1 「主よ、あなたの教会の信仰を顧みてください」

信仰は人格的な行為、つまり、ご自分を啓示する神の呼びかけに対する人間の自由な応答です。しかし、信仰は孤立した行為ではありません。一人で生きることができないように、だれも一人で信じることはできません。自分で自分に生命を与えることができないように、だれも自分に信仰を与えることはできません。信仰者は、信仰を他の人から受け取りました。それを他の人に伝えなければなりません。わたしたちのイエスと人々への愛は、他の人に自分の信仰について話すように駆り立てます。信者一人ひとりは、信仰者たちの大きな鎖の一つ一つの輪のようなものです。わたしは他の人々の信仰に支えられることなしに信じることはできませんし、また、自分の信仰によって、わたしは他の人々の信仰を支えることに貢献しているのです。

「わたしは信じます」――これは、主として洗礼のとき、信じる者の一人ひとりによって個々に宣言される教会の信仰を表します。「わたしたちは信じます」――これは、公会議に集まった司教たち、あるいはもっと一般的に、典礼祭儀に集まった信者たちが公言する教会の信仰を表します。「わたしは信じます」――これはまた、その信仰によって神に答え、「わたしは信じます」、「わたしたちは信じます」と告白するようわたしたちに教える、わたしたちの母である教会自身の信仰告白でもあります。

まず教会が信じて、わたしの信仰を支え、養い、助けます。至るところで主を公言するのは、まず教会です(わたしたちは「テ∙デウム」の中で、「世界に広がる聖なる教会はあなたをたたえます」と歌います)。そして、わたしたちもまた、教会とともに、教会に結ばれて、やむにやまれず「わたしは信じます」、「わたしたちは信じます」と公言するのです。わたしたちが信仰およびキリストのうちにある新しいいのちを洗礼によって授かるのは、教会を通してです。「ローマ儀式書」では、洗礼の司式者は「あなたは神の教会に何を求めますか」と尋ね、洗礼志願者はまず「信仰を求めます」と答えることになっています。そしてさらに「信仰によって何が与えられますか」、「永遠のいのちが与えられます」との問答が続きます。

救いは、ただ神のみから来ます。しかし、わたしたちは教会を通して信仰のいのちをいただくわけですから、教会はわたしたちの母です。「わたしたちは教会を、わたしたちの新しいいのちの母であると信じているのであって、わたしたちの救いの創始者として信じているのではありません」。教会は、わたしたちの母ですから、またわたしたちの信仰の養育者でもあります。