神との一致に達するためには、たとえ些細なものであっても、欲望のすべてを捨てなければならない

ここでは第一に意志的な欲望について話しているわけで、ただ欲望と言われるものが何もかもすべて、どれもこれも同じように、霊魂を煩わし、それに害を与えるわけではない。というのは、自然に生じてくる欲望というものは、それが意志によって承諾されず、第一衝動といわれる域を出なければ、少しも神との一致を妨げることはない。事実、これらのものを地上にあるうちに消してしまうことは不可能なことで、こうしたものは、ことごとく抑制されていなくても、神との一致に到達する妨げにはならないからである。

しかし、その他の意志的な欲望はすべて、たとえ小さいものでも、神との一致に到達するために持ってはいけない。そのわけは、神との一致の状態とは、神の意志のうちに、われわれの意志がまったく変容し、そこでは神のみ旨に反する何物もなく、その意志の動きはすべてにおいてすべてのために、ただひとえに神の意志でなくてはならないからである。このことから、この状態においては、二つの意志は一つの意志、すなわち神の意志になり、神の意志はまた、その人の意志ともなると、われわれは言うのである。

したがって、もし人が、神の御望みにならない何か不完全なものを望むとするならば、神の意志と一つになっていないわけで、神が、御心に持ち給わないことに心をかけていることになる。ゆえに、愛と意志とによって神と完全に一致するに至るためには、いかに小さいものであるとしても、意志から生じる欲望のすべてをなくさないといけないことは明らかなことである。すなわち知りながら、気づいていながら不完全なことを、すすんで承諾しないことで、また、それと気づいたときに、承諾しないだけの力と自由を保っているようにということである。

意志的に不完全なことをするある種の隠れた心の傾きに、どうしても打ち勝てないなら、それらは、神との一致のみならず、完徳に進む妨げとなるものである。これらの習い性になっている不完全というものは、たとえば、通常よくあるおしゃべりのくせ、決して断ち切ろうと思わない何かものに対する愛着、すなわち、ある人、服、本、部屋、さらには食物とか会話、何かのことで満足を求めたり、または知ろうとし、あるいは聞こうとしたり、それらに類したことなどである。こうした不完全さの、いずれのものにしても、それに執着し、それが習性になってしまうならば、徳における成長と進歩の妨げになる。

それは例えば、鳥をつないでいる紐が、細かろうと太かろうと、それがつながれている限り、細い紐であっても、断ち切らないならば、太い紐でつながれているのとまったく同じことで飛び立つことはできないことに似ている。罪や虚栄の愛着というような、太い紐を、神は彼らから断ち切ってしまわれたのに、神がその愛から克服せよとかれらに仰せになる児戯に類した一本の糸、一筋の髪にすぎないようなものを捨てないために、あれほど大きな宝にまで到達しないのは、まことに嘆かわしいことである。そして、一層悪いことには、ただ前進しないだけではなく、その執着のために退歩してしまい、あれほど長い月日と、あれほどの努力をもって歩いてきたところのもの、獲得してきたものをも失ってしまうことである。

というのは周知のように、この道においては、前進しないことは退歩することであり、獲得しないことは失うことであるからである。「小事を軽視するものは、次第に堕落する」(シラ19・1)、「一つの火の粉より焔はあがる」ともいっている。一つの不完全があるだけで、それが他の不完全を引き寄せ、さらにまた、他の不完全を、というふうになっていくものである。したがって、一つの欲望に打ち勝つことに努力を払わないものは、この欲望が持っているのと同じような弱さと過ちから出てくる他の多くの欲望へと導く。そのようにして絶えず落ち込んで行くのである。

神が、大きな離脱と自由のうちに非常な進歩をさせた多くの人々が、小さな愛着や善の仮面の下に、会話や友情を求め始めたというだけで、みな台無しにしてしまうのと同時に、修養の喜びや忍耐もなくし、はては、なにもかも、なくしてしまうまで止まることがなかったのを、われわれは多く目にしてきた。それというものも、かれらが、感覚的な楽しみや欲望を、その芽生えのうちに摘んで、神のうちに自分を孤独のうちに守ろうとはしなかったからである。

この道においては、目的地に達するために、常に歩いていなくてはならない。すなわち、いつも欲望を捨てて、決してそれを育てずに前進するということである。すべてのものを捨ててしまうのでなければ、その目的に達することはできない。