2 信仰は霊魂にとって、どうして「暗夜」であるのか。

信仰とは、どんな人間の理解をはてしなく越える神そのものによって啓示された真理を信じさせるものであるので、あらゆる自然の光のかなたにあるものである。ここで信仰によって与えられる極度の光が、霊魂にとって闇になる。それは、あたかも、太陽の輝きがわれわれの弱い視力をつぶしてしまうと、他の光は太陽の輝きのため、もう光とは見えなくなるようなものである。それは、太陽の光があまりにも強く、われわれの視力を超えてわれわれの目を奪い、盲目にしてしまうからである。このように、信仰の光は、余りにも大きいため、理性の光を押さえ、打ち負かしてしまうのである。

理性は、自然の道による以外には、何も知ることができない。すなわち、感覚を通して、目の前にある対象自体、あるいは、それに類したものの姿、または形に頼る以外に方法がない。哲学者が言っているとおり、知るということは「対象と、それをとらえる能力から生じる」ものであるからである。したがって、一度も知ったこともない、またはそれに類したものをかつて見たことがないならば、そのことについて話しても、何も言わなかったと同じように、それについて何の光も残ることはないだろう。

たとえば、どんな色を見たことがない生まれながらの盲目な人に、白色とか黄色とかどんなものかを説明しても、当人は相変わらず以前と同じことで、それ以上に理解することはないであろう。というのは、それらについて判断できるだけの、そのような色も、またそれに類したものさえも見たことがないからである。

信仰について、これと同じことが、その霊魂との関係において言えるのである。すなわち、それそのもの、また、それに類したものも、そのようなものはない。信仰は、われわれがまだ一度も見たことも理解したこともないことを語る信仰について、われわれは自然的知識の光を持っていないのであって、それがわれわれに告げるものに匹敵する感覚的なものは何もないのである。

しかし、われわれは、信仰を聞くことによって知り、信仰がわれわれに教えることを信じ、われわれの自然的な知性の光をなくしてそれに従わせるのである。聖パウロの言っているように、「信仰は聞くことから生じる」ものだからである。その意味は、信仰とは、何かの感覚を通じて入ってくる知識ではなく、ただ聞くことによって入ってくるものに対する同意だけである、ということである。

なぜなら、他の知識は理性の光をもって獲得されるけれども、信仰の知識は、信仰によって理性の光を否定し、この光なしに獲得されるもので、自分自身のもつ光を暗くするのでなければ、その知識は失われてしまうものである。このためイザヤは次のように言っている。「信じることがなければ、悟ることはないであろう」(7・9)と。

このことから分かることは、信仰は霊魂にとって暗夜であると同様に霊魂に光を与えるものであることである。だから、信仰は、霊魂を暗くすればするほど、いっそう霊魂に光を与えるものである。というのは、「信じなければ悟らない」というのであるから盲目にすることによって、光を与えるというわけである。