3 信仰の特徴

信仰は恵みである
聖ペトロが、イエスはキリスト、生きている神の御子であると公言したとき、イエスはペトロに、このことを表したのは人間ではなく、イエスの「天の」(マタイ16∙17)父であると言明しておられます。信仰は神のたまものです。神から授かった超自然的徳です。「このような信仰を起こすには、神の先行的かつ援助的恩恵と聖霊の内的助力が必要です。聖霊は、人の心を動かして、神に向かわせ、精神の目を開いて、『すべての者に、真理を受け入れること、そして信じることの甘美さを』味わわせます」。

信仰は人間的行為である
信じることが可能なのは、ただ、神の恵みと聖霊の内的な助けによります。そうではあっても、信じることはまさに人間的な行為なのです。神に信頼し、神から啓示された真理に同意することは、人間の自由にも知性にも反することではありません。そもそも、人間関係の場合(たとえば男と女が結婚するようなとき)でも、相手が話してくれるその人自身のことやその考えなどを信じ、その約束に信頼してその人との関係を結ぶことは、人間の尊厳に背くことではありません。そうであればなおさらのこと、「ご自分を啓示される神に信仰によって知性と意志を全面的に服従させ」、神との親しい交わりに入ることで、わたしたちの尊厳が傷つけられることはないのです。

信仰においては、人間の知性と意志は神の恵みに協力します。「信じるとは、恵みによって神に動かされた意志の命じるままに、神の真理に同意する知性の行為です」。

信仰と知性
啓示された真理がわたしたちの自然の理性にとって真実であり理解できるということが、信じる動機とはなりません。わたしたちが信じるのは、「欺くことも欺かれることもない啓示する神の権威のため」です。「わたしたちの信仰が『道理にかなった供え物』となるように、神は聖霊の内的助けに天啓の外的証拠が結合されることを望みました」。だから、キリストと聖人たちの奇跡、成就した預言、教会の発展と聖性、その豊かさと安定が、「神の啓示のもっとも確実で、すべての人の理解力によく応じたしるし」となり、また、信仰による同意が「決して精神の盲目的な動きではない」にとを示す信憑性の動機となるのです。

信仰は確実、しかも、あらゆる人間の認識よりも確実なものなのです。なぜなら、それは偽ることのできない神のことばそのものに基づいているからです。確かに、啓示された真理は人間の理性や経験にとっては定かではないように思えることがあるでしょう。しかし、「神的光が与える確実性は、自然理性の光が与える確実性よりも強いのです」。「たとえ理解できないことが無数にあっても、そのことが信仰の確実さを疑わせることにはなりません」。

「理解することを求める信仰」。信仰者が信じる神をもっとよく知り、啓示されたことをもっとよく理解したいと望むことは、信仰に付きものです。他方、知識が深まるにつれて信仰はより強まり、ますます愛に燃え立ちます。信仰の恵みは「心の目」(エフェソ1∙18)を開き、啓示の内容、すなわち、神の計画の全体、信仰の神秘、それらの間のつながり、また、啓示された神秘の中心であるキリストとその信仰の神秘との関係について、生き生きとした理解を持たせます。ところで、「聖霊は、啓示についての理解がますます深くなるように、不断にそのたまものをもって信仰を完全なものにします」。ですから、聖アウグスチヌスのことばに従えば、「信じるために理解し、理解するために信じる」ということになります。

信仰と学問。「信仰は理性を超えるものですが、両者間には決して真の対立はありえません。諸神秘を啓示し、信仰を授けてくださる神ご自身が、人間精神に理性の光を注がれたのです。神はご自分の示していることを否定することはおできになりませんし、真理が真理と対立することも決してありえません」。「したがって、あらゆる知識の分野における学問的研究は、真実の学問的方法によるものであって、倫理の法則に従って行われるものであれば、決して信仰に対立することはないはずです。世俗の現実と信仰の現実とはともに同じ神に起源を持つものだからです。むしろ、謙虚と忍耐をもって事物の秘密を知ろうと努力する者は、万物を支えて、そのものとして存在せしめている神の手に知らずに導かれているようなものです」。

信仰の自由
人間らしくあるためには、「神に対する人間の信仰による応答は、自由意志によるものでなければなりません……。それで、何人といえども、自分の意志に反して信仰を受け入れるように強制されてはなりません。実際、信仰行為は、その性質上、自由意志によるものです」。「神は自分に霊と真理とをもって仕えるよう人々を招いています。それで、人間は良心において束縛されてはいますが、強制はされていません。……このことは、イエス・キリストにおいてもっともよく示されています」。キリストは信仰と回心を促しはしましたが、決して強制はなさいませんでした。「真理に証明を与えはしましたが、それを反対者に力づくで押しつけることはしませんでした。その国は……十字架に上げられたキリストが、人間を自分に引きつける愛によって発展します」。

信仰の必要性
イエス・キリストを信じ、また、イエスをわたしたちの救いのために遣わしてくださった神を信じることは、救いを得るために必要です。「『信仰がなければ、神に喜ばれることはでき〔ず〕』(ヘブライ11∙6)、神の子らとしての身分にあずかることもできません。信仰なしにはだれも決して義とされることはなく、『最後まで信仰を保たない限り』(マタイ10∙22、24∙13)永遠の生命を得ることはないでしょう」。

信仰を保ち続けること
信仰は、神が人間に与えてくださった無償のたまものです。わたしたちには、このはかりしれない恵みを失うことがありうるのです。聖パウロはテモテに警告しました。「雄々しく戦いなさい、信仰と正しい良心とを持って。ある人々は正しい良心を捨て、その信仰は挫折してしまいました」(一テモテ1∙18-19)。信仰に生き、信仰において成長し、最後まで信仰を貫くために、わたしたちは神のことばによって信仰を養わなければなりません。信仰を強めてくださるよう、主に願わなければなりません。信仰は「愛の実践」(ガラテヤ5∙6)を伴い、希望に支えられ、教会の信仰の中に根を下ろさなければなりません。

永遠の生命の始まりである信仰
信仰は、地上の歩みが目指す至福直観の喜びと光を、いわば前もって味わわせます。その日、わたしたちは神を「顔と顔とを合わせて」(一コリント13∙12)、「ありのままに」(一ヨハネ3∙2)見るでしょう。したがって、信仰はすでにこの永遠のいのちの始まりです。「わたしたちは、すでに今から、信仰によって得られる神の祝福を鏡に映るもののように眺めています。それは、いつか享受できると信仰によって保証されているすばらしいものを、すでに所有しているといえるのです」。

けれども、今は、「〔わたしたちは〕目に見えるものによらず、信仰によって歩んで」(ニコリント5∙7)いて、神を「鏡におぼろに映ったもの〔のように〕一部しか」(一コリント13∙12)知らないのです。信じる神に照らされてはいても、信仰はしばしばやみを経験します。試練に遭いかねません。わたしたちが生きている世界は、信仰がわたしたちに教えることからしばしばかけ離れているように見え、悪、苦しみ、不正、そして死の体験は、福音と矛盾するように思えます。このようなことは、信仰を揺るがせ、失わせる誘惑にもなりかねません。

そのときこそ、信仰の証人に目を向ける必要があります。「希望するすべもなかったときに」(ローマ4∙18)信じたアプラハム、「信仰の旅路」にあって、御子の苦しみとその墓のやみをともにしながら、「信仰の暗夜」に入った聖母マリア、その他多くの証人がいます。「このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(ヘブライ12∙1-2)。