30 潜心している霊魂のうちにつくりだされる継続的言葉について

継続的言葉とは
この継続的な言葉というのは、心が非常に深くある思いの中に沈んでいるときに生ずるものである。そこで考えている事柄について、当人がひとつのことから他のことへと考えているときに、非常に容易かつ明白に言葉をつくりだし、考えの筋を追い、自身知らないことについて頭を働かせてゆくため、それをしているのが自分ではなく、他のだれかが心の中で考え、答え、また教えたりしているように思われる。事実、そう思うことにはまことにもっともな理由がある。というのは、本人自身、自分で頭を働かせ、自問自答しているのはあたかもひとりの人が他の人に向かいあっているかのようであるからである。
継続的な言葉が生じてくる原因になるものには三つのものがある。①知性を動かし、かつ照らしたもう聖霊、②知性自身に本来そなわっている光、③暗示によって話しかけることがある悪魔、とである。

聖霊による継続的な言葉
あたかも道具のようになってそうしているのは当人自身の霊なのであるが、それらの概念やことばや、正しい論理を生みだしつくりだすべく力を与えているのは、しばしば聖霊である。それはちょうど第三者に対するようにかれは自分自身に語る。なぜなら、知性はそのとき考えていることがらの真理に吸いよせられ、それに結びついているように、神の霊もまた、およそ真理においてはすべて常にそうであるように、その真理において知性と結びついているからである。すなわち、知性はこのような形でその真理を通じて、神の霊と交わりをもち、考えていたことがらに関するその他の真理を頭の中で次々とつくりだし、その門を開いて教師である聖霊の光に浴させることになるからである。これが聖霊の教えたもうひとつの形である。このように師なる聖霊によって照らされ教えられた知性は、そのような真理を理解し、同時に他方面から与えられる種々の真理について、自らことばをおりなしてゆく。

知性自身に本来備わっている光による継続的な言葉
1、知性は、他の人から聞いた考えや、真理について、自分自身、第三者になりすまして、そうしたことばを、たやすく作りだすことができる。ことばが知性にうけとられること、および、それが照らされること自体に偽りがあるわけではないが、それについて、知性がつくりだすことばや理論は欺瞞があり得るし、事実しばしばそうである。時に、知性に与えられる光が非常にとらえがたく霊的なもので、知性はそれについてはっきりと枠づけることができず、今言うように、知性のつくりあげるものが、誤った形のものであったり、似て非なるもの、欠陥のあるものということがあり得る。始めは真理であったとしても、まもなくそこに低い知性の働きや粗雑さが入りこんでくるため、その力に応じてそれが容易に変わったものとなって、みなちょうど第三者が話すようなぐあいになる。
2、ある人々の理性は、非常に生き生きとし鋭くて、何かの考察に心をひそめると、ごくたやすく、自然に考えを次から次へと追いながら、前に言ったような言葉やまことにきびきびした論理を作り上げるので、それは神からのものであると考えてしまう。しかし実際にはそうではなくて、感覚的なものの働きからいく分でも自由になった知性ならば、超自然的な助けが何もなくても、そうしたこと、あるいはそれ以上のことができるのである。こういうことはよくあることで、多くの人々は、それが深い祈りであるとか、神との交わりであるとか考えて欺かれ、そのためにそうしたことを書いたり人に書かせたりするのである。しかし、そうしたことは何の価値もなく、徳になる何らの実質的なものもあるわけではなく、ただそれをむなしい誇りにするぐらいが関の山である。

悪霊による継続的な言葉
この種類の内なる継続的なことばの中にも、悪魔がしきりに手をさしいれてくるもので、ことにそういうことに何かの傾きや好みをもっている人においてはそうである。なぜなら、そういう人が潜心し始めると悪魔は、知性に対し、暗示による考えやことばをつくりだし、およそ筋をはずれたことをやたらに提供してくるもので、いかにももっともらしいことがらによって実に巧みに欺き、陥れるものであるからである。これはそれとなくまたは、はっきりと悪魔との結びつきを約した人々に対し悪魔がなすことで、例えば、異端者のような場合、ことに異端の主役になるものに非常にこまかい偽りと誤りの考えや論理をその知性に示すのである。

この継続的言葉を見分ける方法
この判別は難しいが原則的なものをあげるのならば、次のようなものである。その言葉や考えと共に、謙虚と神に対する畏敬の心をもって、愛を感じ、かつ愛するというのならば、そこには聖霊が働いている印である。聖霊は何かの恵みをくださるとき、いつもそのように愛につつんでお与えになるからである。知性の生き生きとした働きや、その光からだけでてくるときには、そのような強い心の働きを伴わないで、知性だけがひとり相撲をしているため、黙想がすむと、意志の葉脈に水がきれたような感じが残る。といっても、こうした場合悪魔が新しい誘惑をかけてこなければ、虚栄や悪に傾くというのではない。しかしそのような言葉が、よい霊に由来する場合には、そういうことにはならず、普通あとで、神に対する愛、善に向かう心が残るものである。もちろん、時にはその交わりが、よき霊に由来していても心の水が切れたままのようなこともあるけれども、それは何かためになる理由のために神はそのようになしたもうのである。また他の場合には、あの徳といわれる心の強い働きや動きを余り感じないことがあっても、そこでうけとったものはよいものであることがある。このようにそこに生ずる結果というものはいろいろ異なってくるため、時にこの場合とあの場合というように差異を見分けることがむずかしいと私は言うのである。とはいえ、上に述べたことはすべてに共通のことで、ただその現われ方が時に多く、時に少ないというだけである。なお、これらが悪魔からのものであることに気づきそれを見分けることは、時としてむずかしい。というのは悪魔からのものは、通常神の愛に向かう心をひからびさせ、虚栄心や自己満足に傾けさせるものではあるが、また時としては、偽りの謙遜と、自愛心に根ざした強い愛情をいれるため、よほど霊的でないと、それを見分けることかできないからである。これは悪魔が巧みに身を隠そうとすることで、これぞと思う愛着を人の心の中にいれ、時にそれが与える感情のあまりに巧みに涙を流させるものである。いつも悪魔は人がこのような心の中の交わりを高く評価し、非常に大切にするように心の動きを仕向けてゆこうとする。それも、人がそうしたものに気をとられて徳にもならぬものにこだわらせ、もっていた徳さえも失う機会にするためである。

継続的な言葉に対しどうすればよいか
いずれにしても、それに欺かれたり、それが妨げになったりしないように注意深くなくてはならないわけで、そうしたものを問題とせず、強い意志をもって神に向かうようにすることだけが大切で、聖人たちの英知である掟と、その聖なるすすめとを完全に守るようにつとめ、教会が示してくれる信仰の奥義や真理をすなおな心をもって知ることで十分満足すべきなのである。意志を燃えたたせるにはそれだけで十分であって、それ以外の深いことや奇異なことに入りこんでいったら、危険でないのが不思議なくらいである。そのため聖パウロは「知るべき以上に知ろうとしてはならない」(ローマ2・3)といっている。