3 「仲介者であり、全啓示の完結」であるキリスト

神はみことばのうちにすべてを語られた

「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」(ヘブライ1∙1-2)。人となられた神の御子キリストは父の唯一の、完全な、決定的なことばです。キリストにおいて神はすべてを語られましたが、キリスト以後、そのほかのことばはありません。このことを、わけても十字架の聖ヨハネが、ヘブライ人への手紙1章の1から2節を注解しながら、明晰に語っています。

「神は唯一のみことばである御ひとり子をわたしたちに与えることにより、この唯一のみことばのうちにすべてを一度に話されたので、それ以上話すことはないのです。……それは、以前、預言者たちに部分的に話されたことを、ご自分のすべてである御子をわたしたちに与えることによって、神はことごとく語られたからです。したがって、今日になってもなお神に何かを尋ねたり、あるいは何かの示現や啓示を望むような人がいるなら、その人はキリストだけに目を注がず、他の何かを、また新奇なものを探すことによって、愚かじみたことをするだけではなく、神を傷つけることになるでしょう」。

もはや他の啓示はない

「したがってキリスト教的経綸は、新しい決定的な契約として、ついに過ぎ去ることなく、わたしたちの主イエス・キリストの栄光ある再現以前には、もはやいかなる新しい公的啓示も期待されるべきものではありません」。しかし、たとえ啓示は完結したにしても、明白にし尽くされてはいないのです。キリスト者の信仰は、幾世紀にもわたって、それが含むすべての意義を徐々に把握していかなければなりません。

キリスト後の長い年月の間には、「私的な」といわれる啓示があって、その幾つかは教会権威から認められています。しかし、それらの啓示は、ゆだねられた信仰の遺産には属しません。それらの役割は、キリストの最終的啓示を「改善し」、「補足する」ことではなく、歴史のある時期に、キリストの啓示をより十全に生きるのを助けることにあります。信者は教会の教導権に導かれ、その信仰心によって、これらの啓示の中に、教会に向けられたキリストあるいは聖人たちの真正な呼びかけを識別し、受け入れることができます。

キリストによって完結された啓示を凌駕し、あるいは修正するものであると主張する「諸啓示」を、キリスト教信仰は承認することができません。たとえば、このような「啓示」を土台にしている幾つかのキリスト教以外の宗教、また、新興宗教の宗派がこれにあたります。