神との一致に至るまでの道を夜とよぶ理由
1、霊魂がもつこの世のすべてのものに対して欲望を断ち、退けないといけない、このことは人間の感覚にとって「夜」のようなものである
2、神と一致するための手段は「信仰」である。信仰は理性にとって夜のように暗い
3、神は、この世にあるものにとって、やはり暗夜であるからである
トビト記(6・5~16)で、天使が、その娘と結ばれる前に過ごすように青年トビアに命じた命じた三つの夜は、今ここで言う三つの夜を象徴している
1、第一夜で、天使が命じたことは、魚の心臓を焼いてしまうことであった。心臓とは、この世の事柄に囚われている心を意味する。神のもとに行くために、神の愛で焼かれ、すべての地上的なものから浄められないといけない。この浄化において、肉的な、またこの世の事柄に愛着している人の中に支配力をもつ悪魔が追い出されることになる。
2、第二夜で、信仰の父である聖なる太祖の内に数えられることになるだろうと、天使は彼にいった。というのは感覚的なすべてのものから剥奪される第一の夜を通りすぎて、感覚にとらえられない信仰のうちにのみとどまりながら、第二夜にただちに入っていくからである。
3、第三夜で、天使はかれに「天使の祝福をうけるであろう」と言った。その祝福は、他ならぬ神ご自身が与えられることであり、これは第二の夜である信仰をとおして、人知れず深いところで神がわれわれの霊魂とお交わりになることを言う。
この第三の夜で、霊における神との交わりが完結するが、それは魂の非常に深い暗黒の中になされる。そして、この第三夜が過ぎると、神との一致が続く。