19 神が、感覚を通して霊的な宝をお与えになる目的

霊魂を低いところから、その神的な一致にまで高めるために、神が、これらのヴィジョン(示現)をお与えになる目的。これらの超自然的ヴィジョン(示現)がわれわれの前進のための大きな危険や障害になるというのなら、神が、どうして、これらのものをお示しになったり、お与えになったりするのであろうかということである。

神は霊魂を動かし、これをいちばん低いところから、ご自分との神的一致という、いちばん高いところにまでおあげになるには、それを順序正しく、かつ妙に、また、それ自身のあり方に従ってなされる。というのは、われわれの認識の過程は、まず、つくられたものの形やイメージよりはじまるもので、理解や認識の足場は感覚的なものであるから、神が霊魂を、最も高い認識にまでおあげになるのに、それを巧みに、無理のない形でおこなうには、感覚といういちばん低いところから、まず手をつけるわけである。

そのために神は、最初には、外部的に全く自然のよきものをつかって魂を動かし感覚を完全なものにされる。たとえば、説教を聞いたり、ミサ聖祭にあずかったり、聖なるものをみたり、食事における味の抑制や、触感も償いと聖なる厳しさで抑えることなどがそれである。このようにして、これらの感覚がしっかりしたものになるときには、一層それを完全なものにするために、善に身を固め、させるべく、何か超自然的な報いや恵み、ある種の超自然的な交わりを与えられるのが常である。聖人や聖なるものを形でもってお示しになったり、こころよい香りや、ことば、または、うっとりするような何かのものに触れた感覚などがそうである。これによって感覚は、いっそう徳のうちに固められ、悪いものに対する欲望を追い払うことができる。その上なお、想像や映像のような、形の内部感覚をも、それと同時に完きものにし、聖なることがらについて考えたり、黙想したり、思いめぐらしたりすることによって、それらを完全なものにし、かつ善なるものに親しませ、そうしたすべてのことの中で、霊の教育をされるのである。この自然的な修練によって、その内的感覚をととのえおわると、神は、ここで想像的と呼ばれる何か超自然的なヴィジョン(示現)をもって、われわれを教え、かつ、一層霊的なものにされるのが常であって、前にも言ったように、これらのヴィジョン(示現)においては、霊は非常な進歩をなし、あのことにおいても、このことにおいても、粗雑さをなくし、少しずつ徐々に自分を改めてゆくようになる。

このようにして神は、段階を追って、霊魂をあの最も内的なところにまで高められるのである。といっても、今いったような具合に最初の段階から以後の段階まで、きちっとこの順序を神が常に守られるにちがいないというのではなく、時として神は、ひとつのことを他のものなしでされたり、あるいは、より内的なものを通じて、しかも余り内的でないものが与えられたり、あるいは、それを全部いっしょにされたりする。いずれにしても神は、その人に適切であるとみられるままに、またそのお望みのままに恵みを与えられるのである。しかし、通常は、上に述べたようなものである。

霊魂は、感覚的な事物を通しながら、そこから霊的な交わりを小刻みにうけとるうちに、霊的なものにすっかり馴れて、感覚とは全く無縁の霊の実体そのものにまで至りつく。そこまで到達するのに、霊魂が常につなぎとめられている感覚を通じては、ほんの少しずつしか進むことができない。霊魂は、神との交わりにおいて。霊的になればなるほど、頭を働かせたり、想像に頼ったりする黙想などの、感覚による道からはなれ、それにとらえられなくなる。実際、神との霊的交わりに完全に到達するためには、およそ神についての感覚的なすべてを、なくしきってしまわなくてはならない。というのは、感覚や自然の認識によってとらえられるものであればあるほど、霊的なもの超自然的なものに乏しいからである。ゆえに完全に霊的な人は、感覚のことは全く問題にせず、感覚を通してものを受けとろうとはしない。霊において大人になる前とはちがって、神のことについて主として感覚を用いることも、またそれを必要とすることもなくなるのである。

感覚的なことがらや、そこから霊がひきだすことができる認識などは、非常に幼稚なものである。もし、そうしたものに執着をもち、それらを捨てようと思わないならば、われわれは決して幼児的段階からぬけでられないであろうし、常に、神について語ることも幼稚で、神を知ることも、神について考えることも幼稚のままである。したがって、たとえ神がさし出してくださったものであるにしても、自分の成長のためには、前に言ったような啓示を、おいそれと受け入れようとしてはならない。それは、ちょうど、子供の口を、一層実質的で栄養分のある食物に馴れさせるため、乳離れする必要があるようなものである。

すると人は、次のように言うことであろう。霊魂がまだ幼い間は、そうしたものをとる必要があり、大きくなれば、それを捨てたらよい。それは、ちょうど、子どもが成長してそうしたものが要らなくなるまで、自分の生命を保つために、母の乳房を必要とするようなものであると。これに対しては、次のように答えよう。霊魂が神を探し始めるあの黙想や、通常の意味での頭の働きということに関しては、その時期がくるまで、生命を保つため感覚の乳房を離れてはならない。その時期というのは、神が霊魂をより霊的な交わりである観想のうちに導き入れられる時のことである。しかし、完全な状態、あるいは不完全な状態、そのいずれにしても、われわれの意志とは無関係に感覚に入りこんでくる想像のヴィジョン(示現)や、その他の超自然的知覚の場合には、たとえそれが神からのものであろうとそれを受けとってはならない。それには二つの理由がある。ひとつは、われわれの側から、ヴィジョン(示現)を妨げたりすることができたとしても、神は、それにもかかわらず、それから実りを取り出すことがおできになるのであって、それを妨げることは、われわれの力の及ばないことだからである。したがって、霊魂に与えられるべきはずの実りは、そのままの形ではなくても、かえって一層実質的に与えられることになる。というのは、神が与えたいと思われた宝は、何かの不完全や所有欲によらないかぎり、それを妨げることはできないからである。したがって、こうしたヴィジョン(示現)を謙遜に、恐れをもって退けることには、決して、不完全とか所有欲とかいうことはない。第二には、よいものと悪いものとの識別、あるいは、それが光の天使か闇の天使かを見分けるための危険と骨折りから免れるためである。このようなことの中には、決して利益はなくただ時間を空費し、心をがんじがらめにし、はなはだしい不完全や停滞に身をさらすだけのことで、ことこまかな知覚や、個々のものの認識から心を解放して、大切なことに目を向けさせることにはならない。

そこで、なお知っておくべきことは、超自然的に現われるもの、またその形などの外殼に気を奪われていてはならないということで、外部感覚についていえば、耳もとにささやく言葉や語りかけ、口については、聖人のヴィジョン(示現)や、美しい輝き、鼻には香り、舌には、おいしい味、体に触れる快さなど、こうしたものは、通常、霊に由来するもので、霊的な人々にとっては、きわめてありふれたことである。また、内部感覚にあらわれる何か想像によるヴィジョン(示現)に目をとめることもいけないことで、そうしたものは、すべて退けなくてはならない。目をおくべきものとは、ただ、こうしたものが生みだすあのよき霊の上だけで、その霊を正しい神の奉仕のために働かせ、また修練すべく保ち続けるために、そのような現われに注意をひかれたり、感覚的な楽しみを求めたりしてはならない。このようにすれば、こうしたことがらの中から神が特に与えたいと望んでおられるものすなわち、敬虔な信心だけがひきだされることになる。神が、そうしたものをお与えになるのは、このことがおもな目的だからである。