすることによって、彼らは文化と人間の諸活動に道徳的価値を付与することができます」。「〔信徒は〕司牧者の協力者として教会共同体のために奉仕するよう召されています。神が与えられた恩恵とカリスマに応じて、さまざまな役務が共同体の成長と活動のためにできます」。教会での統治の権限の行使に、「信徒は、法の規定に従って……協力することができます」。たとえば、部分教会会議、教区代表者会議、司牧評議会に参加し、小教区の司牧任務に携わり、経済問題評議会に協力し、教会裁判所の構成員となることができます。信者は、「教会に属する者としての自分たちに付与されている権利∙義務と、人間社会の構成員として有する権利∙義務とを、注意深く区別することを学ばなければなりません。この両者の間に調和を保つように努めなければならないのであって、人間のいかなる行為も、たとえそれが現世的なことがらに関するものであっても、神の支配から除外することはできないのですから、現世的ないかなることがらにおいてもキリスト教的良心に従わなければならないことを記憶すべきです」。「このように信徒は皆、自分に与えられたたまもの自身によって、『キリストのたまもののはかりに従って」(エフェソ4∙7)教会自身の宣教の証人であると同時に生きた道具でもあります」。

奉献生活

「福音的勧告の誓願によって成立する身分は、教会の位階的構成にかかわりがないとはいえ、教会の生命と聖性に揺るぎなく属しています。福音的勧告、奉献生活福音的勧告は、多様な形でキリストのすべての弟子に提示されています。全信者は完全な愛の実践に招かれていますが、奉献生活への召命を自由意志をもって受け入れた人々にとっては、神の国のための独身生活における貞潔ならびに清貧、従順を実践する義務が伴ってきます。教会によって認められた永続的な生活様式の中で、福音的勧告を生きる誓願が、まさに神への「奉献生活」の特徴なのです。したがって奉献生活の身分とは、洗礼に根ざした、自己を神に余すところなくささげる、「より親密な」奉献を体験する生き方の一つです。奉献生活においてキリスト者は、聖霊に助けられながらより近くキリストの後に従い、すべてにまして愛すべき神に自分自身をゆだね、神の国への奉仕のための完全な愛を追求しながら、来るべき世の栄光のしるしとなり、教会の中でこれを告げ知らせることを目指します。多くの枝を持つ一本の大木「神がまかれた種から芽生えた木が主の畑において驚くべき多様な枝を生い茂らせるように、隠世生活や共同生活のさまざまな様式と種々の修道会が発展し、それらは会員の進歩とキリストのからだ全体の益のために寄与しています。「教会の初期から、福音的勧告を実行することによって、いっそう自由にキリストに従い、より厳密にキリストに倣おうと志し、めいめい自分に適した方法で神に奉献した生活を送った男女がありました。これらの人のうちの多くの者は、聖霊の勧めを受けて、あるいは独居生活を営み、あるいは修道家族を作りました。教会はその権威によって、このような生活様式を快く受け入れ、認可しました」。司教はつねに、聖霊によって教会に託された奉献生活の新しいたまものを識別するよう努める必要があります。ただし、奉献生活の新しい形態を承認することは使徒座に留保されています。隠修生活隠修者は、三つの福音的勧告を公に誓立するとは限りませんが、「この世からのいっそう厳しい離脱、孤独の沈黙、絶え間ない祈りおよび償いを通じて、自己の生涯を神の賛美と世の救いのためにささげる」のです。隠修者は、キリストとの個人的な親密な交わりという教会の神秘の内的な面を人々に示します。人々の目には触れない隠修者の生活は、自分の生涯をささげたかたについての声なき説教です。なぜなら、そのかたが当人にとってはすべてだからです。荒れ野で、霊的戦いの中で十字架につけられたキリストの栄光を見いだすことこそ、彼らの特別な召命なのです。奉献されたおとめややもめすでに使徒の時代から、いっそう自由な心とからだと精神とをもって余すところなく主に専念するよう召されたキリスト者のおとめややもめたちが、教会に認可を受けて、「天の国のために」(マタイ19∙12)それぞれおとめの身分または終生の貞潔を生きる決意をしてきました。おとめたちは、「キリストにいっそう近く従う聖なる意図を表明し、承認された典礼に従って、教区司教によって神に奉献され、神の子キリストの神秘的な花嫁となり、教会の奉仕にささげられます」。この荘厳な儀式(おとめの奉献)によって、「おとめは、奉献された者、教会のキリストに対する愛の超越的なしるし、キリストの天上の花嫁ならびに来るべきいのちの終末的かたどりとなります」。おとめの身分は奉献生活の形態に近いものであって、一般社会の中で生活する女性(あるいは隠修女性)を、それぞれに与えられた身分とカリスマに従い、祈り、償い、兄弟たちへの奉仕、使徒的活動などに従事させます。奉献されたおとめたちは、自分たちの考えをより忠実に守るために協力し合うことができます。修道生活キリスト教初期の時代に東方に誕生、教会により正式に設立された諸修道会の中に引き継がれた修道生活は、礼拝様式、福音的勧告の公的誓願、兄弟的共同生活、キリストと教会との一致のあかしなどによって、他の形式の奉献生活とは区別されます。修道生活は教会の神秘に由来します。修道生活は教会がキリストからいただいたたまものであり、教会はこれを、福音的誓願を立てるように神から召された信者に、一つの恒常的な生き方として提供します。こうして、教会はキリストを現すと同時に、自らを救い主の花嫁とみなすことができるのです。修道生活は多様な形式のもとに、現代人に分かる表現様式で神の愛そのものを表すよう招かれています。すべての修道者は、免属(教皇また他の教会権限所持者直属)であるか否かにかかわらず、教区司教の司牧任務に協力する者です。教会の宣教開始や拡張のためには、福音宣教の初めから、あらゆる形の修道生活の存在が必要でした。「歴史は、修道会が信仰を広め、新しい教会を育てるにあたって果たした大きな役割を証言しています。古代の隠遁修道会から始まって中世期の修道会、そして現代の修道会に至っています」。「在俗会は奉献生活の会であり、そこにおいてキリスト信者は世俗のなかで生活しつつ、愛の完成を志向し、とくに内部からこの世の聖化に貢献するよう努めるものです」。在俗会これらの在俗会の会員は、「〔この〕聖化のために完全に、余すところなくささげられた生活」を通して、「世俗において、かつ世俗から発して、教会の福音化の使命に参与」しますが、この世にあって酵母のような役割を果たします。これらの人々のキリスト者としての生活のあかしは、この世の物を神に従って秩序づけ、また、福音の力によって社会を造り上げることを目指します。彼らは聖なるきずなを通して福音的勧告を受け入れ、固有の在俗生活のしかたに基づいた相互の交わりと兄弟愛とを実践します。多様な形式の奉献生活の一つに「使徒的生活の会〔が〕ありますが、その会員は、修道誓願の宣立なしに、会固有の使徒的目的を追求し、固有の生活のしかたに従って兄弟的生活を共同で営みながら、会憲の遵守によって愛の完成を目指すものです。これらの会の中には、会員が」独自の会憲に従って「福音的勧告を引き受ける会も存します」。奉献と使命  来るべき王を告げ知らせる洗礼によってすでに神にささげられ、すべてを超えて愛すべき神に自らを奉献する者は、いっそう親密に神への奉仕に自分をささげ、教会の善のために尽くします。神への奉献の状態を通して、教会はキリストを表し、また、聖霊がいかに感嘆すべき方法で自分の内に働いておられるかを示します。したがって、福音的勧告の誓願を立てる者の使命は、まず第一に、自らの奉献を生き抜くことにあります。しかし彼らは、「その奉献によって教会への奉仕に自らをささげているがゆえに、特別に、その会に固有な様式によって、宣教活動に熱心に奉仕する義務を有します。秘跡である教会、すなわち、神のいのちを伝えるしるし、道具である教会にあって、奉献生活はあがないの神秘の一つの特別なしるしとなっています。キリストにはり近く」従い、よりよくキリストを模倣し、ご自分を無とされたキリストを「より明確に」表すことは、キリストの心の中では、同時代の人々と「より深い」関係にあるということを意味しています。なぜなら、この「より狭い」道を歩む者は自分たちの模範によって兄弟たちを発奮させ、「真福八端の精神なしには世の姿を変えることも世を神にささげることもできないことを」明白にあかしするからです。このあかしが修道者の身分のように公のものであれ、あるいはよりつつましい、さらに隠れたものであれ、すべての奉献者にとっては、キリストの来臨がそれぞれの生活の始まりであり、目標であることに変わりはありません。 「事実、神の民はこの地上に永続する国を持ちませんが、〔この修道身分は、〕信じるすべての入に対して、この世の中にすでに存在している天上のたまものをよりよく表すとともに、キリストのあがないによって獲得された新しい永遠の生命にっいてよりよく説明し、さらに将来の復活と天上の栄光とをよりよく予告します」。

要約

「教会においては、神の制定によってキリスト信者のうちに、法的に聖職者と呼ばれる聖務者があります。他は信徒と呼ばれます」。また、このいずれかに属するキリスト信者で、福音的勧告の誓願により神に自らを奉献し、教会の使命に奉仕する者がいます。信仰を告げ知らせ、み国を打ち建てるため、キリストは使徒たちと使徒たちの後継者たちとを派遣し、彼らをご自分の使命にあずからせます。彼らはキリストから、キリストの名で行動する権能を受けています。主はペトロをご自分の教会の見える礎とし、教会のかぎを渡されました。ペトロの後継者であるローマの教会の司教は、「司教団の頭であり、キリストの代理者、かつこの地上における普遍教会の牧者です。教皇は、「神の制定により、司牧上の最高、完全、直接、普遍の権能を有しています」。聖霊によって立てられた司教たちは、使徒たちの後継者です。「各司教は、おのおのの部分教会における一致の見える根拠であり基礎です」。司教は自分の協力者である司祭、また助祭の協力を得て、正しく信仰を教え、典礼、とくに感謝の祭儀を行い、真の牧者として教会を導く任務を持っています。また、教皇とともに、教皇の下で、全教会について配慮することも司教の任務です。「世間に住み、俗事に携わっているのが信徒ですから、彼らこそキリスト教的精神に燃えて、パン種として世間において使徒職を果たすように、神から召されているのです」。信徒はキリストの祭司職にあずかります。キリストにますます一致して、洗礼と堅信の恵みを、個人、家族、社会、教会生活のあらゆる分野で発揮し、すぺての受洗者に向けられた聖性への呼びかけにこたえます。信徒はその預言者的使命によって、「社会のまっただ中で、万事においてキリストの証人となるように呼ばれています」。信徒はその王的使命によって、自己放棄と聖なる生活とを通して、自分自身や世の中にある罪の支配に打ちかつ力を持っています。清貧、貞潔、従順という福音的勧告に関する公的誓願を立てる神への奉献生活には、教会によって認められた身分のもとで生涯を送るという特徴があります。洗礼によってすでに神にささげられ、すべてに超えて愛すべき神に自らを奉献する者は、奉献生活の中で、よりいっそう神への奉仕に自分をささげ、教会の善に尽くします。

霊的善の分かち合い

「聖なる普遍の教会」についての宣言をした後、使徒信条は「聖徒の交わり」という宣言を追加します。この箇条はいわば、前節の説明です。つまり、「教会とはすべての聖徒たちの集まりにほかならないのです」。聖徒たちの交わりが、まさに教会なのです。「すべての信者はただ一つのからだを形づくるのですから、ある信者の善は他の信者にも伝わります。……このように、教会には善の共有があることを信じなければなりません。このからだの最重要部分はキリストです。キリストは頭だからです。……したがって、キリストの善はすべての部分に与えられ、この分配は教会の秘跡によって行われます」。「この教会はただ一つの、同じ霊によって治められているので、教会が受けたすべての善は、当然、共通の財産となります」。したがって、「聖徒の交わり」という信条の語は、「聖なるもの(sancta)の分かち合い」と「聖なる人々(sancti)の交わり」という、相互に固く結ばれた二つの意味合いを持っています。ほとんどすべての東方典礼で、司式者は聖体拝領の前に聖体を奉挙する際に∙「Sanctasanctis1(聖なるものを聖なる人々に)」と、高らかに宣言します。信者(sancti)はキリストのからだと血(sancta)によって養われますが、それは聖霊の交わり(コイノニアΚοινωνία)の中で成長し、それを世に分かつためなのです。エルサレムの初代教会では、弟子たちは「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心」(使徒言行録2∙42)でした。信仰の分かち合い。信者の信仰は使徒たちから受けた教会の信仰です。この信仰は分かち合いながら、充実していくいのちの宝です。秘跡の分かち合い。「すべての秘跡の実はすべての信者のものです。事実、すべての秘跡、とくに人々が教会に入る門ともいうべき洗礼は聖なるきずなとなって信者たちを一つにし、イエス・キリストに結びつけます。教父たちは信条の中で、秘跡の分かち合いは聖徒の交わりの観点から理解されるべきだということを示唆しています。……『分かち合い』の語は各秘跡に当てはまります。なぜなら、わたしたちを神に一致させるからです。……しかし、この語は何にもましてエウカリスチア(聖体∙感謝の祭儀)に当てはまります。エウカリスチアこそ、この分かち合いを完成させるものだからです」。カリスマの分かち合い。教会の交わりでは、聖霊は教会を建てるため「あらゆる序列の信者に特別な恩恵をも授けられます」。ところで、「一人ひとりに”霊”、の働きが現れるのは、全体の益となるためです」(一コリント12∙7)。「信じた人々の群れはすべてを共有して」(使徒言行録4∙32)いました。「真のキリスト者は、自分が所有するものはすべてあらゆる人との共有のものとみなすべきであり、貧しい人や悲惨な状態にある隣人をいっでも急いで助ける心構えを持つ必要があります」。キリスト者は主の財産の管理者です。愛の分かち合い。聖徒の交わりでは、「だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません」(ローマ14∙7)。「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであり、また一人ひとりはその部分です」(一コリント12∙26-27)。愛は「自分の利益を求め〔ません〕」(一コリント13∙5)。愛によって行われるわたしたちのどんなささいな行為も、すべての人の益となります。わたしたちは生者と死者を問わず万人との連帯関係にあり、その連帯関係は聖徒の交わりを土台としているのです。すべての罪はこの交わりを損なうものです。

天上の教会と地上の教会との交わり

教会の三つの状態。「主が威光のうちにすべての天使を従えて来られ、死が破壊され、万物が主に従属させられるときが来るまで、主の弟子たちのうちのある者は地上に旅を続け、ある者はすでにこの世を去って清めを受けつつあり、ある者は『三位一体の神ご自身をありのままに明らかに』眺めつつ栄光を受けています」。 「しかしながら、わたしたちのすべては、段階と方法は異なるにせよ、神と隣人に対する同じ愛のうちに交わり、わたしたちの神に向かって同じ賛美の歌を歌っています。それはキリストのものである人はすべて、キリストの霊を有し、一つの教会を集成し、互いにキリストにおいて一致しているからです」。「したがって、旅する人々とキリストの平和のうちに眠った兄弟たちとの一致は決して裂かれることがなく、かえって教会の不変の信仰によれば、霊的善の交換によって強められるのです」。聖人たちの執り成し。「天の住人はより密接にキリストに結ばれているので、全教会を聖性の中により強く固めることに貢献します。それは、……父のもとで自分の功績を示しつつわたしたちのために取り次ぎを続けるからであって、その功績は、……神と人間との唯一の仲介者キリスト・イエスを通して地上において獲得したものです。したがって、わたしたちの弱さは彼らの兄弟的な配慮によって多く助けられるのです」。「わたしが死んでも泣かないでほしい。わたしは死後、君たちにはもっと役に立とう。そして生きていた間以上に、もっと力強く君たちを助けるつもりだ」。「地上で善を行うために、わたしの天国を過ごしましょう」。聖人たちとの交わり。「わたしたちが天の住人の記念を尊敬するのは、単に彼らの模範のためばかりではなく、それ以上に、全教会の一致が兄弟的愛の実践を通して霊において固められるためです。事実、旅する人々の間におけるキリスト教的な交わりがわたしたちをより近くキリストに導くように、諸聖人との交わりは、わたしたちをキリストに結び合わせるのであって、すべての恩恵と神の民自身の生命は泉あるいは頭からのようにキリストから流れ出ます」。
「わたしたちがキリストを礼拝するのは、神の御子だからです。殉教者はといえば、主の弟子、模倣者として愛します。自分たちの王、師への比類のない献身から見て、それは当然のことです。わたしたちもまた、殉教者の仲間、相弟子となりたいものです」。死者との交わり。「旅する人々の教会はイエス・キリストの神秘体全体のこの交わりをよく認識し、キリスト教の初期の時代から、死者の記念を深い敬愛の心をもって尊ぴ、『罪から解かれるよう死者のために祈ることは、聖であり健全な考えであるから』(ニマカバィ12∙45)、死者のための祈願をもささげてきました」。死者のためのわたしたちの祈りは、死者を助けるだけでなく、死者がわたしたちのために執り成すのを有効にすることができるのです。神の唯一の家族の中で。「神の子らであり、キリストにおいて唯一の家族を形成するわたしたちは皆、相互愛といとも聖なる三位一体に対する唯一の賛美とにおいて互いに交わるとき、教会の本質的使命にこたえるのです」。

要約

教会は「聖徒の交わり」です。この表現は、まず、「聖なるもの」(sancta)、わけてもエウカリスチア(聖体)を表しています。このエウカリスチアによって、「キリストにおいて一つのからだを構成する信者の一致が表され実現します」。この表現はまた、「わたしたちのために死なれた」キリストに結ばれている「聖なる人々」(sancti)の交わりを意味します。事実、各自がキリストにおいて、キリストのために行いあるいは苦しむことは、すべての者に実りをもたらします。「わたしたちはキリストを信じるすべての者、すなわち地上で旅する者、自分の清めを受けている死者、また天国の至福にあずかっている者たちが、皆ともに一つの教会を構成していることを信じます。またこの交わりにおいては、……神と聖人たちがあわれみ深い愛をもってわたしたちの祈りに耳を傾けていることを信じます」。

教会に対するマリアの母性

処女マリアがキリストと聖霊の神秘の中で担う役割についてはすでに述べましたが、ここでは、教会の神秘の中でマリアがどのような位置を占めるかを考察します。「処女マリアはぐ真に神の母、あがない主の母として認められ、たたえられます。マリアは…『まことに(キリストの)肢体の母です。……なぜなら、マリアは教会の中にその頭の肢体である信者が生まれるよう愛をもって協力したからです』」。「マリアはキリストの母、教会の母です」。まったく御子と一体となって…教会に対するマリアの役割はキリストとの結合に直接由来するもので、この結合から切り離すことができません。「救いのみわざにおける母と子とのこの結合は、キリストが処女マリアの胎内に宿られたときから、その死に至るまで現れています」。これは、とくに受難のときに現れます。
「聖なる処女も、信仰の旅路を進み、子との一致を十字架に至るまで忠実に保たれました。マリアは十字架の下に立たれましたが、これは神の配慮なしにではありませんでした。マリアは子とともに深く悲しみ、子のいけにえに母の心をもって自らを結び合わせ、自分からお生まれになったいけにえの奉献に心を込めて同意されました。ついに、十字架の上に死なんとするキリスト・イエス自らによって次のことばをもってマリアは母として弟子に与えられました。『婦人よ、これがあなたの子です』(ヨハネ19∙26-27参照)」。御子の昇天の後、マリアは「教会の発端を祈りをもって助けられました」。使徒たちと数人の婦人たちとともに集まった「マリアも、お告げのときすでにご自分を覆った聖霊のたまものが与えられるように求めて祈っておられたことをわたしたちは知っています」。被昇天のときにも…「最後に、原罪のいかなる汚れにも染まずに守られていた汚れなき処女は、地上生活の道程を終えて、肉体と霊魂ともども天の栄光に引き上げられ、そして主から、すべてのものの女王として高められました。それは、主たる者の主であり、罪と死の征服者である自分の子に、マリアがよりよく似たものとなるためでした」。聖マリアは天に上げられることζよって御子の復活に特別なしかたであずかり、他のキリスト者の復活を先取りされました。
「ああ、神の御母、あなたは御子を宿されたときには処女性を失わず、最後の眠りのときにはこの世をお見捨てになりませんでした。生ける神をお産みになったあなたはいのちの泉に合流し、その祈りによってわたしたちの霊魂を死から解放されます」。マリアは恵みの世界でわたしたちの母である処女マリアは、御父のみ旨と、御子のあがないのわざと、聖霊の働きに全面的に賛同したことにより、教会にとっては信仰と愛の模範です。このことにより、マリアは「教会の卓越してまったく独特な肢体」であり、教会の「模範として仰ぐべき存在」、「範型」でさえあります。教会と全人類に対するマリアの役割には、これ以上のものもあります。彼女は「従順、信仰、希望、燃える愛をもって、人々に超自然的生命を回復するために、救い主キリストのみわざにまったく独自な方法で協力されました。このためにマリアは恩恵の世界でわたしたちにとって母です」。「恩恵の計営におけるマリアの母としてのこの役割は、お告げに際してマリアが忠実に与え、そして十字架の下でためらうことなく堅持し続けた同意から始まって、選ばれたすべてのものの永遠の完成に至るまでたえず続くものです。マリアは天に上げられた後もこの救いをもたらす務めを放棄することはなく、かえって数々の取り次ぎをもって、永遠の救いのたまものをわたしたちに得させることを続けられます。……このために聖なる処女は、教会において、弁護者、扶助者、〔援助者、〕仲介者の称号をもって呼び求められています」。
「人々に対するマリアの母としての役割は、キリストの唯一の仲介を決して曇らせたり減少させたりするものではなく、かえってキリストの仲介の力を示すものです。実に、聖なる処女が人々に対して及ぼす救いに役立つすべての影響は、……キリストの功績の満ちあふれるところから流れ出て、キリストの仲介に基づき、その仲介にまったく依存し、その仲介からいっさいの力をくみ取るのです」。「事実、いかなる被造物も受肉されたみことば∙あがない主と同列に置くことは決してできません。しかしキリストの祭司職に聖職者も信者の民も種々の様式で参与するように、また、神の唯一の善性が被造物に種々の様式で現実に広げられているように、あがない主の唯一の仲介は、造られた者が唯一の泉に参与しながら行う種々の協力を拒絶するものではなく、かえってこれを引き起こすのです」。

聖マリアへの崇敬

「いつの世の人もわたしを幸いな者というでしょう」(ルカ1∙48)。「聖マリアヘの教会の信心は、キリスト教的礼拝に内在するものです」。聖母マリアは、「特別な崇敬をもって教会からたたえられます。確かに聖なる処女は最古の時代より『神の母」という称号のもとに敬われ、信者はあらゆる危険と必要に際してそのご保護を祈り求めつつ、そのもとに避難するのです。……この崇敬は、まったく独自なものですが、父と聖霊と受肉されたみことばとに等しくささげられる礼拝とは本質的に異なるものであり、その礼拝に大いに奉仕するものです」。この崇敬は神の母にささげられた典礼祝日や「福音書全体の要約」である聖なるロザリオなどの、マリアヘの祈りに表されています。

教会の終末的な姿としてのマリア

これまで、教会とその起源、その使命ならぴに将来について眺めてきましたが、やはり最後は、マリアに目を向けて、彼女の中に教会の神秘、「信仰の旅路」にある教会の姿、旅路の果てにある祖国での教会の姿を観想しながら締めくくるべきでしょう。この旅路の終わりに、教会が「至聖にして不可分の三位一体の栄光となるよう」、「すべての聖人たちの交わりのうちで」待っているのは、まさに、教会が主キリストの御母として、また自分たちの母としてあがめているかたなのです。 「イエスの母は天上において、肉体と霊魂ともどもすでに栄光を受けているものとして、来世において完成されるぺき教会の像であり始まりであるように、地上においては、主の日が来るまで、旅する神の民にとって確実な希望と慰めのしるしとして輝いています」。

要約

マリアはお告げに際して、「おことばどおり、この身になりますように」と答えて受肉の神秘に同意することによって、御子が果たされるはずのすぺてのわざにすでに協力しています。マリアは、御子が救い主、神秘体の頭であるすべてのところで、母の役割を果たしています。聖マリアは、地上の生涯を終えると、肉体と霊魂ともども天の栄光に引き上げられました。そこで御子の復活の栄光にあずかり、神秘体の全肢体の復活を先取りしています。「わたしたちは、聖なる神の母、新しいエバ、教会の母がキリストの民に対して天上で母の役割を続けておられると信じます」。

「罪のゆるしを信じます」

使徒信条は罪のゆるしに関する信仰を、聖霊への信仰と、さらに教会と聖徒の交わりとに関する信仰にも結びつけています。復活されたキリストは聖霊を使徒たちに与え、罪をゆるすご自分の神的権能を使徒たちに授けられました。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたがゆるせば、その罪はゆるされる。だれの罪でも、あなたがたがゆるさなければ、ゆるされないまま残る」(ヨハネ20∙22-23)。 (本書の第2編で、洗礼、ゆるしの秘跡と他の秘跡、とくに、聖体の秘跡による罪のゆるしについて詳しく述べているので、ここでは若干の基本的教えを簡単に指摘するにとどめます)。

罪のゆるしのための唯一の洗礼

主は、罪のゆるしを信仰と洗礼とに結びつけられました。「全世界に行って、すべての造られたものに福音をのべ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われる」(マルコ16∙15-16)。洗礼は罪のゆるしの第一の、主要な秘跡です。なぜなら、洗礼はわたしたちを、わたしたちの罪のために死なれ、わたしたちが義とされるために復活されたキリストに結合させ、「わたしたちも新しいいのちに生きる」(ローマ6∙4)ようにするからです。

「最初の信仰宣言を行って清めの聖なる洗礼を受けたわたしたちには、消し去るべきものはまったく何一つ残らない状態になるまで罪が完全にゆるされ、原罪も自罪も、償いとして受けるはずの罰も、まったく残ってはいません。……とはいえ、洗礼の恵みはだれをも人間本性の弱さから解放することはありません。事実、いまだにわたしたちは、つねに自分を悪に傾かせる欲望の動きと戦わなければならないのです」。

悪への傾きとの戦いにおいては、どんな罪も犯さないといえるほど勇敢で、用心深い人はだれもいないのです。「教会が罪をゆるす権能を持つ必要があったのであれば、洗礼だけが、イエス・キリストによって教会にゆだねられた天の国のかぎを用いる唯一の手段であるはずはないのです。つまり、教会は、人が人生の最期に至るまで罪を犯したとしても、すべての痛悔者の罪をゆるすことができなければならないはずです」。

すでに洗礼を受けた信者は、ゆるしの秘跡を受けることによって、神および教会と和解することができます。
「教父たちは、ゆるしの秘跡を『骨の折れる洗礼』と呼んでいます。救いのためには、まだ生まれ変わっていない人に洗礼が必要であるのと同じように、洗礼の後で罪を犯した人々には、ゆるしの秘跡が必要です」。

かぎの権能

キリストは復活の後、「罪のゆるしを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々にのべ伝えられる」(ルカ24∙47)ように、使徒たちをお遣わしになりました。使徒たちとその後継者たちとは、この「和解のために奉仕する任務」(ニコリント5∙18)を、ただ、キリストがわたしたちのために得られた神のゆるしを人々に告げ知らせ、回心と信仰を促すことだけでなく、洗礼によって罪のゆるしを与え、またキリストから渡されたかぎの権能によって人々を神および教会と和解させることによっても果たしているのです。
教会が「天の国のかぎを受けたのは、教会の中で、聖霊の働きによってキリストの血による罪のゆるしが行われるためです。この教会の中でこそ、罪によって死んだ霊魂は生き返り、わたしたちを恵みによって救ってくださったキリストとともに生きるようになるのです」。

たとえどのように重い罪であろうとも、聖なる教会がゆるすことのできない罪は一つもありません。「いかなる悪人、いかなる罪びとといえども、痛悔が真実でありさえすれば、だれであれ、ゆるしを得られることを固く希望すべきです」。すべての人のために死なれたキリストは、ご自分の教会にあって、ゆるしの門が罪を悔い改めるすべての人にいつも開かれていることを望んでおられます。

教会は、使徒たちとその後継者たちとの務めによって真に罪をゆるす使命と権限という比類のない偉大なたまものを、復活されたキリストから与えられています。教会はカテケージス(要理教育)によって、信者の心にこの信仰を強め、深めなければなりません。
「主は、弟子たちが大きな権能を持つことを望まれます。すなわち、ご自分の取るに足りないしもべたちが、ご自分がこの世におられたときに行われたあらゆることをご自分の名で行うようにお定めになったのです」。
「〔司祭たちは〕神が天使にも大天使にもお与えにならなかった権能を授かりました。……神は、司祭たちがこの世で行うことをすべて、天上で承認されます」。
罪のゆるしが「もし教会の中になかったならば、いかなる望みもありえないことになったでしょう。罪のゆるしがもし教会の中になかったならば、永遠のいのちも永遠の救いの希望もまったく存在しないことになったでしょう。教会にこれほどのたまものをお与えになった神に感謝いたしましょう」。

要約

信条は、「罪のゆるし」を聖霊への信仰宣言と結びつけています。事実、復活されたキリストは、使徒たちに聖霊をお与えになったときに、罪をゆるす権能をおゆだねになりました。

洗礼は罪のゆるしのための第一の、主要な秘跡です。死んで復活されたキリストにわたしたちを結合させ、聖霊を与えるからです。

キリストのご意志により、教会は信者の罪をゆるす権能を持っています。司教と司祭は通常、ゆるしの秘跡の中でこれを行使します。

「罪のゆるしのためには、司祭や秘跡はまったくの手段にすぎません。わたし声たちの唯一の救い主、救いの配分者である主イエス・キリストがこれを用いてわたしたちの罪を消し、義とする恵みをお与えになるのです」。

「からだの復活を信じます」

キリストの復活とわたしたちの復活

キリスト教の信条~父と子と聖霊である神、創造と救いと聖化のわざについての信仰宣言~は、世の終わりの死者の復活と永遠のいのちの宣言においてその頂点に達します。わたしたちが固く信じ希望しているのは、キリストが死者の中から真に復活して永遠に生きておられるように、正しい人々もまた、死後、復活されたキリストとともに永遠に生き、世の終わりにキリストによって復活させられるということです。キリストの復活と同じく、わたしたちの復活も至聖なる三位一体のわざなのです。
「もし、イエスを死者の中から復活させたかたの霊が、あなたがたのうちに宿っているなら、キリストを死者の中から復活させたかたは、あなたがたのうちに宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずのからだも生かしてくださるでしょう」(ローマ8∙11)。「肉」の語は、弱く死すべき人間を表します。「からだ(肉)の復活」とは、死後、ただ不滅の霊魂が存続するだけではなく、わたしたちの「死ぬはずのからだ(ローマ8∙11)も生き返ることを意味しています。復活についての漸進的啓示死者の復活を信じることは、教会の初めからキリスト者の信仰の本質的要素の一つでした。「死者の復活、というキリスト者の信念、この信仰によってこそ、わたしたちは生きているのです」。
「あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、といっているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教はむだであるし、あなたがたの信仰もむだです。…しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(一コリント15∙12-14,20)。死者の中からの復活については、神によってご自分の民に漸進的に啓示されました。死者の復活に対する希望は、霊魂と肉体とからなる人間全体を創造された神への信仰から当然引き出される結論として、しだいに認められるようになりました。天地の創造主はまた、アブラハムおよびその子孫との契約を忠実に守られるかたです。まさにこの二つの視点から、復活の信仰が形を取り始めました。マカバイ時代の殉教者たちは拷問中、次のように宣言しています。
「世界の王は、律法のために死ぬ我々を、永遠の新しいいのちによみがえらせてくださるのだ」(ニマカバイ7∙9)。「たとえ人の手で、死に渡されようとも、神が再び立ち上がらせてくださるという希望をこそ選ぶべきである」(ニマカバイ7∙14)。ファリサイ派の人々、その他イエスと同時代の多くの人々は復活を希望していました。イエスは復活をはっきりと教えておられます。復活を否定するサドカイ派の人々に、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしている」(マルコ12∙24)と答えられます。復活信仰は、「死んだ者の神ではなく、生きている者の神」(マルコ12∙27)への信仰に基づいています。それだけではなく、イエスは、「わたしは復活であり、いのちである」(ヨハネ11∙25)といって、復活信仰をご自分に結びつけておられます。イエスを信じ、その御からだを食べ、御血を飲む人々を世の終わりに復活させてくださるのは、イエスご自身にほかなりません。イエスはすでに幾人かの死者を蘇生させ、ご自分の復活を予告することを通して、そのしるしと保証とを与えられました。しかし、キリストの復活はこれらの蘇生とは別の次元のものです。イエスはこの比類のない出来事をヨナのしるし、神殿のしるしと呼び、死後三日目のご自分の復活を予告なさいました。キリストの証人であるとは、「主の復活の証人」(使徒言行録1∙22)であること、「イエスが死者の中から復活した後、ご一緒に」(使徒言行録10∙41)飲食したことの証人であるということです。復活があるのだというキリスト教の希望は、復活されたキリストとの出会いに基づいています。わたしたちはキリストのように、キリストとともに、キリストによって復活するのです。当初から、キリスト者の復活信仰は無理解と反対とに遭いました。「キリスト者の信仰の中で、肉体の復活以上に反対を受ける点はほかにありません」。死後、人間のいのちが霊的な状態に生き続けられるということは広く一般に認められてはいますが、この確かに朽ちるはずの肉体が永遠のいのちによみがえるなどということが、どうして信じられるでしょうか。死者はどのように復活するか「復活する」とはどういうことか。霊魂と肉体とが分離する死において、人間の肉体は腐敗しますが、霊魂は神のもとに至り、栄光を受ける肉体に再び結合される日を待ちます。神はその全能によってわたしたちの霊魂に肉体を結合させながら、イエスの復活の力によって最終的には肉体に不滅のいのちを戻してくださいます。だれが復活するのか。死んだすべての人です。「善を行った者は復活していのちを受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために」(ヨハネ5∙29)復活するのです。どのように復活するのか。キリストはご自分のからだで復活されました「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ」(ルカ24∙39)。しかし、この世のいのちには戻られませんでした。同じく、イエスにおいて「すべての者は現在のそれぞれのからだで復活します」が、このからだは栄光あるからだ、「霊のからだ」(一コリント15∙44)に変えられるのです。
「しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんなからだで来るのか、と聞く者がいるかもしれません。愚かな人だ。あなたがまくものは、死ななければいのちを得ないではありませんか。あなたがまくものは、後でできるからだではなく、……ただの種粒です。……まかれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活するのです。……死者は復活して朽ちない者とされます。……この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります」(一コリント15∙35-37,42,52-53)。この「復活の方法」は、わたしたちの想像と理解とを超えたもので、信仰によってしか把握できません。しかし、エウカリスチア(感謝の祭儀)にあずかるわたしたちは、すでにキリストによるわたしたちのからだの変容を前もって味わっているのです。 「大地の実りであるパンが∙神への呼びかけがなされると、もはや普通のパンではなく∙地上的なものと天上的なものとから成り立つエウカリスチア(聖体)となるように、エウカリスチアをいただくわたしたちの身体も、もはや朽ちるべきものではなく、復活の希望を持つものとなります」。いつ復活するのか。最終的には「終わりの日」(ヨハネ6∙39-40,44,54、11∙24)、「世の終わり」に復活します。事実、死者の復活はキリストの再臨と密接に結ばれています。「合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主ご自身が天からくだって来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活します」(一テサロニケ4∙16)。キリストとともに復活した者キリストが「終わりの日」にわたしたちを復活させてくださるのが真実であれば、わたしたちがすでに今、何らかの形でキリストとともに復活していることも、また真実です。事実、キリスト者の生活は、聖霊のおかげで、この世にありながらすでにキリストの死と復活とにあずかっているのです。
「あなたがたは洗礼によってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストとともに復活させられたのです。……あなたがたはキリストとともに復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます」(コロサイ2∙12、3∙1)。洗礼によってキリストに結ばれた信者は、復活されたキリストの天上のいのちに、すでに、現実にあずかっています。しかし、そのいのちは「キリストとともに神のうちに隠されています」(コロサイ3∙3)。神はわたしたちを「キリスト・イエスによってともに復活させ、ともに天の王座に着かせてくださいました」(エフェソ2∙6)。わたしたちはエウカリスチアにおいてキリストのからだで養われ、すでにキリストのからだに属しています。終わりの日に復活するときには、わたしたちもまた、「キリストとともに栄光に包まれて」(コロサイ3∙4)現れるでしょう。その日を待望しながら、信者の肉体と霊魂はすでに、「キリストに」属するものの品位を備えています。ですから、自分のからだだけでなく、他人のからだをも尊重しなければなりません。苦しんでいる人の場合にはとくにそうです。 「からだは……主のためにあり、主はからだのためにおられるのです。神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。あなたがたは、自分のからだがキリストのからだの一部だとは知らないのか。……あなたがたはもはや、自分自身のものではないのです。……だから、自分のからだで神の栄光を現しなさい」(一コリント6∙13-15,19-20)。

キリスト・イエスに結ばれて死ぬ

キリストとともに復活するには、キリストとともに死に、「からだを離れ、主のも牛に住」(ニコリント5∙8)まなければなりません。世を去るとき、つまり死ぬときに霊魂はからだから離れ、死者の復活の日に、自分のからだに再ぴ合わされるでしょう。「死を前にして初めて、人間の条件についてのなぞは頂点に達します」。ある意味で、肉体の死は自然なことですが、信仰の立場から見ると、「罪が支払う報酬」(ローマ6∙23)なのです。また、キリストの恵みのうちに死んでいく人にとっての死とは、キリストの復活にあずかることができるためにキリストの死にあずかることなのです。死は、この世のいのちの終わりです。わたしたちには寿命があって、その間わたしたちは変わり、老いていきます。そして、この世のすべての生物に見られるように、いのちの終わりには当然死がやってきます。死のこうした面は、わたしたちの人生に、ある緊迫感を与えます。つまり、死を思うとき、わたしたちは自分の人生をまっとうするために限られたひとときしか持たないことに気づくからです。
「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。……ちりが元の大地に帰り、霊が与え主である神に帰る〔日が来ないうちに〕」(コヘレト12∙1,7)。死は罪の結果です。教会の教導職は、聖書と聖伝とを正しく解釈する者として、死は人間の罪のゆえにこの世に入ったと教えています。人間は死すべき本性を持っているにもかかわらず、神は人間を不死に定めました。したがって、死は創造主である神の意図に反するもので、罪の結果としてこの世に入ってきました。「人間が罪を犯さなかったならば、それを免れたはずの」肉体的死は、人間の打ちかつべき「最後の敵」(一コリント15∙26)なのです。死はキリストによって変質されました。神の子であるイエスもまた、すべての人が負うべき死を受け入れられました。しかし、死を前にして恐れながらも、イエスは御父のみ旨に対する全面的で自発的な服従によって死を受容されました。イエスの従順が、死ののろいを祝福に変えたのです。キリスト教的死の意味キリストのおかげで、キリスト教的死は肯定的な意味を持つことになります。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(フィリピ1∙21)。「次のことばは真実です。
『わたしたちは、キリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きるようになる』」(ニテモテ2∙11)。キリスト教的死の本質的な新しさとは、キリスト者は新しいいのちに生きるためにすでに洗礼によって秘跡的には「キリストとともに死んで」おり、わたしたちがキリストの恵みのうちに死ぬならば、肉体的な死はその「キリストとともに死ぬこと」を完遂し、わたしたちをキリストのあがないのわざに完全に組み入れるということです。 「わたしには、王として地の果てに至るまで支配するよりも、イエス・キリストに一致するために死ぬほうがよいのです。わたしが求めるのは、わたしたちのために死んでくださったキリストであり、わたしが望むのは、わたしたちのために復活してくださったキリストなのです。わたしには陣痛が迫っています。……わたしに清い光を受けさせてください。そこに行き着くことができたとき、わたしは人間となるでしょう」。死において、神は人間をご自分に呼び寄せられます。ですから、キリスト者は死に対し聖パウロと同じように、「この世を去って、キリストとともにいたいと熱望」(フィリピ1∙23)することができます。そして、キリスト者は自分の死を、キリストにならって、御父への従順と愛の行為に変えることができるのです。
「この世的なわたしの望みは十字架につけられました。……わたしのうちには一筋の生ける水が流れていて、わたしの中でささやきながら、『御父のもとに来なさい』と語りかけています」。
「わたしは神様を見たいのです。見るためには、死ななければなりません」。
「わたしは死にません。いのちに入るのです」。死に関するキリスト教的な見方は、教会の典礼にすばらしく表現されています。 「〔主よ、〕信じる者にとって、死は滅びではなく、新たないのちへの門であり、地上の生活を終わった後も、天に永遠の住みかが備えられています」。死は地上における人間の旅路の到着点であり、神が人間にお与えになる恵みとあわれみの時の終わりです。人は自分の人生を神の意図に沿ってまっとうし、また行く末を決定しなければなりません。「わたしたちの地上生活の一回限りの行程」が終わると、わたしたちは、別の人生を生きるためにこの世に戻ることはありません。「人間にはただ一度死ぬことが定まっている」(ヘプライ9∙27)のです。死後に「転生」はありません。教会は死の時を準備するようわたしたちに勧めます(昔の諸聖人の連願には、「主よ、突然の、不測の死からわたしたちを救ってください」という祈りがあります)。また、「死を迎えるとき」(「聖母マリアヘの祈り」)わたしたちのために執り成してくださるようマリアに祈り、自分たちをよい臨終の擁護者である聖ヨセフにゆだねるよう勧めます。
「あなたが行い、考えるときはいつも、今日死ぬようなつもりでそうしなさい。あなたの良心にやましさがなければ、あまり死を恐れるべきではありません。死を避けるよりも罪を犯さないようにするのがよいのです。今日用意ができていなかったら、どうして明日用意ができるでしょうか」。
「主よ、生きている者はだれ一人死を逃れられません。わたしたちの姉妹である肉体的死のため、あなたはたたえられますように。大罪をもって死ぬ人は不幸です。聖なるみ旨を果たして死ぬ人は幸いです。第二の死が彼らを苦しめることはないからです」。

要約

「肉体は救いのかなめです」。わたしたちは肉体の創造主である神を信じます。肉体を持つ人間をあがなうために受肉されたみことばを信じます。肉体の創造と、あがないの完成である肉体の復活を信じます。死によって霊魂はからだから離れますが、復活にあたり、神はからだを霊魂に再び結合させて、わたしたちの変質したからだに不死のいのちを戻されます。キリストが復活されて永遠に生きておられるように、わたしたちも皆、終わりの日に復活します。「わたしたちは、今わたしたちが持っているこの肉体の真の復活を信じます」。しかし、墓に納められるのは朽ちるからだであるのに対して、復活するのは朽ちないからだ、「霊のからだ」(一コリント15∙44)です。原罪の結果、人間は、「罪を犯さなかったならば免れたはず」の肉体的な死を体験しなければなりません。神の御子イエスは、父である神のみ旨への全面的で自発的な従順によって、わたしたちのために進んで死を受け入れられました。ご自分の死によって死に打ちかち、すべての人に救いの道を開かれました。

「永遠の命を信じます」

私審判

自分の死をイエスの死に結びつけるキリスト者は、死をキリストのもとへ行き、永遠のいのちに入ることとみなします。教会は臨終のキリスト者に、これを最後としてキリストのゆるしのことばを唱え、力を与える塗油によって信仰を固め、旅路の糧としての聖体のキリストを授けた後、愛情のこもる確信をもって臨終者にこう語りかけます。
「キリスト者の魂よ、あなたを造られた全能の父と、あなたのために苦しまれた生ける神の子イエス・キリストと、あなたのうちに注がれた聖霊とのみ名によってこの世を去りなさい。今日、平安のうちに憩い、聖なるシオンで神と神の母おとめマリア、聖ヨセフ、諸天使、神のすべての聖人とともに終わりなくとどまりなさい。……あなたを地のちりから造られた創造主のもとへ戻りなさい。願わくはあなたの霊魂が肉体を離れるとき、マリアと諸天使、諸聖人が急いであなたを出迎えてくれますように。……願わくはあなたのあがない主に対面できますように」。人生というものはキリストのうちに現された神の恵みを受け入れることも拒否することもできる期間ですが、死はこれに終止符を打つのです。新約聖書は、裁きについて再臨されるキリストとの最終的出会いを背景に語っていますが、各自が死の直後にそれぞれのわざと信仰とに応じて受ける報いについても、繰り返し明言しています。貧しいラザロのたとえや回心した犯罪人に向けた十字架上のキリストのことばは、新約聖書の他の箇所と同じように、霊魂の最終的な行く末がそれぞれに異なることを語っています。人は死んだらすぐ、人生におけるキリストとのかかわり合いについての私審判の結果に基づき、その不滅の霊魂において永遠の報いを受けます。それは、清めを経た上で天の至福に入るか、あるいは直接に天の至福に入るか、あるいは直ちに永遠の苦しみ(罰)を受けるかの、いずれかです。
「わたしたちは生涯の夕べに、愛について裁かれるでしょう」。

天国

神の恵みと神との親しい愛のうちに死に、完全に清められた人々は、キリストとともに永遠に生きます。この人々は永遠に神に似た者となります。神を「ありのままに」(一ヨハネ3∙2)、「顔と顔とを合わせて」(一コリント13∙12)見るからです。
「わたしは、使徒的権威をもって次のことを宣言します。神がどのようなかたであるかを考えると、すべての聖人……や、キリストの聖なる洗礼を受けた後に死のときに清めるべきものを何も残さずに死んだ信者……、あるいは、死のときないし死後に清めるべき何かを持っていたとしても死後その浄化を終えた信者の霊魂は……、たとえ自分の肉体の復活や公審判の前ではあっても、救い主であるイエス・キリストの昇天以後は、これまでも、現在も、これからも、キリストとともにある天国、天の国、天上の楽園における、聖なる天使たちの交わりに受け入れられましたし、受け入れられていくのです。わたしたちの主イエス・キリストの受難と死以来、このような霊魂は、いかなる被造物の仲介もなく、顔と顔とを合わせて神の本性を直観しましたし、また直観するのです」。至聖三位一体とともにあるこの完全ないのち、また至聖三位、おとめマリア、諸天使、諸聖人とのこのいのちの交わりが、「天国」と呼ばれます。天国とは、人間の究極目的、その内奥にある願望の実現であり、この上ない至福の状態なのです。天国で生きるとは、「キリストとともにいる」ということです。選ばれた人々は「キリストのうちに」生きるのですが、キリストのうちに真の自分という存在を、つまり自分の固有の名前を確保します。いや、むしろ見いだすのです。
「いのちとは、キリストとともにいることです。キリストのおられるところ、そこにみ国があるからです」。イエス・キリストは、死と復活とによって、わたしたちに天国を「開かれました」。至福者たちのいのちは、キリストが成し遂げられたあがないの実を余すところなく享受することにあります。キリストは、ご自分を信じ、み旨に忠実であった人をご自分の天上の栄光に加えられます。天国とは、キリストに完全に合体したあらゆる人のこの上なく幸せな共同体なのです。神との幸せな交わり、キリストに結ばれたすべての人との幸せな交わりの神秘は、理解と想像をはるかに超えるものです。聖書はこれについて、いのち、光、平和、婚礼のうたげ、王国のぶどう酒、父の家、天上のエルサレム、楽園などの表象で語っています。「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神はご自分を愛する者たちに準備された」(一コリント2∙9)。神は超越的存在ですから、ありのままに見ることができるのは、ご自分の神秘を自ら人間に直接にお見せになるとき、また、その能力を人間にお与えになるときだけです。天上の栄光に包まれた神を観想することは、教会によって「至福直観」と呼ばれています。
「あなたの栄光、あなたの幸福は何とすばらしいものでしょう。あなたは、神を見ることをゆるされ、あなたの神である主キリストのおそばで救いの喜びと永遠の光とにあずかる光栄を受け、……天の国で正しい入々、神の友である人とともに、あなたの獲得した不死の喜びを味わうでしょう」。至福者たちは天の栄光のうちにあって、他の人々や全被造物に対する神のみ旨を喜んで果たし続けます。彼らは、すでにキリストとともに統治しており、キリストとともに「世々限りなく統治する」(黙示録22∙5)ことになるのです。

最終の清め・煉獄

神の恵みと神との親しい交わりとを保っていながら、完全に清められないままで死ぬ人々は、永遠の救いこそ保証されているものの、死後、天国の喜びにあずかるために必要な聖性を得るよう、ある浄化の苦しみを受けます。教会は、永遠にのろわれた人たちの苦しみとはまったく異なる、選ばれた人が受ける最終的浄化を、煉獄と呼んでいます。教会は煉獄に関する信仰の教えを、とくにフィレンツェ公会議とトリエント公会議で表明しました。教会の伝承では、聖書の若干の箇に基づいた、清めの火というものを取り上げています。
「ある種の軽い罪に関して、審判の前に清めの火があることを信じなければなりません。その根拠は、真理であるかたが、もしだれかが聖霊に対して冒漬のことばを口にすれば、この世でもあの世でもゆるされない、といわれたことにあります(マタイ12∙32)。このことばから、ある罪はこの世で、他のある罪はあの世でゆるされうる、と解釈することができます」。この教えはまた、すでに聖書が述べている死者のための祈りの慣行にも基づいています。「そういうわけで、〔ユダ∙マカバイ〕は死者が罪から解かれるよう彼らのためにあがないのいけにえをささげたのである」(ニマカバイ12∙45)とあります。教会は当初から死者の記念を重んじ、死者のために祈り、とくにエウカリスチアのいけにえをささげていました。それは死者が清められて、神の至福直観に至ることができるためです。教会はまた、死者のために施し、免償、償いのわざを勧めています。
「死者を助け、追悼を行いましょう。ヨブの息子たちが父親のいけにえによって清められたのなら、わたしたちはなぜ、死者のための供え物が死者に何らかの慰めをもたらすことを疑うのでしょうか。ためらわずに、死んだ人々を助け、彼らのために祈りをささげましょう」。

地獄

わたしたちは自由意志をもって神を愛することを選ばない限り、神に結ばれることはできません。しかし、神に対し、隣人に対し、あるいは自分自身に対して大罪を犯すならば、神を愛することはできません。「愛することのない者は、死にとどまったままです。兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠のいのちがとどまっていません」(一ヨハネ3∙14-15)。キリストが戒めておられるように、もし貧しい人や小さい人の大きな困窮を顧みないならば、わたしたちはキリストから離れることになります。彼らは主の兄弟だからです。痛悔もせず、神の慈愛を受け入れもせずに、大罪を犯したまま死ぬことは、わたしたち自身の自由な選択によって永遠に神から離れることを意味します。自ら神と至福者たちとの交わりから決定的に離れ去ったこの状態を、「地獄」ということばで表現するのです。イエスはしばしば、消えることのない火の「ゲヘナ」について話されました。それは、生涯の終わりまで信じることも回心することも拒み続ける人々のために残されたもので、そこでは霊魂も肉体もともに滅ぼされうるのです。イエスは深刻なことばで、「人の子は天使たちを遣わし、……不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませる」(マタイ13∙41-42)と述べ、また、「のろわれた者ども、わたしから離れ、永遠の火に入れ」(マタィ25∙41)という宣告を下すことを予告しておられます。教会は、地獄の存在とその永遠性とを教えています。大罪を犯したまま死ぬ人々の霊魂は、死後直ちに地獄に落ち、そこで、地獄の苦しみ、「永遠の火」に耐えなければなりません。そもそも、人間はただ神のうちにおいて、自分が造られた目的であり願望の的であるいのちと幸せとを得ることができるのですが、地獄の苦しみの中心となるのは、この神との決別の状態が永遠に続くということなのです。地獄に関する聖書の主張と教会の教えとは、人間が自分の永遠の行く末のことを考えながら自由を用いなければならないという責任遂行への呼びかけであると同時に、回心を促す招きでもあります。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、いのちに通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」(マタイ7∙13-14)とキリストはいわれました。
「主も忠告されたように、わたしたちはその日も時も知らないのですから、たえず警戒を怠ってはならないのです。わたしたちの地上生活一回限りの行程を終えた後、主とともに婚宴に入り、祝された人々のうちに数えられることがゆるされるよう心掛け、また、怠惰な悪いしもべのように、『嘆きと歯がみのある』外のやみの中へ、永遠の火の中へ離れ去るように命じられることのないよう警戒しなければなりません」。神は、だれ一人地獄に予定してはおられません。自分の意志で、神から離れる態度(大罪)を持ち続け、死ぬまでその態度を変えない人だけが地獄に落ちるのです。教会はエウカリスチアの典礼と信者の日々の祈りとの中で、「一人も滅びないで皆が悔い改める」(二ペトロ3∙9)ことを望まれる神のあわれみを祈願します。
「わたしたち――奉仕者と全家族――のこの奉献を快く受け入れ、あなたの平和を日々わたしたちに恵み、永遠の滅びから救い、選ばれた者の群れに加えてください」。

最後の審判

「正しい者も正しくない者も」(使徒言行録24∙15)、すべての死者の復活が、最後の審判の前に行われます。そのとき、「墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活していのちを受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来る」(ヨハネ5∙28-29)のです。そのとき、キリストは「栄光に輝いて天使たちを皆従えて来〔られます〕……すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置〔かれます〕……こうして、〔正しくない人たち〕は永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠のいのちにあずかる」(マタイ25∙31-33,46)のです。真理であるキリストを前にしたとき、一人ひとりが神とどのようにかかわったかが明らかになります。最後の審判では、各自がそれぞれの生涯中に行ったよいこと、怠ったこと、またその最終的結果までが明らかにされます。
「悪人が行うすべての悪は記録されています。しかも、彼らはそれを知らないのです。神が黙しておられない日が来ます(詩編50∙3)。……キリストは左側にいる人たちに向かってこういわれるでしょう。わたしはお前たちのため、地上にわたしの哀れな貧しい者たちを置いた。わたしは彼らの頭であり、天で父の右に座していた。しかし、地上ではわたしの肢体が飢えていた。お前たちがわたしの肢体である人々に何かを与えていたなら、それは頭であるわたしに届いたであろう。わたしの哀れな貧しい者たちを地上に置いたとき、わたしは彼らを、お前たちのよい行いをわたしの宝庫に納めるための代理業者としたのだ。ところが、お前たちは彼らの手に何も預けなかった。だから、お前たちはわたしのもとでは何も持たないのだ」。最後の審判は、キリストの栄光の再臨のときに行われます。御父だけがその時と日をご存じで、それを決定されるのも御父です。そのとき神は、御子イエス・キリストを通して、全歴史に対する決定的な宣告を下されます、わたしたちはそのとき、創造のすべてのわざと、救いの計画のすべての究極の意味を知ります。そして、摂理が感嘆すべき方法で万物をそれぞれの究極目的に導かれたことを理解します。最後の審判は、神の正義は被造物が犯したあらゆる不正に打ちかつこと、また、その愛は死よりも強いことを明らかにします。最後の審判の教えは、神が人間に「聞き入れる時、救いの日」(ニコリント6∙2)をまだ与えておられる間に、回心するようにと促します。また、神への聖なる畏敬を起こさせ、神の国の正義を行うように促し、「ご自分の聖なる者たちの間であがめられ、また、すべて信じる者たちの間でほめたたえられる」(ニテサロニケ1∙10)ために来られるキリストの再臨の「祝福に満ちた希望」(テトス2∙13)を告知します。

新しい天と地の待望

世の終わりに、神の国は完成します。公審判の後、正しい人々は肉体も霊魂も栄光を受けてキリストとともに永遠に統治し、全宇宙が新たにされるでしょう。
「その教会は、天の栄光において初めて完成を見るのです。すなわち、万物の回復の時が来て、全人類とともに全世界一それは人間に密接に結ばれ人間を通して自己の目的に到達します一もまたキリストにおいてまったく建て直されるのです」。人類と世界を変革するこの神秘的な刷新を、聖書は「新しい天と新しい地」(二ペトロ3∙13)と呼んでいます。それは、「あらゆるものが、天にあるものも地にあるものも、頭であるキリストのもとに一つにまとめられる」(エフェソ1∙10)という神の計画の最終的な実現です。この新しい世界、天上のエルサレムで、神は人の間に住まわれます。そして、「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださ(います)もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦も(ありません)最初のものは過ぎ去ったから」(黙示録21∙4)です。人類にとって、この完成は創造のときから神が定めておられた人類一致の最終的な実現で、旅する教会はこの一致の「秘跡のような」ものでした。キリストに結ばれた人々は、あがなわれた者たちの共同体、神の「聖なる都」(黙示録21∙2)、「小羊の妻である花嫁」(黙示録21∙9)を形づくります。この共同体はもはや、人間の地上における共同体を破壊し傷つける罪、汚れ、自己愛などによって損なわれることはありません。神が選ばれた人々にご自分を無限に示される至福直観は、幸福と平和と交わりの、尽きることのない泉です。宇宙について、啓示は、物質的世界と人間との間に神の定めに基づく深い一体性があることを明らかにしています。
「被造物は、神の子たちの現れるのをせつに待ち望んでいます。……被造物も、いつか滅びへの隷属から解放される、という希望を持っています。……被造物がすべて今日まで、ともにうめき、ともに産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、霊の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、からだのあがなわれることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」(ローマ8∙19-23)。したがって、見える宇宙もまた一新されるよう定められています。それは、復活されたイエス・キリストに結ばれた人々の栄光にあずかることによって、「宇宙自体がその最初の状態に復帰して、もはや何の障害もなく、正しい人々に奉仕するため」なのです。「わたしたちは地と人類の完結の時を知らないし、宇宙がどのように変えられていくのかも知りません。罪によって醜く変形した世界の様相は確かに過ぎ去ります。しかし、神によって新しい住居と新しい地が用意され、そこには正義が支配し、その幸福は人間の心にある平和への願望をすべて満たし、また超えるものであることをわたしたちは教えられています」。「しかし、新しい地に対する期待は、現在この地を開拓する努力を弱めるものであってはならず、かえってそれを励ますものでなければなりません。この地上において、すでに新しい世をいくらか予表している新しい人類家族の共同体が育っています。したがって、地上の進歩は、キリストの国の発展とははっきり区別されなければなりませんが、人間社会の向上に寄与することができる限り、神の国にとっても重要なのです」。「人間の尊厳、兄弟的交わり、自由など、すなわち人間の本性と努力のよき実りであるこれらすべての価値あることを、わたしたちは主の霊において、また主のおきてに従って地上に広めた後、それらをあらゆる汚れから清められたもの、光り輝くもの、変容したものとして再び見いだすでしょう。それはキリストが『永遠普遍の国』を父に返すときです」。そのとき、神は永遠のいのちの中で「すべてにおいてすべて」(一コリント15∙28)となられるのです。
「永続する真のいのち、それは御父にほかなりません。御父が御子によって、聖霊のうちに、万物に例外なく天のたまものを注いでくださいます。御父のあわれみのおかげで、わたしたち人間もまた、永遠のいのちの変わらぬ約束を受けました」。

要約

人間は死のとき、生者と死者との裁き手であるキリストが行う私審判で、自分の不滅の霊魂において、永遠の応報を受けます。「〔わたしたちは〕キリストの恩恵をもって死ぬすべての魂が、死を超える永遠において神の民であることを信じます。これらの魂がその肉体と再び一致する復活の日に、死は決定的に征服されると信じています」。「わたしたちは天国においてイエスとマリアとともに、集められた人々の群れが天の教会を形成していることを信じます。彼らがそこで永遠の幸福のうちに神をそのままに見、そしてそれぞれの形で、栄光のうちにキリストが行使される支配のもとに聖なる天使たちに結び合わされ、わたしたちのために執り成し、その兄弟的配慮をもってわたしたちの弱さを助けていることを信じます」。神の恵みと親しい交わりのうちに死んでも完全に清められていなかった人々は、永遠の救いは保証されているとはいえ、神の喜びに入るために必要な聖性を得られるよう、死後、清めの苦しみを受ける必要があります。教会は「聖徒の交わり」によって、神が死者たちをあわれんでくださるように願い、また、死者のために祈り、とくに聖なるエウカリスチアのいけにえをささげます。教会はキリストに倣い、「地獄」とも呼ばれる悲しくて嘆かわしい永遠の死というものがあるということを信者に思い起こさせます。人間は神と一致することによってのみ、創造された目的であり願望の的であるいのちと幸せとを得ることができます。地獄の苦しみの中心となるのは、この神との決別の状態が永遠に続くということです。教会はだれ一人滅びることのないように、「主よ、〔わたしが決して〕あなたから離れることのないようにしてください」と祈ります。確かにだれも自分で自分を救うことはできませんが、これと同じく確かなことは、神は「すべての人々が救われること」(一テモテ2∙4)を望んでおられ、神には「何でもできる」(マクイ19∙26)ということです。「すべての人は裁きの日に、自分が行ったことを報告するために自分の肉体をもってキリストの法廷に出頭することを、聖なるローマ教会は固く信じ、強く主張します」。神の国は世の終わりに完成します。そのとき、正しい人々は肉体も霊魂もともに栄光を受け、キリストとともに永遠に統治し、物質界自体も一新されます。そのとき、神は永遠のいのちの中で「すべてにおいてすべて」(一コリント15∙28)となるでしょう。

「アーメン」

信条は、聖書の最後の書と同じく、ヘブライ語のアーメンで終わります。この語は新約聖書の祈りの結びに頻繁に見られます。同じように、教会もアーメンで祈りを結びます。ヘブライ語のアーメンは、「信じる」と同じ語源から派生しています。この語源には、堅固さ、信頼性、忠実という意味合いが含まれています。だから、「アーメン」という語は、わたしたちに対する神の忠実と神へのわたしたちの信頼とを表す際に使われるのです。預言者イザヤの書には、「真実の神」、文字どおりでは「アーメンの神」、すなわち約束に忠実な神という表現が出ています。「この地で祝福される人は、真実の神によって祝福される」(イザヤ65∙16)のです。キリストはしばしば、「アーメン」の語を用い、時には、重ねて二度いわれました。ご自分の教えの信頼性、神の真実に基づいたご自分の権威を強調されたのです。したがって、信条の最後の「アーメン」は、冒頭の語「わたしは信じます」を追認しているわけです。信じるとは、神のことば、約束、おきてに「アーメン」ということにほかなりません。限りない愛、完全な忠実の「アーメン」である神にまったく信頼することです。ですから、キリスト者の日常生活は、洗礼のときの信仰宣言のあの「わたしは信じます」への「アーメン」になる.でしょう。
「あなたの信条が、あなたにとって一つの鏡であってほしいと思います。その中で自分の姿を見つめてください。信じていると宣言しているすべてのことを、本当に信じているかどうかを見るためです。また、毎日、あなたの信仰を喜びとしなさい」。イエス・キリストご自身が「アーメン」です(黙示録3∙14参照)。わたしたちに対する御父の愛の決定的な「アーメン」なのです。そして、御父へのわたしたちの「アーメン」を引き受け、成就なさいます。「神の約束は、ことごとくこのかたにおいて「然りとなりました。それで、わたしたちは神をたたえるため、このかたを通して『アーメン』と唱えます」(ニコリント1∙20)。
「キリストによってキリストとともにキリストのうちに、
聖霊の交わりの中で
全能の神父であるあなたに、
すべての誉れと栄光は、
世々に至るまで
アーメン」。

聖三位一体のわざである典礼

聖霊降臨の日、聖霊を注がれた教会は世に姿を現しました。聖霊が与えられたことで、「神秘の分配」の新しい時代が始まります。それは、教会の時代であり、その間に、キリストはご自分の教会の典礼を通して「〔ご自分〕が来られるときまで」(一コリント11∙26)その救いのわざを現し、現在化し、分け与えられるのです。キリストはこの教会の時代の間、ずっと、ご自分の教会の中で、また教会とともに、この新しい時代に固有な新しい方法で生き、働かれま`す。すなわち、諸秘跡を通して働かれるのです。これが、東方教会と西方教会の共通の伝承が「秘跡による救いの営み」と呼ぶところのものです。それは、教会の「秘跡の」典礼の執行に際してキリストの過越の神秘の実りを分け与えること(あるいは分配すること)によって行われます。したがって、まずこの「秘跡による分配」を説明することが重要になりま葺す(第1章)。こうして、典礼の本性とその本質的な面とがより明らかにされるでしょう(第2章)。

典礼の源泉であり目的である御父

「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、み心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたぢがたたえるためです」(エフェソ 3:6)。祝福(賛美)とは御父を源とする神的働きで、いのちを与えるものです。神の祝福は、ことばとたまものとが一体となったもの(εύ よく-λογία いうことくエウ‐ロギア〉)です。人間が神を賛美する(祝福する)という表現は、感謝を込めて創造主を礼拝し帰依することを意味します。時の始めから終わりに至るまで、すべての神のみわざは祝福なのです。最初の創造を述べる詩から天上のエルサレムで歌われる賛歌に至るまで、聖書記者たちは救いの計画を神の尽きることのない祝福として告げています。創造の初めから、神はいのちある者、とくに男と女を祝福されました。ノアおよびすべての生き物と交わされた契約は、地を「のろわれたもの(悪くいわれたもの)」とした人間の罪にもかかわらず、繁殖の祝福を新たにします。そして、アブラハムに至って初めて、神の祝福は死に向かいつつあった人類の歴史に浸透し、これをいのちに、その源に戻らせることをはかり、この祝福を喜んで受け入れた「信じる者の父」であるアブラハムの信仰によって、救いの歴史が始まったのです。神の祝福は、驚くべき救いをもたらす出来事に現れます。イサクの誕生、エジプト出国(過越と脱出)、約束の地の付与、ダビデの選び、神殿における神の臨在、清めの流謫と「わずかな残りの者」の帰国など。選ばれた民.の典礼を織り成す律法の書、預言書、および詩編は、このような神の祝福を想起させると同時に、それにこたえる賛美と感謝の祝福の祈りなのです。教会の典礼の中で、神の祝福は全面的に明らかにされ、伝えられます。すなわち、御父は創造と救いのすべての祝福の泉ならびに目的として認められ、礼拝されます。わたしたちのために人となり、死んで復活されたみことばにおいて、御父はわたしたちを祝福で満たし、みことばによって、わたしたちの心にすべてのたまものの最高のもの、聖霊を注がれます。こうして、御父がわたしたちに与えられる「霊的祝福」への信仰と愛の応答である、キリスト教典礼の次の二面が分かってきます。すなわち、一方では、教会はキリストに結ばれ、聖霊に動かされて、礼拝と賛美と感謝により、「ことばではいい尽くせない贈り物」(ニコリント9∙15)のゆえに神を祝福します。他方、教会は神の計画が完全に成就するまで、「神がお与えになった供え物」をたえず御父にささげ、その供え物の上に、教会の上に、信者たちとすべての人々の上に聖霊を遣わしてくださるよう懇願します。それは、祭司キリストの死と復活に一致することによって、また聖霊の力によって、この神の祝福が「神〔の〕輝かしい恵みをたたえる」(エフェソ1∙6)いのちの実を結ぶようになるためです。

典礼におけるキリストのわざ

栄光のキリストは‥‥「御父の右に座し」、教会であるご自分のからだに聖霊を注がれた今、キリストは恵みを分かち与えるために制定された諸秘跡を通して行動されます。秘跡とは、人間であるわたしたちの力でもとらえられる感覚的なしるし(ことばと行い)であり、キリストの働きと聖霊の力とによって、しるしが表す恵みを効果的に与えるものです。教会の典礼にあって、キリストはおもにご自分の過越の神秘を示し、実現されます。この世に生きておられた間、イエスはご自分の過越の神秘を教えによって予告し、行動によって先取りしておられました。ご自分の時が到来すると、イエスは「ただ一度」だけ死んで、埋葬され、死者の中から復活し、御父の右にお座りになりました(ローマ6∙10、ヘブラィ7∙27、9∙12参照)。歴史の中でこれだけが過ぎ去ることのない出来事です。これは、人類の歴史に起こった実際の出来事ですが、比類のない出来事です。歴史の他のあらゆる出来事は一一度起これば過ぎ去り、過去の中に飲み込まれてしまいます。これに反して、キリストの過越の神秘はただ過去の出来事にとどまるものではありません。ご自分の死によって死を滅ぼされたからであり、さらに、キリストの存在のすべて、またあらゆる人々のために行い苦しまれたすべてが、神の永遠にあずかり、こうして、すべての時にまたがって、そのうちに現存させられるからです。キリストの十字架上の死と復活の出来事は永続し、いっさいをいのちに引き寄せます。
…使徒たちの教会以来…「したがって、キリストは、ご自分が御父より遣わされたと同じく、聖霊に満たされた使徒たちをお遣わしになりました。それは、彼らがすべての造られた者に福音をのべ伝えるためだけではありませんでした。すなわち、神の御子がご自身の死と復活によって、わたしたちをサタンの力と死より解放し、御父の国に移されたことを告げるためばかりでなく、彼らが告げた救いのわざが、全典礼生活の中心である犠牲と諸秘跡を通して、彼らによって行われるためでもありました」。このように、復活したキリストは使徒たちに聖霊を与えながら、聖とするご自分の権能を彼らにゆだねられました。使徒たちは、キリストの秘跡的しるしとなったわけです。同じ聖霊の力によって、使徒たちはこの権能を後継者たちにゆだねます。この「使徒継承」が教会の典礼活動全体を支える土台であり、それは叙階の秘跡によって伝えられます。‥‥地上の典礼のうちに現存しておられる‥‥「このような〔キリストの救いのわざを分配し、与えるという〕偉大なわざを成就するため、キリストは、つねにご自分の教会とともにおられ、とくに典礼行為に現存しておられます。キリストはミサの犠牲のうちに現存しておられます。それは、『かつて十字架上でご自分をささげられた同じキリストが、今、司祭の奉仕によって奉献者として』司祭のうちに現存するとともに、またとくに、聖体の両形態のもとに現存しておられるのです。諸秘跡の一うちにキリストは、ご自身の力をもって現存しておられます。すなわち、だれかが洗礼を授けるとき、キリストご自身が洗礼をお授けになるのです。キ’リストはご自身のことばのうちに現存しておられます。それは、聖書が、教会の中で読まれるときは、キリスト自身が語られるからです。なおキリストは、教会が懇願し、賛美を歌うときにも、現存しておられます。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる』(マタイ18∙20)と約束されたからです」。「事実、神に完全な栄光が帰せられ、人が聖化されるこのような偉大なわざにおいて∙キリストは∙ご自分の最愛の花嫁である教会をつねにご自身とともにあらしめ∙教会は自らの主を呼び、主によって永遠の御父に礼拝をささげるのです」。‥‥地上の典礼は天上の典礼にあずかる「地上の典礼において∙わたしたちは天上の典礼を前もって味わい、これに参加しています。この天上の典礼は、旅するわたしたちが目指す聖なる都∙エルサレムにおいて行われており、そこにはキリストが、至聖所と真の幕屋の祭司として、神の右に座しておられます。わたしたちは、天軍のあらゆる軍勢とともに、主に栄光の賛歌を歌い、諸聖人の記念を尊敬して、彼らの交わりにあずかることを望み、われらの生命なる主が現れ、わたしたちも主とともに栄光のうちに現れるときまで、救い主、われらの主イエス・キリストが来られるのを待ち望むのです」。

典礼におけるキリストのわざ

典礼の中で、聖霊は神の民の信仰の教導者、新約の諸秘跡という「神の傑作」の作者です。教会における聖霊の望みとわざは、わたしたちが復活したキリストのいのちを生きることにほかなりません。聖霊が自ら呼び起こした信仰の応答をわたしたちのうちに見いだされるとき、真の協力が実現されます。この協力によって、典礼は聖霊と教会との共同のわざとなります。キリストの神秘の秘跡による分配の中で、聖霊は救いの営みの他のときと同じようなしかたで働かれます。すなわち、教会をキリストとの出会いに備え、信じる会衆にキリストを思い起こさせ、ご自分の変化させる力によってキリストの神秘を現在化させ、最後には、交わりの霊として、教会をキリストのいのちと使命とに結びつけます。聖霊は教会を迎える準備をする聖霊は、秘跡による救いの営みの中で、旧約の予型を成就します。キリストの教会は「イスラエルの民の歴史と旧約を通してくしくも準備され」ましたので、教会の典礼は、以下のような旧約の礼拝形式を、かけがえのない一つの構成要素として維持しています。
――とくに、旧約聖書の朗読。
――詩編の祈り。
――もっとも大切にしているのが、キリストの神秘のうちに実現した救いの出来事と象徴的なことがら(約束と契約、エジプト脱出と過越、王国と神殿、バビロニア捕囚と帰国)の記念。以上のように、旧約と新約とを結び合わせながら、キリストご自身のカテケージス、そして使徒たちや教父たちのカテケージスが行われています。旧約聖書の文字に隠されていたキリストの神秘を明るみに出す形式のこうしたカテケージスは、「予型論的カテケージス」と呼ばれています。それは、旧約の出来事、ことばと象徴の中でキリストを告げていた「前表(予型)」に基づいて、キリストの新しさを示すからです。このように、キリストを基にして、真理の霊によって読みなおすとき、前表(予型)の意味が明らかにされます。たとえば、ノアの洪水は洗礼による救いの前表であり、雲と紅海の横断もまた、同様です。岩からわき出る水はキリストの霊的たまものの前表でしたし、砂漠のマナは「天からのまことのパン」(ヨハネ6∙32)である聖体の前表でした。以上の理由で、教会は、とくに待降節と四旬節、わけても復活徹夜祭で、救いの歴史のすべての重大な出来事を典礼の「今日」という場に立って読み直し、追体験します。しかし、それが実際に効果あるものとなるためには、教会の典礼が表現し体験させている救いの営みを「霊的に」理解できるように、カテケージスを通して信者を助けることが必要です。ユダヤ教典礼とキリスト教典礼。今日でもなおユダヤ教徒が大切にしている彼らの信仰と宗教生活とをよく知ることは、キリスト教典礼のある部分のよりよい理解に役立ちます。ユダヤ教徒にとってもキリスト教徒にとっても、聖書はそれぞれの典礼の本質的部分です。神のことばを宣言し、このことばに応答し、賛美の祈りと生者、死者のための取り次ぎの祈りとをささげ、神のあわれみに訴えるため、聖書が用いられます。ことばの典礼は、その本来の構造としてはユダヤ教の祈りを起源としています。時課の祈り(聖務日課)や他の典礼文、さらに、「主の祈り」をはじめとするわたしたちのもっとも大切な祈りの形体もが、ユダヤ教の祈りと類似しています。感謝の祭儀の奉献文もまた、ユダヤ教伝承の形式に着想を得ています。ユダヤ教典礼とキリスト教典礼との関係、また両者の内容の相違は、とくに過越祭のような典礼暦上の大祝日に顕著に表れます。キリスト教徒とユダヤ教徒は過越祭を祝いますが、ユダヤ教徒は将来に向かう歴史的出来事としての過越を祝い、キリスト教徒はキリストの死と復活とによって成就された過越を、その決定的完成を将来に向けて待望しながら祝うのです。新約の典礼では、すべての典礼行為、とくに感謝の祭儀や諸秘跡の挙行が、キリストと教会との出会いの場となっています。典礼集会は、神の子らをキリストの唯一のからだを集める「聖霊の交わり」によって一つに結ばれます。この交わりは人間的、人種的、文化的および社会的近縁関係を超越するものです。集会はキリストとの出会いに自らを準備し、準備のできた民とならなければなりません。この心の準備は聖霊と会衆、とくに奉仕者たちとの共同のわざです。聖霊の恵みが目覚めさせようとしているものは、信仰、回心、御父のみ旨への従順です。これらの心構えは、典礼の中で与えられるその他の恵みを受ける前提であり、典礼から生じるはずの新しいいのちの実の前提でもあり、典礼から生じるはずの新しいいのちの実の前提でもあります。聖霊はキリストの聖霊はキリストの神秘を想起させる聖霊と教会とは協力して、典礼の中にキリストとその救いのわざとを表します。第一義的にはエウカリスチアでの、類比的にはその他の諸秘跡での典礼は、救いの神秘の記念祭です。聖霊は教会の生きた記念(過越の出来事を生き生きと想起させてくださるかた)です。神のことば。聖霊はまず典礼集会において神のことばにいのちを与えて、救いの出来事の意味を想起させてくださいます。神のことばが告知されるのは、それを受け入れて生きるためです。
「典礼行事にとって、聖書はもっとも重要なものです。聖書から朗読が行われ、これが説教によって説明されます。聖書から詩編が歌われ、聖書の息吹と感動から典礼の祈りや祈願や聖歌がわき出たのであり、また聖書から行為のしるしはその意義を受けるのです」。聖霊は朗読者と会衆に、それぞれの心のあり方に従って神のことばを霊的に理解させます。聖霊は典礼を形づくることばと行為と象徴とを通して、信者と役務者たちを御父のことばであり姿であるキリストとの生きた交わりに導き入れ、こうして一同は、典礼の中で聞き、観想し、行っていることの意味を、それぞれの生活のうちに具現することができるようになります。「救いのことばによって……信者の心に信仰を養うのです。そしてこの信仰によって信者の集まりが始まり、また育つのです」。神のことばの告知は教えることにとどまらず、神とその民との契約を目指す同意と誓約としての信仰の応答を求めます。また、聖霊こそ信仰の恵みを与え、これを強め、共同体の中で成長させます。典礼集会は何よりも、信仰の交わりなのです。アナムネシス(Άνάμνησις 記念)。典礼祭儀は人類の歴史の中に介入された神の救いのわざをいつも反映します。「啓示の経給は互いに関連したわざとことばをもってなされ、……ことばはわざを表示し、その中に含まれている神秘を明らかにします」。ことばの典礼で、聖霊は会衆に、キリストがわたしたちのために行われたすべてのことを「想起させます」。諸教会のそれぞれの典礼行為とさまざまな伝統的祭儀に応じて、典礼は、程度の差こそあれ、アナムネシスの中で神の偉大なわざを「思い出させます」。こうして、教会の記憶を目覚めさせる聖霊は、そこで感謝と賛美(ドクソロギアー△oξoλoγία)を行うようにも仕向けてくれるのです。聖霊はキリストの神秘を現在化するキリスト教典礼は、わたしたちの救いの出来事を単に思い出させるだけではなく、これを現在化します。キリストの過越の神秘は祝われますが、繰り返されるのではありません。繰り返されるのは祭儀です。祭儀が繰り返されるたびに、そこに聖霊が注がれ、聖霊が一回限りの神秘を現在化してくれるのです。エピクレシス(Επίκλησις「その上に呼び求めること」)といわれる祈りは、供え物がキリストのからだと血になり、それを拝領する信者が神への生きた供え物となるために、聖とする霊を遣わしてくださるように御父に願う司祭の祈りです。エピクレシスは、アナムネシスと同様に、各秘跡の祭儀、とくにエウカリスチア(感謝の祭儀)の核心を成すものです。
「あなたは、どうしてパンがキリストのからだ、また……ぶどう酒がキリストの血となるのかと質問するのですか。わたしがあなたに答えます。聖霊がくだり、すべてのことば、すべての考えを超えることを成し遂げられるのです。……あなたはそれが聖霊によって行われると聞いただけで満足しなさい。それは、聖霊によって、おとめマリアを通して主自らご自分のうちに肉体をとられたのと同じことなのです」。典礼において変化を行う聖霊の力は、み国の到来と救いの神秘の完成を早めます。聖霊はわたしたちに、待望と希望のうちに聖三位との完全な交わりを実際に先取りさせてくださいます。教会のエピクレシスを聞き入れられる御父から遣わされた聖霊は、ご自分を受け入れる者たちにいのちを与え、すでに今から、彼らにとってみ国を受け継ぐ「保証」となられます。聖霊の交わりすべての典礼行為における聖霊の使命は、わたしたちをキリストとの交わりに導き、そのからだを形づくることです。聖霊は、枝に実を結ぶ御父のぶどうの木の樹液のようなものです。典礼の中では、聖霊と教会との間にもっとも緊密な協力が実現されます。交わりの霊としての聖霊が教会のうちにいつまでもとどまっておられるので、教会は四散した神の子らを集める神的交わりの大いなる秘跡なのです。典礼における霊の働きの成果は、聖三位ならびに兄弟たちとの交わりと切り離せないものです。エピクレシスはまた、会衆が実際にキリストの神秘に完全にあずかることを求める祈りでもあります。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」(ニコリント13∙13)はつねにわたしたちとともにあって、感謝の祭儀が終わった後も実をもたらすものでなければなりません。したがって、教会は聖霊を派遣してくださるように御父に祈ります。それは、聖霊が信者をキリストの姿に霊的に変容させることによって、信者の生活を神への生きた供え物とし、信者を教会の一致に心掛けさせ、またあかしと愛の奉仕とによってキリストの使命にあずからせてくださるためです。

要約

教会の典礼においては、創造と救いとにおけるすべて祝福の源としての、父である神への感謝と礼拝とが行われます。父である神は、子とする霊をわたしたちにお授けになるためにこれらの祝福を御子においてわたしたちにお与えになりました。典礼におけるキリストのわざが秘跡的であるのは、その救いの神秘が聖霊の力によって典礼のうちに現在化され、また、教会であるキリストのからだが、いわば聖霊が救いの神秘を配分される秘跡(しるしと道具)だからであり、さらに、旅する教会がその典礼行為によってすでに天上の典礼にあずかり、あらかじめこれを味わっているからなのです。教会の典礼における聖霊の使命は、会衆をキリストとの出会いに備えさせ、会衆にキリストを想起させ、示し、変化させる力によってキリストの救いのわざを現在化し、また、教会に交わりのたまものを実らせることにあります。

教会の諸秘跡における過ぎ越しの神秘

キリストの秘跡

教会のすべての典礼生活は、エウカリスチアのいけにえと諸秘跡とを中心として動いています。教会には七つの秘跡、すなわち、洗礼、堅信、聖体(エウカリスチア)、ゆるし、病者の塗油、叙階、結婚があります。この項では教理の観点から教会の七つの秘跡に共通する面を述べます。祭式の面から共通なものは第2章で取り扱い、それぞれに固有なことは第2部で述べることにします。「聖書の教え、使徒伝承……および教父たちの一致した見解に従い」、わたしたちは「新約の諸秘跡の全部が、わたしたちの主イエス・キリストによって制定された」と宣言します。ナザレでの生活や宣教活動の間のイエスのことばと行いは、それ自体救いをもたらすもので、イエスの過越の神秘の力を先取りしていました。これらは、すべてが成し遂げられた後、キリストが教会に与えられるものを予告し、準備していたのです。キリストの生涯の諸神秘は、後にご自分の教会の役務者を通して諸秘跡の中でキリストが分け与えられるものの基本となっています。事実、「わたしたちの救い主の言行として書き記されていることは、諸秘跡の働きへと移し変えられたのです」。諸秘跡は新しい永遠の契約における「神の傑作」であって、それはつねに生き続け生かし続けるキリストのからだから「出る力」、キリストのからだである教会の中における聖霊の働きなのです。

教会の諸秘跡

神の神秘の忠実な管理者である教会は、「真理をことごとく悟らせる」(ヨハネ16∙13)ために導かれる聖霊によって、聖書の正典と信仰の教えばかりでなく、キリストから受けたこの宝を徐々に悟り、それがどのように「分配」されるべきかを明らかにしてきました。このようにして、時代がたつにつれ、教会は典礼祭儀の中にキリストによって制定された厳密な意味での秘跡が七つあるのを認めるようになりました。諸秘跡は、二重の意味で、つまり「教会による」また「教会のための」という意味で、「教会の」秘跡です。「教会による」というのは、教会が、聖霊の派遣を受けてそこで働くキリストのわざの秘跡であるからです。「教会のための」というのは、諸秘跡が「教会をつくる秘跡」であるという意味です。諸秘跡は、とりわけエウカリスチア(聖体)の秘跡において、愛である三位一体の神の交わりの神秘を人々に示し、分け与えてくれるからです。教会は頭であるキリストと「唯一の神秘的なペルソナ」を形づくりながら、秘跡の中で「有機的に構成された」「祭司的共同体」として行動します。洗礼と堅信とによって、祭司的民は典礼を祝うにふさわしいものとなります。他方、ある信者たちは聖なる叙階を受け、「神のことばと恩恵をもって教会を牧するために、キリストの名において立てられるのです」。叙階された奉仕職、すなわち「奉仕的祭司職」は、洗礼による祭司職に奉仕するものです。この奉仕職は、諸秘跡を通して、キリストが聖霊によって教会のために働くことを保証します。御父が人となられた御子にゆだねられた救いの使命は、使徒たちに、また使徒を通してその後継者たちにゆだねられています。後継者たちはイエスの霊を受け、イエスの名によって、イエス自身として行動します。このように、叙階された奉仕者は、典礼行為を使徒たちが語り行ったことに結びつけ、また、使徒たちを通して、秘跡の源であり土台であるキリストが語られ行われたことに結びつける、秘跡的なきずななのです。洗礼、堅信、叙階の三つの秘跡は、恵みのほかに、秘跡的な霊印つまり「しるし」を与えますが、これによって、キリスト者はキリストの祭司職にあずかり、それぞれの身分や役職に従って教会の一部を成すようになります。ひとたび聖霊によってキリストと教会の姿を刻まれたキリスト者は、神の恵みとその保護の約束と保証を受ける資格、神礼拝と教会奉仕への召命を与えられます。この霊印はいつまでも残り、消えることはありません。したがって、これらの秘跡は生涯に一度しか受けることができません。

信仰の諸秘跡

キリストが使徒たちを派遣されたのは、「罪のゆるしを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に」(ルカ24∙47)のべ伝えられるためです。「すべての民に父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、……教えなさい」(マタイ28∙19)とキリストはいわれました。洗礼の秘跡を授けるために遣わされるということは、福音を宣教するために遣わされるということに含意されています。というのは、秘跡は神のことばとそのことばに同意する信仰とによって準備されるからです。
「神の民はまず生ける神のことばによって集められます。……ことばの宣教が諸秘跡の授与のために必要です。諸秘跡は信仰の秘跡であって、信仰はことばから生まれ、ことばによって養われるからです」。「秘跡は人々の聖化のため、キリストのからだの建設のため、さらに、神に礼拝をささげるためのものであって、またしるしであることをもって、教育のためにも寄与します。それは信仰を前提とするのみでなく、ことばとものとをもってこれを養い、強め、表すもので、そのため信仰の秘跡といわれます」。教会の信仰は一人ひとりの信者の信仰に先だつもので、信者はこれを受け入れるように招かれています。教会が諸秘跡を行うとき、使徒たちから受けた信仰を宣言します。したがって、古い金言には「祈りの法は、信仰の法」(〔5世紀の〕アクイタニアのプロスペルの表現を用いると、「嘆願の法が信仰の法を定める」)というものがあります。すなわち、祈りの法は信仰の法なのです。教会は祈っていることを信じます。典礼は、聖なる生きた伝承の基本的要素の一つなのです。ですから、どんな秘跡の儀式であっても、司式司祭または信者共同体の好みで変更したり、手を加えたりすることはできません。教会の最高権威者ですら、勝手に典礼を変えることはできません。ただ信仰の要求に従い、典礼の神秘を敬謙に敬うことだけを心掛けるべきなのです。また、秘跡は教会の中での信仰の一致を表し培うものですから、祈りの法はキリスト者の一致を回復するための対話の基本的な一つの基準です。

救いの諸秘跡

信仰をもってふさわしく行われる諸秘跡は、それぞれが表す恵みを与えます。これらが効力を持つのは、そこでキリストご自身が行動なさっておられるからです。洗礼を授け、諸秘跡の中で行動し、諸秘跡が表す恵みをお与えになるのは、キリストご自身なのです。御父は、御子の教会が各秘跡のエピクレシスの中で聖霊の力への信仰を表明している祈りをつねにお聞き入れになります。火が自分に触れるものをすべて火に変えてしまうように、聖霊はご自分の力にゆだねられるすべてのものを神的いのちに変えてくださるのです。そこに、秘跡は「行為が正しく行われるということ自体で(exopere operato)」効果を生む、という教会の主張の意味があります。すなわち、秘跡はただ一度行われたキリストの救いのわざによって効力を生じます。したがって、「諸秘跡はそれを授ける人間、あるいはそれを受ける人間の正しさによってではなく、神の力によって成し遂げられる」のです。ある秘跡が教会の意向に従って行われるとき、キリストとその霊の力が、司式者の個人的聖性のいかんにかかわらず、秘跡の中で秘跡を通して働きます。とはいえ、諸秘跡の実りは秘跡を受ける者の心のあり方にもよる部分があります。教会は、新しい契約の諸秘跡は信者の救いに必要なものであると言明します。「秘跡による恵み」とはキリストによって与えられる聖霊の恵みで、それぞれ秘跡に固有のものです。聖霊は秘跡を受ける人々を、神の御子に一致させ、いやし、変化させてくださいます。神の子とする霊が信者たちを救い主である御ひとり子のいのちに一致させ、神の本性にあずからせることが、秘跡に生かされた生活の実りなのです。

永遠の命の諸秘跡

教会はキリストの神秘の祭儀を「主が来られるときまで」(一コリント11∙26)、「神がすべてにおいてすべてとなられるため」(一コリント15∙28)に行います。典礼は、すでに使徒時代から、「マラナ∙タ(主よ、来てください)」(一コリント16∙22)という教会の中での霊のうめきが表すように、終末へと向けられていました。こうして、典礼は、神の国で過越が成し遂げられるまで、「あなたがたとともにこの過越の食事をしたいと、わたしはせつに願っていた」(ルカ22∙15-16)というイエスの願望にあずかるのです。キリストの諸秘跡において教会は、「祝福に満ちた希望、すなわち偉大な神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れ」(テトス2∙13)を待ち望みながらも、すでにその世継ぎの保証を受け、すでに永遠のいのちにあずかっています。「”霊”と花嫁とがいう。『来てください』。……主イエスよ、来てください」(黙示録22∙17,20)。
トマス∙アクィナスは秘跡のしるしの多様な面を、次のように要略しています。「秘跡とは、前に起こったこと、すなわち、キリストの受難を記念するしるし、キリストの受難によってわたしたちのうちに行われること、すなわち、恵みを表すしるし、また、将来の栄光を予測する、つまり、前もって告げるしるしです。

要約

諸秘跡はキリストによって制定され、教会にゆだねられた恵みを実際にもたらすしるしであり、これによって、神的いのちがわたしたちに授けられます。諸秘跡の見える儀式は、各秘跡に固有な恵みを示し、実際に与えます。そして、ふさわしい心の準備をして受ける人々の中で実を結びます。教会は、洗礼による祭司職と叙階された奉仕的祭司職とによって構成された祭司共同体として、秘跡を行います。聖霊は、神のことばと、神のことばをふさわしい心で受け入れる信仰とによって、秘跡に備えさせてくださいます。そしてその準備ができたとき、信仰は秘跡によって強められ、高められます。秘跡に生かされた生活の実りは、個人にも教会全体にも及びます。その実りとは、各信者にとってはキリスト・イエスにおいて神のために生きることであり、教会にとっては愛とあかしの使命において成長することです。

教会の典礼を挙行する

だれが挙行するのか

典礼についてのカテケージスは、第一に、秘跡による救いの営みを理解させることです(第1章)。その理解を通して、この祭儀の新しさが明らかになりました。したがって、本章では、教会の諸秘跡の挙行について取り扱います。多様な典礼伝承において現れる七つの秘跡の挙行に共通するものを考察することになります。各秘跡に固有なものについては次の第2部で取り上げます。秘跡祭儀に関するこの基本的なカテケージスは、信者が提起する次のようなおもだった質問に答えるためものです。
――だれが挙行するのか。
――どのように挙行するのか。
――いつ挙行するのか。
――どこで挙行するのか。典礼は全キリスト(totus Christus)の「行為」です。現在典礼を挙行している人々は、しるしを超えて、すでに天上の典礼に加わっています。その典礼は完全な交わりであり、祝祭です。天上の典礼の挙式者教会の典礼で読まれるヨハネの黙示録は、まず、天に設けられた玉座と、その玉座の上に座っておられるかた、「主」(イザヤ6∙1)を示します。次に「ほふられたように立っている小羊」(黙示録5∙6参照)を示します。十字架につけられて復活されたキリスト、真の聖所の唯一の大祭司、「ささげ、ささげられ、与え、与えられる」かたです。最後に、黙示録は「神と小羊の玉座から流れ出る……いのちの水の川」(黙示録22∙1)を示します。それは聖霊のもっとも美しい象徴の一つです。キリストにおいて「一つにまとめられた者」は、神への賛美の奉仕とその計画の実現とに協力します。それは天使、すべての被造物(四つの生き物)、旧約時代と新約時代のすべてのしもべたち(二十四人の長老)、神の新しい民(十四万四千人)、とくに「神のことばのために」(黙示録6∙9)殺された殉教者たち、至聖なる神の母(〔竜から追われる〕女、小羊の花嫁)、また、「あらゆる国民、種族、民族、ことばの違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆」(黙示録7∙9)などです。わたしたちが諸秘跡の中で救いの神秘の祭儀を行うときに、聖霊と教会はわたしたちをこの天上の永遠の典礼に参加させてくれるのです。秘跡の典礼の挙行者挙行するのは、その頭と一つになったキリストのからだ、すなわち、全共同体です。「典礼行為は、個人的行為ではなく、『一致の秘跡』、すなわち、司教のもとに一つに統合された聖なる民である教会の祭儀です。そのため、典礼行為は教会のからだ全体のものであり、これを表し、これに働きかけるとともに、その個々の肢体に、序列、役割、現実の参加の違いによって,それぞれ異なったしかたで関係します」。したがって、「儀式が、それぞれの特性に基づいて、信者の集まりとその行動的参加を得て、共同体的祭儀として行うことができるものであるときには、この共同体的祭儀を、同じ儀式の個人的、いわば私的挙行に、可能な限り、優先さすべきことが強調されなければなりません」。祭儀を行う集会は受洗者の共同体であり、彼らは「再生と聖霊の塗油とによって、霊的な家および聖なる祭司職となるよう聖別されるのであって、それは彼らがキリスト信者のあらゆるわざを通し霊的いけにえをささげるものとなるためです」。この「共通祭司職」は唯一の祭司キリストのもので、そのすべての肢体がこれにあずかっています「母なる教会は、すべての信者が、典礼の執行への、充実した、意識的な、行動的な参加へ導かれるようせつに希望しています。このような参加は、典礼自身の本質から要求されるものであり、キリストを信ずる民は、『選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民』(一ペトロ2∙9)として、洗礼によってこれに対する権利と義務を持つのです」。しかし、「からだのすべての部分は同じ働きをしていません」(ローマ12.4)。ある人々は神によって、教会の中で、教会を通して、共同体の特別な奉仕に召されています。この役務者たちは叙階の秘跡によって選ばれ、聖別されます。聖霊はこの役務者たちが教会に属するすべての人に奉仕するために頭であるキリスト自身として行動することができるようにしてくださいます。叙階された役務者は、祭司であるキリストの、いわば「像(イコン)」です。教会の秘跡が完全に現れるのはエウカリスチアにおいてですから、なによりもエウカリスチア(聖体祭儀)の司式において、司教の奉仕の務め、また司教と一つになった司祭や助祭の奉仕の務めの意味が明らかな形で現れてきます。信者の共通祭司職の任務に従事するための、叙階の秘跡によって聖別されてはいないそれ以外の特別な奉仕職もあります。その役割はそれぞれの典礼伝承や司牧的必要に基づいて、司教が決定します。「侍者も、朗読者も、解説者も、聖歌隊に属する者も、真に典礼的奉仕を行うのです」。したがって、諸秘跡の挙行にあっては、集会全体が「典礼の挙行者」です。各自はそれぞれの役割に従いながら、すべての者のうちに働く「霊と結ばれて」、これを果たすのです。「祭儀においては、司祭も信者も、各自が自分の役割を果たし、そのことがらの性質と典礼上の規定によって、自己に属するところのみを、そしてそのすべてを行うべきです」。

どのように挙行するのか

しるしと象徴秘跡祭儀は、さまざまなしるしや象徴から成り立っています。救いに関する神の教育方法に基づいて、これらのしるしや象徴の意味は、創造のわざと人間文化とに根を下ろし、旧約時代の出来事の中で徐々に明らかにされ、キリストご自身とそのわざにおいて完全に明らかなものとされます。人間世界のさまざまなしるし。人間生活では、しるしや象徴は重要な役割を果たしています。人間は、物質的なものであると同時に精神的な存在ですから、物質的なしるしや象徴を通して精神的なものを表したり、知覚したりします。また、人間は社会的存在として、他人との意志疎通のために、ことば、身振り、行為によるしるしや象徴を必要とします。神との関係についても同様なことがいえます。神は人間に、見えるものを通して語られます。人間の知性は物質的世界を見て、創造主の痕跡を読み取ります。光とやみ、風と火、水と土、木と実は神について語り、その偉大さと同時に身近さをも悟らせます。これらの感覚的事物は、神に造られたものとして、人間を聖化する神の働きの場、神に礼拝をささげる人間の表現の場となることができます。人間の杜会生活上のしるしや象徴にしても同様です。洗うこと、油を塗ること、パンを裂き、同じ杯から飲むことは、聖化する神の現存や創造主を前にした人間の感謝を表すことができます。世界の諸大宗教は、宗教祭儀のこの宇宙的、象徴的意味を、しばしば感動的に明らかにしています。教会の典礼は、被造物と人間文化の諸要素とを取り上げ、これらに、イエス・キリストによる新しい創造という恵みのしるしの尊厳を与えて、それらを統合し、聖化します。契約のしるし。選ばれた民は、自分たちの典礼生活を特徴づけるしるしや象徴を授かりました。それは、もはや天体の周期や社会の出来事を祝うものではなく、契約のしるしであり、ご自分の民のために神が成し遂げられた偉業の象徴なのです。旧約の典礼的しるしの中の、割礼、王や祭司の塗油と聖別、按手、いけにえ、とくに過越祭などを挙げることができます。教会は、これらのしるしに新約の秘跡の前表を見ています。キリストが用いたしるし。宣教の際に、主イエスはしばしば自然界のしるしを用いて、神の国の神秘を知らせようとなさいました。イエスはさまざまな物的しるし、あるいは象徴的な動作でいやしを行ったり、教えを強調したりなさいました。そして、旧約時代の出来事やしるし、わけてもエジプト脱出や過越祭に新たな意味を与えられました。イエスご自身がこれらのしるしの意味そのものであられたからです。秘跡的しるし。聖霊降臨以来、聖霊は、ご自分の教会の秘跡的しるしを通して、聖とするわざを行っておられます。教会の諸秘跡は、宇宙や社会生活の豊かなしるしや象徴を壊さず、このすべてを浄化し、統合します。さらに、旧約時代の予型や前表を成就し、キリストが行われた救いを示し、実現し、天の栄光を前もって表し、それにあずからせます。ことばと動作秘跡祭儀は、キリストと聖霊とにおける神の子らの御父との出会いです。この出会いは、動作とことばを介する対話という形で表現されます。いうまでもなく、象徴的動作自体がすでに一つの言語ですが、神の国の種がよい土で実を結ぶには、さらに神のことばと信仰による応答とが動作と一つになって、それを生かす必要があります。典礼の動作は、神のことばが表すことを意味するとともに、神の恵みの働きと神の民の信仰による応答をも意味します。ことばの典礼は秘跡祭儀の不可欠な部分です。信者の信仰を培うため、神のことばのしるしを大事にしなければなりません。神のことばが書かれた書(朗読聖書)、それに対する崇敬(行列、献香、ろうそくの光)、神のことばを告げ知らせる場所(朗読台)、聴きやすくて理解できるような朗読、神のことばの告知を深める役務者の説教、会衆の応答(応唱、答唱詩編、連願、信仰宣言)などがそれに当たります。典礼で用いられることばと動作は、しるしとそのしるしが意味するものという観点で切り離すことができないものですが、さらに、その意味することを実現させるものという観点でも、切り離しえないものです。聖霊は信仰を起こさせて、神のことばを理解させてくださるだけではなく、諸秘跡によって、ことばが告げる神の「大いなるわざ」を実現してくださいます。すなわち、聖霊は愛する御子によって実現された御父のみわざを現在化し、共有させてくださいます。歌と音楽「全教会の音楽伝統は、他の諸芸術の表現にまさって、はかりしれない価値を持つ宝庫を成しています。それはとくに聖歌が、ことばと結ばれて荘厳な典礼の一部を成し、必要なもの、または充実をもたらすものだからです」。しばしば楽器の伴奏が伴われていた、霊感を受けて作られる即興の詩編、詩吟は、すでに旧約時代の典礼の一部を成していました。教会はこの伝承を継続し、発展させます。「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」(エフェソ5∙19)歌う者は、二倍の祈りをするのです。歌と音楽は「典礼行為と固く結ばれるに従って」、いっそうよくしるしの役割を演じますが、そこには忘れてはならない三つの基準があります。つまり、祈りの表現豊かな美しさ、定められた部分における会衆の心を合わせた参与、および、祭儀の荘厳さです。こうして、歌と音楽は典礼で用いられることばと動作の目的、つまり、神の栄光と信者の聖化とに寄与します。
「あなたへの聖歌、あなたへの賛歌、そしてあなたの教会に響く甘美な歌声を聞いて、わたしは幾度涙を流したことでしょう。これらに耳を澄ましては、どんなに感動したことでしょう。歌はわたしの耳に流れ込み、心に真理が注がれました。たまらない敬神の思いが横溢して、涙が頬を伝わりましたが、それは快いものでした」。典礼のしるし(歌、音楽、ことばと動作)の調和は、祭儀を行う神の民に固有な文化的富に従って表現されるならば、いっそう表現豊かで、実り多いものとなります。ですから、「一般賛美歌を適切に奨励します。そして、聖なる信心行事においても、典礼行為そのものにおいても」、教会の規範に従って、「信者の声が聞かれるようにします」。しかし、「聖歌に用いられる歌詞は、カトリックの教えに合致したものでなければなりません。さらに主として聖書と典礼の源泉からくみ取られるべきです」。聖画像聖画像、典礼イコンはおもにキリストを表します。目に見えず、把握できない神を画像で表すことはもともとできないのですが、神の御子の受肉が聖画像を用いるという新しい「道」を開きました。
「かつては、からだも顔もない神を画像によって表すことはまったくありえませんでした。しかし、神が受肉されて、人間とともに生きられた今、わたしは神についてわたしが見たものの画像を作ることができます。……そのお顔の中に、わたしたちは主の栄光を眺めることができます」。キリスト教の聖画像は、聖書がことばによって伝えるよいおとずれを目に見えるものによって表します。画像とことばとは相互に説明し合うのです。
「わたしたちの信仰を簡潔にあらわすものとして、わたしたちは、記録されたり記録されていない形でわたしたちに伝えられてきたすべての教会の伝統遺産を、そのままの形で保存し続けています。その伝統の一つが聖画像であって、これはみことばである神が外見だけでなく実際に人となられたとの信仰に基づいて、福音書に見られる出来事をのべ伝える際にも役立ちます。また聖画像の使用が有益で役立つのは、ことばと画像とが相互に説明し合って一つの内容を指し示すからです」。典礼祭儀のすべてのしるしはキリストに関係しています。神の母マリアや聖人たちの聖画像もそうです。事実、これらの画像は彼らの中で栄光を受けられたキリストを表すものです。これらは、今も世の救いのためにかかわり、わたしたちがとくに秘跡において結ばれている「おびただしい証人の群れ」(ヘブライ12∙1)を表しています。聖人の聖画像を通して、わたしたちの信仰の目は、「神の像」に作られた人間、また「御子の姿に似た者に」変えられた人間、キリストのもとに一つにまとめられた天使たちさえも見るのです。
「神の霊感に導かれた教父たちの教えと、カトリック教会の伝承に従って(わたしたちは、この伝承が教会に内在する聖霊によるものであることを知っています)、細心の注意と綿密さをもって次のことを決定します。すなわち、生命を与える尊敬すべき十字架の像とまったく同じように、尊敬すべき聖画像を飾らなければなりません。彩色画やモザイクおよび∙その他の適当な材料によって作られた聖画像を、神の聖なる教会内、聖なる器物や衣服、壁または額、家の中や道路脇にも飾らなければなりません。すなわち、わたしたちの主であり神である救い主イエス・キリスト、聖にして汚れなき神の母、聖なる天使たち、すべての聖人たちの画像を飾るのです」。「聖画像の美と色彩とはわたしを祈りに誘います。田園の景色がわたしの心を神への賛美に駆り立てますが、聖画像を眺めることもわたしの目を楽しませます」。神のことばの黙想や聖歌と並んで、聖画像は典礼の種々のしるしの調和の中に溶け込みます。こうして祝われる神秘が心に深く刻まれ、信者の新しい生活に現れるようになります。

いつ挙行するのか

典礼の時「愛の母なる教会は、神聖なるその花婿の救いのみわざを、一年を通して、一定の日に、聖なる想起をもって祝うことを自己の務めとしています。毎週、教会は『主日』と名付けた日に、主の復活を記念し、また、年に一度、復活祭の盛儀をもって主の幸いの受難とともにそれを祝い続けるのです。また、教会は、一年を周期としてキリストの神秘全体を……展開しているのです。教会は、こうして、あがないの神秘を記念しつつ、自らの主の徳と功徳との富を信者に開放するのであって、それによって、この神秘が、あらゆるときに、現存するものとなり、信者はこれに接して、救いの恵みに満たされるに至るのです」。神の民はモーセの律法以来、過越祭を基にして定められた種々の祭りを行いました。それは主である神の驚くべきわざを記念し、感謝し、記憶を保ち続け、新しい世代にはこれらの救いのわざに応じて行動するように教えるためでした。これに対して、ただ一度で実現されたキリストの過越の時とそれが神の国で完成される時との間に位置づけられる教会の時の中で行われる一定の日々の典礼は、キリストの神秘の新しさで満たされています。教会がキリストの神秘を祝うとき、その祈りを際立たせる「今目1」という一つのことばがあります。それは、キリストが教会に教えられた祈りと聖霊の呼びかけとにこたえるものです。生きておられる神が人間を招き入れるこの「今日」は、人間の全歴史を貫くイエスの過越の「時」なのです。
「いのちはすべての生きものに及び、万物は大きな光をいっぱいに浴びています。大いなる朝の光が世界をくまなく照らしています。明けの星の前に、すべての星の前に、永遠から存在していた偉大なキリストは、太陽以上にすべての存在を明るく照らしています。ですから、キリストを信じるわたしたちにとっては、長く、消えることのない、永遠の光の日、神秘な復活の日が始まったのです」。主の日「教会は、キリストの復活の当日にさかのぼる使徒伝承により、過越の神秘を八日目ごとに祝います。その日は、それゆえにこそ、主の日、または主日と呼ばれています」。キリストの復活の日は、創造の第一日の記念日である「週の第一日」であると同時に、キリストが、大安息日の「休息」の後、「主のみわざの」(詩編118∙24)日、「夜を知らない昼」を開始された「第ハ日」なのです。「主の晩さん」がその中心です。そのとき、信者の全共同体は自分たちを饗宴に招いてくださる復活された主に出会うからです。
「日曜日は、キリスト復活の日、キリスト者の日、わたしたちの日です。そのために主日と呼ばれています。その日にこそ、主は凱旋して御父のもとに上られました。異教徒はこの日を太陽の日(日曜日)と呼びますが、わたしたちもまた喜んでそう呼びます。なぜなら、今日こそ、世の光が昇り、今日こそ、救いをもたらす光を注ぐ正義の太陽が現れたからです。主日は、典礼集会を行う日としてとくに優れています。この日に、信者は一堂に会して「神のことばを聞き、聖体祭儀に参加して、主イエスの受難と復活と栄光を記念し、イエス・キリストが、死者のうちから復活されたことによって、生きる希望へと再生させてくださった神に感謝をささげる」のです。
「〔ああ、キリスト、〕あなたの聖なる栄光ある復活のこの主日に成就された栄光ある偉大なわざと不思議なしるしについて黙想しながら、わたしたちはこう申し上げます。主日は祝されますように。なぜなら、この日にこそ、創造、……世の救い、……人類の刷新……が始まったからです。この日にこそ、天と地は喜び踊り、全世界は光に満たされました。主日は祝されますように。この日にこそ、アダムと追放されていたすべての人間が恐れることなくそこに入るための楽園の扉が開かれたからです」。典礼歴年聖なる過越祭の三日間を出発点として、復活節の新しい時が光源のように典礼暦年全体を照らします。この光源から発する光のおかげで、一年の全体は典礼によって新しい様相を帯びてきます。それは真に、主の恵みの年となります。救いの営みは時の枠の中で行われていますが、イエスの過越と聖霊の降臨とによってそれが成就されてからは、歴史の終わりが「前もって味わう形で」先取りされ、神の国はわたしたちの時の中に入り込んでいます。したがって、復活祭は他の多くの祝日の→つではなくて、「祝日の中の祝日」、「盛儀の中の盛儀」です。エウカリスチアが秘跡中の秘跡(偉大な秘跳)であるのと同様です。聖アタナシオは復活祭を「大主日」と呼び、東方教会では聖週間が「大週間」と呼ばれています。キリストが死を滅ぼした復活の神秘は、わたしたちの古い時の中に力強く入り込み、万物をキリストに服従させるでしょう。ニケア公会議(325年)では、全教会が、キリスト教の過越祭が春分後の満月(ニサンの月の14日)の後の日曜日に祝われることで合意しました。ニサンの月の14日の計算方法の違いのために、西方教会と東方教会とでは復活祭の日は必ずしも同じになるわけではありません。そのため、両教会は現在、主の復活の祝日を再び同日に祝うための合意を目指して努力しています。典礼暦年は、キリストの復活という唯一の神秘を異なる思考法で展開させます。そのことは、わたしたちの救いの始まりを記念し、わたしたちに復活の神秘の初穂を与えるキリストの受肉の神秘を中心に祝われる祝日(主のお告げ、降誕、公現)の周期に関して、とくに当てはまります。典礼暦年における聖人の祝日「キリストの諸神秘を一年の周期をもって祝う際、聖なる教会は、神の母なる聖マリアを、特別な愛をもって敬います。聖母は、御子の救いのみわざに解きがたく結ばれているのです。教会は聖母のうちに、あがないのもっとも優れた実りを感嘆し、ほめたたえ、あたかももっとも純粋な姿のうちにおけるものとして、聖母のうちに、自らが完全にそうありたいと欲し、希望しているものを、喜びをもって見つめるのです」。教会は、年間に殉教者やその他の聖人を記念するとき、「キリストとともに苦しみ、ともに栄光を受けた」この人々を通して「復活秘義を告げ知らせ、キリストを通して御父のもとに、すべての信者が引き寄せられる模範を信者に示し、聖人の功徳によって、神の恵みを願うのです」。時課の典礼感謝の祭儀、とくに主日の集会でわたしたちが祝うキリストの神秘、その受肉と復活は、時課の典礼、「聖務日課」によって、毎日の時間にも浸透し、これを聖化させます。「たえず祈るように」という使徒の勧めに忠実に従って行われるこの典礼は、「神への賛美を通して昼夜の全過程が、聖とされるように構成されています」。時課の典礼は「教会の公の祈り」であって、その中で信者(司祭、修道者、信徒)は受洗者の王的祭司職を果たします。教会の「承認された形式に従って」行われる時課の典礼は、「まことに花婿に語りかける花嫁の声であり、まさにご自身のからだとともに御父にささげられるキリストの祈りです」。時課の典礼は、神のすべての民の祈りとなるべきものです。この祈りによって、キリストご自身が「この祭司職を、ご自分の教会を通して継続しておられます」。各自は教会でのそれぞれの役割と自分の生活事情とに従ってこれに参加します。すなわち、司祭は熱心な祈りと神のことばの奉仕とに努めるよう召されているので、司牧の務めに専念する者として、修道者は奉献生活のカリスマに生きる者として、すべての信徒はそれぞれの可能性に応じて参加します。「司牧者は、主要な時課、中でも晩課が、主日と大祝日に教会において共同で挙行されるように努めなければなりません。また、信徒自身も、あるいは司祭とともに、あるいは互いに集まって、または、各自単独にでも聖務日課をとなえるように勧められます」。時課の典礼を果たすためには、祈る心を込めて声を出すことだけではなく、「典礼と聖書、とくに詩編についての、より豊かな知識」を身につけることも必要です。時課の祈りに含まれている賛歌と連願は、詩編の祈りを教会の時の中に挿入して、一日のそれぞれの時刻、あるいは典礼季節、当日の祝日の象徴的な意味を表します。さらに、各時課での神のことばの朗読と答唱、ある時課での教父や霊性の師の著作の朗読は、祝われている神秘の意味をいっそう深く明らかにし、詩編の理解を助け、念薦の準備ともなります。こうして、神のことばが朗読され黙想されて祈りとなる聖書朗読が、典礼の中に根を下ろすようになります。時課の典礼は感謝の祭儀の延長のようなものですが、神の民の多様な信心業、とくに聖体礼拝や聖体賛美式を排除しないばかりでなく、より豊かなものにします。

どこで挙行するのか

新約時代の「霊と真理」(ヨハネ4∙24)による礼拝は、特定の場所に限定されてはいません。全地が聖なるもので、人間にゆだねられています。信者が一堂に会するとき、大切なのは、「霊的な家」に造り上げられるために集まった「生きた石」(一ペトロ2∙5)である人々です。復活したキリストのからだは霊的神殿であって、そこからいのちを与える水がほとばしり出ます。聖霊によってキリストに合体されたわたしたちこそ、「生ける神の神殿」(ニコリント6∙16)です。信教の自由の行使が妨げられなければ、キリスト者は礼拝用の建物を建てます。見える教会堂は単なる集会の場所ではなく、その場所に生きている教会、キリストにおいて人問と和解し、人間とともにおられる神の住まいを表すものです。「祈りの家は聖体祭儀がそこで行われ、聖体が安置され、信者たちがそこに集まり、わたしたちのためにいけにえの祭壇においてささげられたわたしたちの救い主なる神の子の現存が信者の助けと慰めのために礼拝される場所なので、清らかで、祈りと典礼にふさわしいものでなければなりません」。この「神の家」では、建物全体に利用されているデザインやシンボルなどは、教義とも合致し、しかもそこに現存して活動しておられるキリストを全体的に調和が取れた形で現すものでなければなりません。新約の祭壇は、過越の神秘の諸秘跡の源であるキリストの十字架です。教会堂の中心である祭壇上で、パンとぶどう酒の形態のもとに十字架の犠牲が現在化されます。これはまた、神の民が招かれている主の食卓でもあります。幾つかの東方教会典礼では、祭壇は聖墓の象徴(キリストは実際に死に、実際に復活されたことを意味するもの)でもあります。聖櫃は「聖堂の中の尊い場所に尊敬を尽くして」安置されなければなりません。聖櫃の品位、位置、安全性などは、聖体の秘跡に真に現存されるキリストの礼拝を助けるものでなければなりません。塗油によって聖霊のたまものの霊印を示す秘跡的しるしに用いられる聖香油は、伝統的に聖堂の安全な場所に納められ、崇敬を受けることになっています。洗礼志願者の油と病者に用いる油も、そこに置くことができます。司教の座席(カテドラ)および司祭の座席は、「会衆の座長としての役割と、祈りを指導する役割とを表〔すもので〕なければなりません」。朗読台。「神のことばはその尊厳のゆえに、教会堂の中にふさわしい場を設け、そこから告げ知らせ〔られる必要があり〕ます。それは、ことばの典礼の間、信者の注意が自然に向けられる場所でなければなりません」。神の民の集まりは洗礼によって始まります。したがって、教会堂には洗礼を行う場所(洗礼盤)と、洗礼の時の約束を思い出させるもの(聖水)を備えなければなりません。
洗礼でいただいた神のいのちを新たにするには、悔い改めが必要です。したがって教会堂には、悔い改める人が罪を告白し、ゆるしを受けるための適切な場所を備えなければなりません。
教会堂はまた、潜心と、エウカリスチアの祈りを深め内面化するための静かな祈りの場所でもなければなりません。教会堂には終末的な意味もあります。神の家に入るには、敷居をまたがなければなりません。この敷居は罪によって傷つけられた世界から、すべての人が招かれている新しいいのちの世界に移ることを象徴しています。見える教会堂は、御父の家を象徴するものです。神の民はその家に向かって歩み、そこで御父は、「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださ」(黙示録21∙4)います。したがって、教会堂は神のすべての子らに扉を大きく開き、歓迎してくれる神の家でもあります。

要約

典礼は、全キリスト、すなわちその頭とからだとの行為です。わたしたちの大祭司キリストはこれを、天上の礼拝で、聖母マリア、使徒たち、すべての聖人、すでにみ国に入った数多くの人々とともに、たえず挙行しておられます。典礼祭儀においては、全会衆がそれぞれの役割を果たす「典礼の挙行者」です。洗礼による祭司職はキリストのからだ全体のものです。しかし、ある信者は叙階の秘跡によって司祭となり、からだの頭であるキリストの代理を務めます。典礼祭儀は幾つかのしるしや象徴から成り立っていますが、それらは被造物(光、水、火)、人間の生活(洗う、塗油する、パンを裂く)、救いの歴史(過越祭の儀式)から取られたものです。これらの宇宙的な要素、人間生活の儀礼、神のわざを記念する動作などが、信仰の世界のうちに取り入れられて、聖霊の力を受け、キリストの救いと聖化のわざを担うものとなります。ことばの典礼は、感謝の祭儀の不可欠な部分です。告げられる神のことばとそれに応答する信仰の行為とによって、この祭儀の意味が表されます。歌と音楽は典礼と密接に結びついています。これらを正しく用いるための基準は、祈りの表現豊かな美しさ、会衆の心を合わせた参与、および祭儀の神聖さです。教会堂や家庭に置かれている聖画像は、わたしたちの信仰をキリストの神秘に目覚めさせ、養うものです。キリストとその救いのわざを描いた聖画像を介してわたしたちが礼拝しているのは、キリストです。神の母聖マリア、天使や聖人たちの聖画像を介して、わたしたちはそれらに描かれているかたがたを崇敬します。「主の日」である日曜日は、キリストの復活の日であるので、エウカリスチアの祭儀を行う主要な日です。主日は典礼集会の日、キリスト者の家族の日、喜びの日、労働を休む日として、とくに優れた日です。主日は「全典礼暦年の基礎であり、中核」なのです。教会は「一年を周期としてキリストの神秘全体を、受肉と降誕から、昇天へ、ついで聖霊降臨日へ、さらに幸いなる希望と、主の来臨との待望へと展開しているのです」。地上の教会は、聖人たち、まず第一に聖母マリア、ついで殉教者やその他の聖人たちを典礼暦の一定の日に記念することによって、自分たちが天上の礼拝と一致していることを表します。教会は、栄光のうちにいる人々においてすでに救いを実現してくださっているキリストをたたえています。聖人たちの模範は御父に向かって歩む教会を励まします。時課の典礼を行う信者は、御父に栄光を帰し、世界全体に聖霊のたまものを願い求めるキリストの絶えることのない祈りに加わるために、詩編の祈りや神のことばの黙想、賛歌や祝福などを通して、わたしたちの大祭司キリストと結ばれるのです。キリストは、神のまことの神殿、「その栄光の住まい」です。神の恵みによって、キリスト者もまた聖霊の神殿、教会を築き上げる生きた礎石となります。この世における教会は、共同体が集まることのできる場所、すなわち、見える教会堂、聖所を必要としています。これらは、わたしたちが向かっている最終の巡礼地である天上のエルサレム、聖なる都のかたどりです。教会は教会堂の中で聖三位の栄光をたたえて公の祭儀を執行し、神のことばを聴き、賛美を歌い、祈りをささげ、また、会衆の中に秘跡的に現存するキリストの犠牲をささげます。教会堂はまた、潜心と個人の祈りとの場でもあります。

典礼の多様性と神秘の単一性

諸典礼伝承と教会の普遍性

エルサレムの初代教会からキリストの再臨まで、使徒伝承の信仰に忠実な神の諸教会がさまざまなところで祝うものは同じキリストの過越の神秘です。典礼において祝われる神秘は一つですが、これを祝う形式は多様です。

キリストの神秘は、いかなる典礼伝統をもってしても表現し尽くすことのできないほど奥が深く、豊かなものです。さまざまな典礼儀式の起源と発達の歴史を見ると、それらが互いに補完し合うものであることに驚かされます。諸教会は、信仰と信仰の諸秘跡とをともに保ちながらこれらの典礼伝承を実践してきたので、相互に充実し合い、すべての教会に共通な伝統と使命とを忠実に保って成長したのです。

多様な典礼伝承は、まさに教会の使命のゆえに生じました。同じ地域にあり、同じ文化を持つ諸教会は、キリストの神秘を自分たちが共有する文化の特色に応じて表現し、祝うようになりました。この特色は「ゆだねられた信仰の遺産」の伝達、典礼象徴、兄弟的共同体の組織のあり方、諸神秘の神学的理解や聖性の型などに表されています。こうして、すべての民の光であり救いであるキリストは、教会が派遣され、根を下ろす民族や文化に、各地の教会の典礼生活を通して紹介されることになります。教会は普遍的です、したがって、あらゆる文化の真の富を浄化しながら、それらを一つの教会に取り入れることができるのです。

伝統的な典礼様式ないし現在教会で用いられている典礼様式には、ラテン典礼(主としてローマ典礼、そのほかに、アンブロジオ典礼などのある地方教会の典礼とある修道会典礼なども含む)、ビザンティン典礼、アレクサンドリア典礼ないしコプト典礼、シリア典礼、アルメニア典礼、マロン典礼、カルデア典礼などがあります。「聖なる公会議は、伝統に忠実に従い、合法的に承認されているすべての典礼様式を、聖にして母なる教会が、同等の権利と栄誉を持つものと認め、それらが将来も保存され、あらゆる方法で促進されるように望むものであることを宣言します」。

典礼と文化

したがって、典礼はさまざまな民族の特性や文化に対応すべきものです。キリストの神秘が「信仰による従順に導〔き〕、すべての異邦人に」(ローマ16∙26)知られるようになるため、その神秘はあらゆる文化の中で告げ知らされ、祝われ、具現されなければなりません。それはこれらの文化が破壊されずに、キリストによって新しいいのちを与えられ、完成されるようになるためです。まさに、キリストによって担われ変容された諸民族の固有な文化とともに、またその文化を通してこそ、神の多くの子らは御父に近づき、ただ一つの霊に結ばれて御父をたたえることができるのです。

「典礼、とくに秘跡の典礼には、不変の部分があります。神によって制定されたものとして、教会はこれを守り続けます。しかしまた同時に変えることのできる部分もあって、教会にはこれを新しく福音を受け入れた諸民族の文化に適応させる権限、時にはその義務があるのです」。

「典礼の多様性は豊かさの源泉でもありえますが、同時に、相互間の緊張、無理解、さらには分裂さえも引き起こしえるものです。典礼の多様性は、当然一致を害するものであってはなりません。その多様性は、共通の信仰、教会がキリストから受けた諸秘跡のしるし、そして位階制度のもとでの交わりに対する忠実さを守ってのみ表されるべきものです。諸文化への順応のためには回心が求められますが、また同時に、必要であれば、カトリック信仰と相いれない先祖伝来の慣習を捨てることも要求されます」。

要約

本来、典礼の挙行は教会が存在する民族の文化的表現方法を用いて行われるべきですが、文化に従属させてしまってはなりません。他方、典礼そのものは諸文化を生み出し、育てます。

キリストの同じ神秘を表し伝えるものとして合法的に認められた多様な典礼伝承や儀式は、教会の普遍性を表します。

典礼伝承の多様性における一致を保証する基準は、使徒伝承への忠実さ、すなわち、使徒から受け継いだ信仰および諸秘跡における交わり、つまり、使徒継承によって示され保証されている交わりを保つということです。

洗礼の秘跡

序文

キリストによって制定された新約の秘跡は、洗礼、堅信、聖体(エウカリスチア)、ゆるし、病者の塗油、叙階、結婚の七つです。七つの秘跡は、キリスト者の一生のあらゆる段階と重要な時にかかわり、キリスト者の信仰のいのちを生み、成長させ、いやし、そのいのちに使命を与えます。この点で、自然のいのちの諸段階と霊的いのちのそれとの間にはある種の類似が見られます。この類比に従って、まずキリスト教入信の三秘跡(第1章)、ついでいやしの秘跡(第2章)、最後に、信者の交わりと使命を育てる秘跡(第3章)について説明します。いうまでもなく、この順序だけが唯一のものではありませんが、この順序に従えば、七つの秘跡が一つの有機体を形づくり、その中で各秘跡はそれぞれの独自の機能を果たすことがよく示されます。この有機体の中で、聖体(エウカリスチア)は「秘跡の中の秘跡」として比類のない位置を占めます。「他のすべての秘跡は聖体の秘跡を目的として、それに秩序づけられている」からです。キリスト教入信の秘跡である洗礼、堅信、聖体の三つの秘跡が、キリスト者の生活全体の土台となります。「キリストの恩恵が人々にもたらす神との結合は、自然の生命の誕生、成長、維持に多少似ています。それというのも信者は洗礼によって新たに生まれ、堅信の秘跡によって強められ、感謝の祭儀の中で永遠の生命の糧で養われるからであって、こうして人々は、これらキリスト教入信の秘跡によって、しだいに神の生命にますます豊かにあずかり、愛の完成へと進んでいきます」。

この秘跡は何と呼ばれるか

聖なる洗礼はキリスト者の生活全体の基礎、霊的生活の扉、他の諸秘跡に導く入り口です。洗礼によってわたしたちは罪から解放され、神の子として生まれ変わり、キリストの肢体となり、教会の一員となって、その使命、に参与する者となります。「洗礼は水とことばによる再生の秘跡です」。この秘跡は、中心となる儀式に従って洗礼と呼ばれます。「洗礼を行う」という語(ギリシア語でバプティゼインβαπτίζειν)は、「沈める」「浸す」という意味です。水の中に「沈めること」は、洗礼志願者がキリストの死と結ばれて埋葬され、キリストとともに復活して墓から出て、「新しく創造された者」(ニコリント5∙17、ガラテヤ6∙15)となることを意味しています。この秘跡はまた、「聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗い」(テトス3∙5)とも呼ばれます。それは、「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(ヨハネ3∙5)といわれている、その水と霊による誕生を意味し、実現するからです。「この水洗いは、照らしと呼ばれています。このこと(カテケージス)を学んだ人の精神が照らされるからです」。洗礼によって「すべての人を照らすまことの光」(ヨハネ1∙9参照)であるみことばを受けた受洗者自身は、「照らされた」後、「光の子」となり、自分自身が「光」(エフェソ5∙8)となるのです。
洗礼は、「神のたまもののうち、もっとも美しくもっともすばらしいものです。……わたしたちはそれを贈り物、恩恵、洗礼、塗油、照らし、不朽の衣、再生の洗い、霊印、そしてすべてもっとも貴重なものの名で呼びます。贈り物と呼ばれるのは、何も持ってこない人々に与えられるからです。恩恵と呼ばれるのは、罪びとにも授けられるからです。洗礼と呼ばれるのは、罪が水の中に沈められるからです。塗油と呼ばれるのは、塗油される者がすべて聖なる者となり、王とされるからです。照らしと呼ばれるのは、まばゆい光だからです。衣と呼ばれるのは、わたしたちの恥を隠すからです。洗いと呼ばれるのは、清めるからです。霊印と呼ばれるのは、わたしたちを守るもの、神の主権のしるしだからです」。

救いの営みにおける洗礼

旧約時代における洗礼の前表教会は復活徹夜祭の典礼で、洗礼水の祝福のとき、洗礼の神秘の前表であった救いの歴史の重要な出来事を荘厳に記念します。
「秘跡のしるしを通して救いの恵みを与えてくださる全能の神よ、あなたは旧約の歴史の中で水によって洗礼の恵みを表してくださいました」。世界の初めから、この目立たない、しかし、すばらしいものである水は、いのちと豊穰の泉となっています。聖書には、神の霊が水の「面を動いていた」と記されています。
「天地の初めに、あなたの霊は水の面を覆い、人を聖とする力を水にお与えになりました」。教会はノアの箱舟に、洗礼による救いの前表を見ました。この箱舟によって、「数人、すなわちハ人だけが水の中を通って救われました」(一ペトロ3∙20)。
「ノアの洪水のとき、水をあふれさせて、罪の終わりと新しいいのちの始まりである洗礼のかたどりとしてくださいました」。泉の水がいのちの象徴であるのに対し、海の水は死の象徴です。ですから、水は十字架の神秘の象徴となることができました。この象徴によって、洗礼がキリストの死にあずかるものだということが表現されています。とくにイスラエルがエジプトでの奴隷状態から真に解放された紅海通過は、洗礼によって行われる救いを予告するものです。
「アブラハムの子孫がエジプト脱出のとき、海の中に乾いた道を備えて約束の地に渡らせ、ファラオの奴隷から解放して、この民を洗礼を受ける人々のしるしとしてくださいました」。さらに、ヨルダン川を渡ることも洗礼の前表です。この渡河によって、神の民はアブラハムの子孫に約束された土地をたまものとして受けました。この土地は永遠のいのちの象徴です。この幸いな嗣業の約束は、新しい契約において実現します。キリストの洗礼旧約時代のすべての前表は、キリスト・イエスのうちに成就されます。キリストは自らヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた後、公生活をお始めになります。そして、復活後、イエスは使徒たちに次の使命をお与えになります。
「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタイ28∙19-20)。キリストは、正しいことをすべて行うために、罪びとに授けられるヨハネの洗礼を進んでお受けになりました。イエスのこの行動は、自分を「無にしたこと」の表れです。最初の創造のとき水の面を覆っていた霊が、そのとき、新しい創造の序曲としてキリストの上にくだり、御父はイエスがご自分の愛する子であることを啓示なさいます。キリストはその過越によって、洗礼の泉をすべての人に開かれたのです。キリストはエルサレムでの受難を、ご自分が受けなければならない「洗礼」と呼ばれました。十字架につけられたイエスの脇腹から流れ出た血と水は、新しいいのちの秘跡である洗礼と聖体の象徴です。そのときから、人は「水と霊とによって」生まれ、神の国に入ることが可能となったのです(ヨハネ3∙5)。
「あなたがどこで洗礼を受け、洗礼が何に由来するのかを見つめてください。キリストの十字架、キリストの死以外のものからということはありえません。キリストがあなたのために苦しまれたこと、そこにすべての神秘があります。あなたはキリストによってあがなわれ、キリストによって救われるのです。」教会における洗礼聖霊降臨の日以来、教会は聖なる洗礼を授けてきました。聖ペトロは自分の説教によって心を動かされた多くの人々にこう宣言しています。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪をゆるしていただきなさい。そうすれば、たまものとして聖霊を受けます」(使徒言行録2∙38)。使徒たちとその協力者たちは、イエスを信じる者であれば、ユダヤ人、神をおそれる人々、異邦人のだれにでも洗礼を授けます。洗礼はいつも信仰と結びつけられています。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」と聖パウロがフィリピの看守に言明すると、看守も「家族の者も皆すぐに洗礼を受けた」(使徒言行録16∙31-33)と記されています。使徒聖パウロによれば、信じる者は洗礼によってキリストの死にあずかり、キリストとともに葬られ、復活します。
「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたち〔は〕皆、またその死にあずかるために洗礼を受け〔ました。ですから、〕わたしたちは洗礼によってキリストとともに葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しいいのちに生きるためなのです」(ローマ6∙3-4)。受洗者は「キリストを着ます」。洗礼とは、清め、聖化し、義とする、聖霊による洗いです。したがって、洗礼は、神のことばの「朽ちない種」がそのいのちを与える実を結ぶ、水による洗いです。聖アウグスチヌスは洗礼について、「ことばが物と合わされて、秘跡となる」といっています。

洗礼の秘跡はどのように行われるか

キリスト教入信キリスト者になるには、使徒時代から幾つかの段階を踏む入信過程がありました。この段階の進み具合は早い場合も遅い場合もありますが、いずれにせよ、つねに幾つかの基本的な要素を含んでいなければなりません。すなわち、神のことばの告知、回心を伴う福音の受け入れ、信仰宣言、洗礼、聖霊の注ぎ、聖体拝領です。この入信の過程は、時代と状況とによって大きく変遷しました。古代教会の時代、キリスト教入信の過程は著しく発展し、長い求道期の期間中に次々と典礼儀式が行われる中で、求道者の準備が深められ、入信の諸秘跡の儀式へと導かれていました。幼児洗礼が洗礼の通常の形となった地方では、洗礼式はキリスト教入信の予備段階をきわめて簡潔に組み入れた一つの儀式となりました。幼児洗礼はその本質から、洗礼後の求道期が必須となります。これは、ただ洗礼後に教えを説くにとどまらず、子供の成長に応じて洗礼の恵みを開花させていく営みです。これが、カテケージスの本来の場なのです。第2バチカン公会議はラテン典礼の教会で「数段階に分けられる成人の洗礼準備制度」を復興しました。それが『成人のキリスト教入信式』の儀式書(1972年)に取り入れられています。さらに、公会議は、「キリスト教伝統のうちに存在するもの以外にも」、宣教地では「各国民の間で使われている入信の諸要素を、それがキリスト教儀式にふさわしいものである限り」取り入れることを許可しました。したがって、今日では、すべての西方教会および東方教会の典礼では、成人のキリスト教入信は、求道期に入ったときに始まり、洗礼、堅信、聖体の三つの秘跡が一つの儀式で行われるときに最高潮に達します。東方教会では、子供のキリスト教入信は洗礼で始まり、その直後に堅信と聖体拝領とが続きます。ラテン典礼では、洗礼後に数年にわたるカテケージスがなされた後で、堅信およびキリスト教入信の頂点である聖体を受けて締めくくられます。式の説明洗礼の秘跡の意味と恵みとは、その儀式の中で明確な形で示されています。信者はこの儀式の動作とことばに注意深くあずかるならば、この秘跡が新しい受洗者各自のうちに示し実現する豊かな恵みを受けることができます。洗礼式に先だっ十字架のしるしは、これからキリストに結ばれる者の上にキリストの刻印をしるすものであり、同時に、キリストが十字架上でわたしたちのために得られたあがないの恵みを示すものでもあります。神のことばの宣言は、啓示された教えによって志願者と会衆とを照らし、洗礼とは不可分の信仰の応答ができるようにさせてくれるものです。洗礼は、信仰生活に入る秘跡的な入り口ですから、特別に「信仰の秘跡」なのです。洗礼は罪とその扇動者である悪魔からの解放を意味するものなので、洗礼志願者の上に一っの(あるいは幾つかの)解放を求める祈りが唱えられます。洗礼志願者に塗油ないし司式者の按手が行われ、続いて志願者は明白に悪魔を捨てることを宣言します。このように準備が整ってから、志願者は洗礼によって自分に「ゆだねられる」教会の信仰を宣言することができます。ついで(このときか復活徹夜祭に)、洗礼水が聖霊の働きを願う祈り(エピクレシス)によって祝福されます。教会は神に、その御子によって聖霊の力がこの水にくだり、この水で洗礼を受ける人々が「水と霊によって」(ヨハネ3∙5)生まれるように願います。この後、秘跡の本質的な部分、厳密な意味での洗礼式が続きます。これは、キリストの過越の神秘にあずかって罪に死に、至聖なる三位一体のいのちに入るようになることを示し、実現するものです。洗礼の意味をもっともよく表すのは洗礼水に全身を三度浸す形式ですが、古代から行われていたように、志願者の頭部に水を三度注いで授けることもできます。ラテン教会では、司式者は、次のことばを唱えながら三度水を注ぎます。「○○さん、わたしは父と子と聖霊のみ名によってあなたに洗礼を授けます」。東方典礼では、洗礼志願者は東方を向き、司祭が「神のしもべである○○さんは、父と子と聖霊のみ名によって洗礼を授かります」といいますが、三位のそれぞれのみ名を唱えるたびに、志願者を水に沈め、そして引き上げます。司教が聖別した香油による聖香油の塗布は、新受洗者が聖霊を与えられたことを示すものです。受洗者はキリスト者、すなわち聖霊によって「塗油された者」となり、祭司、預言者、王として塗油されたキリストに合体します。東方教会の典礼では、洗礼後の塗油は聖香油(堅信)の秘跡となります。ローマ典礼では、この塗油は司教が後に授ける聖香油の第二の塗油、すなわちく堅信の秘跡を前もって告げるものです。堅信の秘跡は、いわば、洗礼の塗油を「確認し」、完成するものです。自衣は、受洗者がキリストを身にまとったこと、キリストとともに復活したことを象徴します。復活のろうそくからともされたろうそくは、キリストが新信者を照らしてくださったことを示します。キリストに結ばれた受洗者は、「世の光」(マタイ5∙14)なのです。今や、新受洗者は、御ひとり子に結ばれた神の子です。神の子らの祈りである「主の祈り」を唱えることができるのです。初聖体(拝領)。神の子供となり、婚礼衣装を身につけた新信者は「小羊の婚礼」に招かれ、キリストのからだと血である新しいいのちの糧を受けます。東方教会はキリスト教入信の一体性を強く自覚しているので、すべての受洗・受堅者に聖体を拝領させます。これは幼児の場合も同様で、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」(マルコ、。.14)といわれたキリストのことばを銘記しているからなのです。ラテン教会では分別のつく年齢に達した者だけにしか聖体拝領を認めていませんが、受洗したばかりの幼児を「主の祈り」を唱えるために祭壇に近づけることによって、洗礼と聖体とのつながりを表現しています。洗礼式の終わりには荘厳な祝福が与えられます。幼児洗礼の場合には、母親の祝福が非常に重要視されています。

だれが洗礼を受けることができるか

「洗礼を受けることができるのは、未受洗者のすべて、かつ未受洗者のみです」。成人の洗礼教会の初めのころ、福音が告げられて間もない地方では成人に洗礼を授けるのが普通でした。その場合、求道期(洗礼準備)が重要な位置を占めていました。これは信仰とキリスト教的生活への手ほどきの時期で、この期間中に、洗礼と堅信と聖体によって与えられる神のたまものを受けるための準備をすることになっていました。求道期、すなわち、求道者の教育の目的は、その期間にある人々が神の招きにこたえ、教会共同体と一致して、回心と信仰を深めることができるようにすることです。それは「キリスト教的生活全体」の教育の期間であり、それによって「弟子たちは師であるキリストと結び合わせられるのです。それゆえ、求道者は救いの神秘を十分に伝授され、福音に則した生活と、時間をおいて継続的に行われる聖なる儀式とこよって、神の民の信仰と典礼と愛の生活に導き入れられなければなりません」。求道者は「すでに教会と結ばれており、すでにキリストの家のものであり、すでに信仰∙希望∙愛の生活を営んでいることもまれではないのです」。「母なる教会は彼らをすでに自分のものとして愛と配慮をもって包むのです」。幼児洗礼原罪によって神の恵みを失い、汚れた人間本性を受けて生まれた幼児もまた、やみの勢力から解放され、すべての人間が召されている神の子らの自由の地に移されるためには、洗礼によって新たに生まれる必要があります。幼児洗礼においては、救いの恵みがまったくの無償で与えられることがとくに顕著に示されます。もし、教会と両親とが、生まれて間もなく子供に洗礼を授けないとすれば、神の子となるはかりしれない恵みを子供に与えないことになるでしょう。キリスト信者である両親は、この習慣が神からゆだねられたいのちの養育者としての役割にこたえるものであることを認めるべきです。幼児に洗礼を授けるというのは、起源を特定できないほど古い教会の伝統です。すでに2世紀の史料においてはっきりした証明がなされています。使徒による宣教の初めから、「一家全員」が受洗した場合、子供にも授けたことは十分考えられます。信仰と洗礼洗礼は、信仰の秘跡です。しかし信仰は、信者共同体を必要とします。一人ひとりの信者が信仰を持つことができるのは、教会の信仰があってのことです。洗礼に必要な信仰は完全で成熟した信仰ではなく、成長していく初歩的信仰です。求道者あるいはその代父母は、「あなたは神の教会に何を求めますか」と尋ねられると、「信仰を求めます」と答えます。幼児であれ成人であれ、すべての受洗者の信仰は、洗礼後に成長しなければなりません。そのために、教会は毎年の復活徹夜祭に洗礼の約束を更新します。洗礼準備は新しいいのちの入り口に導くにすぎません。洗礼は、キリスト教的生活全体がわき出てくるキリストにおける、.新しいいのちの泉です。洗礼の恵みが開花するには、両親の助けが重要です。そこにはまた、代父母の役割もあります。代父母は、新しい受洗者が幼児であると成人であるとを問わず、彼らがキリスト教的生活の旅路を歩んでいくのを助けることができ、しかもその覚悟のある、しっかりした信仰者でなければなりません。両親や代父母の役割は、真の教会的な任務です。教会共同体は、受洗者が受けた恵みを開花させ固く守ることを助ける責任の一端を担います。

だれが洗礼を授けることができるか

洗礼の通常の役務者は、司教と司祭です。ラテン教会では、それに助祭が加わります。緊急の場合には、だれでも、未受洗者であっても、必要な意向を持って聖三位の神の名を呼ぶ洗礼の定句を唱えることによって、洗礼を授けることができます。その意向とは、教会が洗礼を授けるときに行おうとしていることを行いたいという意思のことです。だれでも洗礼を授けることができると教会が教えているのは、神はすべての人の救いを望んでおられるし、救いには洗礼が不可欠であるという理由からなのです。

洗礼の必要性

洗礼が救いに必要なことは、主ご自身が断言しておられます。キリストは弟子たちに、すべての民に福音を告げ、洗礼を授けるようお命じになりました。福音が伝えられてこの秘跡を願うことのできる人々の救いのためには、洗礼が必要です。教会は永遠の幸福の保証を与えるための、洗礼以外の手段を知りません。したがって教会は、洗礼を受けることのできるあらゆる人々を「水と霊によって」生まれさせるために、キリストから受けた使命をなおざりにしないように努めています。神は救いを洗礼の秘跡に結びっけられましたが、神ご自身は秘跡に拘束されることはありません。教会が初めからつねに確信してきたのは、信仰のためにいのちをささげる人々は、洗礼を受けていなくとも、キリストのために、キリストとともに死ぬことによって、洗礼を受けるということです。この血の洗礼は、秘跡ではありませんが、洗礼の望みと同様、その効果をもたらします。洗礼を受ける前に死んだ求道者については、洗礼を受けたいという明白な望みに罪の痛悔と愛とが伴っていれば∙洗礼の秘跡によって受けるはずの救いが保証されます。「キリストはすべての人のために死なれたのであり、人間の究極的使命は実際にはただ一つ、すなわち神的なものですから∙聖霊は神のみが知っておられる方法によって、すべての人に過越の神秘にあずかる可能性を提供されることをわたしたちは信じなけ川まなりません」。キリストとその教会とを知らずに真理を求め、自分の知るところに従って神のみ旨を行うすべての人は救われうるのです。このような人々は、洗礼の必要性を知っていたなら、洗礼を受けたいという望みを表明したに違いないと考えられるからです。洗礼を受けずに死んだ幼児`こついては∙教会にできるのは∙幼児の葬儀の際に行っているように、その子供を神のあわれみにゆだねることだけです。「すべての人々が救われることを望んでおられ」(イモテ2∙4)る神の限りないあわれみから見て、また、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」(マルコ10∙4)といわれた仁スの子供たちへの愛清から見て、わたしたちは洗礼を受けずに死んだ幼児には救いの道があると希望することができます。それにもかかわらず、教会は、幼児が聖なる洗礼の恵みを通してキリストのもとに近づくのを妨げないようにと強く促しています。

洗礼の恵み

洗礼の種々の効果は、秘跡の儀式の目に見える要素によって表されます。水に浸ることは、死と清めを意味するとともに再生と一新の象徴でもあります。したがって洗礼には、罪の清めと聖霊による新たな誕生という、二つのおもな効果があります。罪のゆるしのため…洗礼によって、すべての罪、すなわち原罪、すべての自罪、また罪のすべての罰もゆるされます。事実、新たに生まれた人々には、神の国に入るのを妨げるもの、つまり、アダムの罪も、自罪も、罪の結果も残りません。その罪の結果の中で最大のものは、神からの離脱です。しかし受洗者には、苦しみや病気や死、あるいは性格の弱さなどといった人生にはつきものの種々のもろさなど、罪に由来する一時的な結果は残∙ります。さらに、情欲あるいは比喩的に罪のかまどと呼ばれてきている、罪への傾きなどもそうです。「罪への傾きは、わたしたちがそれと戦って訓練されるために残されましたが、それに同意せず、キリストの恵みによって勇敢に抵抗する人々を害することはできません。そのうえ、『規則に従って競技をするならば、栄冠を受けることができるでしょう』(ニテモテ2∙5参照)」。「新しい被造物」洗礼は、すべての罪を清めるだけではなく、新しい信者を「新しい被造物」、「神の本性にあずかる者」となった神の養子、キリストの肢体、キリストと共同の相続人、聖霊の神殿とします。聖三位の神は受洗者に成聖の恩恵、義とする恵みを与えます。
――これにより受洗者は、対神徳によって神を信じ、神に希望し、神を愛することができ、
――聖霊のたまものによって聖霊に動かされて生き、行動することができ、
――倫理徳によって、ますます善を行うことができるようになります。
このように、キリスト者が超自然的いのちを営む上で必要なすべてのものの根源は、聖なる洗礼にあるのです。キリストのからだである教会に結ばれる洗礼は、わたしたちをキリストのからだの肢体とします。「だから、……わたしたちは互いにからだの一部なのです」(エフェソ4∙25)。洗礼は、わたしたちを教会に結び合わせます。洗礼の泉から新約における神の唯一の民が生まれます。この民は国や文化や人種や性別などのあらゆる自然的∙あるいは人間的な限界を超えるものです。「つまり、一つの霊によって、わたしたちは、…皆一つのからだとなるために洗礼を受け」(一コリント12∙13)たのです。洗礼を受けた者は「霊的な家に造り上げられ、聖なる祭司となる」ための「生きた石」(一ペトロ2∙5)となります。洗礼によってキリストの祭司職、預言職、王職にあずかります。受洗者は、暗やみの中から驚くべき光の中へと招き入れてくださったかたの力あるわざを」広く伝えるために「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」(一ペトロ2∙9)なのです。洗礼は、信者の共通祭司職にあずからせます。教会の一員となった受洗者は、もはや自分自身のものではなく、自分たちのために死んで復活されたかたのものです。ですから、人々に従い、教会の交わりの中では彼らに仕え、教会の指導者たちのいうことを聞き入れて服従し、尊敬と愛情とをもって指導者たちを世話するようにと召されています。このように、洗礼によって責任と義務とが生じますが、また同時に、受洗者は教会の庇護のもとでの権利も有しています。それは、諸秘跡を受け、神のことばで養われ、教会のその他の霊的援助によって支えられるという権利です。受洗者には、「〔洗礼によって〕神の子として生まれかわって、神から教会を通して受けた信仰を人々の前に宣言する義務」と、神の民の使徒的活動、宣教活動に参加する義務とがあります。キリスト者の一致のための秘跡的きずな洗礼は、カトリック教会とまだ完全に一致していない人々をも含めて、すべてのキリスト者間の一致の土台を成しています。「キリストを信仰し、洗礼を正しく受けた人々は、たとえ完全ではなくても、カトリック教会との交わりの中にいるのです。……信仰によって洗礼において義とされた者は、キリストに合体され、それゆえに正当にキリスト信者の名を受けているのであり、カトリック教会の子らから主における兄弟として当然に認められるのです」。「したがって洗礼は、それによって再生されたすべての人の間に存在する一致の秘跡的きずなです」。消えない霊印…洗礼によってキリストに合体した受洗者は、キリストに似た者とされます。洗礼はキリスト者のうちに、当人がキリストのものとなったことを示す消えない霊印(character)をしるします。たとえ罪によって洗礼が救いの実を結ばないようなことがあっても、この霊印はいかなる罪によっても消されることはありません。ですから、洗礼は一回限りのもので、繰り返すことはできないのです。洗礼によって教会の一員となった信者は秘跡的霊印を受け、キリスト者として神を礼拝する務めをゆだねられます。洗礼による霊印によってキリスト者は、教会の聖なる典礼に積極的にあずかりながら神に仕え、聖なる生活と実践を伴う愛のあかしとによって洗礼による祭司職を果たすことができる者とされ、またそうする義務を負わされているのです。「主の霊印」は、「あがないの日に対して」(エフェソ4∙30)聖霊がわたしたちにしるされた霊印です。「洗礼は永遠のいのちの霊印です」。最後まで「霊印を保った」信者、すなわち洗礼によって生じる義務を忠実に果たした信者は、洗礼を受けたときの信仰をもって、信仰の完成である神の至福直観を待望し、復活を希望しながら、「信仰をもって(信仰のしるしを刻まれた状態で)」、死ぬことができるのです。

要約

キリスト教入信は、次の三つの秘跡によって行われます。新しいいのちの始まりである洗礼、それを固める堅信、キリストのからだと血によって養い,キリストに変容させる聖体です。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタイ28∙19-20)。洗礼は、キリストにおける新しいいのちの誕生です。主の望みによれば、洗礼は救いに不可欠なものです。それは、受洗者がそのメンバーとなる教会が救いに不可欠であるのと同じです。洗礼式の本質的な部分は、聖三位、すなわち、父と子と聖霊のみ名を唱えながら、志願者を水の中に沈めるか、その頭に水を注ぐところです。洗礼の実りあるいは洗礼の恵みの効果は素晴らしいもので、原罪とあらゆる自罪のゆるし、新しいいのちへの誕生などが含まれています。この誕生により、人間は御父の養子、キリストの肢体、聖霊の神殿となります。まさにこのことから、受洗者はキリストのからだである教会に結ばれ、キリストの祭司職にあずかります。洗礼は人の霊魂に消えないしるし、霊印を刻みます。この霊印によって、受洗者はキリスト者として神を礼拝するために聖化されます。この霊印のゆえに、洗礼は繰り返して授けることはできません。信仰のためにいのちをささげた人々、求道者、また教会を知らずに恵みの働きのもとで神を真剣に求め、そのみ旨を果たそうと努めるすべての人は、洗礼を受けていなくても救われることができます。古代から幼児に洗礼が授けられてきました。それは、洗礼が人間のいさおしを前提としない神の恵み、たまものだからです。幼児は、教会の信仰に結ばれて洗礼を受けます。キリスト教的生活に入ることは、真の自由を得ることです。洗礼を受けずに死んだ幼児に関して、教会の典礼は、神のあわれみに信頼し、彼らの救いのために祈るよう勧めています。やむをえない場合は、だれでも洗礼を授けることができます。その際には、教会が行うことを行おうという意向を持って、受洗者の頭に水を注ぎながら、「わたしは父と子と聖霊のみ名によってあなたに洗礼を授けます」と唱えます。

堅信の秘跡

序文

堅信の秘跡は、洗礼および聖体と一緒に組み合わされて、「キリスト教入信の秘跡」を構成します。この三つは一体でなければなりません。したがって、信者には、堅信の秘跡が洗礼の恵みの完成に必要であることを説明しなければなりません。「堅信の秘跡によって信者はいっそう完全に教会に結合され、聖霊の特別な力で強められて、キリストの真の証人としてことばと行いをもって、信仰を広めかつ擁護するよう、いっそう強く義務づけられます」

救いの営みにおける堅信

旧約時代の預言者たちは、待望のメシアが救いの使命を実現するために、主の霊がその上にとどまると告げていました。イエスがヨハネから洗礼を受けられたときその上に聖霊がくだったことは、イエスが来るべきかた、メシア、神の子であることのしるしでした。聖霊によって人としてお生まれになったイエスの全生涯と全使命とは、御父が「限りなくお与えになる」(ヨハネ3∙34)聖霊との完全な交わりの中で実現されるのです。ところで、聖霊の充満はただメシアに限らず、メシアに属するすべての民に与えられるはずのものでした。キリストは幾度かこの聖霊の到来を約束なさいましたが、それはまず復活の日に、ついで、いっそう目立つ方法で聖霊降臨の日に実現されました。聖霊に満たされた使徒たちは「神の偉大なわざ」(使徒言行録2∙11)を宣言し始め、ペトロは、聖霊が注がれたことはメシア時代のしるしであると宣言しました。そのとき、使徒の説教を信じて洗礼を受けた人々も聖霊のたまものを受けました。「このころから使徒たちは、キリストの意向に従って、霊のたまものを、洗礼の恵みを完成するものとして、按手をもって新信者に与えましだ。こうして、ヘブライ人への手紙に記されているように、洗礼と按手の教理は、最初のキリスト教教程の要素の一つに数えられることになりました。この按手はカトリック伝承によって、ペンテコステの恵みを、ある意味で教会の中に永続させるものであるところの堅信の秘跡の起源とみなされています。きわめて早い時代から、聖霊のたまものが与えられることをいっそうよく表すために、按手に香油の塗布が付け加えられました。この塗油は、「キリスト者」という名称の意味をよく示しています。それは「油を注がれた者」という意味であり、「神は、聖霊によってこのかたを油注がれた者となさいました」(使徒言行録10∙38)と記されている、キリストご自身のみ名にその起源があるのです。この塗油の儀式は今日まで、東方教会にも西方教会にも存在します。この秘跡は、東方教会では、聖香油の注ぎ(Chrismatio)ないし聖香油の塗布、もしくは「香油」を意味するミュロン(μύρον)と呼ばれています。西方教会における堅信(confirmatio)という呼称は、この秘跡が洗礼をより強固なものとすると同時にその恵みをさらに強化する、ということを表しています。東方教会と西方教会の二つの伝承最初の数世紀においては、堅信は一般に洗礼と同じ儀式の中で行われました。聖チプリアノは、この二つを「一対の秘跡」と呼んでいます。ところが、年ごとの幼児洗礼の増加や(農村地域の)小教区の増加などによって教区民の数が増えていき、司教はもはやすべての洗礼式に出席できなくなってしまいました。西方教会では、洗礼を完成させる権限を司教に留保することを望み、洗礼と堅信の秘跡を別のときに行うようになりました。東方教会では、この両秘跡を一つの儀式として行う伝統が堅持されたので、堅信は洗礼を授ける司祭によって行われています。ただし司祭が授ける場合は、司教が聖別した香油(ミュロン)を用いなければなりません。ローマ教会には洗礼後に聖香油を二度塗布する慣習があって、それが西方方式の発展に寄与することとなりました。まず司祭が洗礼の直後に新信者に油を塗り、その後、司教が各新受洗者の額にもう一度油を塗って、洗礼後の塗油を完成させていました。司祭による第一の塗油は、洗礼式の中に残りました。それは受洗者がキリストの預言職、祭司職、王職に参与することを意味します。洗礼が成人に授けられる場合にも洗礼後の塗油は一回しかありませんが、それは堅信の塗油になります。東方教会の様式は、キリスト教入信の一体性をいっそう強調します。西方教会の様式は、一、普遍、使徒継承の教会の保証者で奉仕者である司教と新信者とのつながりを表現し、これによって、キリストの教会の使徒的起源との結びつきをより鮮明に表します。

堅信のしるしと儀式

堅信式では、塗油のしるしと、その塗油によって示し刻みつけられる霊印について考えなければなりません。
塗油は、聖書を含めて、古い時代から多くの象徴的な意味を持つものとされてきました。油は豊かさ、喜びのしるしで、清め(入浴前後の塗油)、柔軟さ(闘技者や格闘者の塗油)、打ち身や傷の痛みを和らげる治癒のしるしでもあり、そのうえ、美と健康と力とを増進させるものです。塗油が持つこれらの意味は、秘跡に生かされる人生においても同じように存在していることが分かります。洗礼前の求道者への塗油は清めと強化を意味し、病者の塗油は治癒と力の回復を表します。洗礼後の堅信および叙階で受ける聖香油の塗布は一種の聖別のしるしです。堅信による塗油を受けたキリスト者は、イエス・キリストの使命とイエス・キリストに充満する聖霊の働きとにいっそう深くあずかり、その生活全体がキリストのよい香りを放つようになります。受堅者はこの塗油によって聖霊の証印を受けます。証印は本人の象徴、その権威のしるし、ある物に対する所有権のしるしですそのために昔は、兵士には指揮者の、奴隷には主人の印が押されました。証印は法的行為や文書を真正なものとし、場合によってはそれを秘密のものともします。キリスト自ら、ご自分が御父の証印を押されたといっておられます。キリスト者もまたある種の証印を押されています。「わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結びつけ、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に”霊”を与えてくださいました」(ニコリント1∙21-22)。聖霊のこの証印は、キリストヘの全面的所属、永遠にその奉仕者となったことを示しますが、また、終末の大きな試練に際して神が守ってくださる約束をも表すものです。堅信式堅信式に先だって行われ、しかもある意味では儀式の一部ともいえる重要な式は、聖香油の聖別です。司教は聖木曜日の聖香油のミサの中で、自分の教区全体のための聖香油を聖別します。東方教会では、この聖別は総大主教だけが行えることになっています。 アンティオキアの典礼は、聖香油(ミュロン)聖別のエピクレシスを次のように唱えます。「〔父よ、あなたの聖霊を〕わたしたちと、わたしたちの前にあるこの油の上に〔送り〕、聖なるものとしてください。この油が、それを塗られしるしをつけられたすべての人にとって、聖なるミュロン、祭司のミュロン、王の香油、光の衣、救いのマント、いのちの保護者、霊的たまもの、霊魂と肉体の聖化、心の喜び、不朽の幸福、消えない証印、信仰の盾、サタンのあらゆる働きに対する恐るべきかぶととなりますように」。ローマ典礼の場合のように堅信が洗礼と切り離して行われるときには、この儀式は受堅者の洗礼の約束の更新と信仰宣言とで始められます。こうして、堅信は洗礼につながるものであることが明白にされます。成人が洗礼を受けたときには、直ちに堅信を受け、聖体を拝領します。ローマ典礼では司教は受堅者全員の上に手を伸べますが、この動作は、使徒時代から引き継がれてきている聖霊が与えられるときのしるしです。司教は次のことばで聖霊の注ぎを懇願します。
「全能の神、主イエス・キリストの父よ、あなたは水と聖霊によってこの人々に新しいいのちを与え、罪から解放してくださいました。今この人々の上に、助け主である聖霊を送り、知恵と理解、判断と勇気、神を知る恵み、神を愛し敬う心をお与えください。わたしたちの主イエス、キリストによって」。続いて、秘跡の本質的な儀式に移ります。ラテン典礼では、「堅信の秘跡は受堅者に按手して、『父のたまものである聖霊のしるしを受けなさい』といいながら、聖香油を塗布することによって授けられます」ビザンチン典礼の東方教会では、ミュロンの塗布はエピクレシスの祈りの後で、額、目、鼻、耳、唇、胸、背、手足というからだの重要な部分に行われます。そして、各部分に塗油するたびに「たまものである聖霊のしるし」ということばが述べられます。堅信式を締めくくる平和の接吻(あいさつ)には司教ならびに全信者との教会的な交わりという意味が込められており、そのことが表現されています。

堅信の効果

儀式から明らかなように、堅信の秘跡の特別な効果は、かって聖霊降臨の日に使徒たちに行われたのと同じように、聖霊の注ぎが行われることです。そのために、堅信は洗礼の恵みを増大させ、深めてくれます。
一ーわたしたちに「アッバ、父よ1」(ローマ8∙ユ5)と叫ばせる神の子としての身分を強め、深めてくれます。
――わたしたちをいっそう固くキリストに結びつけてくれます。
――わたしたちのうちに聖霊のさまざまなたまものを増やしてくれます。
――わたしたちと教会との結びつきをより完全にしてくれます。
――聖霊の特別な力を与え、キリストの真の証人として、ことばと行いによって信仰を広め、擁護し、キリストの名を勇敢に公言し、十字架を決して恥じないようにさせてくれます。
「それで、霊的な証印を押されたことを思い出しなさい。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、知識と敬愛の霊、聖なるおそれの霊を授けられたことを思い、受けたたまものを守りなさい。神である父はあなたに証印を押し、主キリストはあなたを堅固にし、保証としてあなたの心に霊を与えてくださいました」。堅信は洗礼の完成ですので、洗礼と同様にただ一度だけ授けられます。堅信は人の霊魂に消えない霊的なしるし、「霊印」をしるします。これは、イエス・キリストがキリスト者に聖霊の証印を押し、ご自分の証人とするために天からの力を授けられたというしるしです。「霊印」は洗礼によって受けた信者の共通祭司職を完成させるもので、「受堅者は、キリストヘの信仰をことばをもって公に宣言する権利をいわば任務として授かります」。

だれがこの堅信を受けることができるか

堅信をまだ受けていないすべての受洗者が堅信の秘跡を受けることができ、また、受けなければなりません。洗礼と堅信と聖体は一つにつながるものですから、「信者は適切な時期にこの秘跡を受ける義務を有します」。洗礼の秘跡は堅信と聖体を受けていなくても確かに有効で効果あるものではありますが、キリスト教入信は未完のままだからです。ラテン教会のここ数世紀来の伝統に従えば、堅信を受けるには「物事をわきまえる年齢」に達していることが必要です。しかし、死の危険がある場合は、まだその年齢に達していない幼児にも堅信を授けなければなりません。堅信を「キリスト者としての成熟の秘跡」と呼ぶ人がいますが、信仰上の成熟と年齢による成熟とを混同してはなりません。また洗礼の恵みは、無償の、個人のいさおしによらない選びの恵みであって、これが有効になるための「批准」は不必要であることを忘れてはなりません。聖トマスは次のように指摘しています。
「肉体の年齢は、霊魂の成長とは関係がありません。ですから、人間は子供であっても、霊的年齢の完全さに至ることができます。知恵の書(4∙8)では『老年の誉れは長寿にあるのではなく、年数によって測られるものでもない』と語られています。だからこそ多くの子供たちが、授けられた聖霊の力のおかげで、キリストのために自分の血を流すほどに勇敢に戦うことができたのです」。堅信の準備にあたっては、キリスト者がキリスト教的生活の使徒的責務をさらによく担えるように、キリストとのより緊密な一致、聖霊とその働き、そのたまもの、その呼びかけにいっそう親密に応じる態度を培えるよう導くことを目指さなければなりません。そのために、堅信のカテケージスでは、普遍教会および小教区共同体を含めたキリストの教会への所属意識を目覚めさせるための努力をする必要があります。とくに小教区共同体には受堅者の準備に関する責任がゆだねられています。堅信を受けるには、成聖の恩恵の状態になければなりません。たまものとして聖霊をいただくために、ゆるしの秘跡を受けて清められることが勧められます。また、聖霊の力と恵みを素直に進んで受けるよう、熱心な祈りによって準備しなければなりません。洗礼のときと同様、堅信の場合にも、受堅者は代父または代母の霊的援助を求める必要があります。二っの秘跡の一体性を強調するため、洗礼のときと同じ代父母であるのがよいでしょう。

堅信の秘跡の役務者

堅信の本来の役務者は、司教です。
東方教会では、通常、洗礼を授ける司祭が一つの儀式の中で堅信も授けます。ただし、総主教または主教によって聖別された聖香油を用います。これは教会の使徒的一致を表し、その一致が堅信の秘跡によって強められるわけです。ラテン教会でも、成人洗礼の場合や堅信の秘跡を有効に受けていない他のキリスト教宗派の受洗者がカトリック教会の一員として受け入れられる場合には、同じ規則が適用されます。ラテン典礼では、堅信を授ける者は通常、司教です。必要な場合には司教は司祭に堅信を授ける権限を与えることができますが、堅信式が洗礼式と別のときに行われるようになったのは、司教がそれを授けるためであったことを忘れないようにしなくてはなりません。司教は使徒の後継者で、叙階の秘跡を十全的に受けています。堅信の秘跡を司教が行うことによって、この秘跡が受堅者を教会と、その使徒的起源と、キリストをあかしする使命とにいっそう緊密に結びつける効果を持つものであることをよく表すことができます。キリスト信者が死の危険にある場合は、どの司祭でも堅信を授けることができます。教会は、自分の子らがたとえ幼児であっても、だれ一人として、キリストの満ちあふれるたまものを聖霊から受ける前に、この世を去ることを望まないのです。

要約

「エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神のことばを受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた。二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にもくだっていなかったからである。ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた」(使徒言行録8∙14-17)。堅信は、洗礼の恵みを完成させます。堅信は、神の子としての身分をより堅固なものとし、わたしたちをより緊密にキリストに合体させ、教会とのきずなをさらに固め、教会の使命にいっそう深く参与させ、行動を伴うことばによってキリストヘの信仰をあかしする助けを得させるために、聖霊を与える秘跡です。堅信は洗礼と同じく、キリスト者の霊魂に霊的しるし、つまり消えない霊印をしるします。したがって、生涯に一度しかこの秘跡を受けることはできません。東方教会では、この秘跡は洗礼後直ちに授けられ、その直後に聖体が授けられます。これは、キリスト教入信の三つの秘跡の一体性を浮き彫りにします。ラテン教会では、物事をわきまえる年齢に達したときに授けられ、これを授ける者は通常、司教に限られています。このことによって、堅信の秘跡が教会的きずなを固めるものであることが示されます。物事をわきまえる年齢に達した受堅志願者は、信仰を持ち、成聖の恩恵の状態にあり、この秘跡を受ける意向を持ち、教会と社会の中で、キリストの弟子および証人としての役割を担う決意をしなければなりません。堅信式の本質となるのは、授堅者が按手して受洗者の額に(東方教会では、さらに他の感覚器官にも)聖香油を塗り、次のことばを唱える部分です。ラテン典礼では「父のたまものである聖霊のしるしを受けなさい」、ビザンチン典礼では「たまものである聖霊のしるし」といいます。堅信が洗礼と切り離して授けられる場合、その洗礼とのつながりは、とくに洗礼の約束の更新によって表されます。堅信式が感謝の祭儀の間に行われることによって、キリスト教入信の秘跡の一体性がよりはっきりと表現されます。

エウカリスチアの秘跡

教会のいのちの源泉、頂点であるエウカリスチア(感謝の祭儀)

聖体(エウカリスチア)の秘跡で、キリスト教入信は完了します。洗礼によって王的祭司職にあげられ、堅信によってキリストにいっそう似た者とされた人々は、聖体(エウカリスチア)によって、共同体全体とともにキリストの奉献にあずかります。「わたしたちの救い主は、引き渡されたその夜、最後の晩さんにおいて、御からだと御血による聖体の犠牲を制定されました。それは、十字架の犠牲を主の再臨まで世々に永続させ、しかも、愛する花嫁である教会に、ご自分の死と復活の記念祭儀を託すためでした。すなわち、これは、いつくしみの秘跡、一致のしるし、愛のきずな、キリストが食され、心は恩恵に満たされ、まして未来の栄光の保証がわたしたちに与えられる過越のうたげです」。エウカリスチア(感謝の祭儀)は「キリスト教生活全体の泉であり頂点」です。「諸秘跡も、また同様にすべての教会的役務も使徒職の仕事も、すべては聖体祭儀と結ばれ、これに秩序づけられています。事実、もっとも尊い聖体祭儀の中に教会の霊的富のすべて、すなわち、わたしたちの過越であり生けるパンであるキリストご自身が含まれています」。「神の生命への交わり(コムニオ)と神の民の一致とによって教会が存在するのであって、聖体祭儀はこの交わりと一致を適切に表現し、みごとに実現させます。聖体祭儀は、キリストにおいて世を聖とされる神の働きの頂点であり、さらに、人々がキリストにささげ、またキリストにより聖霊において御父にささげる礼拝祭儀の頂点です」また、聖体祭儀によって、わたしたちはすでに天上の典礼に一致し、「神がすべてにおいてすべて」(一コリント15∙28)となられるときに先だって、永遠のいのちに前もってあずかっています。要するに、エウカリスチアはわたしたちの信仰の要約であり、頂点なのです。「わたしたちの考え方はエウカリスチアに共鳴し、エウカリスチアはわたしたちの考え方を強固なものにします」。

この秘跡の呼称

この秘跡の無尽蔵の豊かさは、多くの呼称によって表され、その呼称のそれぞれがこの秘跡のさまざまな面を浮き彫りにします。
エウカリスチアと呼ばれるのは、神への感謝の行為であるからです。エウカ∙リステイン(εύχαριστειν 感謝の祈りを唱える)(ルカ22∙19、一コリント11∙24)とエウロゲイン(εύλογεινル賛美の祈りを唱える)(マタイ26∙26、マルコ14∙22)の語は、創造、あがない、聖化という神のみわざを一とくに食事の間に一宣言する、ユダヤ人の賛美の祈りを想起させます。主の晩さんと呼ばれるのは、受難の前夜にキリストが弟子たちとともになさった晩さんを再現すると同時に、天上のエルサレムで行われる小羊の婚宴に前もってあずかるものだからです。
パンを裂くことといわれるのは、ユダヤ人の会食に固有なこの儀式を、イエスが、食卓の主人としてパンを祝福して配られたときに、とくに最後の晩さんのときに用いられたからです。復活後の弟子たちはまさにこの動作を見てキリストを認識することになりますし、初代教会の信者たちは自分たちのエウカリスチアの集いをこの表現を用いて呼ぶようになるのです。そうすることによって、裂かれたただ一つのパンであるキリストを食べる人々は皆、キリストとの交わりに入り、キリストと結ばれたただ一つのからだを形づくるようになったことを表現するのですエウカリスチアの集い(シュナクシスσύναξις)と呼ばれるのは、エウカリスチアは教会を見える形で表す信者の集いで行われるからです。キリストの受難と復活の記念祭。
聖なるいけにえと呼ばれるのは、救い主キリストの唯一のいけにえを現在化し、教会のささげものを包み込むものだからです。ミサの聖なるいけにえ、「賛美のいけにえ」(ヘブライ13∙15)、霊的いけにえ、清い聖なるささげものとも呼ばれますが、それは旧約のあらゆるいけにえを完成し、それを超えるものだからです。
神聖なる典礼と呼ばれるのは、教会のすべての典礼の中心であり、それぞれの典礼が表現しようとしている中身がこの秘跡の挙行の中でもっとも密度の高い形で表現されている、ということが分かるからです。同じ意味で、聖なる神秘の祝祭とも呼ばれます。また、いと聖なる秘跡とも呼ばれますが、それは秘跡中の秘跡だからです。聖櫃に納められた聖なるホスチアに対しては、この名称が用いられます。コムニオ(交わり)と呼ばれるのは、この秘跡によって、わたしたちはキリストに一致し、キリストはただ一つのからだを形づくるために、わたしたちをご自分のからだと血にあずからせてくださるからです。また、聖なるもの、タ∙ハギア(τά άγια)とも呼ばれます。これは、使徒信条がいう「聖徒の交わり」という語のもともとの意味です。また天使のパン、天からのパン、不死の妙薬、旅路の糧などとも呼ばれます。ミサ聖祭と呼ばれるのは、救いの神秘が実現される典礼が、信者が日常生活の中で神のみ旨を果たすことを願った、信者の派遣(ミッシオ)で終了するからです。

救いの営みにおけるエウカリスチア

パンとぶどう酒のしるしエウカリスチアの祭儀を行うときにもっとも大切なのはパンとぶどう酒ですが、これらはキリストのことばと聖霊の働きを願う祈りとによってキリストのからだと血になります。キリストの命令に忠実に従う教会は、キリストが受難の前夜に「パンを取り……」「ぶどう酒の入った杯を取って……」行われたことを、記念として、その栄光の再臨のときまで行い続けます。パンとぶどう酒が聖霊の働きによりキリストのからだと血になることによって、パンとぶどう酒は、創造のわざのすばらしさを表すしるしともなり続けます。奉納の際に、パンとぶどう酒を与えてくださった創造主に感謝をささげますが、このパンとぶどう酒は「人間の労働」の実りである以上に、創造主のたまものである「大地の実り」「ぶどうの木の実り」なのです。教会は、「パンとぶどう酒」をささげた祭司メルキゼデク王の行為(創世記14∙18)は自分たちのささげものの前表だと考えています。旧約時代には、創造主への感謝を表すために、大地の初物の中からパ∙ンとぶどう酒が供え物としてささげられました。エジプト脱出の際には新たな意味も帯びてきます。すなわち、イスラエル人たちが毎年過越祭に食べる種なしパンは、急いでエジプトから脱出したことを記念するものです。また、荒れ野で食べたマナについての記憶はイスラエル人に、自分たちが神のことばの糧によって生きていることをつねに想起させます。さらに毎日のパンは、約束の地の実り、ご自分の約束に対する神の誠実さの保証です。ユダヤ人の過越の会食の終わりに飲む「賛美の杯」(一コリント10∙16)には、ぶどう酒のめでたい喜びに、終末的な側面、すなわち、エルサレム再興を実現するメシア時代への待望の喜びが加わっています。イエスは、パンとぶどう酒の祝福に新しく決定的な意味を与えて、ご自分のエウカリスチアを制定されたのです。多くの人々に食べさせるためにイエスがパンを祝福して裂き、弟子たちを介して配られたときのパン増加の奇跡は、ご自分のエウカリスチアでの唯一のパンがあり余るほどのものであることを前もって表すものです。カナで水がぶどう酒に変えられた奇跡は、すでにイエスの栄光化の時を告げるものです。それは御父の国での婚礼の会食の実現を表していますが、そのとき、信者たちはキリストの血となった新しいぶどう酒を飲むことになるのです。受難の予告が弟子たちをつまずかせたのと同様に、聖体(エウカリスチア)に関するイエスの最初の予告は弟子たちを分裂させます。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」(ヨハネ6∙60)。聖体と十字架とはつまずきの石です。同じ神秘であって、つねに分裂の要因となるものです。「あなたがたも離れて行きたいか」(ヨハネ6∙67)というイエスの問いかけは今も行われていますが、それは、「永遠のいのちのことば」(ヨハネ6∙68)を持っているのはご自分だけであること、そして、ご自分が与える聖体という贈り物を信仰をもっていただくことはご自身をいただくことだということを表すための愛の招きでもあるのです。エウカリスチアの制定キリストは弟子たちを愛し、極みまで愛されました。この世から御父のもとへ移るときが来たことを知り、食事の間に弟子たちの足を洗い、愛のおきてを授けられました。そして、この愛の保証を残し、決して弟子たちから離れずご自分の過越に彼らをあずからせるために、ご自分の死と復活の記念としてエウカリスチアを定め、使徒を「新しい契約の祭司とし」、これを再臨の日まで行うよう命じられました。共観福音書と聖パウロは、エウカリスチアの制定について述べています。他方、聖ヨハネは、カファルナウムの会堂でのイエスのことばを伝えています。それは、ご自分が天からくだったいのちのパンであるという、エウカリスチアの制定を予告することばです。イエスはカファルナウムで予告されたとおり、ご自分のからだと血を弟子たちに与えるために過越祭のときを選ばれました。 「過越の小羊をほふるべき除酵祭の日が来た。イエスはペトロとヨハネとを使いに出そうとして、『行って過越の食事ができるように準備しなさい』といわれた。……二人は行って……、過越の食事を準備した。時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。イエスはいわれた。『苦しみを受ける前に、あなたがたとともにこの過越の食事をしたいと、わたしはせつに願っていた。いっておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事を取ることはない。』……それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えていわれた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしのからだである。わたしの記念としてこのように行いなさい。』食事を終えてから、杯も同じようにしていわれた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である』」(ルカ22∙7-20)。イエスは、過越の食事の間に使徒たちと最後の晩さんを行いながら、ユダヤ人の過越祭に決定的な意味を与えられました。死と復活を通してのイエスの御父への移行、すなわち新しい過越は、最後の晩さんで先取りされ、感謝の祭儀で祝われます。この祭儀はユダヤ人の過越祭を完成し、み国の栄光における教会の決定的な過越を先取りするものです。「これを、わたしの記念として行いなさい」ご自分が「来られるときまで」(一コリント11∙26)ご自分の動作とことばを繰り返すようにとのイエスの命令は、イエスとイエスがなされたこととを思い出すようにと求めているだけではありません。その目指すところは、使徒やその後継者たちがキリストとその生涯、死、復活、御父のもとでの執り成しを記念する典礼を挙行することなのです。教会は当初から、キリストの命令に忠実に従いました。エルサレムの教会に関する次のような記述があります。 「彼らは、使徒の教え、相互の〔愛の〕交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。……毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をしていた」(使徒言行録2∙42,46)。キリスト者が「パンを裂くために」集まったのは、とくに「週の初めの日」、すなわち日曜日、イエスの復活の日でした(使徒言行録20∙7)。そのころから今日に至るまで、エウカリスチア(感謝の祭儀)は継続されてきていますので、今日でも、基本的にはどの教会でも同じ構造となっています。この祭儀は、教会生活の中心を成しています。こうして、旅する神の民はエウカリスチアが行われるごとに、「主が来られるときまで」(一コリント11∙26)イエスの過越の神秘を告げ知らせながら、すべての選ばれた者が神の国の食卓に加わって行われる天の饗宴に向かって、「狭い十字架の道を」進んで行きます。

エウカリスチアの典礼祭儀

あらゆる時代のミサ2世紀の聖体祭儀の式次第の大要については、殉教者聖ユスチノの証言が残されています。その大要は、今日まで教会のすべての典礼様式の伝統に受け継がれてきています。以下の文書は、キリスト者が行っていることに関して聖ユスチノが異教徒の皇帝アントニヌス∙ピウス(138-161に説明するために155年ごろにしたためたものからの引用です。
「太陽の日と呼ばれている日に、町や村に住むすべての人は、一つ所で集会を催して、時間がゆるすかぎり、使徒たちの記録や預言者たちの種々の書物を読みます。
朗読者が読み終わると、指導者がこのような美しいことがらを見習うようにと、ことばをかけて励まします。
それから一同は等しく起立し、祈りをささげます」
「わたしたち自身のため、……また至るところのあらゆる人々のために、わたしたちの正しい生活と行為、また、おきてを忠実に守っていることが認められ、永遠のいのちを得るようにと祈るのです。
祈りが終わると、わたしたちは互いに接吻を交わします。
その後指導者のもとに、パンと、ぶどう酒と水が入った杯が運ばれてきます。
指導者はこれらを取り、御子と聖霊の名によって天にいます宇宙万物の創造主に賛美と栄光を帰して、わたしたちがこのようなたまものに値するものとみなされたことについての心からの感謝を(エウカリスティアンεύχαριστίαν)ささげます。
指導者が祈りと感謝を唱えた後、会衆一同は喜びを込めてアーメンと叫びます。
……司式者が感謝をささげ、会衆が応唱した後、わたしたちの間で助祭と呼ばれる者たちが列席者一入ひとりに『感謝がささげられた』(エウカリステセントスεύχαριστηθέντος)パンとぶどう酒と水を配り、不在者には持って行きます」。エウカリスチアの典礼(感謝の祭儀)は、昔から今日まで維持されてきた基本的な構造に従って行われます。それは二つの部分に分けて展開されますが、根本的には一つの流れです。
――信者が集まって行われることばの典礼、すなわち、朗読、説教、共同祈願。
――感謝の典礼、すなわち、パンとぶどう酒の奉納、聖別のための感謝の祈り、聖体拝領。
ことばの典礼と感謝の典礼とは一つになって、「一つの礼拝行為」を形づくります。感謝の祭儀でわたしたちのために準備された食卓は、神のことばの食卓であると同時にキリストのからだの食卓でもあります。そこには、復活されたイエスが二人の弟子たちと取られた過越の食事の展開そのものが見られはしないでしょうか。道を歩きながらイエスは彼らに聖書を説明し、それから、ともに食事の席に着いて、「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」のです。式次第全員の集合。キリスト者は感謝の祭儀のために、一堂に会します。集会の長は祭儀の主宰者キリストご自身です。キリストは新しい契約の祭司で、目には見えなくても祭儀全体を自ら主宰されます。司教または司祭は、キリストに代わって(頭であるキリストの代理者として)集会を司式し、朗読の後に説教し、供え物を受け、奉献文を唱えます。全員がそれぞれに祭儀の中で、朗読者、供え物を運ぶ者、聖体を配る者、またアーメンによって参加を表明する全会衆として積極的に役割を果たします。ことばの典礼では、「預言者の書」すなわち旧約聖書と、「使徒たちの回想録」つまり使徒たちの手紙と、福音書が朗読されます。説教は、このことばを実際の神のことばとして受け入れ、これを実行するように励ますものです。続いて、すべての人のために執り成しの祈りが行われます。これは、「まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい」(一テモテ2∙1-2)という使徒パウロのことばに基づくものです。供え物の奉納。パンとぶどう酒が祭壇に運ばれます。これは、時としては行列をして行われます。このパンとぶどう酒はエウカリスチアのいけにえにおいてキリストのみ名で司祭によってささげられ、キリストのからだと血になるものです。最後の晩さんで「パンと杯を取られた」キリストと同じ行為をするのです。「教会だけが、神の被造物の中からこの清いささげものを感謝をもって創造主にささげています」。祭壇への供え物の奉納はメルキゼデクの行為に倣うもので、創造主のたまものをキリストのみ手にゆだねるのです。キリストは、犠牲をささげようとする人間のすべての試みをご自分の犠牲の中で完成させてくださるのです。当初から、キリスト者はエウカリスチアのためのパンとぶどう酒のほかに、困っている人々への施し物を持参していました。この施し物を集める(募金の)習慣は、わたしたちを豊かにするために貧しくなられたキリストの模範に基づいた、つねに意義あるものです。 「豊かな者は、各自、自発的に望みに応じて施しをします。寄進は指導者のもとに集められ、指導者自身が孤児たちや寡婦、病気などの理由で必要に迫られている人々、また牢獄に入れられている人々、寄留者たち、つまり、必要に迫られているすべての人を援助します」。奉献文(アナフォラ)。エウカリスチアの祈り、すなわち感謝と聖別の祈りで、祭儀はその中心および頂点に達します。 叙唱で教会は、そのすべてのわざ、創造、あがない、聖化のゆえに、キリストによって聖霊のうちに、御父に感謝をささげます。そのとき、全会衆は、天使と聖人とからなる天上の教会が至聖なる神にささげる絶え間ない賛美に声を合わせます。聖霊の働きを求める祈り(エピクレシス)で教会は、パンとぶどう酒の上に聖霊(あるいは御父の祝福の力を遣わしてくださるように御父に祈ります。それは聖霊の力によってパンとぶどう酒がイエス・キリストのからだと血になり、エウカリスチアにあずかる人々がただ一つのからだ、ただ一つの心となるためです(ある典礼伝承では、エピクレシスはアナムネシスの後に来ます)。
制定の叙述では、キリストのことばと行為の力ならびに聖霊の力が、十字架上でただ一度いけにえとしてささげられたイエス・キリストのからだと血を、パンとぶどう酒の形態のもとに秘跡的に現存させます。それに続く記念(アナムネシス)で教会は、イエス・キリストの受難、復活、昇天の記念を行い、わたしたちを御父と和解させてくださる御子のささげ物を御父にささげます。
取り次ぎの祈りで教会は、この祭儀グ天と地の全教会、生ける人、死せる人、また教会の牧者である教皇、教区司教、その司祭と助祭、ならびに全世界のすべての司教とその司教のもとにある教会との交わりのうちに行われていることを表明します。主の祈りとパンを裂いた後に行われる聖体拝領(コムニオ)で、信者は「天からのパン」と「救いの杯」、すなわち、「世を生かすため」(ヨハネ6∙51)にご自分を渡されたキリストのからだと血をいただきます。 このパンとこのぶどう酒は昔からの表現では「エウカリスチアされたもの(感謝の祈りが唱えられたもの)」と呼ばれています。そして次のように説明されています。「この食物を、わたしたちはエウカリスチアと呼んでいます。これにあずかるには、まずわたしたちの教えを真実なものと信じ、罪のゆるしと新たに生まれるための洗礼を受けており、かつキリストが教えたように生活している者であることが肝要で、それ以外の人にはだれにもゆるされていません」。

秘跡的いけにえにおける感謝、記念、現存

キリスト者が、異なる時代を経て多様な典礼を持つにもかかわらず、当初から実質的には変わらない一っの形式でエウカリスチアを行ってきたのは、受難の前夜に「わたしの記念としてこのように行いなさい」(一コリント11∙24-25)といわれたキリストの命令に従うためでした。わたしたちはキリストの命令を、そのいけにえの記念を行うことによって果たします。そうすることにより、御父がわたしたちに与えてくださったもの、すなわち、自然の産物であるパンとぶどう酒が聖霊の力とキリストのことばとによってキリストのからだと血になったものを、御父にささげます。こうしてキリストは、実際に、また、神秘的に現存するようになられます。したがってわたしたちは、エウカリスチアを以下のように理解しなければなりません。
――御父への感謝と賛美
――キリストおよびそのからだである教会の、いけにえによる記念
――キリストのことばとその霊の力とによるキリストの現存御父への感謝と賛美エウカリスチアは、十字架上でキリストによって成就された救いの秘跡ですが、また、創造のわざに感謝してささげる賛美のいけにえでもあります。このエウカリスチアのいけにえにおいて、神に愛されている全被造物がキリストの死と復活を通して御父にささげられます。教会は、神が被造界と人類とのうちになされたすべてのよいこと、美しいこと、正しいことに感謝するために、キリストを通して賛美のいけにえをささげることができます。エウカリスチアは御父への感謝のいけにえであり、神のすべての恵みに対する教会の感謝、すなわち創造、あがない、聖化によって成し遂げられたすべてのことについての感謝を表す神への賛美です。エウカリスチアという語はまず、「感謝」を意味します。エウカリスチアはまた、教会がすべての被造物に代わって神の栄光を歌う賛美のいけにえです。この賛美のいけにえは、キリストを通してしかささげることができません。すなわち、キリストが信者たちをご自分と、ご自分の賛美ならびに執り成しに一致させてくださるのです。こうして御父への賛美のいけにえは、キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに受け入れられます。キリストとそのからだである教会の、いけにえによる記念エウカリスチアはキリストの過越の記念、そのからだである教会の典礼の中で行われるキリストの唯一のいけにえの再現、秘跡的な奉献です。すべての奉献文には、制定のことばの後、アナムネシスないし記念と呼ばれる祈りがあります。記念とは、聖書的には、過去の出来事を単に想起することではなく、神が人間のために行われた偉大なわざを宣言することを意味します。これらの出来事を祝う典礼祭儀の中で、出来事は何らかの形で現存し、現在化されます。イスラエル人たちは、エジプトからの解放を記念する過越祭を行うたびに、それによって自分たちの生活が活性化できるように、解放の出来事が信者たちの記憶の中によみがえってくる、と理解しています。新約聖書では、記念には新たな意味づけがなされています。教会がエウカリスチアを行うとき、キリストの過越を記念し、これが現存するものとなります。キリストが十字架上でただ一度ささげられた犠牲は、つねに成し遂げられた状態にあるのです。「『わたしたちの過越であるキリストがいけにえとなられた』(一コリント5∙7)十字架の犠牲が祭壇の上で祭儀執行されるたびごとに、わたしたちのあがないのみわざが行われます」。エウカリスチアは、キリストの過越の記念ですので、いけにえでもあります。エウカリスチアのいけにえとしての性格は、その制定のことばに明らかです。「これは、あなたがたのために与えられるわたしのからだである」「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」(ルカ22∙19-20)。エウカリスチアにおいて、キリストは十字架上でわたしたちのために渡されたそのからだと「罪がゆるされるように、多くの人のために」(マタィ26∙28)流された血とをお与えになります。したがって、エウカリスチアは、十字架上のいけにえを現在化し、記念し、その実りを分け与えるので、いけにえなのです。
「わたしたちの神であり、主〔であるキリスト〕は、十字架の祭壇の上で死なれ、一度で永久に父である神にご自分をささげて、救いのわざを完成されました。しかしキリストの祭司職は死によって消え去るものではなかったので(ヘブライ7∙24,27)、『引き渡される夜』(一コリント1∙23)、最後の晩さんにおいて、自分の愛する花嫁である教会に目に見えるいけにえを残されたのです(人間のためにはこれが必要でした)。このいけにえによって、十字架上で一度血を流してささげたものが表され、その記憶が世の終わりまで続き、その救いの力によってわたしたちが毎日犯す罪がゆるされるのです」。キリストのいけにえとエウカリスチアのいけにえは、ただ一つのいけにえです。「ささげものは同一です。かつてご自分を十字架の上でささげたキリストが、今司祭の役務を通してささげられているからです。ただ一つ違うのは、ささげ方だけです」。「そこで、ミサ聖祭で行われるこの神聖ないけにえには、十字架上の祭壇で『一回限り血を流して自らをささげられた』のと同じキリストが現存し、血を流さずにささげられます。……このいけにえは真のなだめのいけにえです」。エウカリスチアは、教会のいけにえでもあります。キリストのからだである教会は、その頭の奉献をともにします。キリストとともに、教会全体がささげられます。教会は、御父のもとであらゆる人のために行われるキリストの執り成しにあずかります。エウカリスチアでは、キリストのいけにえはまた、そのからだに属する人々がささげるいけにえとなります。信者たちの生活、賛美、苦しみ、祈り、労働などはキリストのそれとキリストのまったき奉献とに合わせられ、新たな価値を得るのです。祭壇上に現存するキリストのいけにえによって、すべての時代のキリスト者がキリストの奉献に一致することが可能となります。 ローマのカタコンベでは、教会はしばしば礼拝の姿勢で腕を大きく広げて祈る婦人の姿で描かれています。十字架上で腕を広げたキリストのように、キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに、教会はすべての人のために自らをささげ、執り成します。教会全体が、キリストの奉献と執り成しに結ばれます。教会の中でペトロの務めを果たす教皇はすべてのエウカリスチアの祭儀に結ばれており、普遍教会の一致のしるし、奉仕者として、その名が唱えられます。地域の司教は、司祭が司式するときでも、つねにエウカリスチアの責任者です。エウカリスチアでその名が唱えられるのは、司祭団に囲まれ、助祭の補佐を受けている司教が部分教会の頭であることを意味するためです。信者の集まりは、自分たちのために自分たちとともにエウカリスチアのいけにえをささげるすべての役務者のためにも執り成しを行います。
「司教もしくは司教が委任した者の司式で行われるエウカリスチアだけが、有効であるとみなされます」。
「司祭の役務を通して、信者の霊的いけにえは、唯一の仲介者であるキリストのいけにえとの一致のうちに完成するものであり、このキリストのいけにえは、主自らが来られるときまで、司祭たちの手によって、全教会の名において、聖体祭儀において血を流すことなく秘跡的にささげられます」。キリストの奉献には、今この世に生きる人たちだけではなく、すでに天の栄光に入った人たちもともに参加します。教会は、いと聖なるおとめマリアに結ばれ、マリアやすべての聖人たちを記念しながらエウカリスチアのいけにえをささげます。エウカリスチアを行うとき、教会はいわばマリアとともに十字架のもとにたたずみ、キリストの奉献と執り成しとに結ばれるのです。エウカリスチアのいけにえはまた、「キリストに結ばれて死に、まだ完全に清められていない」亡くなった信者が、キリストの光と平安とにあずかることができるようになるためにもささげられます。
「このからだはどこにでも好きなところに葬っておくれ。そんなことに心を煩わさないでおくれ。ただ一つ、お願いがあります。どこにいようとも、主の祭壇のもとでわたしを思い出しておくれ」。
「次に、わたしたちは〔奉献文の中で〕、亡くなった聖なる教父や司教たちのため、またわたしたちに先だって亡くなった人々全体のために祈ります。聖にしてこれほどに尊いいけにえがささげられている間になされる執り成しの祈りが、彼らのために大いに役立つだろうと信じているからです。……たとえ亡くなった人々が罪びとであったにせよ、彼らのために神に祈りをささげ、……人々の友である神に亡くなった人々やわたしたちに対するあわれみを願って、わたしたちの罪のためにいけにえとなられたキリストをおささげするのです」。聖アウグスチヌスは、わたしたちが行うエウカリスチアでのあがない主のいけにえにつねにますます完全にあずかるようにと促すこの教えを、次のように要約しました。
「あがなわれた国全体、すなわち聖者たちの集いと共同体が、大祭司〔キリスト〕によって普遍的なささげものとして神に奉献されます。この大祭司は、しもべの姿をとった者として、わたしたちがこれほど偉大な頭の肢体となるように、わたしたちのために苦しみを受けて、自らをささげものとして奉献してくださいました。……『数は多いが、キリストに結ばれて一つのからだを形づくっている』ことこそ、キリスト者の奉献です。これこそ、信者たちが熟知している祭壇の秘跡として、教会がたえず行っている奉献です。この秘跡において教会が神にささぼるもののうちに、教会そのものがささげられるということが教会に示されるのです」。キリストのことばとその霊の力とによるキリストの現存「死んだかた、否、むしろ、復活させられたかたであるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」(ローマ8∙34)。このキリストが、さまざまなしかたで教会に現存されます。ご自分のことばのうちに、ご自分の教会の祈りの中に、「二人または三人が〔ご自分の〕名によって集まるところには、その中に」(マタイ18∙20)、また、貧しい人、病人、囚人のうちに、ご自分が制定された諸秘跡のうちに、ミサのいけにえならびに司式者のうちに現存されます。しかし、「とくに、聖体の両形態のもとに現存しておられる」のです。聖体の両形態のもとでのキリスト現存のあり方は比類のないものです。そのためにエウカリスチアは、他の秘跡よりも上位のものとされ、「いわば、霊的生活の完成、すべての秘跡が向かう目的となります。至聖なる聖体(エウカリスチア)の秘跡には、わたしたちの主イエス・キリストの霊魂と神性とに結ばれたからだと血、つまり、全キリストが真に、現実に、実体的に現存しておられます。「この現存を『現実の』現存といいますが、それはそれ以外の現存が『現実』ではないのでそれらを除外するという意味ではなく、神であり人である全キリストが現存するようになるという実体的現存の崇高さのゆえなのです」。パンとぶとう酒がキリストのからだと血に変わることによって、キリストはこの秘跡に現存するものとなられます。教父たちは、この変化を行うキリストのことばと聖霊の働きとの効力に対する教会の信仰を確固として主張してきました。たとえば、聖ヨハネ∙クリゾストモは次のように述べています。
「供えられた物をキリストのからだと血にするのは人間ではなく、わたしたちのために十字架につけられたキリストご自身です。キリストの姿を表している司祭がことばを述べますが、その効力と恵みは神からのものです。これはわたしのからだであるとはキリストがいわれるのであって、このことばが供え物を変えるのです」
また聖アンブロジオは、この変化についてこう述べています。
「これは自然によって形づくられたのものではなく、祝福によって聖別されたものであり、祝福によって自然そのものが変えられるから、祝福の力が自然の力に勝つ」のだとわたしたちは確信すべきです。「存在しなかったものを無から造り出すことができたキリストのことばは、存在しているものを別のものに変えることができないのでしょうか。ものの本性を変化させるよりは、ものに存在を与えるほうがやさしいわけではないのです」。トリエント公会議は、カトリック信仰を要約してこう宣言しています。「わたしたちの救い主キリストは、パンの形態のもとにささげられたものがご自分の真のからだであると仰せられたので、神の教会が変わることなくつねに信じてきたことを、この聖なる公会議も繰り返して宣言します。すなわち、パンとぶどう酒の聖別によって、パンの全実体がわたしたちの主キリストの実体となり、ぶどう酒の全実体がその血の実体に変化します。聖なるカトリック教会は、この変化をまさしく適切に全実体変化と呼びます」。聖体におけるキリストの現存は聖別のときに始まり、その形態が存在する限り続きます。キリスト全体がそれぞれの形態のうちに、またその部分のうちに全体として現存されます。したがって、パンを裂いてもキリストが分割されることはありません。聖体礼拝。ミサの典礼で、わたしたちはキリストをあがめるしるしとしてひざまずいたり頭を深く下げたりすることなどによって、パンとぶどう酒の形態のもとに現存されるキリストヘの信仰を表します。「カトリック教会はこれまで、聖体の秘跡に対する礼拝をミサの間だけではなくミサ外でも行ってきましたし、現在も行っています。聖別されたホスチアを注意深く保存し、おごそかに信者の崇敬の対象とし、民衆が喜ぶ中でそれを行列しながら運ぶのです」。聖体を保存するための聖櫃はまず、ミサに出席できなかった病人などにミサ後に聖体を持参できるように、そのときまでうやうやしく安置するためのものでした。しかし、聖体におけるキリストの現存に対する信仰が深められるにつれて、教会はパンの形態のもとに現存するキリストを沈黙のうちに礼拝する意義をますます理解するようになりました。したがって、聖櫃は教会堂の特別にふさわしい場所に置かれなければなりませんし、同時に、聖体にキリストが真実に現存されることが明白に表されるような形で作られる必要があります。キリストがこの比類のないしかたで教会につねに現存することを望まれたのは、まったく当然のことです。キリストは、目に見える姿では弟子たちから去られましたが、わたしたちのもとに秘跡的に現存することをお望みになりました。また、わたしたちの救いのために十字架上でご自分をささげるにあたり、ご自分のいのちを捨てるまでにわたしたちを「この上なく愛し抜かれ」(ヨハネ13∙1)、その愛を思い起こさせる形見をわたしたちに残そうと望まれました。キリストは、わたしたちを愛し、わたしたちのために身をささげられたかたとして、エウカリスチアによる現存という形をとって、その愛を表し共有するしるしのもとで、わたしたちの間に神秘的にとどまっておられるのです。
「教会と世界は聖体の礼拝を大いに必要としています。わたしたちは、信仰にあふれた礼拝と観想において、世界の大きな過ちと罪を償う心構えで、イエスに出会うためには時間を惜しんではなりません。わたしたちのこの礼拝が、決して途絶えることがありませんように」。「キリストの真のからだと真の血の現存は、『感覚によってではなく、ただ神の権威に支えられた信仰によってのみ把握される』と聖トマスは述べています。聖チリロはこれはあなたがたのために与えられるわたしのからだであるというルカ22章19節のことばを解説して、こういいます。『真であるか否かを問わずに、むしろ、主のことばを信仰をもって受け入れなさい。真理であるかたは偽りを話されません』と」。
「これらの形の下に隠れてはいても、
現存する神であるあなたを、わたしはひれ伏して礼拝します。
わたしの心をまったくあなたに従わせます。
あなたを見つめていると、なすべきことが分からないからです。
視覚も触覚も味覚も、あなたを把握できません。
聴覚だけによって信ずべきことが分かるのです。
わたしは、神の御子が語られたすべてのことを信じます。
真理であるかたのことばより真実なものは何もないのです」。

過越の会食

ミサは十字架上のいけにえが永続する記念であると同時に、主のからだと血にあずかる聖なる会食でもあります。感謝のいけにえの祭儀は、聖体拝領(コムニオ)によるキリストと信者たちとの親密な一致に向けられたものです。聖体拝領とは、わたしたちのためにいのちをささげられたキリストご自身をいただくことです。教会は祭壇を囲んでエウカリスチアを行いますが、その祭壇は、いけにえの祭壇であると同時に主の食卓であるという唯一の神秘の二つの面を表しています。というのは、キリスト教の祭壇は、わたしたちの和解のためにささげられたいけにえとして、またわたしたちに与えられる天の糧として、信者のただ中に現存されるキリストご自身の象徴だからです。聖アンブロジオは、「キリストの祭壇はキリストのからだを表すものでなくて、何でしょう」といい、また他のところでは、「祭壇は〔キリストの〕からだを表し、キリストのからだは祭壇の上にある」といっています。典礼の多くの祈りは、いけにえと聖体拝領との一体性を表現しています。たとえば、ローマ教会は奉献文の中で次のように祈ります。
「全能の神よ、つつしんでお願いいたします。あなたの栄光に輝く祭壇に、このささげものをみ使いに運ばせ、今、祭壇で御子の神聖なからだと血にともに結ばれるわたしたちが、天の祝福と恵みに満たされますように」。「皆、これを取って食べなさい」聖体拝領キリストは、エウカリスチアの秘跡でわたしたちがご自分をいただくよう強く促しておられます。「はっきりいっておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちのうちにいのちはない」(ヨハネ6∙53)。キリストの招きにこたえるために、この重要で聖なる時に備えなければなりません。聖パウロは良心の究明を勧めます。「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめた上で、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主のからだのことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」(一コリント11∙27-29)。大罪を犯したことを意識している人は、聖体拝領の前にゆるしの秘跡を受けなければなりません。この秘跡の偉大さを前にして、信者はただ百人隊長の次のことばを謙虚にまた熱烈な信仰をもって繰り返す以外にありません。「主よ、わたしはあなたをお迎えできるような者ではありません。ただ、一言おっしゃってください。そうすれば、わたしの魂はいやされます」。また、聖ヨハネ∙クリゾストモの聖典礼では、信者たちは同じ精神でこう祈ります。
「ああ、神の御子よ、あなたの神秘的な晩さんで、今日、聖体をいただかせてください。わたしはこの秘密をあなたの敵対者に話さず、あなたにユダの接吻もいたしません。むしろあの盗賊のように、主よ、あなたのみ国においでになるときには、わたしを思い出してください、と叫びます」。信者は聖体をふさわしく拝領する準備として、自分が属する教会の定めに従い、飲食物を控えなければなりません。尊敬を表す態度や身なりをして、わたしたちの賓客になられるキリストをお迎えする厳粛さと喜びとを表現しなければなりません。信者に必要な準備ができている場合、ミサにあずかるときに聖体を拝領することは、エウカリスチアの意義にかなっています。「司祭の聖体拝領後に、信者が、その同じ犠牲から主の御からだを拝領することは、ミサ聖祭へのより完全な参加であって、せつに勧められることです」。教会は信者に、主日と祝祭日に聖典礼にあずかり、少なくとも年に一度、できれば復活祭の時期に、ゆるしの秘跡を受けた後、聖体を拝領することを義務づけています。しかし教会は、主日と祝祭日、あるいはもっと頻繁に、いや、毎日でも聖体を拝領するよう信者に強く勧めています。キリストが各形態のもとに秘跡的に現存しておられるので、パンの形態だけの拝領でも両形態での拝領と同じ恵みが与えられます。ローマ典礼では種々の司牧的理由から、このパンの形態だけでの聖体拝領のあり方が合法的に普通のこととなりました。しかし、「しるしの観点からすれば、両形態のもとになされる拝領は、より充実した形式を備えています。この形式においては、感謝の会食のしるしがより完全に現れます」。この両形態での拝領が、東方教会典礼では通常の方法となっています。聖体拝領の実り聖体拝領は、キリストとわたしたちの一致を強めます。聖体拝領のすばらしい実りは、イエス・キリストとの親密な一致です。キリストは、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしのうちにおり、わたしもまたいつもその人のうちにいる」(ヨハネ6∙56)といわれます。キリストのうちにあって生かされるいのちの源泉は、エウカリスチアの会食です。「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる」(ヨハネ6∙57)。
「主の祝日に御子のからだを拝領するとき、信者はいのちの保証が与えられたという、よい知らせを互いに伝え合っています。それは、天使が〔マグダラの〕マリアに『キリストは復活なさったのだ』と伝えたときと同じです。今も、いのちと復活とがキリストをいただく者に与えられるのです」。通常の食べ物がわたしたちの肉体的いのちにもたらすものを、聖体拝領は感嘆すべきしかたでわたしたちの霊的いのちにもたらします。復活して「聖霊によって生き、また生かす」キリストのからだを拝領することにより、洗礼の際に受けた恵みのいのちが維持され、成長し、新たにされます。このキリスト教的いのちの成長は聖体拝領によって養い続けられる必要があります。聖体は、死の時までのわたしたちの旅路の糧であり、死の時には臨終の糧として授けられます。聖体拝領は、わたしたちを罪から離れさせます。聖体拝領でいただくキリストのからだは「わたしたちのために渡される」からだであり、飲む血は「多くの人の罪のゆるしのために流される」血です。したがって聖体は、わたしたちをキリストに一致させるときに必ず、犯した罪から清め、これから先罪を犯さないように守ってくれます。
「いただくたびに、主の死を告げ知らせるのです。もし主の死を告げ知らせるのならば、わたしたちは罪のゆるしを告げ知らせているのです。もし、御血がいつも罪のゆるしのために流されるのであるとすれば、わたしは罪をゆるしていただくためにいつも御血をいただかなければなりません。わたしはいつも罪を犯しているので、いつも薬をいただかなければならないのです」。からだの糧が体力の消耗を回復させるのと同じく、聖体は、日常の生活で弱まりがちな愛を強化します。そして活力を取り戻したこの愛は、小罪を消します。キリストはご自分をわたしたちに与えて、わたしたちの愛を再び燃え立たせ、被造物に対する乱れた愛着を断ち切り、わたしたちをご自分に深くつなぎ止めてくださいます。
「キリストは、わたしたちへの愛のゆえに死なれたのですから、わたしたちがいけにえをささげてその死を記念するとき、聖霊の到来によって、愛が与えられるよう願うのです。そして、キリストがわたしたちのために、進んで十字架につけられることを選ばれたその愛によって、わたしたちもまた聖霊の恩恵を受けて、世をはりつけにされたものとみなすことができるように、また、世に対してはわたしたちがはりつけにされたものとなることができるように、へりくだって祈るのです。……たまものとして愛を受けて罪に対して死に、神に対して生きるためです」。エウカリスチアは、わたしたちのうちに愛を燃え立たせることによって、わたしたちが今後大罪を犯さないように守ってくれます。わたしたちは、キリストのいのちにあずかり、キリストとの友愛を深めれば深めるほど、キリストとの交わりを断ち切る大罪から守られます。エウカリスチアは大罪をゆるすためのものではありません。大罪をゆるすのはゆるしの秘跡です。エウカリスチアは、教会との完全な交わりを保っている人々のための秘跡です。神秘体の一致;エウカリスチアは、教会をつくります。聖体を拝領する人々は、キリストにより親密に結ばれます。それゆえに、キリストはすべての信者を教会というただ一つのからだに結びつけます。聖体拝領は、すでに洗礼によって実現された教会との合体を新たにし、強めます。洗礼によって、わたしたちはただ一つのからだを形づくるように召されました。エウカリスチアはこの招きを実現します。「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストのからだにあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つのからだです。皆が一つのパンを分けて食べるからです」(一コリント10∙16-17)。
「もし、皆さんがキリストのからだ、またその肢体であるならば、主の食卓の上に置かれてあるのは皆さんを表す秘跡で、皆さんは皆さんを表す秘跡を受けます。皆さんはいただくものに対してアーメン(まことにそのとおりです)と答え、そう答えながらそれに同意しているわけです。あなたはキリストのからだということばを聞き、アーメンと答えます。ですから、あなたのアーメンが真実であるように、キリストの肢体でありなさい」。エウカリスチアは、貧しい人々との連帯を強めさせてくれます。わたしたちのために渡されたキリストのからだと血をふさわしくいただくには、その兄弟であるもっとも貧しい人々のうちにキリストを認めなければなりません。
「あなたは主の御血を味わったのに、自分の兄弟を認めてさえいません。この食卓に加わるのにふさわしいと認められた者を、あなたの糧を分かち合うのにふさわしくない者とあなたは考えているので、この食卓を汚しているのです。神はあなたをすべての罪から解放し、この食卓に招かれました。それなのに、それでもあなたはあわれみ深い者とはなっていません」。エウカリスチアおよびキリスト者の一致。この神秘の偉大さを前にしで聖アウグスチヌスは「ああ、何とすばらしい敬神の秘跡、何と崇高な一致のしるし、何と尊い愛のきずなリと叫んでいます。そのことを考えると、主の食卓をともにすることを妨げる教会の分裂は大きな悲しみをもたらします。だから、主を信じるすべての人の完全な一致の日が再び訪れるようキリストに祈ることが、緊急に求められているのです。カトリック教会と完全には一致していない東方の諸教会では、エウカリスチアが非常な愛をもって挙行されています。「これらの教会はたとえ分かれてはいても、真の秘跡、とくに使徒継承の力により祭司職とエウカリスチアを持っていて、それらによって今なお緊密にわたしたちと結ばれています」。だから「典礼へのある程度の共同参加(コムニカチオ∙イン∙サクリス)は、ある適当な条件のもとに教会権威の承認を得た上で、可能であるばかりでなく勧められることでもあります」。宗教改革によって生まれた、カトリック教会から分離した諸教団は、「とりわけ叙階の秘跡の欠如のために、聖体の神秘の本来の完全な本体を保ちませんでした」。この理由で、カトリック教会としてはこれらの教団と聖体拝領をともにすることはできません。とはいえ、これらの教団は「聖さん式において、主の死と復活の記念を行い、キリストと交わる生命が示されることを公言し、また、キリストの栄光の到来を期待している」のです。さし迫った重大な必要がある場合、カトリックの教役者は教区司教の判断に従い、カトリック教会との完全な交わりにはなくとも、心底からこれを求めるキリスト者に(聖体、ゆるし、病者の塗油の)秘跡を授けることができます。その場合は、これらの秘跡に関するカトリックの信仰を表明し、必要な心構えができていなければなりません。

「来るべき栄光の保証」であるエウカリスチア

ある古い祈りの中で、教会はエウカリスチアの神秘を次のように唱えてたたえています。「ああ、聖なるうたげ、そこでキリストはわたしたちの糧となり、受難が改めて記念され、恵みがわたしたちを満たし、来るべき栄光の保証が与えられる」。エウカリスチアはキリストの過越の記念であり、わたしたちは聖体拝領によって「天の祝福と恵みに」満たされます。それゆえ、エウカリスチアは天の栄光の先取りなのです。最後の晩さんのときに、主ご自身が弟子たちの注意を神の国における過越の完成に向けさせてくださいました。「いっておくが、わたしの父の国であなたがたとともに新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」(マタイ26∙29)。教会はエウカリスチアを行うたびに、父の国でキリストとともに新たにぶどう酒を飲むというキリストの約束を思い起こし、目を「やがて来られるかた」(黙示録1∙4)に向けます。そして、そのかたの到来を願って、「マラナ∙タ(主よ、来てください)」(一コリント16∙22)、「主イエスよ、来てください」(黙示録22∙20)、「あなたの恵みが訪れて、この世が過ぎ去りますように」と祈ります。教会は、主がすでに今行われているご自分のエウカリスチアにおいでになって、わたしたちのただ中におられることを知っています。しかし、この現存を目で確かめることはできません。ですから、わたしたちはエウカリスチアを挙行するとき、「救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んで」、「わたしたちもいつかその国で、いつまでもともにあなたの栄光にあずかり、喜びに満たされますように。そのときあなたは、わたしたちの目から涙をすべてぬぐいさり、わたしたちは神であるあなたをありのままに見て.永遠にあなたに似るものとなり、終わりなくあなたをたたえることができるのです」と祈ります。エウカリスチアは、この大きな希望、すなわち、義の宿る新しい天と新しい地の希望のもっとも確実な保証、明白なしるしなのです。この祭儀の度ごとに、「わたしたちのあがないのみわざが行われ」、わたしたちは「不死の妙薬、死なずにイエス・キリストに結ばれて永遠に生きるための解毒剤である一つのパンを〔裂くのです〕」。

要約

イエスはいわれます。「わたしは、天からくだって来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。……わたしの肉を食べ、その血を飲む者は永遠のいのちを得、……いつもわたしのうちにおり、わたしもまたいつもその人のうちにいる」(ヨハネ6∙51,54,56)。エウカリスチアは教会生活の中心でも、頂点でもあります。なぜなら、エウカリスチアにおいて、キリストはご自分の教会とそのすべての成員を、ただ一度十字架上で御父にささげられた賛美と感謝のいけにえに結びつけられるからです。このいけにえによって、キリストは教会であるご自分のからだに救いの恵みを注がれます。エウカリスチアにはつねに、神のことばの宣言、すべての恩恵、とくに御子をたまものとしてお与えくださった恵みのゆえに父である神にささげる感謝、パンとぶどう酒の聖別、および、主のからだと血をいただく会食への参加,という要素が含まれています。以上の要素が、唯一の同じ祭儀を成り立たせているのです。エウカリスチアはキリストの過越の記念です。すなわち、キリストの生涯、および死と復活によって成し遂げられた救いのわざの記念であり、それが典礼行為によって現在化されるのです。新約の永遠の大祭司キリストご自身が、司祭たちの務めを通して、エウカリスチアのいけにえをささげられます。また、このいけにえの供え物も、パンとぶどう酒の形態のもとに現存される同じキリストです。有効に叙階された司祭のみがエウカリスチアを司式し、キリストのからだと血になるようにパンとぶどう酒を聖別することができます。この秘跡の基本的なしるしは麦で作られたパンとぶどう酒であり、その上に聖霊の祝福が呼び求められ、司祭は最後の晩さんの間にイエスがいわれた「これはあなたがたのために渡されるわたしのからだである。……これはわたしの血の杯である」という聖別のことばを唱えます。聖別によって、パンとぶどう酒の実体はキリストのからだと血の実体に変わります。聖別されたパンとぶどう酒の形態のもとに、生きておられる栄光のキリストご自身が真に、現実に、実体的に、からだと血、霊魂と神性ともども現存されます。エウカリスチアは、生者と死者の罪を償い、霊的または物的恵みを神からいただくためにもいけにえとしてささげられます。聖体拝領によってキリストをいただきたい者は、成聖の恩恵の状態になければなりません。大罪を犯したことを自覚している者は、聖体を拝領する前に、ゆるしの秘跡によってそのゆるしを受けなければなりません。キリストのからだと血を拝領することによって、本人とキリストとの一致が強められ、小罪がゆるされ、大罪から守られます。また拝領者とキリストとの愛のきずなが固められるので、聖体拝領はキリストのからだである教会そのものの一致をも強化します。教会は信者に、エウカリスチアの祭儀にあずかるときには聖体を拝領するよう強く勧めています。少なくとも年に一度の聖体拝領が信者の義務となっていをす。少なくとも年一度の聖体拝領が信者の義務となっています。キリストご自身が聖体の秘跡に現存しておられるので、わたしたちは聖体を礼拝しなければなりません。「聖体訪問はわたしたちの主キリストに対する感謝の表明、愛のしるし、礼拝の務めです」。キリストはこの世から御父のもとに移られたので、わたしたちがキリストのもとで栄光を受ける保証として、エウカリスチアをわたしたちに与えてくださいます。わたしたちは聖なるいけにえにあずかることによって、キリストの心と一つになり、この世の旅路で力づけられ、永遠のいのちを希求し、この世にありながらすでに天上の教会、聖なるおとめマリア、すべての聖人たちと結ばれます。

ゆるしと和解の秘跡

この秘跡は何と呼ばれるか

キリスト教入信の秘跡によって、人は新しいキリストのいのちを受けます。ところで、わたしたちはこのいのちを、「土の器に」(ニコリント4∙7)納めています。今はまだ、このいのちは「キリストとともに神のうちに隠されているのです」(コロサイ3∙3)。わたしたちはまだ地上の住みかにいて、苦しみや病気や死を免れることはできません。この神の子としての新しいいのちは、罪によって衰弱し、喪失することもありえます。中風の人の罪をゆるして健康を回復させてくださった主イエス・キリストは、わたしたちの霊魂とからだの医師であり、ご自分のいやしと救いのわざを教会が聖霊の力によってその成員に対しても続けることをお望みになりました。これが二つのいやしの秘跡、すなわち、ゆるしの秘跡と病者の塗油の秘跡です。「告解(ゆるし)の秘跡を受ける者は、神に加えた侮辱のゆるしをあわれみ深い神からいただき、同時に自分たちの罪をもって傷つけた教会、愛と模範と祈りをもって自分たちの回心のために努力している教会と和解します。」回心の秘跡と呼ばれるのは、それが回心へのイエスの呼びかけであり、罪によって遠ざかった御父のもとに戻る歩みを秘跡的に実現するからです。
悔い改めの秘跡と呼ばれるのは、それが、罪を犯したキリスト者の回心、痛悔、償いの個人的および教会的歩みにかかわるからです。告白の秘跡と呼ばれるのは、司祭の前で罪を告白するのがこの秘跡の本質的要素の一つだからです。この名称の根底には、この秘跡は神の聖性と罪びとに対する神のあわれみとを「告白すること」――認めて賛美すること――である、という意味合いが込められています。
ゆるしの秘跡と呼ばれるのは、司祭による秘跡的なゆるしを介して、神が悔い改める者に「ゆるしと平和」をお与えになるからです。
和解の秘跡と呼ばれるのは、和解させてくださる神の愛を罪びとに与えるからです。「神と和解させていただきなさい」(ニコリント5∙20)とパウロはいっています。神の慈愛を体験した人は、「まず行って兄弟と伸直りをしなさい」(マタイ5∙24)というキリストの呼びかけにこたえる用意があります。

洗礼の後になぜ和解の秘跡があるのか

「あなたがたは……主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています」(一コリント6∙11)。キリスト教入信の秘跡で与えられる神の恵みの偉大さを理解すれば、キリストを着ている者にとって、罪がいかに相いれないものであるかが分かるはずです。しかし、使徒聖ヨハネはこうも述べています。「自分に罪がないというなら、自らを欺いており、真理はわたしたちのうちにありません」(一ヨハネ1∙8)。キリストご自身、「わたしたちの罪をゆるしてください」(ルカ11∙4)と祈るように教えられました。しかも、わたしたちが相互にゆるし合うなら、神もわたしたちの罪をおゆるしになる、といって、この二つのゆるしを結びつけられました。わたしたちは、キリストヘの回心、洗礼による新たな誕生、聖霊のたまもの、キリストのからだと血の糧によって、「神のみ前で」(エフェソ1∙4)聖なる者、汚れのない者となりました。キリストの花嫁である教会自体が、キリストのみ前で「聖なる、汚れのない」(エフェソ5∙27)ものであるのと同様です。しかし、キリスト者となった当初に受けた新しいいのちは、人間本性のもろさと弱さ、ならびに罪への傾きを停止させるわけではありません。この傾きは教会では伝統的に欲情と呼ばれており、受洗者がキリストの恵みに助けられ、キリスト者として生活しながらこの傾きと勇敢に戦うために、洗礼を受けた人々のうちにも残ります。この戦いは、主がたえずわたしたちを招いておられる聖性と永遠のいのちとを目指す、回心の戦いです。

受洗者の回心

イエスは回心を呼びかけておられます。この「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1∙15)という招きは、神の国の告知の本質的な一部です。教会は宣教にあたって、この呼びかけをまず、キリストやその教会をまだ知らない人々に対して行います。ですから、洗礼こそ最初の基本的な回心の場なのです。福音を信じ、洗礼を受けることによってこそ、人は悪を捨て、救い、すなわち、あらゆる罪のゆるしと新しいいのちとを与えられるのです。ところで、回心へのキリストの招きは、キリスト者の生活の中でもたえず続けられています。この第二の回心は、教会全体がつねに行うべきものです。教会は「自分のふところに罪びとを抱いているので、聖であると同時につねに清められるべきものであり、悔い改めと刷新との努力をたえず続ける」のです。この回心の努力は、単なる人間のわざではなく、恵みによって引き寄せ、動かされる「打ち砕かれた心」の動きであって、先にわたしたちを愛された神の慈愛にこたえるものです。これを明らかにしているのが、三度キリストを否認した後の聖ペトロの回心です。はかりしれないあわれみを込めたイエスのまなざしを受けて、ペトロは痛悔の涙を流し、またキリストの復活の後には、キリストヘの愛を三度告白します。第二の回心は、共同体的意味合いも込められています。これは、完全な教会になるようにとのイエスの呼びかけ、「悔い改めよ」(黙示録2∙5,16)ということばにも表されています。 聖アンブロジオはこの二つの回心について、「教会には水と涙とがあります。洗礼の水と悔い改めの涙です」といっています。

内面的な悔い改め

すでに預言者たちにもそうであったように、回心と悔い改めへのイエスの呼びかけは、外的な行い、すなわち、「粗衣や灰」、断食などの苦行ではなく、まず、心からの回心、内面的悔い改めを求めます。これがなければ、償いの行為はむなしく、偽りのものです。それに対して、心からの回心は、悔い改めの行為やわざなどの目に見えるしるしをもって表されます。内面的悔い改めとは、生活全体の根本的転向、つまりわたしたちが心の底から神に復帰し、罪を断ち、悪から遠ざかり、犯した悪い行為を嫌悪することです。それは同時に、神のあわれみを希望し、その恵みの助けに信頼して、生き方を変えようという望みと決心とを伴うものです。この回心には救いに通じる苦痛と悲しみとを伴いますが、教父たちはこれを魂の苦悩、心の痛悔と呼んでいます。人間の心は鈍く、かたくなです。神から新しい心を与えていただく必要があります。回心は第一に神の恵みの働きであり、この恵みによって心は神に向きを変えます。「主よ、みもとに立ち返らせてください。わたしたちは立ち返ります」(哀歌5∙21)。神はもう一度やり直す力をお与えになります。心は神の愛の偉大さを発見することにより、罪の醜さと重さとに打たれ、罪によって神に背き、神から離れるのを恐れるようになります。人間の心は、罪によって刺し貫かれたかたを見つめて回心します。
「キリストの御血を見つめ、御父にとってどれほど貴重なものであるかを理解しましょう。その血はわたしたちの救いのために流され、全世界に悔い改めの恵みをもたらしたものだからです」。キリストの復活以来、聖霊は御父から遣わされたかたを信じなかったという世の誤りを明らかにしてくださいます。ところが、誤りを明らかにしてくださるこの同じ霊が、人間の心に悔い改めと回心との恵みを与えてくださる慰め主でもあられるのです。

キリスト者の生活に見られる悔い改めの多様な形

キリスト者の内面的悔い改めは、きわめて多様な形をとります。聖書や教父たちは、自分自身、神、および他人とのかかわりに関する回心を表す断食∙祈り∙施しという三つの形についてとくに力説しています。洗礼や殉教によって行われる根本的な清めのほかに、罪のゆるしを得る手段として、隣人と和解する努力、悔い改めの涙、隣人の救いへの配慮、聖人たちの執り成し、「多くの罪を覆う」(一ペトロ4∙8)隣人愛の実行、などを挙げています。回心は日常生活の中での、和解の行為、貧しい人々への心遣い、正義の行い、他人の権利の擁護、他人への過ちについての告白、兄弟の回心を目指す忠告、生活の見直し、良心の究明、霊的指導、忍苦、義のために迫害を忍ぶことなどによって実現されます。日々自分の十字架を担ってイエスに従うことが、悔い改めのもっとも確かな道です。エウカリスチアと悔い改め。日常の回心と悔い改めはエウカリスチアをその源泉、養分とするものである、ということが分かります。エウカリスチアのうちに、わたしたちを神と和解させてくださったキリストのいけにえが現在化されるからです。キリストのいのちを生きる人々はそれに養われ、強められます。それは、「わたしたちを毎日の過ちから解放し、大罪から守る解毒剤」です。聖書を読むこと、教会の祈り、「主の祈り」を唱えること、心からの礼拝や信心業を行うことなどはすべて、わたしたちのうちに回心と悔い改めの精神を新たにし、罪のゆるしへとわたしたちを導いてくれます。典礼暦の悔い改めの時と日(四旬節、イエスの死を記念する各金曜日)は、教会が悔い改めを行うのに最適の時期です。黙想会、回心式、悔い改めのしるしとしての巡礼、断食、施しのような犠牲、助け合い(慈善や宣教事業)などを行うのにとくにふさわしい時です。回心と悔い改めの過程については、「放蕩息子」のたとえの中でイエスがみごとに描写しておられます。その中心は「いつくしみ深い父」です。その息子は誤った自由を渇望し、家を出、財産をたちまち使い果たした後に窮状に陥り∙やむなく豚を世話しなけれはならなくなりました。そこで強い屈辱を感じましたが、さらに進んで、豚の食べるいなご豆で空腹を満たしたいとさえ考えるようになりました。ついに、失ったものについて反省、後悔して、父親の前で自分の過ちを認める決心をして、家に戻ります。父親は彼を寛大に迎え、大いに喜びます。このたとえには、回心と悔い改めの過程の特徴がよく表れています。りっぱな服や指輪や祝宴は、神のもとへ、また教会という家族の懐へと戻った人間の、清らかで、尊く、喜びに満ちた新しいいのちの象徴です。御父の愛の深さを知っておられるキリストのお心だけが、わたしたちにそのはかりしれないあわれみをかくも簡潔に、また美しく明らかになさることができたのです。

悔い改めと和解の秘跡

罪とは、何よりも神への反抗であり、神との交わりを断つことです。同時に、罪は教会との交わりをも損ないます。したがって、回心すれば神のゆるしが与えられると同時に、教会との和解がもたらされます。それはゆるしと和解の秘跡によって実現されますが、その典礼もそのことが分かるような形になっています。神だけが罪をおゆるしになる神だけが、罪をゆるすことがおできになります。イエスは神の御子であられるので、ご自身のことについて、「人の子〔は〕地上で罪をゆるす権威を持っている」(マルコ2∙10)といわれました。そして、「あなたの罪はゆるされる」(マルコ2∙5)ということばをもって、神のこの権能を行使しておられます。さらには、神としてのご自分の権威によってある人々にこの権能を与え、ご自分の名でそれを行使させられるのです。キリストはご自分の尊い血によってわたしたちのためにゆるしと和解を手に入れてくださいましたが、教会全体が自分たちの祈り、生活、行動を通して、そのゆるしと和解のしるしとなり道具となることを望まれました。それにもかかわらず、キリストはゆるしの権能の行使を、使徒たちにおゆだねになりました。彼らは「和解のために奉仕する任務」(ニコリント5∙18)を授かったのです。使徒たちはキリストの代理者として派遣されていますが、その使徒たちを通して「神と和解させていただきなさい」(ニコリント5∙20)と勧め、嘆願しておられるのは、神ご自身なのです。教会との和解イエスは宣教活動の間、人の罪をおゆるしになられたばかりでなく、そのゆるしの効果をもお示しになりました。すなわち、罪によって神の民の共同体から遠ざけられていた罪びとを、再びもとの共同体に迎え入れてくださいました。イエスが罪びとたちをご自分の食卓に招かれたばかりでなく、ご自身も罪びとたちの食卓に加わられたことが、その明白なしるしです。それは、神のゆるしと神の民が住む入り江への帰還とを強く表す行為でした。キリストは、罪をゆるす権能を使徒たちにゆだねながら、罪びとを教会と和解させる権能をもお与えになります。使徒たちの務めのこの教会的側面は、キリストがシモン∙ペトロにいわれた次の荘厳なことばにとくに表れています。「わたしはあなたに天の国のかぎを授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタイ16∙19)。「ペトロに与えられたこの結ぶ任務と解く任務が、自分の頭と一致する使徒たちの団体にも与えられました」(マタィ18∙18、28∙16-20参照)。つなぐと解くという語には、あなたがたが共同体から退ける者は神との交わりからも退けられ、あなたがたが再び共同体に迎え入れる者を、神もまたご自分との交わりに迎え入れるでしょう、という意味があります。教会との和解は神との和解と切り離すことができません。ゆるしの秘跡キリスドはゆるしの秘跡を、ご自分の教会に属するすべての罪びとのために制定なさいました。まず第一に、洗礼後に大罪を犯して洗礼の恵みを失い、教会の交わりを傷つけた人々のためです。ゆるしの秘跡は罪びとに、回心し、再び義とされる恵みを見いだす新たな可能性を提供するものです。教父たちはこの秘跡を、「恵みの喪失という難破の後に投じられる、〔救いの〕二枚目の板」と呼んでいます。時代の流れとともに、教会がキリストから受けたゆるす権能の行使の具体的な方法はかなり変わりました。古代においては、洗礼後にとりわけ重大な罪(たとえば、偶像崇拝、殺人、姦通)を犯したキリスト者の和解は、非常に厳しい規則に従って行われました。つまり、悔い改める者は和解を受ける前に、自分の犯した罪の公の償いを、しばしば長年月にわたって行わなければなりませんでした。この「贖罪者団」(ある種の重大な罪だけに限られていた)に入ることはまれにしかゆるされず、教会のある地方では、生涯にただ一度だけゆるされていました。7世紀に、東方の修道生活の伝統の影響を受けたアイルランドの宣教師たちが、ヨーロッパ大陸に「個人的な」悔い改めの慣行を導入しました。それは、教会との和解を受ける前に公の長期の償いを果たすことを要求しないものです。以後、ゆるしの秘跡は悔い改める者と司祭との間で、ひそかに行われるようになります。この新しい慣行に従って、ゆるしの秘跡を繰り返し受けることがゆるされ、こうしてこの秘跡を定期的に繰り返し受ける道が開かれました。また、大罪と小罪のゆるしが一度の秘跡で与えられることを可能にしました。今日まで教会が行ってきたゆるしの秘跡の形は大体この線に沿っています。ゆるしの秘跡の規定や祭儀は時の流れとともにいろいろと変わってきましたが、それでも同じ基本的構造が認められます。そこには二つの本質的要素が含まれています。その一つは、聖霊の働きのもとに回心する人間の行為、すなわち、痛悔、告白、償いであり、他の一つは、教会の仲介による神の行為です。教会は司教と司祭たちを介し、イエス・キリストのみ名によって罪のゆるしを与え、償いを定めますが、また同時に、罪びとのために祈ったり、罪びととともに償いを果たしたりもします。こうして、罪びとは再びいやされて、教会の交わりに迎え入れられます。ラテン教会で用いられる罪のゆるしのことばは、この秘跡の本質的要素を表しています。つまり、あわれみ深い御父があらゆるゆるしの源泉であり、この御父が御子の死と復活、聖霊のたまもの、教会の祈りと奉仕職とを介して、罪びととの和解を実現してくださるのです。
「全能の神、あわれみ深い父は、御子キリストの死と復活によって世をご自分に立ち返らせ、罪のゆるしのために聖霊を注がれました。神が教会の奉仕の務めを通して、あなたにゆるしと平和を与えてくださいますように。わたしは父と子と聖霊のみ名によって、あなたの罪をゆるします」。

悔い改める者の行為

「ゆるしの秘跡は罪びとに、この秘跡のすべての要素、すなわち、心には痛悔、口には告白、行動にはまったき謙虚さ、あるいは実りのある償いを進んで受け入れることを求めます。痛悔悔い改める者の行為としては、まず痛悔が挙げられます。それは「罪を犯したことを心から悲しみ、その罪を忌み嫌うことであり、今後再び罪を犯さないという決心を伴うものです」。すべてを超えて愛すべき神への愛に基づく痛悔は、「完全な」痛悔(愛による痛悔)と呼ばれます。このような痛悔をするならば小罪のゆるしが得られ、また、できるだけ早くゆるしの秘跡を受けるという固い決心がそれに伴うならば、大罪のゆるしも得られます。「不完全な」痛悔(あるいは「後悔」)といわれるものもまた、神のたまものであり、聖霊の促しによるものです。これは、罪の醜さを思う心、あるいは永遠の罰や罪びとが受けるその他の罰に対する恐れなどから生じるもの(恐れによる痛悔)です。良心のこのような動きから、ゆるしの秘跡によって成し遂げられる恵みの働きのもとでの心の変化が始まる可能性があるのです。不完全な痛悔だけでは大罪のゆるしは得られませんが、ゆるしの秘跡によってそのゆるしを得るための心の準備となります。ゆるしの秘跡を受ける準備として、神のことばに照らして良心の究明を行うことが勧められます。そのためにもっとも適切な指針は、神の十戒や福音書の教え、使徒たちの手紙に記された倫理的な教えなどに見いだされます。たとえば、山上の説教や使徒たちの訓戒などです。罪の告白罪の告白は、純粋に人間的側面から考えても、わたしたちに解放感を与え、他の人々との和解を容易にしてくれます。人は告白によって、自分の犯した罪を直視します。そしてその責めを負うだけではなく、再び神と教会共同体とに向かって心を開き、自分の新たな未来を可能にします。司祭への告白は、ゆるしの秘跡の本質的な要素の一つです。「悔い改める者は告白の際に、真剣に究明した後で、意識しているすべての大罪を列挙しなければなりません。たとえその罪を知る者がだれもいないときも、あるいは十戒の第九戒と第十戒とに背いただけであってもです。なぜなら、時として、これらの罪は皆に知られながら犯した罪よりも霊魂を深く傷つける、より危険なものだからです」。
「キリスト信者は思い出したすべての罪を告白し、神のあわれみを受けるために打ち明けるように努めなければなりません。もしこれと反対に、故意に大罪を告白しないときには、司祭を通じて与えられる神のゆるしは与えられません。『もし病入が、恥ずかしがって自分の傷を医者に見せなければ、医者は自分が知らない傷を治すことはできない』からです」。教会のおきてに従えば、「すべての信者は、分別の年齢に至った後は、重大な罪を少なくとも一年に一回忠実に告白する義務を有する」のです。大罪を犯したことを自覚している人は、前もってゆるしの秘跡を受けていない限り、たとえ心底から痛悔しているにせよ、聖体を拝領することはできません。ただ、拝領するための重大な理由があり、また、聴罪司祭に近づくことのできない場合はこの限りではありません。子供は初聖体を受ける前に、ゆるしの秘跡を受けなければなりません。日常の罪(小罪)を告白することは、厳密にいえば必要ではありませんが、教会から強く勧められています。小罪の定期的な告白はわたしたちの良心を培い、悪い傾きと戦い、キリストによっていやされ、霊的生活において向上していく助けとなります。わたしたちはこの秘跡を通して頻繁に御父のあわれみのたまものをいただくことによって、御父のようにあわれみ深くなるよう促されるのです。
「自分の罪を告白する者は、すでに神とともに行動しています。神があなたの罪をとがめておられます。あなたもまた、自分の罪をとがめるなら、あなたは神とともに行動しているのです。人間と罪びととは、いわば二つのものです。人間、それは神ご自身が造られたものです。罪びと、それは人間が作ったものです。あなたが作ったものを壊しなさい。そうすれば、神は神ご自身が造られたものを救ってくださいます。……自分のしたことが嫌になり始めたら、そのとき、あなたのよい行いが始まります。自分の悪い行いをとがめているからです。よい行いの始まりは、悪い行いの告白です。あなたは真理を行い、光の方に来ます」。償い多くの罪は隣人に害を与えます。それを償うために、できるだけのことをしなければなりません(たとえば盗んだものを返す、中傷された人の評判を回復する、与えた傷の補償をするなど)。これは正義の上からも要求されることです。しかしそれにもまして、罪は罪びと自身だけではなく、神や隣人とのかかわりを傷つけ、弱めます。秘跡によるゆるしは罪を取り除きはしますが、罪から生じたすべての無秩序を修復するものではありません。罪から立ち直った人は、十分な霊的健康を回復する必要があります。したがって、罪を償うために何かをしなければなりません。すなわち、適切な方法で「弁済する」なり罪を「あがなう」なりする必要があります。この弁済のことを「償い」ともいいます。聴罪司祭が科す償いは、悔い改める者の個人的状況を考慮しながら、当人の霊的助けになることを目指すものでなければなりません。また、犯した罪の重さと性質にできるだけ相応するものであるべきです。償いには、祈り、寄付、慈善のわざ、隣人への奉仕、自発的な苦行、犠牲、とくにわたしたちが担わなければならない苦しみを忍耐強く受容することなどがあります、キリストはお一人でわたしたちの罪をただ一度で完全に償ってくださいましたが、このような償いは、そのキリストにわたしたちが似た者となれるよう助けてくれます。わたしたちはこの償いによって、復活されたキリストとの共同の相続人となることをゆるされます。キリストと「ともに苦しむ」(ローマ8∙17)からです。
「しかし、わたしたちの罪のために果たす償いは、キリスト・イエスによるものであるから、わたしたちのものでないということではありません。なぜなら、わたしたち自身では何もできませんが、『わたしたちを強めてくださるかた』の協力によって『わたしたちはすべてができる』からです。わたしたち自身は何も誇るものを持ちませんが、わたしたちの栄光はキリストの中にあります。そのキリストの中でわたしたちは……罪を償い、『悔い改めにふさわしい実を結ぶ』のですが、それはキリストの力から出たものであり、キリストによって父にささげられ、キリストを通して父に受け入れられるのです」。

ゆるしの秘跡の役務者

キリストが使徒たちに和解の奉仕職をゆだねられたので、使徒たちの後継者である司教とその協力者である司祭とがこの務めを続けています。司教と司祭は、叙階の秘跡の力によって、「父と子と聖霊のみ名によって」すべての罪をゆるす権能を与えられています。罪のゆるしは、神との和解だけではなく教会との和解をももたらします。したがって、部分教会の見える頭である司教が、昔から、とりわけ和解の権能と奉仕職とを持つ者と考えられてきたのは当然のことです。司教はゆるしの秘跡の規律の統制者です。その協力者である司祭は、所属の司教(場合によっては修道会長上)、あるいは教皇から教会法に基づいてその権能を授けられ、ゆるしを与えます。特別に重大な罪は、破門に相当します。破門は、教会が科すもっとも重い罰です。破門された者は秘跡を受けることができず、一定の教会的な行為をすることもできません。破門を解くことができるのは、教会法によれば、教皇と、当地の司教と、彼らから権限を委’任された司祭だけです。しかし、死の危険にある場合には、聴罪の権限を与えられていない司祭も含めて、どのような司祭でも、すべての罪をゆるし、すべての破門を解くことができます。司祭はゆるしの秘跡を受けるように信者たちを励まし、また、信者が良識をもって願うたびに快くそれに応じる用意があることを示さなければなりません。司祭がゆるしの秘跡を授けるときには、迷った羊を探すよい牧者、傷に包帯をするよいサマリア人、放蕩息子の帰りを待ちわび、その帰りを歓迎する父親、えこひいきせずに公正で、しかもあわれみ深い判決を下す裁判官の務めを果たします。一言でいえば、司祭は罪びとに対する神の慈悲のしるしであり、道具なのです。聴罪司祭は神のゆるしを与える主人ではなく、そのしもべです。この秘跡を授ける者は、キリストの意向と愛とに一致していなければなりません。また、キリスト教的な生活の確かな認識、人間のことがらに関する経験、罪びとに対する尊敬と思いやりとを持ち、真理を愛し、教会の教導権の教えに忠実で、悔い改める者を忍耐深く治癒と十分な成熟とに導き、さらに、キリストのあわれみにゆだねながら、当人のために祈り、償いをしなければなりません。この務めの微妙さや偉大さ、また人に対して払うべき尊敬などを考慮して、教会は、告白を聴く司祭が告白された罪について絶対の秘密を守ることを命じています。これに背けば厳罰を科されます。聴罪司祭はまた、告白によって知りえた告白者の生活についての情報を用いることも禁じられています。例外を認めないこの秘密は、「秘跡的封印」と呼ばれます。告白者が司祭に打ち明けたことは、秘跡によって「密封された」ままだからです。

ゆるしの秘跡の効果

「ゆるしの秘跡の効果は、わたしたちに神の恵みを取り戻させ、崇高な愛のきずなでわたしたちを神に結ばせることにあります」。したがって、この秘跡の目的であり結果として与えられるものは、神との和解です。痛悔と敬謙な心をもってゆるしの秘跡を受ける人には、「良心の平和と静けさ、それに深い霊的慰めが与えられます」。神との和解の秘跡は真の「霊的復活」をもたらし、こうして、神の子としてのいのちの尊厳と宝とが取り戻されます。その宝の中でもっとも貴重なものは、神との友愛です。ゆるしの秘跡は、わたしたちを教会と和解させてくれます。罪とは兄弟的交わりを破ったり傷つけたりするものです。ゆるしの秘跡はこの交わりを取り戻させてくれます。この意味で、教会の交わりに再び受け入れられる者をいやすだけでなく、所属の一員の罪によって傷つけられた教会のいのちに活力を取り戻させる効果もあります。罪びとは、聖徒の交わりの中に再び受け入れられ、あるいはその交わりの中で強められ、まだこの世を旅する状態にあるかすでに天上の祖国にたどり着いている人たちによって成り立っている、キリストのからだの肢体同士の霊的宝の分かち合いによって強められます。
「神との和解の結果、罪によって絶たれていた交わりを取り戻すことによって生じる、他のさまざまな和解が行われることを指摘しなければなりません。つまり、ゆるしを得た告白者は心の奥底で自分自身と和解し、そこで真の自分を取り戻します。さらに、自分がある意味で侮辱し、傷つけた兄弟姉妹たちと和解します。そして教会と和解し、ついには全被造物と和解します」。ゆるしの秘跡で、罪びとは神のあわれみ深い裁きに自分をゆだねながら、この世のいのちの終わりに受ける裁きを何らかの形で前もって受けています。実際に今、この世で、死といのちのどちらを取るかという選択の機会がわたしたちに与えられています。大罪は人を神の国から閉め出しますが、ただ回心の道を歩む人だけが神の国に入ることができます。悔い改めと信仰とによってキリストに回心した罪びとは、「裁かれることなく」(ヨハネ5∙24)、死からいのちに移ります。

免償

教会における免償の教えと実践とは、ゆるしの秘助の効果と密接に結びついています。免償とは何か「免償は、罪科としてはすでに赦免された罪に対する有限の罰の神の前におけるゆるしであって、キリスト信者はこれをふさわしい心構えを有し、一定の条件を果たすとき、教会の介入によって獲得します。教会は救いの奉仕者として、キリストおよび諸聖人のいさおしの宝をもって分配し付与します」。
「免償は、罪のために負わされる有限の罰からの解放が部分的であるか全体的であるかによって、部分免償と全免償とに分けられます」。「すべての信者は、部分免償または全免償を自己自身のために収受し、または〔代薦の様式で〕死者に付与することができます」。罪の結果として生じる苦しみ(罪の罰)教会のこの教えと実践とを理解するには、罪が二つの結果をもたらすことを理解する必要があります。大罪はわたしたちの神との交わりを断ち、その結果永遠のいのちを受けることを不可能にします。この状態は、罪の結果として生じる「永遠の苦しみ(罰)」と呼ばれます。他方、小罪も含めたすべての罪は被造物へのよこしまな愛着を起こさせます。人はこの愛着から、この世であるいは死後、清められなければなりません。死後の清めの状態は煉獄と呼ばれます。この清めによって、人は罪の結果として生じる「有限の苦しみ(罰)」といわれるものから解放されます。この二種類の苦しみ(罰)は、外部から神によって行われる一種の復讐ではなく、罪の本性そのものから生じるものと考えるべきです。熱心な愛に基づく回心は罪びとの全面的清めをもたらすことができ、その結果いかなる苦しみ(罰)も存続しなくなります。罪のゆるしと神との交わりの回復は、罪の結果である永遠の苦しみを取り除きます。ただし、有限の苦しみは残ります。キリスト者は、あらゆる種類の苦しみと試練に耐え、死の日が訪れたときには平静に死を迎えて、罪の結果である有限の苦しみを恵みとして受け入れるように努めなければなりません。また、愛の実践、慈悲のわざ、さまざまな償いの実行によって、「古い人」をまったく脱ぎ捨て、「新しい人」を着るように励むべきです。聖徒の交わりの中で自分の罪を清め、神の恵みに助けられて聖となることを求めるキリスト者は、一人でいるのではありません。「神の子らのそれぞれのいのちは、キリストにおいて、キリストによって、他のすべてのキリスト者である兄弟姉妹のいのちに感嘆すべきしかたで結ばれ、神秘的なかたであるキリストの神秘体の超自然的な一致のうちにあります」。聖徒の交わりのうちにある「信者たち一天上の祖国にある人々、清めのために煉獄にある人々、まだこの世の旅路にある人々の間には、愛の不断のきずなとあらゆる善の豊かな分かち合いとが存在します」。この感嘆すべき分かち合いの中で、ある人の聖性は、他の人の罪が周りの人々に対して引き起こす損害よりはるかに多く周りの人々に益をもたらします。ですから、痛悔した罪びとは聖徒の交わりのおかげで、罪の結果として生じる苦しみから速やかに、効果的に解放されることができます。聖徒の交わりのこのような霊的善はまた、教会の宝とも呼ばれます。「それは世紀を重ねて積み上げられた物的財産のような宝ではなく、人類が罪から解放されて御父との交わりを持つようになるためにささげられた、主キリストのあがないと功徳とが神のもとに持つ、無尽蔵の宝です。わたしたちのあがない主であるキリストのうちには、その偉大なあがないの償いと功徳とがあふれるほどに存在するのです」。「この宝に属するものとしてはまた、聖なるおとめマリアやすべての聖人たちが神の御前でささげる祈りや善行などの、はかりしれないほど大きく、つねに新たな功徳があります。聖人たちはキリストの恵みによってその後に従いながら自分たち自身を聖化し、御父からゆだねられた任務を果たしました。こうして彼らは、自分自身の救いに努めながら、神秘体の中で結ばれた兄弟姉妹の救いにも寄与してきたのです」。教会を通して神からの免償を得る免償は教会を通して得られます。教会はキリスト・イエスによって与えられた、つなぎ、解く権能によって、キリスト者個入の仲立ちとなり、キリストや聖人たちの功徳の宝庫を開き、罪のために受けるべき有限の苦しみ(罰)のゆるしをあわれみ深い御父からいただけるようにします。このようにして、教会は単にキリスト者を助けるだけではなく、敬神と償いと愛の実践を彼らに促すのです。清めの状態にある死者も同じ聖徒の交わりの中にある人々ですから、わたしたちは彼らの手助けをすることができます。罪のために受けなければならない有限の苦しみから解放されることを願って死者のために免償を得る、という方法がとくに勧められます。

ゆるしの秘跡の挙行

ゆるしの秘跡はすべての秘跡と同様に、典礼行為です。通常、その儀式は次のように行われます。司祭は告白者にあいさつし、祝福します。良心を照らし、痛悔の心を起こさせるために神のことばを朗読し、告白者に悔い改めを勧めます。告白者は自分の罪を認め、司祭に告白します。司祭は償いを科し、告白者はそれを受託します。司祭は罪をゆるし、神に感謝と賛美の祈りをささげ、告白者を祝福して終わります。ビザンチン典礼には、ゆるしの神秘をみごとに表す嘆願形式のゆるしのことばがたくさんあります。「神は、預言者ナタンを介して罪を告白したダビデに、痛恨の涙を流したペトロに、イエスの足を涙でぬぐった遊女に、徴税人に、そして、放蕩息子にゆるしを与えられました。その同じ神が、罪びとであるわたしを通して、この世でもあの世でもあなたの罪をゆるし、あなたがその恐るべき裁きの庭に出頭するとき、あなたを罰せられることがありませんように。神は代々にたたえられます。アーメン」。ゆるしの秘跡はまた、共同回心式の中で行うことができます。この場合は、ともに告白の準備を行い、いただいたゆるしをともに感謝します。個人の罪の告白とゆるしとは神のことばの典礼の中で行われますが、そのことばの典礼では、聖書朗読と説教、共同で行われる良心の究明、ゆるしを求めるための共同の祈り、「主の祈り」、共同の感謝なども行われます。共同回心式は悔い改めの教会的性格をより明確に表します。ただし、どのような形式で行われるものであっても、ゆるしの秘跡はつねに、本質的に典礼行為、つまり、教会的で公の行為なのです。重大な必要がある場合には、一般告白と一般赦免を伴う共同回心式を行うことができます。そのような重大な必要が生じるのは、死の危険が差し迫っていて、一人もしくは複数の司祭が各自の告白を聴く時間がないときです。また、告白者の人数から見て、妥当な時間で個別の告自をふさわしく聴くための聴罪司祭の数が不十分で、告白者側にとっては自分たちには落ち度がないのに、長期にわたってゆるしの秘跡の恵みを受けられなかったり、あるいは聖体拝領ができなくなるようなときです。その場合、ゆるしが有効となるためには、その後適切なときに自分の大罪を個人的に告白するという意図を信者が持つ必要があります。共同のゆるしを行うための必要な条件が満たされているかどうかについては、教区司教が判断しなければなりません。大きな祝祭日あるいは巡礼の機会などに大勢の信者が集まっているような場合は、この重大な必要というものには該当しません。「そのような告白が物理的に、あるいは常識的に判断して不可能な場合を除けば、信者が神や教会と和解する唯一の通常の方法は、正しく行われる個別告白と個別赦免です」。これには深い理由があります。キリストはすべての秘跡において働いておられます。罪びとの一人ひとりに、「子よ、あなたの罪はゆるされる」(マルコ2∙5)といわれるのです。キリストは、ご自分を必要とする一人ひとりの病人をいやすために全身全霊を傾けられる医者です。そして、罪びとを再起させ、兄弟的な交わりに再び加えられます。したがって、個別告白は、神や教会と和解するためのもっとも意味深い形なのです。

要約

イエスは復活の日の夕方、使徒たちに姿を現していわれました。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたがゆるせば、その罪はゆるされる。だれの罪でも、あなたがたがゆるさなければ、ゆるされないまま残る」(ヨハネ20∙22-23)。洗礼後に犯した罪のゆるしは、特別の秘跡によって与えられます。それは回心の秘跡、告白の秘跡、悔い改めの秘跡、和解の秘跡などと呼ばれます。罪を犯す者は、神の栄誉と愛、神の子として召された人間固有の尊厳、キリスト者一人ひとりがその生ける石とならなければならない教会の霊的健やかさを傷つけます。信仰の目で眺めるならば、罪以上に大きな悪はありませんし、罪びとにとっても教会にとっても世界全体にとっても、罪以上に不幸な結果をもたらすものは他にありません。人が罪を犯して神との交わりを失った後でもう一度その交わりに復帰するのは、人々の救いを心にかけておられるあわれみ深い神の恵みの働きによるものです。自分自身のためにも、他の人々のためにも、この貴重な恵みを願う必要があります。回心あるいは悔い改めなどと呼ばれる神への立ち返りには、罪を犯したことへの悲しみと嫌悪、さらに、今後は罪を犯さないという固い決心とが伴います。したがって回心とは、過去と未来とにかかわるものであり、神のあわれみに対する希望を養うものです。ゆるしの秘跡は、悔い改める者の三つの行為と司祭のゆるしとによって成り立っています。悔い改める者の三つの行為とは、痛悔、司祭への罪の告白.償いを果たす決意ならびにその実行です。悔い改め(痛悔ともいわれます)は、信仰から生じる動機に基づくものでなければなりません。悔い改めが神への愛から生まれた場合は「完全な痛悔」といわれ、他の動機に基づく場合は「不完全な痛悔」といわれます。神や教会と和解したいと思う者は、入念な良心の究明の後で思い起こした、まだ告白していないすべての大罪を司祭に告白しなければなりません。小罪の告白は厳密な意味で必要ではありませんが、教会は小罪も告白するよう強く勧めています。聴罪司祭は告白者に何らかの償いを科します。それは罪によって引き起こされた損害を償い、キリストの弟子としてのふさわしい生き方を取り戻させるためです。教会からその権限を受けた司祭だけが、キリストのみ名によって罪をゆるすことができます。ゆるしの秘跡によって得られる霊的な効果は、以下のようなものです。
――神との和解。これによって、告白者は恩恵の状態を回復します。
――教会との和解。
――大罪に科される永遠の苦しみ(罰)の赦免。
――罪の結果である有限の苦しみ(罰)、少なくともその一部の赦免。
――良心の平和と喜び、霊的慰め。
――キリスト者として戦うための霊的力の増大。通常の場合は、個別にすべての大罪を告白してそのゆるしを受けることが、神や教会との和解のための唯一の手段です。免償によって、信者は自分自身のためや煉獄の霊魂のために、罪の結果である有限の苦しみの赦免を得号ことができます。

病者の塗油の秘跡

救いの営みにおけるこの秘跡の根拠

「病者の聖なる塗油と司祭の祈りをもって全教会は、苦しみを受け栄光を受けられた主に、病苦を和らげ病人を救われるように願い、なお病人に対しては、進んで自分をキリストの受難と死に合わせて、神の民の善に寄与するように勧め励まします」。人生における病気病気と苦しみとは、つねに人生を悩ますもっとも大きな問題の一つでした。人間は病気によって自分の無力、限界、有限性を体験します。病気はすべて、人に死をかいま見せます。病気は場合によって、不安、閉鎖的な心、時には絶望や神に反抗する気持ちさえ抱かせます。他方、病気は人の成熟を助け、自分の人生にとって本質的でないものを識別させ、人を本質的なものに向かわせます。また、病気が神の探求や神への復帰を促すことがしばしばあります。神の前に生きる病気旧約時代の人々は、病気を神とのかかわりの中で受け止めていました。神に自分の病気のことで嘆きを訴え、いのちと死の主である神に治癒を求めます。病気は回心への導きとなり、神のゆるしが治癒の始まりとなります。イスラエルの人たちは病気が神秘的に罪と悪とにかかわっていること、律法に従って神に忠実に生活すればいのちを取り戻すということを体験します。神は「わたしはあなたをいやす主である」(出エジプト15∙26)といわれます。預言者イザヤは、苦しみには他の人々の罪をあがなう意味がありうるという示現を受けて、神がすべての罪をゆるし、すべての病気がいやされる時をシオンにもたらされるだろうと告げています。医者であるキリストキリストが病人に対して共感を抱き、さまざまな病人をいやされたということは、神がその民を訪れてくださり、神の国が近づいたということをはっきりと示すものです。イエスはいやす権能だけではなく、罪をゆるす権能も持っておられます。イエスは人間の霊肉全体をいやしに来られました。病人が必要とする医者です。苦しむすべての人に対する共感はきわめて深く、「〔わたしが〕病気のときに見舞〔っ〕てくれた」(マタイ25∙36)ということばからも分かるとおり、苦しむ人々とご自身とをまったく同一視なさいました。病人へのイエスの大きな愛は、長い時の流れの中でも途切れることなく続き、今日でも、肉体や精神の病に苦しむ人々へのいたわりの心をキリスト者に起こさせてくれています。このイエスの愛が、苦しむ人々を助けるキリスト者たちのたゆまぬ努力の源となっているのです。イエスはしばしば、病人に信じることを求めます。治癒のためにつばや按手、泥や沐浴などのしるしを用いられます。病人はイエスに触れようとします。「イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたから」(ルカ6∙19)です。同じように、今もキリストは秘跡を通してわたしたちに「触れ」、わたしたちをいやし続けておられます。多くの苦しみに心を打たれたキリストは、病人が触れるままにさせておかれるだけではなく、「わたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」(マタイ8∙17)とあるとおり、人々の苦しみをご自分のものとなさいます。しかし、すべての病人をいやされたわけではありません。キリストによる治癒は、神の国の到来のしるしでした。これらのしるしは、より抜本的な治癒を告げていたのです。それは、キリストの死と復活とによる罪と死に対する勝利です。十字架上で、キリストは悪のすべての重荷をご自分の上に背負われ、「世の罪」(ヨハネ1∙29)を取り除かれました。病気は世の罪の一つの結果にほかなりません。キリストは十字架上での受難と死を通して、苦しみに新たな意味を与えられました。すなわち、苦しみはわたしたちをキリストに似た者とし、キリストのあがないの苦しみにわたしたちを一致させることができるようになったのです。「病人たちをいやしなさい…」キリストは弟子たちをそれぞれの十字架を担ってご自分について来るように招かれます。弟子たちはキリストに従いながら、病気や病人たちに対する新しい見方を身に着けました。イエスは弟子たちをご自分の貧しく仕える生活に加わらせ、ご自分のあわれみと治癒の務めにあずからせてくださいます。
「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」(マルコ6∙12-13)。復活されたキリストはこの派遣を新たにし(「彼ら〔が〕わたしの名によって……病人に手を置けば治る」〈マルコ16∙17-18〉)、教会がみ名を呼び求めて行うしるしによって、これを追認しておられます。これらのしるしは、イエスが「救う神」であることをとくに明らかにします。聖霊は、ある人々に治癒の特別なカリスマを与えて、復活されたかたの恵みの力を現されます。しかし、いかに熱心な祈りをしたとしても、すべての病気が治されるとは限りません。たとえば、聖パウロはキリストから、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(ニコリント12∙9)ということや、自分が耐えなければならない苦しみには「キリストのからだである教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満た〔す〕」(コロサイ1∙24)意味があることなどを教わるのです。「病人をいやしなさい」(マタイ10∙8)。教会はこの務めをキリストから受け、病人の世話と、それに伴う執り成しの祈りとによって、これを果たすように努めています。教会は、魂およびからだの医者として人に生きる力を与えるキリストの現存を信じています。この現存はとくに秘跡を通して、具体的には、永遠のいのちを与えるパンである聖体(エウカリスチア)を通して現実のものとなります。聖パウロは聖体とからだの健康との関係をほのめかしています。ところで、使徒時代の教会は病人のための固有な儀式を持っていました。聖ヤコブはそのことを次のようなことばで明らかにしています。「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます」(ヤコブ5∙14-15)。聖伝はこの儀式を教会の七つの秘跡の一つとして認めています。病者の秘跡教会は、七つの秘跡の中に、とくに病気に苦しむ人々を励ますことを目指す秘跡があると信じ、そう宣言しています。すなわち、病者の塗油の秘跡です。 「病者の聖なる塗油は、真の厳密な意味での新約の秘跡として、わたしたちの主イエス・キリストによって制定されました。この秘跡はマルコによる福音書にほのめかされており、主の兄弟使徒ヤコブによって信者に勧められ、公布されました」。典礼伝承によると、東方教会でも西方教会でも、古代から、祝福された油を用いて行われた病者の塗油についての多くの証言があります。時の流れとともに、病者の塗油は徐々に臨終にある人々に限って行われるようになりました。そのため「終油」と呼ばれるに至りました。この変化にもかかわらず、典礼においては、健康が救霊に役立つものであれば病人の健康を回復させてください、という主への祈りを省くことはありませんでした。第2バチカン公会議後に発布された使徒憲章『サクラム∙ウンクツィオネム∙インフィルモールム(聖なる病者の塗油)』(1972年11月30日)は、ラテン典礼では今後次のことを守るように定めています。 「病者の塗油の秘跡は重病の病人に授けられ、祝福された油一オリーブまたは他の植物油一を額と手に塗り、同時に、次のことばをただ一度唱えます。『この聖なる塗油により、いつくしみ深い主キリストが、聖霊の恵みであなたを助け、罪から解放してあなたを救い、起き上がらせてくださいますように』」。

この秘跡を受ける者、授ける者

病者の塗油の秘跡は「危篤の状態にある人のためだけの秘跡ではありません。したがって、信者が、病気や老齢のために死の危険にある場合、この秘跡を受けるに適した時が来ていることは確かです」。塗油の秘跡を受けた病人が小康を得た後に再び重体に陥った場合、または、同じ病気が長引いて容態がいっそう悪化した場合、この秘跡は繰り返し授けることができます。危険な手術の前にも病者の塗油の秘跡を受けるのが望ましく、衰弱が進んだ高齢者の場合も同様です。「教会の長老を招いて‥‥」司教と司祭だけが、病者の塗油を授けることができます。この秘跡の恩恵を信者に教えることは司牧者の義務です。信者はこの秘跡を受けるために司祭を呼ぶよう、病人に勧めなければなりません。病人は正しい心構えで、司牧者と教会共同体全体とに助けられながらこの秘跡を受ける準備をする必要があります。教会共同体は祈りと兄弟的思いやりとをもって、病人を特別に見守らなければなりません。

病者の塗油の秘跡の式次第

すべての秘跡と同じく、病者の塗油の秘跡も共同体的典礼祭儀です。このことは、この秘跡が行われる場所が家庭であろうと、病院であろうと、聖堂であろうと、また一人の病人のために行われようと、大勢の病人のために行われようと、変わりはありません。この秘跡がキリストの過越の記念である感謝の祭儀(エウカリスチア)の中で行われるのは、きわめてふさわしいことです。事情によっては、秘跡が行われる前にゆるしの秘跡を、後に聖体(エウカリスチア)の秘跡を授けることができます。エウカリスチアはキリストの過越の秘跡ですから、つねにこの世の旅の最後の秘跡、永遠のいのちに「移る」ための「旅路の糧」でなければなりません。ことばと秘跡とは、分けることのできない一つの全体を成しています式は、悔い改めの祈りの後、ことばの典礼によって始まります。朗読されたキリストのことばと使徒たちのことばとは、病人と集まっている人々との信仰を目覚めさせ、キリストに聖霊の力を求めるよう促します。病者の塗油の式は、おもに次の要素から成り立っています。「教会の長老(すなわち司祭)」が、黙ったまま病人に按手する。教会の信仰に基づき病人のために祈る。これはこの秘跡に固有なエピクレシス(聖霊の働きを願う祈り)です。引き続き司祭は、できれば、司教が祝福した油を用いて塗油を行います。
以上の典礼行為は、この秘跡が病人にどのような恵みを与えるかを示しています。

この秘跡の執行の効果

聖霊の特別なたまもの。この秘跡が与えてくれる第一の恵みは、重病あるいは老衰からくる困難を克服するために霊魂を励まし、平和と勇気を与える恵みです。この恵みは神への信頼と信仰とを新たにし、死に直面して落胆したり苦悩したりする気持ちを起こさせる悪魔の誘惑に抵抗する力を与える聖霊のたまものです。キリストの霊が行う助けは病者の霊魂をいやすためのものです。さらに、それが神のおぼしめしであれば、からだの治癒も行われます。そのうえ、「その人が罪を犯したのであれば、主がゆるしてくださいます」(ヤコブ5∙15)。キリストの受難に一致する。この秘跡の恵みにより、病人はキリストの受難にいっそう緊密に一致する力とたまものとを受けます。病人は、あがないをもたらすキリストの受難にあやかって実を結ぶために、いわば聖別されるのです。原罪の結果である苦しみは、イエスの救いのみわざにあずかるという新しい意義を持つものとなります。教会的恵み。この秘跡を受ける病人は「進んで自分をキリストの受難と死に合わせて、神の民の善に寄与します」。教会は聖徒の交わりの中でこの秘跡を行いながら病人の幸せのために執り成しますが、病人はこの秘跡の恵みによって教会の聖化とすべての人の善益とに寄与します。事実、教会は、すべての人のために苦しみ、すべての人のためにキリストを通して父である神に自らをささげます。死への準備。もし病者の塗油の秘跡が重い病気と疾患とに苦しむすべ∙ての人に授けられるのであれば、「死に直面していると考えられる」人々に授けられるというのは当然なことです。それゆえ、「この世を去る人々の秘跡」と呼ばれていました。病者の塗油は、洗礼によって始められたキリストの死と復活への参与を完成させるものです。病者の塗油は、キリスト者の人生の節目に与えられたそれぞれの聖なる塗油を完成するものです。洗礼の塗油はわたしたちに新しいいのちの証印を押しましたし、堅信の塗油はこのいのちの戦いのための力を与えました。そしてこの最後の塗油は、生涯の終わりに、御父の家に入る前の最後の戦いに備えさせてくれます。

旅路の糧・キリスト者の最後の秘跡

教会はこの世を去る人々に、病者の塗油のほかに、旅路の糧としての聖体を授けます。御父のもとに移るこのときのキリストのからだと血の拝領は、特別な意味と重要性とを持っています。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(ヨハネ6∙54)というキリストのことばによれば、この聖体拝領は、永遠のいのちの種子であり、復活の力です。死んで復活されたキリストの秘跡であるエウカリスチアは、このとき、死からいのち、この世から御父のもとへの過越の秘跡となるのです。洗礼∙堅信∙聖体(エウカリスチア)の秘跡が「キリスト教入信の秘跡」という名称で一つになっているように、キリスト者の生涯の終わりのときの、ゆるしと、病者の塗油と、聖体(エウカリスチア)は、最後の旅路を支えるものとして一つにまとめられ、「祖国に入る準備の秘跡」、あるいは地上の旅路を完了する秘跡などと呼ばれています。

要約

「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主がゆるしてくださいます」(ヤコプ5∙14-15)。病者の塗油の秘跡の目的は、重病あるいは高齢からくる困難にあるキリスト者に、特別な恵みを与えることにあります。病気や高齢のために信者に死の危険が迫っているならば、塗油の秘跡を受けるべき時が来ています。キリスト者は、重病にかかるごとに、この秘跡を受けることができます。受けた後に再び悪化した場合も、繰り返し受けることができます。司教と司祭だけが、病者の塗油の秘跡を授けることができます。秘跡を授けるときには、司教によって祝福された油を用います。ただし、やむをえない場合には司式司祭が祝福した油を用いることもできます。この秘跡挙行における本質的なものは、病人の額と手(ローマ典礼)あるいはからだの他の部分(東方教会典礼)に油を塗ることと、この秘跡の特別な恵みを願って司式司祭が典礼に基づいた祈りを唱えることです。病者の塗油の秘跡特有の恵みには、次のような効果があります。
――本人ならびに全教会の善のための、キリストの受難への一致。
――病気または高齢に基づく苦しみにキリスト者らしく耐えるための、励まし、平安、および勇気。
――病人がゆるしの秘跡を受けることができなかった場合には、罪のゆるし。
――当人の霊的救いに役立つのであれば、健康の回復。
――永遠のいのちに移るための準備。

叙階の秘跡

叙階(0rdo)という秘跡の名前の由来

洗礼、堅信、聖体(エウカリスチア)は、キリスト教入信の秘跡です。これらの秘跡は、キリストのすべての弟子に共通の召命、すなわち、聖性ならびに世に福音を告げ知らせる使命への召命の土台をなすものです。そしてそれらの秘跡は、天のふるさとに向かって歩んでいるこの旅人としての人生において、霊の導きに従って生きるための必要な恵みを授けます。もう二つの叙階と結婚の秘跡は、他の人々の救いに向けられています。個人的救いにも寄与するものですが、それは他人への奉仕を通してなのです。この二つの秘跡は教会の中での特別な使命を与えるもので、神の民の育成を目指すものなのです。洗礼と堅信の秘跡によってすべての信者共通の祭司職にすでに聖別されている人々は、この二つの秘跡において特別な聖別を受けることができます。叙階の秘跡を受ける人々は、キリストの名によって、「神のことばと恩恵をもって教会を牧するために」聖別されます。他方、「キリスト者たる夫婦は、その身分上の義務と尊厳のため、特別な秘跡によって強められ、いわば聖別されるのです」。叙階は、キリストから使徒たちにゆだねられた使命を世の終わりまで教会において続けさせる秘跡、つまり使徒の奉仕職の秘跡です。これには、司教、司祭、助祭の三つの位階があります。 (キリストによる使徒的役務の制定と派遣とに関しては第2部3章第4節1 教会の位階制度を参照。ここでは、その役務が伝えられる秘跡のあり方についてのみ取り扱います)0rdo(位階∙団体)の語は、古代ローマでは市民社会の法的団体、とくに統治者たちの団体を意味しており、Ordinatio(叙階)は一つのordo(位階)への加入を意味します。聖伝によると、教会には古い時代から、聖書に基づいた、ギリシア語では必τάξεις(タクセイス)、ラテン語ではordinesと呼ばれる団体がありました。この伝統に基づいて、典礼では、ordoe piscoporum(司教団)、ordo presbyterorum(司祭団)、ordo diaconorum(助祭団)という用語を使っています。他の団体、たとえば、洗礼志願者、おとめ、夫婦、寡婦などのordo(団体)もありました。教会のこうした団体に加入するために、ordinatio(団体加入式)と呼ばれる式が行われていました。この式は宗教的典礼行為であって、聖別、祝福、秘跡などと呼ばれていました。今日では、ordinatio(叙階)の語は司教、司祭、助祭の団体に加入させる秘跡的行為のためだけに用いられており、共同体による単なる選挙、指名、委任ないし任命以上の意味合いが込められています。なぜなら、聖なる権能を行使させ、教会を通してキリストだけが与えることができる聖霊のたまものを授けるからです。叙階はまた、聖別(consecratio)とも呼ばれます。それは、キリストご自身によって教会のために選別され、叙任されるものだからです。聖別の祈りを伴う司教の按手が、この聖別の見えるしるしとなっています。

救いの営みにおける叙階の秘跡

旧約の祭司贖選ばれた民は、神によって「祭司の王国、聖なる国民」(出エジプト19∙6)とされました。しかしイスラエルの民の内部でも、神は十二部族の一つであるレビ族を選び、他の部族とは区別して、典礼の務めにあたらせました。神ご自身がこの部族の嗣業です。,旧約の祭司職を開始する際には特別な聖別式がありました。祭司たちは「罪のための供え物やいけにえをささげるよう、人々のために神に仕える職に任命されています」。しかし、神のことばを告げ、いけにえと祈りとによって神との交わりを取り戻すために定められたこの祭司職は、救いをもたらす力はなく、たえずいけにえを繰り返す必要があって、決定的聖化をもたらすことはできなかったのです。ただキリストのいけにえだけが、決定的聖化をもたらすことができました。しかし、教会の典礼は、アロンの祭司職とレビ族の務め、また、七十人の「長老」の制度にも新約の叙階された役務者の前表を認めています。したがって教会は、ラテン典礼の司教叙階の聖別の祈りの中で、次のように祈ります。
「わたしたちの主イエス・キリストの父である神……、あなたは恵みのことばによって、ご自分の教会におきてをお与えになりました。あなたは初めのときからアブラハムに始まる正しい人々の一族をあらかじめ定め、指導者と祭司たちをお立てになりました。そして聖なる場所で奉仕する者が欠けることのないようにされました」。教会は司祭の叙階では次のように祈ります。
「聖なる父、全能永遠の神、……すでに旧約時代から、……あなたは民を導き、聖なる者とするためにモーセとアロンを民の上に立て、彼らを助け、ともに働く人々を民の中からお選びになりました。こうして知恵に富む七十人の人々に、モーセが受けた霊を分け与えてくださいました。また、アロンの子孫にも、彼らの父に与えられた満ちあふれる恵みを授けてくださいました」。助祭叙階のための聖別の祈りでは、教会は次のように祈ります。 「全能の神よ、……教会は新しい神殿として成長し、発展していきます。そのためにあなたは、すでに旧約の時代から、幕屋での奉仕の務めのために、レビの子らをお選びになったように、聖なる務めを担ってあなたの名に仕える、三つの段階の奉仕の務めをお定めになりました」。キリストの唯一の祭司贖旧約の祭司職のすべての前表は、「神と人との間の唯一の仲介者」(一テモテ2∙5参照)であるキリスト・イエスのうちに実現されました。「いと高き神の祭司」(創世記14∙18)メルキゼデクは、キリスト教の伝承ではキリストの祭司職の前表と考えられてきました。キリストは「メルキゼデクと同じような大祭司」(ヘブライ5∙10、6∙20)であり、「聖であり、罪なく、汚れなく」(ヘブラィ7∙26)、しかも「唯一のささげものによって」、すなわち、十字架上の唯一のいけにえによって、「聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさった」(ヘブライ10∙14)かたです。キリストのあがないのいけにえは、ただ一度で成就された唯一のものです。しかしそれは、教会のエウカリスチアのいけにえにおいて現在化されています。キリストの唯一の祭司職についても同様のことがいえます。それは職位的祭司たちによって現在化されていますが、そのことによってキリストの唯一の祭司職が損なわれることはありません。「だから、キリストだけが真の祭司であって、他はその奉仕者にすぎないのです」。キリストの唯一の祭司贖への二通りの参加大祭司であり唯一の仲介者であるキリストは、教会を「父である神に仕える祭司の王国」となさいました。信者の全共同体がそれ自体として祭司的団体です。信者は祭司、預言者、王であるキリストの使命にそれぞれの召し出しに応じて参与し、洗礼による祭司職を果たします。信者は洗礼および堅信の秘跡によって「聖なる祭司職をもつ者となるよう聖別されます」。司教および司祭の職位的、位階的祭司職とすべての信者の共通祭司職とは、「それぞれ独自の方法で、キリストの唯一の祭司職に参与して」おり、「相互に秩序づけられ」ながらも、本質的に異なるものです。信者の共通祭司職は洗礼の恵みから発出する、信仰∙希望∙愛の生活、霊による生活の中で実現されるものですが、職位的祭司職は共通祭司職に奉仕し、すべてのキリスト者の洗礼の恵みの展開を助けるものであり、キリストがたえずご自分の教会を築き導くために用いられる手段の一つです。そのために、職位的祭司職は固有の秘跡、つまり叙階の秘跡によって受け継がれるのです。頭であるキリストの代理者として叙階された奉仕者が教会的奉仕を果たすときには、キリストご自身がそのからだの頭、その群れの牧者、あがないのいけにえの大祭司、真理の師としてご自分の教会に現存されます。叙階の秘跡の力によって司祭は頭であるキリストの代理者として行動するという教会の教えには、以上のような意味があります。
「〔奉仕を果たすのは〕同じ祭司イエス・キリストであり、奉仕者はその代理をしているだけです。実に、奉仕者は、司祭職への聖別を受けることによって大祭司に似たものとなり、キリストご自身の力と名により行動できるようになるのです」。
「キリストはすべての祭司職の源です。事実、旧約の祭司はキリストの前表であり、新約の祭司はキリストの代理者として行動するからです」。教会の頭であるキリストの現存は、叙階された者、とくに司教と司祭の役務を通して信者共同体の中で目に見えるものとなります。アンチオケの聖イグナチオの美しいことばによれば、司教は父である神の生きている像(テユポス∙トゥー∙パトロスτύπος του Πατρός)のような存在なのです。このように役務者の中にキリストが現存されるからといって、役務者が支配欲、誤謬、罪などの、あらゆる人間的弱さから免かれているというわけではありません。役務者たちのすべての行為の正しさが聖霊の力によって一様に守られているわけではありません。ただし秘跡を授ける場合には、その保証があります。したがって、教会の役務者が罪びとであっても、彼らによって授けられた秘跡が恵みをもたらすのを妨げることはありません。しかし、彼らの多くの行為の中には、福音への忠実さを欠き、教会の使徒的活動の実りを損なう人間的弱さを示すものが見受けられます。この祭司職は奉仕の役務です。「主がご自分の民の牧者たちにゆだねられた任務は真の服役です」。まったくキリストと人々のためのものです。それはことごとくキリストとその唯一の祭司職に従属し、もともとは人々と教会共同体のために制定されたものです。叙階の秘跡は「聖なる権能」を与えますが、これはキリストの権能にほかなりません。したがって、その権威は、愛によって一番低い者となり、皆に仕える者となられたキリストの模範に従って行使されるべきです。「主は、ご自分の群れのために尽くすことはご自分に対する愛のあかしであると明言されました」。…「全教会の名で」教会の役務者は、単に頭であるキリストを代表する務めを信者共同体に対して果たすだけではなく、教会の祈りを神にささげるとき、とくにエウカリスチアのいけにえをささげるときには、全教会の名で行動します。「全教会の名で」という表現は、役務者が共同体から委任された者であるという意味ではありません。教会の祈りと奉献はその頭であるキリストの祈りと奉献から切り離すことはできません。それはつねに、教会の中で教会によって行われるキリストの祈りです。キリストのからだである全教会は、聖霊と一致して、「キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに」父である神に祈り、自らをささげているのです。頭と肢体とが一つとなったからだ全体が祈り、自らをささげます。そのため、からだの中でとくにその役務者である者は、キリストの役務者と呼ばれるだけではなく、教会の役務者とも呼ばれます。役務としての祭司職が教会を代表することができるのは、キリストの代理者であるからです。

叙階の秘跡の三段階

「神の制定による教会的役職は、種々の位階において、古代から司教、司祭、助祭と呼ばれる人々によって執行されます」。典礼、教導権および教会の一貫した慣習において説明されているカトリックの教えによれば、キリストの祭司職への役務としての参与には二つの段階があります。司教職と司祭職です。助祭職は両者を助け、両者に奉仕する職務です。したがって、現在用いられている祭司(sacerdos)ということばは司教と司祭の呼び名であり、助祭を含みません。しかし、カトリックの教えに従って、祭司的参与の段階(司教と司祭)と奉仕の段階(助祭)の三つとも、「叙階」と呼ばれる秘跡によって授けられます。
「皆が助祭たちをイエス・キリストのように、また、司教を御父の像のように、そして司祭たちを神の元老院、使徒たちの集まりのように敬ってほしいものです。これらの人なしには教会とはいえません」。司教叙階ー叙階の秘跡の充満「初めのときから教会の中で実行されていたこれらの種々の役職の中で第一位を占めるものは、伝承が証言しているとおり、司教職に立てられ、起源から続いている継承によって使徒の種からのぶどうづるを有する人々の任務です」。その崇高な使命を果たすために、「使徒たちは彼らの上にくだった聖霊の特別な注ぎかけによってキリストから富まされ、自分たちもその助力者たちに按手をもって霊的たまものを伝授しました。このたまものは、司教聖別においてわたしたちにまで伝えられてきています」。第2バチカン公会議は、「司教聖別によって叙階の秘跡の充満、すなわち教会の典礼の慣習と聖なる教父たちのことばによって最高の祭司職、聖職の総括と呼ばれている充満が授けられる」と教えています。「司教聖別は、聖化の任務とともに、教える任務と治める任務をも授けます。……事実、按手と聖別のことばによって聖霊の恩恵を授けられ、聖なる霊印をしるされる結果、司教たちが優れたそして見える方法で師∙牧者∙大祭司であるキリストご自身の代理者となり、その役目を受け持つ者となります」。「したがって司教は、彼らに与えられた聖霊により、信仰の真実にして真正なる師、祭司、牧者とされたのです」。「秘跡的聖別の力により、また司教団体の頭ならびに構成員との位階的交わりにあずかることによって人は司教団の一員となるのです」。司教職の身分と集団的性格とは、わけても、新しい司教が聖別式に参列する数人の司教によって叙階されるという教会の古くからの慣習によって知ることができます。司教の合法的叙階には、今日ではローマ司教の特別な介入が必要です。それは、一つの教会における諸部分教会の交わりの見える最高のきずなとしての、また、これらの教会の自由の保証人としての資格によるものです。各司教は、キリストの代理者としてそれぞれにゆだねられた部分教会の司牧にあたりますが、同時に、兄弟であるすべての司教とともに、全教会のための配慮を団体としても行います。「各司教は自分にゆだねられた群れに対してのみ固有の権能を持つにしても、神の定めによる使徒の正当な後継者としては、他の司教たちとともに教会の使徒的使命に配慮するよう義務づけられています。以上述べたすべてのことは、司教の司式で行われるエウカリスチアがなぜ格別な意味を持つのかという理由を説明しています。すなわちそれは、よき牧者であり教会の頭であるキリストの目に見える代理者の司式のもとに祭壇を囲んで集まった教会を表すものだからなのです。司教の協力者である司祭の叙階「父が聖とならしめて世に遣わされたキリストは、その使徒たちを通して、彼らの後継者すなわち司教たちをご自分の聖別と使命とに参与する者とされました。そして司教は自分の役職の任務を教会の中において、いろいろの配下の者に種々の段階によって、正当に授けました」。「司教の役務の任務は従属的段階において司祭たちに伝授されました。こうして、彼らは司祭の団階の中に確立されて、キリストから託された使徒的派遣(使命)を正しく果たすために、司教の団階の協力者となります」。「司祭の務めは司教の団階に結ばれているものですから、キリストご自身がそのからだを建設し、聖化し、統治される権威に参与するものです。したがって司祭の祭司職はキリスト教入信の諸秘跡を前提としますが、別個の秘跡によって授与されるものであり、この秘跡によって司祭は聖霊の塗油により特別な霊印(カラクテル)をしるされ、こうして、頭であるキリストの代理として行動することができるように、祭司キリストの姿に似たものとなります。「司祭はたとえ最高の祭司職を有せず、自己の権能の行使において司教に従属しているとはいえ、司祭の栄位において司教に結ばれており、叙階の秘跡の力によって、最高永遠の祭司であるキリストにかたどられで、新約の真の祭司として、福音を宣教し信者を司牧し神の祭礼を執行するために聖別されます」。司祭は叙階の秘跡により、キリストが使徒たちにゆだねた世界的規模の使命にあずかります。叙階の秘跡で受けた霊的たまものは、司祭を限られた狭い範囲の使命にではなく、「『地の果てまで』(使徒言行録1∙8)の広大な世界的な救いの使命のために」準備し、「至るところで福音を宣教する心構えをつねに持つようにさせます。「司祭はとくにエウカリスチアの祭礼または集会の儀においてその聖務を執行し、そこではキリストの代理者として行動し、キリストの神秘を宣布し、信者の祈りをその頭のいけにえに結び合わせ、新約の唯一の犠牲、すなわち自らを汚れなきいけにえとして父に一度ささげられたキリストの犠牲を、主の到来までミサの犠牲において現存するものと成し、それを適用させます」。この唯一の犠牲から、司祭は自分たちのすべての役務のための力をくみ取ります。「司祭は司教職位の賢明な協力者、その助手、その道具であって、神の民に仕えるために召され、自分たちの司教とともに一つの司祭団を構成し、種々の職務に携わります。信者の各地方集団においては、司祭は自分が広い信頼する心をもって結ばれている司教をある意味で現存するものとし、司教の務めと苦労を役割に応じて引き受け、日々の配慮をもってそれを実行します」。司祭がその職務を果たすには、司教に従属し、司教と一致していなければなりません。叙階式で司教に対して従順を約束し、式の終わりに司教と平和のあいさつを交わしますが、それは司教が司祭を自分の協力者、子、兄弟、友とみなしていること、また、司祭が司教に愛と従順を示さなければならないことを表すものです。「司祭たちは叙階式によって司祭の団階の中に入れられたのですから、皆相互いに秘跡的兄弟愛によって深く結ばれています。しかし当該司教のもとで一つの司教区に奉仕するよう配属された司祭たちは、その司教区の中で一つの司祭団を構成します」。司祭団の一致は、司祭叙階式の間に司教についで司祭たちが按手する慣習で、典礼的に表されます。「奉仕の務めのための」助祭の叙階「聖職位階の下位の段階に助祭があり、『祭司職のためではなく、奉仕の務めのために』按手を受けます」。助祭叙階では司教だけが按手しますが、これは、助祭は「奉仕」の任務にあってとくに司教に結ばれていることを表します。助祭は特別なしかたでキリストの使命と恵みに参与します。叙階の秘跡は助祭に、だれも消すことのできない霊印をしるし、すべての人の奉仕者となられたキリストに似た者にします。助祭のおもな任務は、秘跡、とくにエウカリスチアの祭儀が行われるときに司教と司祭を補佐し、聖体を配り、結婚式に立ち会って祝福し、福音を宣言し、説教し、葬儀を司式し、愛の種々の奉仕に献身することです。第2バチカン公会議後、ラテン教会は助祭職を「聖職位階の固有の永続的な一つの段階として」復興しました。東方教会ではつねに助祭職を保持してきました。既婚者にも授けられるこの終身助祭職は、教会の使命を果たすために大いに役立ちます。教会の中で、典礼生活や司牧生活、あるいは社会事業や慈善事業などを通して真に奉仕の務めを果たす人々が「助祭職の秘跡的恩恵によってさらにいっそう効果的に果たしうるように、使徒たちから伝授された按手によって強められ、また、より密接に祭壇に結びつけられること」は適切で有益なことです。

叙階式

司教、司祭、助祭の叙階式は、部分教会の生活にとって重要な出来事ですから、可能な限り多くの信者の参加を得て行うべきであり、できるだけ日曜日に、司教座聖堂で状況にふさわしい荘厳さで行われるべきです。司教、司祭、助祭の三つの叙階式は同じ順序に従って、感謝の典礼の間に行われます。三つの叙階式の本質的な部分は、受階者の頭に司教が按手し、聖別の祈りを唱えるところです。この祈りは、受階者の上に聖霊と受階者がこれから行うべき奉仕に必要な聖霊のたまものとが注がれるよう神に願うものです。すべての秘跡と同じように、式には他の付属的な部分が伴います。種々の典礼伝承に基づいたかなりの相違はありますが、秘跡の恵みの多様性を表している点は共通です。ラテン典礼の式の最初の部分一受階者の紹介と選出、司教の訓示、受階者との問答、諸聖人の連願一は受階者の選出が教会の慣習に従って行われることを示し、聖別の荘厳な行為に備えます。その後に続くさまざまな儀式は、成就される神秘を示しながら、その神秘を象徴的な方法を用いて実現させるものです。司教と司祭には、奉仕の務めに豊かな実りを得させる聖霊の特別な注ぎのしるしである、聖香油の塗布が行われます。司教には福音書、指輪、ミトラとつえが授与されますが、これは神のことばを告げ知らせる使徒的使命と、キリストの花嫁である教会に対する忠実さと、キリストの群れを牧する任務を表すためのしるしです。司祭には神にささげる聖なる民の供え物を表すパテナとカリスとが授与され、キリストの福音を告げ知らせる使命を受けた助祭には福音書が授与されます。

叙階を授ける者

キリストは使徒たちを選び、ご自分の使命と権威にあずからせてくださいました。御父の右に座してもその群れを見捨てることなく、使徒たちを通していつも守り、今日でもこのわざを続ける牧者によって導いておられます。したがって、ある人々を使徒、ある人々を牧者と「なさる」のはキリストです。キリストは司教たちを通して行動し続けておられます。叙階の秘跡は使徒的役務の秘跡ですから、「霊的たまもの」、「使徒の種」を伝授する権限は、使徒たちの後継者である司教にあります。有効に叙階された司教、すなわち、使徒継承に結ばれた司教が、叙階の秘跡の三つの段階を有効に授けるのです。

この秘跡を受けることができる者

「洗礼を受けた男子のみが聖なる職階に有効に叙せられることができます」。イエスは十二人の使徒団を形成するために男子を選びましたし、使徒たちが自分たちの任務の後継者となる協力者たちを選んだときも同様でした。司祭たちが祭司職で結ばれている司教団が、キリストの再臨のときまで十二使徒団を再現し、具現するのです。教会はキリストご自身によるこの選択に従う義務があると考えています。したがって、女性が叙階されることはありえません。叙階の秘跡を受ける権利はだれにもありません。事実、だれも勝手にこの任務を自分のものにすることはできません。神に召された人だけがなれるのです。神から司祭職に召されていると思う人は、謙虚に自分の望みを教会の指導者に打ち明けなければなりません。ある人々に叙階を許可する責任と権利とを持つのは教会の権威者です。あらゆる恵みと同じく、この秘跡も無償のたまものとしていただく以外にはないのです。ラテン教会で叙階されるすべての役務者は、終身助祭を除いて、通常は独身者で、「天の国のために」(マタイ19∙12)独身を守ることを決意した男子信者の中から選ばれます。ひたすら主と主のこととに専念するよう召された司祭は、自分のすべてを神と人々とにゆだねます。独身制は新しいいのちのしるしであって、教会の役務者はこのいのちに奉仕するために聖別されます。喜んで独身制を受け入れる者は、輝かしく神の国を告げ知らせるのです。東方教会では、古くから異なった規律が守られています。司教は独身者の中からだけ選ばれますが、既婚者の男子も助祭や司祭の叙階を受けることができます。この慣習は、古くから合法的とみなされてきました。彼らはそれぞれの教会にあって、実りある役務を果たしています。いうまでもなく、司祭の独身制は東方教会でもきわめて重んじられ、多くの司祭が神の国のために自由に独身を選んでいます。東方教会でも西方教会と同じく、叙階の秘跡を受けた後には結婚することができません。

叙階の秘跡の効果

消えない霊印叙階の秘跡は、キリストの道具となって教会に奉仕させるため、聖霊の特別な恵みによって人をキリストに似た者とします。叙階によって、祭司∙預言者∙王というキリストの三職を、教会の頭であるキリストの代理者として果たすことができるようになります。洗礼や堅信の場合と同様、このキリストの任務への参与はただ一度ゆるされるだけです。叙階の秘跡もまた、消えない霊印を与えるので、繰り返し受けることも、期限付きで授けることもできません。重大な理由があれば、有効に叙階された者が、叙階に伴う義務や職務から解かれるか、この行使を禁止されることがあります。しかし当人は、厳密な意味では、もはや信徒の身分に戻ることはできません。叙階によってしるされた霊印は消えることがないからです。叙階の日に受けた召命と使命とは、その人に消えないしるしを刻むのです。叙階された役務者を通して働き救いをもたらされるのはキリストですから、彼らにふさわしくない行動があったとしても、キリストの働きが妨げ.られることはありません。聖アウグスチヌスは、この点を次のように力説しています。
「高慢な役務者は悪魔と同一視されるべきです。それでも、キリストのたまものは汚されません。このような役務者を通して流れ出るものは清さを保ち、彼を通して流れるものは澄んだままで、肥沃な土地までやってきます。……秘跡の霊的力は光のようなもので、照らされなければならない人々はそれを清いままに受け、たとえ汚れたものを通っても、それ自体が汚されることはありません」。この秘跡に固有な聖霊の恵みは、人を祭司∙師∙牧者であるキリストに同化させることです。叙階を受けた者は、そのキリストの役務者となります。聖霊の恵み司教が受ける恵みはおもに勇気の恵み(「統治の霊」一ラテン典礼の司教聖別の祈り)です。すなわち、すべての人、とくに貧しい人、病人、困窮者に対する無償の愛をもって、隼のように、羊飼いのように、教会を力強く賢明に導き擁護するための恵みです。この恵みにより、司教はあらゆる人に福音を告げ知らせ、その群れの模範となり、また、エウカリスチアにおいて祭司でありいけにえであるキリストと一体となりながら、自分の羊のためにいのちを捨てることをも恐れず、聖化の道を群れの先頭に立って進むよう促されます。
「人の心を見通される父よ、あなたが司教としてお選びになったこのしもべが、聖なる群れを牧し、昼も夜もあなたに仕えて最高の祭司職をとがめられることなく果たすことができますように。あなたの顔をたえず和らげ、聖なる教会の供え物をささげ∙最高の祭司職の霊によって、おことばのとおり罪をゆるす権能を受けますように。あなたが割り当てられるままに役割を分配し、あなたが使徒にお与えになった権能によっていっさいのきずなを解くことができますように。御子イエス・キリストによって芳しい香りをささげ、柔和と清い心であなたに喜ばれる者となりますように」。司祭叙階によって与えられる霊的たまものは、ビザンチン典礼独自の叙階式の祈りによく示されています。司教は按手しながら、次のように唱えます。
「主よ、あなたが司祭の位階に高めてくださった者を聖霊のたまもので満たし、非の打ちどころなくあなたの祭壇の前に立ち、み国の福音を告げ知らせ、あなたの真理のことばの奉仕を果たし、霊的供え物と犠牲をささげ、新たに造り変える洗いを通してあなたの民を一新させることができるようにしてください。こうして、この司祭自身が再臨の日に御ひとり子であるわたしたちの神、救い主イエス・キリストを迎えて、あなたの限りないいつくしみにより、その任務の忠実な履行に対する報いを受けることができますように」。助祭は、「秘跡の恩恵に強められて、司教および司祭団との交わりの中で、典礼とことばと愛の奉仕(ディアコニア)において神の民に仕えます」。祭司の恵みと任務の偉大さを前にして、教会博士たちは、秘跡によってご自分の奉仕者に定められたかたにいのちを投げ出して従うようにとの、回心への強い呼びかけを感じ取りました。たとえば、ナジアンズの聖グレゴリオは司祭になったばかりのときに、次のように叫んでいます。
「他の人々を清める前に、まず自分自身が清められなければなりません。人に教えることができるためには、教えを身につけなければなりません。他の人々を照らすためにはまず自分自身が光となり、他の人々を神に近づけるためには自分が神に近づき、人々を聖化し、手を取って導き、賢明な助言を与えるためには、自分自身が聖化されていなければなりません」「わたしは、わたしたちがどなたに仕え、どのような地位にあり、どなたのもとへ進んでいるのかを知っています。わたしは、神の崇高さと人間の弱さとを1知っています。しかしまた、神の力がどんなものであるかも知っています」 。「〔それでは、司祭とは何でしょうか。司祭とは〕真理の擁護者であり、将来は天使たちと並んで立ちく大天使たちとともに神を褒めたたえ、天上の祭壇にいけにえをささげ、キリストの祭司職を分かち持ち、被造物を改造し、〔人に神の〕似姿を取り戻させ、天の国のためにそれを造り直す者となるのです。そして、そのもっとも偉大な点を述べるとすれば、司祭は、将来は自分自身が神化され、他の人々をも神化させるのです」。また、アルスの主任司祭聖ヨハネ∙ビアンネはこうもいっています。「この世であがないのわざを続けるのは、司祭です」。「人はこの世で司祭が何であるかを本当年理解すれば、恐れのゆえではなく、愛のゆえに死ぬでしょう」。「祭司職とは、イエスの心の愛です」。

要約

聖パウロは、弟子のテモテに対しては、「わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神のたまものを、再び燃えたたせるように勧めます」(ニテモテ1∙6)、「監督(司教)の職を求める人がいれば、その人はよい仕事を望んでいる」(一テモテ3∙1)といい、テトスに対しては、「あなたをクレタに残してきたのは、わたしが指示しておいたように、残っている仕事を整理し、町ごとに長老(司祭)たちを立ててもらうためです」(テトス1∙5)といっています。教会全体が祭司的な民です。洗礼により、すべての信者はキリストの祭司職にあずかります。この参与は「信者の共通祭司職」と呼ばれます。この基礎に立ち、これに奉仕するため、キリストの使命に参与するもう一つの祭司職があります。すなわち、叙階の秘跡によって与えられる奉仕職です。その任務は共同体の中で頭であるキリストの名において、またその代理者として仕えることです。役務としての祭司職は、信者の共通祭司職とは本質的に異なります。それは、信者に奉仕するための聖なる権能を与えるものだからです。叙階された役務者は、教えること(教職)、祭儀をつかざどること(祭職)、司牧すること(牧職)を通して神の民に仕えます。教会の初めから、叙階による役務は司教、司祭、助祭の三段階で授けられ、果たされてきました。叙階によって授けられる役務は、教会の有機的構造にとってはかけがえのないものです。司教、司祭、助祭がいなければ、教会とはいえません。司教は叙階の秘跡の充満を受け、これによって司教団に加えられ、ゆだねられた部分教会の見える長となります。司教たちは、使徒たちの後継者および司教団の一員として、ペトロの後継者である教皇の権威のもとで、全教会の使徒的責任と使命を分担します。司祭は祭司職の身分においては司教に結ばれており、司牧の務めを行使するにあたっては、司教に従属します。司教の賢明な協力者となるように召され、部分教会の責任を司教とともに担う司祭団を司教を中心にして構成します。司祭は司教から、小教区共同体の任務あるいは教会のある特定の任務に任じられます。助祭は、教会の奉仕の務めを果たすために叙階された役務者です。役務としての祭司職は受けませんが、叙階によって、ことば、典礼、司牧、愛の奉仕の務めにおける重要な役割を与えられます。助祭はこれを司教の司牧権威のもとで行います。叙階の秘跡は、按手と、これに続く荘厳な聖別の祈りとによって授けられます。聖別の祈りは、受階者の役務に必要な聖霊の恵みを神に願うものです。叙階は、消えない秘跡的な霊印をしるします。教会は叙階の秘跡を、役務にふさわしい適性を持つと認められた受洗男子にのみ授けます。ある人を叙階する責任と権利とは、教会の権限に属します。ラテン教会では、司祭の叙階の秘跡は通常、自由意志をもって独身制を受け入れる覚悟を持ち、神の国への愛と人々への奉仕のために独身を守る意志を公に表した候補者にしか授けられません。三つの段階の叙階の秘跡を授ける権限は、司教に属します。

結婚の秘跡

神に計画における結婚

「男女が相互に全生涯にわたる生活共同体を作るために行う婚姻の誓約は、その本性上、夫婦の善益と子の出産および教育に向けられています。受洗者間の婚姻の誓約は、主キリストによって秘跡の尊厳にまで高められました」。聖書は神に似せて造られた男と女の創造の話で始まり、「小羊の婚宴」(黙示録19∙9)の話で終わります。そして、聖書の初めから終わりまで、結婚とその神秘、その制定と神がその結婚に与えられた意義、その起源と目的、救いの歴史の流れの中で成就されていくその多様な姿、罪ゆえに生じたその困難さ、キリストと教会との新しい契約の中で「主に結ばれている」(一コリント7∙39)者との再婚などについて語っています。創造の秩序における結婚「夫婦によって結ばれる生命と愛の深い共同体は創造主によって設立され、法則を与えられました。……神ご自身が婚姻の創設者です」。結婚への召し出しは、創造主によって造られた男女の本性に刻み込まれています。結婚は、時の流れとともにさまざまな文化、社会構造や考え方などに応じていろいろと変化しましたが、人間が作り出した制度ではありません。多様性を認めたとしても、そこにある共通で恒久的な特徴を見落としてはなりません。結婚の崇高さについては世界のあらゆるところで同じような鮮明さで表されているわけではありませんが、すべての文化は結婚の結びの偉大さを認めています。「個人の幸福、ならびに一般社会とキリスト教社会の幸福は婚姻および家庭と呼ばれる共同体の健全な状態に固く結ばれています」。愛によって人間をお造りになられた神は人間を愛へとお招きになられましたが、これはすべての人間に内在する根本的な召し出しです。人間は「愛である」(一ヨハネ4∙8,16参照)神にかたどり、神に似せて造られたからです。神が人間を男と女とに造られたので、男女の相互愛は、人間を愛される神の絶対で不滅の愛を映し出すものとなります。この相互愛は創造主の目にはよいもの、きわめてよいものなのです。神によって祝福されたこの愛は、子供を産み、被造界を維持する共同の働きを行うことを目指しています。「神は彼らを祝福していわれた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ』」(創世記1∙28)。聖書が明言するとおり、男と女は相互のために造られています。「人がひとりでいるのはよくない」(創世記2∙18)。女は男にとって「その肉の肉」、すなわち、同等の人、もっとも近い者であって、わたしたちの助けの源である神を表す「助ける者」として、神から与えられているのです。「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2∙24)。これは男女二人の生活の永続的な結合を意味していることをキリスト自らが示され、「だから、二人はもはや別々ではなく、一体である」(マタィ19∙6)ということばで、創造主の「初めから」の計画を想起させておられます。罪に支配されていた世界での結婚すべての人は自分の周囲や自分のうちに悪を体験します。この体験はまた、男と女との間でも見られます。男女の結合はつねに、不和、支配欲、不忠実、しっと、憎悪や断絶に終わる衝突などの危険にさらされています。この無秩序は、大きさには多少の相違が見られたり、それぞれの文化、時代、個人などの努力による多少の解決がなされたりしているとはいえ、いつどこででも起こっている問題です。わたしたちが経験し、苦しんでいるこの無秩序は、キリスト教信仰によれば、男と女の本性や、両者の関係に由来するのではなく、罪の結果なのです。神との断絶をもたらした人祖の最初の罪の結果は、男と女との原初の交わりを破壊しました。