7 主に従うことについて

「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」(マルコ8・34、35)

神の内に自分自身を求めるとは、神から何かの贈りもの、あるいは楽しみを求めることである。それに対して神自身を求めるというのは、神のためにそうしたものが、むしろないことを求めることだけでなく、キリストのために、神からも、また世間からも、すべて味気ないものだけを選び取るように心掛けることで、これこそ神への愛なのである。

このことは「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うのことばのうちに示されている。つまり自分のために何かを所有しようとし、または探し求めるものは、これを失うというのである。
次に「わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うというのは、自分の意志が渇望し、かつ味わうことのできるすべてのものを、キリストゆえに退け、いっそう、十字架となるものを選び取るものは、その命を得るということである。

この小径には、自己放棄と十字架以外になにも入ることはできない。十字架はこの小径を通って到達するための杖であって、これをもっていれば自己放棄も軽く、容易になる。それゆえ主は、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」(マタイ11・30)と言われたのであって、その荷とは十字架のことである。というのは、この十字架をとって、それを担って行く決意をしたもの、すなわち、神のために、すべてのことがらのうちに真の労苦を探して、それを担う決心をしたものは、なにも望まず全く赤裸になり、この道をゆくためには、大いなる身軽さと快さとを、すべての中に見出すからである。

われわれにとって必要なことはただ一つしかない。それは、外的なことにも内的なことにも自分を捨てることで、キリストのために苦しみに身をゆだね、すべてのことにおいて自己をまったく無にすることである。