感覚の暗夜 短いまとめ

人間は、体と精神から成り立っている。神との一致のための霊的な道を通るための夜も、人間の感覚的部分、人間の精神的部分(知性、記憶、意志)の二つの異なった道がある。

感覚の欲求のすべての楽しみを失くすことがなぜ夜と呼ばれるのか(→参照)

欲求を受け取る機能として、耳、目、鼻、口、触れることなどがある。霊魂は、感覚によって知ること以外、なにも手段をもたないので、これらの機能から受け取る喜びを奪いとるならば、霊魂はこの感覚に関して暗く空虚になる。つまり感覚から受け取る楽しみを退け、それから離れれば、すべてが暗く、夜のようなものになる。
(注)ここで、聞くこと、見ること、臭いをかぐこと、口にすること、触れることなどを、行わないことを言っているのではなく、その行為から受ける楽しみとか欲望から離れ、そうしたことを行っても心を自由にしておくことを言っている

神との一致のため、感覚の暗夜(=欲望の克服)が大切な理由(→参照1参照2)

  1. 愛は愛するもの同士を同じもの、または互いに似たものにする。したがって、神以外の何かを愛するというそのことだけで、もう我々には、神との純粋な一致も、またそれによる変容も不可能になる。
  2. この世のすべての心の楽しみ、またその快さというものは、すべて、神という、豊かさそのものの楽しみに比べるならば、この上もない苦痛、呵責、にがみでしかない。また地上のものはすべて、その富も、その光栄も、神という富そのものと比べれば全くの“まずしさ”と“みじめさ”というものでしかない。
  3. 地上のものはすべて神の無限に比すれば無であるように、地上のものに愛着するものは、神の御前において同じく無である。
  4. 神と比べられるものは何もないのであるから、神と一緒に他のものを愛したり、とらえられたりするならば、神をはなはだしく侮辱することになる。

以上から、欲望を克服しない限り、神との一致という高い状態に達することはできない。

感覚的な欲望が霊魂に与える損傷(→参照)

  1. 欲望は心に、神を受け入れにくくさせる
  2. 欲望は心を”疲れさせ”、”悩ませ”、”暗くし”、”汚し”、”冷淡に”させる

神と一致に達するためには、どんな些細なものであっても、欲望のすべてを捨てないといけない(→参照)

  1. もし人が、神の御望みにならない何か不完全なものを望むとするならば、神の意志と一つになっていないわけで、神が、御心に持ち給わないことに心をかけていることになる。ゆえに、愛と意志とによって神と完全に一致するに至るためには、いかに小さいものであるとしても、意志から生じる欲望のすべてをなくさないといけないことは明らかなことである。
  2. 一つの欲望に打ち勝つことに努力を払わないものは、この欲望が持っているのと同じような弱さと過ちから出てくる他の多くの欲望へと導く。そのようにして絶えず落ち込んで行くのである。
  3. この道においては、目的地に達するために、常に歩いていなくてはならない。すなわち、いつも欲望を捨てて、決してそれを育てずに前進するということである。すべてのものを捨ててしまうのでなければ、その目的に達することはできない。

感覚の暗夜に入るために、とるべき方法(→参照)

第一には、なにごとにおいてもすべて、キリストにならって、その御生涯に倣おうとするふだんの望みを持つことで、キリストに倣うためには、その御生涯を省察し、すべてのことにキリストと同じ態度をもっていどまないといけない。
第二には、これを立派に行うことができるために、感覚を楽しませるものは、どんなものでも、それが純粋に神の名誉と光栄のためでないのなら、それを退け、イエス・キリストの愛ゆえに、そうしたものに全く無関心でいなくてはならない。