9 超自然的なものをはっきりと記憶にとどめるときの弊害②自負心や虚栄心

霊的な道をゆくものにとって、天的なヴィジョン(示現)や啓示や感情など超自然的知覚もまた、いくぶんでもそれを問題にし、気にするならば、何かの自負、または虚栄心に陥る大きな機会となる。このようなものを何も持っていない人は、自負するものを持っていないわけであるから、そうした悪徳からまぬがれていることができるが、そうしたものをもっている人は、自分が超自然的なものを与えられているのをみて、何か自分が価値あるもののように思いこむ機会を手にしていることになる。このような人々は、もちろん、そのようなことを神に帰し、それに適していない自分をみて感謝を捧げることができるはずであるが、その心の中には、何かひそかな自己満足と自尊心とが残るもので、知らず知らずのうちにそこからおびただしい霊的傲慢が生じてくるものである。この霊的傲慢は次のことからよく分かる。たとえば、自分の精神をほめてくれない人や、自分のもっているものを高く評価してくれない人に対して感ずる不快、および、その人と疎遠になること、あるいは他の人々が自分と同じもの、またはそれ以上に優れたものをもっていることを考えたり、人がそれを自分に告げたりするとき、心に痛みを覚えるようなのがそうである。こうしたことはすべて、人目にかくれた自負心や傲慢からくるものであるが、おそらく頭までそれに溺れているために、自分では気づかない。そのような人々は、自分の惨めさについて、何らかの認識があるだけで十分であると思い、それと同時に、自分のもっている精神と霊的宝を、他人のそれよりも気にいって、ひそかな自負と自己満足にみたされている。あのファリザイ人のように、自分が他の人のようではないことを神に謝し、徳をもっていることに自己満足と自負とを覚える(ルカ8・11-12)。ただ、あのファリザイ人のように、はっきりそれを口に出しで言わないだけで、その心の中には、いつもそうした考えをもっている。そして、ある人々は、悪魔よりもひどい傲慢な人間になる。かれらは、自分の内に何かをとらえ、敬虔にして甘美な感情を神から受けとるのをみて、自分は神に非常に近いと考えて自ら満足し、それらを持たない他の人々は、ずっと低い人であると思うため、かのファリザイ人のように、そのような人々を軽視することになる。神の目をおおわせるような、この極悪な弊害をさけるためには、二つのことを考えなくてはならない。第一には徳というものは、神について感じとらえることがいかに高いものであっても、自分がそう感じとるもののうちには、決してあるものではないということである。その反対に、徳は自分のうちに何も感じないという大いなる謙遜と自己卑下、またすべてのこと、ことに心のうちに描かれたりまた感じられたりするものを問題にせず、そのように人も考えてくれることを喜び、他人の前で自分が何かの価値をもっているなどとは考えもしないということである。第二に注意すべきことは、天的なヴィジョン(示現)や啓示や感情、その他自分で考えだすようなことはすべて、謙遜の最小の行為ほどの価値もないということである。謙遜というのは、自らのことを重んぜず、求めず、おのれ以外については何も悪く考えず、自分の善ではなく、ただ他人のよきことだけを思う愛のあらわれをもつ。したがって、そうした超自然的な知覚について、目をおごらせず、心を自由に保つためそれらを忘れるようにしなければならない。