6 記憶から離れることにより霊魂がうける益について

いろいろの思い出のために、霊魂がこうむる上述の弊害ということから、それを裏返せば、そうしたものを忘れ去ることによって逆に生ずる益について話すこともできる。第一には、心の平安と落ちつきとを、心ゆくまで味わうことができることである。というのは、思い出から生ずるいろいろの考えのため心が乱されたり、動かされたりしないため、その結果として、より大切な、良心と心の純潔をもつことができるからである。第二の利益は、悪魔からくる数多くの示唆や誘惑や働きかけから逃れることができることで、悪魔は、思いや考えを通じて、多くの不純と罪を心の中に入れ、そこに陥らせるからである。したがって、そのきっかけとなる思いを捨ててしまえば、悪魔は霊魂に挑む通常の手段を失うことになる。第三の益は、こうしたすべてのものを忘れ去り、心をひそめることによって、霊魂は、聖霊によって動かされ、かつ教えられるための心構えを保つことになる。なぜなら、聖霊は、「理性からはずれた考えからは、遠ざかるおん者である」からである(知1・5)。記憶をからにすることによって、ただ煩悩からまぬがれるだけでも大きな徳であり宝である。なぜなら、それとは反対のことがらによって生ずる苦しみ、悩みというものは、煩悩を静めるために何の役にも立たず、それどころか通常ただ霊魂を傷つけるだけだからである。自ら心を乱すことは、何の役にも立たないことであり、いつも空しいことであるのは明らかである。故に、すべてが失敗に終わり、破壊され、反対の結果になるとしても、自ら心を乱すことはむなしいことで、それはいやすよりも、むしろ害を与えるものである。いつも静かな落ちつきをもって、すべてを耐えしのぶことは、多くの善を得るために役立つだけではなく、同じ逆境にあっても、それらについて、よりよい判断を下し、適切な救いの手をさしのべるものである。したがって、こうしたことの弊害と益とをよく知っていたソロモンは「人間にとって、よろこぶことと、生涯善をなす以上に優れたものはないことを知った」と言った(シラ3・12)。このことから知るべきことは、どんな場合にも、たとい逆境にあっても自身心を乱すよりも、まず喜ばなくてはならないということである。すなわち、どんな富よりも大いなる宝である心の落ちつきと平安とを、逆境のときも順境のときも、常に一貫して失わないことである。もし、ただ、あれこれと考えたり思ったりすることなく、またそれらを忘れ去るだけではなく、聞いたり見たり交わりをもったりすることから、できるだけ身をひいているならば、人はこの平安を失うことはないであろう。というのも、われわれの本性はきわめて弱く、もろいものであるため、心を乱したり、気持を動かしたりするものがあれば、それらを思いだすことにより、つまずきにならないことはあり得ないからである。そこでエレミアは、次のように言っている。“記憶を呼びおこすときわが魂は痛みのために力を失う”(哀3・20)と。