8 超自然的なものをはっきりと記憶にとどめるときの弊害①混同し欺かれる

超自然の道によって生ずる事がらが刻みこむイメージや考えにとらわれて、それに思いをめぐらすために起こってくる弊害には五つある。
第一、かれこれ混同して欺かれること。
第二、自負心や虚栄心に陥りがちであること。
第三、このような知覚によって、悪魔は、われわれを欺くのに恰好の場をもつということ。
第四、望徳によって神と一致するための妨げとなること。
第五、その大部分において、神をいやしく判断すること。

第一の場合、前に述べたようなイメージや知解にとらわれ、それに思いをめぐらせているならば、しばしば、それについて誤った判断を下すことは明らかである。なぜなら、想像によって、自然に生じてくることがらをすべて知りつくすことは決してできないことで、それについて完全かつ確実な判断をもつことはできないからである。まして、われわれの力を超えた、まれにしか起こらない超自然的なことならなおさらである。したがって、しばしば、神からのものと思っても、それが単に妄想にすぎないものであったり、またさらには、神からのものを悪魔からのものと考えたり、悪魔からのものを神からのものと考えるようなことになる。また非常にしばしば、自分や他人の善悪についての判断や、考え方、あるいは頭に浮かんでくるものが深く心に刻まれ、確実かつ真実なものと思いこむことがあるけれども、その実は大変な誤りにすぎないことがある。また、他の真実なものを本物でないと思いこむことがある。また、たとえ真偽のほどにおいてまちがわなかったとしても、少ないものを多いもの、多いものを少ないものと思いこむように、量と質において誤りをおかすことがある。質についてといえば、想像によってこれと思うことが、その実は、そうではなかったりするわけで、イザヤが言っているように、闇を光、光を闇と思い、苦いものを甘いもの、甘いものを苦いものと思いこむ。また、一つのことでは当るとしても、他のことでは間違う。あれかこれかを判断しようと思わないまでも、少しでもそれを問題にするというだけで、少なくとも何らかの害を蒙るのに十分である。

したがって霊的な道をゆくものは、その人に起こった超自然的なヴィジョン(示現)や知解や感情を心にとめず、判断しないで、それを知る望みももたず、ただ霊的指導者に話すといい。そして指導者は、こうした心に映るものから記憶をむなしくすることを教えるべきである。なぜなら、それがどんなものであるにしてもそれら自身は神の愛に向かう助けとはならず、すべてのことから離れる活ける信仰と望徳の最小の行為にさえ及ばないものだからである。