4 聖書の正典

どの書が聖書のリストのうちに入れられるべきかを教会に識別させたのは、使徒伝承です。その完全なリストが聖書の「正典」と呼ばれます。それは旧約聖書四十六書(エレミヤ書と哀歌を一っに数えれば四十五)と新約聖書二十七書からなります。
旧約聖書:創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、ヨシュア記、士師記、ルツ記∙サムエル記上∙下∙列王記上∙下、歴代誌上∙下、エズラ記、ネヘミヤ記、トビト記、ユディト記、エステル記、マカバイ記一∙二、ヨブ記、詩編、歳言、コヘレトの言葉、雅歌、知恵の書、シラ書(集会の書)、イザヤ書、エレミヤ書、哀歌、バルク書、エゼキエル書、ダニエル書、ホセア書、ヨエル書、アモス書、オバデヤ書、ヨナ書、ミカ書、ナホム書、ハバクク書、ゼファニヤ書、ハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書。
新約聖書:マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる福音書、使徒言行録、ローマの信徒への手紙、コリントの信徒への手紙一∙二、ガラテヤの信徒への手紙、エフェソの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、テサロニケの信徒への手紙一∙二、テモテヘの手紙一∙二、テトスヘの手紙、フィレモンヘの手紙、ヘブライ人への手紙、ヤコブの手紙、ペトロの手紙一∙二、ヨハネの手紙一∙二∙三、ユダの手紙、ヨハネの黙示録。

旧約聖書

旧約聖書は、聖書の欠くことのできない部分を成しています。その諸書は霊感によって書かれ、永続する価値を持っています。なぜなら、古い契約は決して無効になったわけではないからです。

実際、「旧約の経綸は何よりもまず、万物のあがない主キリストの到来を準備し、預言的に知らせるために立てられました」。「不完全かつ一時的なことも含んでいますが」、旧約聖書の諸書は人を救う神の愛の教育法をよく示しています。それらの書は、「神に関する崇高な教えと人間生活に関する有益な知恵と祈りのすばらしい宝を納め、かつまた、わたしたちの救いの神秘を秘めています」。

キリスト者は旧約聖書を神の真のことばとして敬います。教会は、旧約聖書が新約聖書によって無効にされたとしてこれを退ける考え(マルキオン主義)を、いつも強硬に排斥してきました。

新約聖書

「神のことばは、すべての信じる者にとって救いのための神の力ですが、そのことばは、新約聖書においてとくに優れた方法で示され、そしてその力を発揮しています」。新約聖書の諸書は神の啓示の決定的真理をわたしたちに伝えます。その中心的内容は、人となられた神の御子イエス・キリスト、そのわざ、教え、受難、栄光化、そして聖霊の働きに基づくキリストの教会の発足です。

福音書は、「わたしたちの救い主である託身のみことばの生涯と教えとに関するおもな証言ですから」、全聖書の中心となるものです。

福音書の成立には三つの段階を区別することができます。
>  ①イエスの生涯と宣教。教会が断固として主張し続けることですが、「教会は四福音書の歴史性をためらわずに断言し、神の子イエスが人間の間で生を送り、彼らの永遠の救いのため天に上げられる日まで、実際に行いまた教えたことを、それらの福音書が忠実に伝えていることを主張します」。
>  ②口伝。「使徒たちは、主の昇天後、キリストの栄えある出来事に教えられ、真理の霊の光に照らされる、確信を与えられて持っていたいっそう深い理解をもってキリストの言行を聴衆に伝えていました」。
>  ③福音書。「聖書作者は四福音書を書くにあたって、口伝と書き物とによって伝えられていた多くのことがらの中から選択し、あることがらを総合し、あるいは教会の事情に留意しながら説明し、そして宣教の形式を保ちながら、イエスに関して、つねに真理と真実とをわたしたちに知らせるようにしました」。

四福音書は教会の中で一つの卓越した位置を占めていますが、そのことは典礼が払う崇敬とそれがあらゆる時代に聖人たちに及ぼした比類のない影響力とによって示されています。「福音書以上に優れ、貴重で、光に満ちた教えはほかにありません。わたしたちの主であり師であるキリストが、そのことばによって教え、行いによって実現したことを見、心に銘記してください」。

「念禱の間に、わたしの霊魂を養っているのは何よりも福音書です。その中に、わたしの哀れな霊魂に必要なすべてを見いだします。そこに新たな光、隠された、神秘的な意味をいつも発見します」。

旧約聖書と新約聖書の一貫性

教会はすでに使徒時代から、またその後の伝承の中でたえず、予型論を用いて二つの契約の間に見られる神の計画の一貫性を明らかにしてきました。この予型論は旧約時代の神のわざのうちに、時が満ちて人となられた御子において神が実現されたことの前表を見分けます。

したがって、キリスト者は旧約聖書を、死んで復活されたキリストに照らして読むのです。この予型論的な読み方によって、旧約聖書のくみ尽くすことのできない内容が明らかになります。しかし、旧約聖書は、主ご自身によってあらためて確認されたように、それ自体で啓示としての価値を保っていることを忘れるべきではありません。実際、新約聖書もまた、旧約聖書に照らして読まれる必要があります。古代教会のカテケージスは、たえず旧約聖書を活用しています。古くからいわれているように、「新約が旧約のうちに秘められ、旧約が新約のうちに明らかとなる」ために、新約聖書は旧約聖書の中に隠され、旧約聖書は新約聖書の中で明らかにされるのです。

予型論は、「神がすべてにおいてすべてになられる」(一コリント15∙28)ときの、神の計画の完成に向かう力強い歩みを示すものです。ですから、たとえば、族長たちの召し出しやエジプト脱出は、神の計画の中のそれぞれの段階を示しているので、固有の価値を失ってはいません。