8 十字架上の主の模範

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27・46)

主は、感覚的なものに対して死んでおられたことは確かなことで、ご生涯中に霊的に死に、その後命を失われた。というのは、その御言葉通り、その生活には、頭を横たえるところもなかったのであり、その死においてはなおさらであった。

主の死が迫ってきたときに、その心は、何の慰めもなく、全く廃墟にさらされた。上述の叫びがでるほど、その心は、御父からも全く乾燥のうちに投げ捨てられていた。これは、キリストがその御生涯で最も強く身にしみて経験した死の遺棄であった。しかも、まさにこの時こそキリストは、その全生涯にわたる多くの奇跡や御業よりも大きい業、すなわち、恩恵による神と人との和解と一致という業を成し遂げたのである。そしてそれは、主がすべてにおいて最もみじめなまでに打ち砕かれたその時、その瞬間であったのである。御父は、人間と神と一致させるために、キリストをお見捨てになり、そのようにして御子は全く打ち砕かれ、無に帰せられたのである。

これは、神との一致するためのキリストの門とその道の神秘を、霊的な道をよく歩む人々が理解するため、すなわち、感覚的分野、霊的分野のいずれにおいても、神のために自己を無にすればするほど、一層、人は神との霊的一致がなされることをわれわれに教えてる。

それは休息や甘味、霊的な感情ということにあるのではなく、感覚的な、精神的な、すなわち、内外的なひとつの生々しい十字架の死のうちにあるのである。