5 記憶から生じる弊害について③善の喪失

記憶に伴う知覚のために、霊魂に生ずる第三の弊害は、倫理的な善を妨げ、霊的善を奪いとる善の喪失にある。倫理的善は、欲望に轡(くつわ)をはめ、軌道を逸した欲求を抑え、つづいて霊魂に生ずる静かさと平和、落ちつきと徳のことである。この制御や抑制は、いろいろの愛着を生ずるものを忘れ、それらから自分を離さなければ獲得することができない。それに、記憶によって何かをとらえていないならば、心のうちに何の騒ぎも生ずることはない。なぜなら、そうしたことを忘れてしまうならば、平安を乱すものも、欲望を動かすものもないからである。人は見ることのないものを心が望むことはないからである。また経験が知っているように、われわれは何かを考えるごとに、その知覚に応じて多少とも動かされ、変化をうけるものである。知覚が重苦しいものであれば、悲しみが生じ、快いものであれば、欲望やよろこびが生ずるなど。したがって、その知覚の変化によって、心の乱れが生じることになる。あるときには悲しみ、あるときには憎しみ、あるときには愛するというように。これらのことを忘れるよう努めないならば(心の静けさから生みだされる)いつも変わらぬ一貫した態度を保つことができない。故に、それらの知解が、倫理徳の宝をはなはだしく妨げるものであることは明らかである。そのようなことで埋められた記憶が、霊的な宝をも妨げることは、上に述べたことから明らかである。なぜなら、そのように変質した霊魂は、倫理的善の基礎をもたないため、その状態に止まるかぎり、霊的宝をうけとる力がないのであって、霊的宝は落ちついた平和な魂のうちにのみ刻みこまれるものなのである。その上、人間というものは、ひとつのことにしか注意を向けられないのに、いろいろのことにとらわれているなら、測ることのできないお方である神のために、自由であることはできない。なぜなら、神に達するためには、理解によるよりも、理解することなしに歩まなくてはならないからである。すなわち、変わるもの、理解されるものは、変わらないもの、理解できないものに、その席を譲らなくてはならない