現世的な喜びを遠ざけることによって、霊魂に生ずる益について

その喜びは、所有欲をもって地上的なものを見ている人が受けとることのできないものである。なぜなら、所有欲は一種の不安となって、ちょうど繩のように心を地上にしばりつけ、心を自由にさせることがないからである。地上的なものから離れれば離れるほど、地上的なものに対する真理を正しく認識することができる。したがって地上的なものを喜ぶにしても、所有欲にとらえられているものとは甚だしく異なり、はるかに優れたものをとりだす。なぜなら、前者は地上的なものをそのあるがままに受けとり、後者は錯覚によって受けとるからである。また、前者はよいものに従い、後者は悪いもの、前者は実質的なもの、後者は付随的なものによって、地上的なものを感じとるからである。事実、感覚は、付随的なものより奥に達することはできない。しかし、目をまどわす付随的なものから清められた霊魂は、事物の真理と価値をみつめ洞察する。これがその対象だからである。楽しみは、霧のように判断を曇らせる。というのは愛着がなければ、地上的なものを進んで楽しむということはないわけで、これはちょうど、心の中に愛着をもっていなければ、楽しみという感情をもつことがないのと同じである。地上的なものの楽しみを退けることは霞のはれた空気のようにものを見る目をはっきりさせてくれる。前者はどのようなことについても、とらわれた愛着をもたないため、かえって、それらのすべてを所有しているかのように喜びをもつのに対し、後者は、自分のものとしたいという所有欲をもってみるため、すべてに対し、喜びを全く失うことになる。前者は心のうちに何ももっていないのであるから、聖パウロのいうように、すべてを大きな自由のうちに所有している(コリント後6・10)。それに対し地上的なものに愛着のある後者は、地上的なものが彼の心をとらえているため、彼はまるで奴隷のように苦しみのうちに所有している。地上的なものを楽しみたいと思う人は、その奪われた心の中に、どうしてもそれだけの苦しみと悩みとをもつことになる。地上的なものから離れ去った人は、祈りの時も、それ以外のときも、彼を苦しめる心痛はなく、時間を失わず、容易に多くの霊的宝をつくりだす。それに対し後者は、その心がつながれ、奪われている繩に巻かれて回っているだけで、どんなに努力しても、その心がつながれている思いや楽しみから自由になることはほとんどない。地上的なものの楽しみをなくすることは、他にきわめて大きな利益がある。それは神に対して自分を全く開ききることができるということである。これは、人がすべての恵みを受けとるための、第一の心構えで、この心構えがなければ、神は恵みを与えてくださることはない。その恵みは、福音書で神が約束されているように、たとえこの世のものであっても、そのひとつの楽しみを、神に対する愛と、福音的完徳のために捨てるならば、この世においてすでにそれに百倍する喜びをお与えくださるということである(マテオ19・29)。