欲望が霊魂に与える損傷

1、欲望は心に、神を受け入れにくくさせる

ものの自然発生において、以前からあるものに、反対の性質のものが入ろうとすれば、一つのものの中で、二つのものがはじき合うため、前のものを追い出さなくては、他のものがはいれない。これと同じように、私たちの心に、二つの相反するものが共存することはできない。だから、我々の心は、神ならぬものの欲望に占められれば、占められるほど、神を受け入れる力に乏しくなる。また、神ならぬ欲望に全く支配されているなら、神を受け入れることはできない。

2、欲望は心を”疲れさせ”、”悩ませ”、”暗くし”、”汚し”、”冷淡に”させる

欲望が心を疲れさせる:欲望は、母にあれこれねだって、決して満足しない子供のようである。欲望を追い求め、今手に入れたと思っても、それで心を充たすことができないため、すぐ次のものへと追い求める。すぐ次のものへ欲望と、その欲望を満たすことでいっぱいになっているものは、そのために生ずる大きな空虚感と飢えのために、疲れるばかりである。何か地上的なものに、その欲望を満たそうとしても、満たされることはない。なぜならば、満たすことのできる唯一のものを捨て去って、飢えを、ますますひどくするものをもって自分を養おうとするからである。

欲望が心を悩ませる:欲望に心が支配されるなら、縄で縛られ、その縄がほどかれるまで休むことができない人のように、心が欲望という縄によって縛られ、かつ苦しめられる。また、裸で、棘(とげ)や針の上に身を横たえるものと同じように、われわれの心も欲望によりかかるならば、同じように苦しめられ、責められる。欲望は、心を棘のように傷つけ、悩まし、まといつき、痛みを与えるからである。

欲望は心を盲目にさせる:欲望は、それ自体としては盲目なものであるから、われわれの心を盲にし、また暗くする。なぜなら、欲望自身に、知恵がある訳でなく、盲の手引きになるものは、常に理性だからである。したがって、心が欲望に引きずられるとき、いつも盲になってしまう。これは、目の見えるものが、盲に導かれているということになり、結局二人とも盲というのと同じになってしまう。その結果として、「盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう」(マタイ15・14)となってしまう。欲望は、霊魂にたいして、欲情を燃え上がらせ、理性をくらませる。この理性の目がくらんでしまう原因は、目の前に本物でない光を置くために、視覚はその中間に置かれたものだけに囚われて、他のものが見えなくなってしまうからである。欲望は、霊魂の非常に近いところにあるため、人は、その最初に出会う光にぶっかって、その中に糧を求めるために、欲望による惑わしが、すっかりなくなるまで、明らかな理性の光を見ることはできない。

欲望は心を汚す:「瀝青(チャン)にふれれば汚れる」(シラ13・1)と。何か地上的な何かで欲望を満たすとき、瀝青にふれることになるのである。たとえ最上のものであろうと、地上的なものと霊魂の尊さとの間には、輝くダイヤモンドや黄金と瀝青との間にある差異よりもさらに大きな違いがあるため、賢者は、地上的なものを瀝青に例えているのである。金やダイヤモンドを熱して、それを瀝青の上におくと、熱が瀝青を溶かして引き寄せるその度合いに応じて、金やダイヤモンドがみにくく汚いものになるように、霊魂が何か地上的なものに対する欲望に燃えると、その欲望の熱が、不潔なもの、汚れたものとを、自分の中に引き入れるのである。たった一つの乱れた欲望でも、その一つの欲望だけで霊魂を奴隷と化し、汚し、醜くするには十分であり、それが浄化されない限り、決して神との一致には至ることはできないであろう。とすれば、まったく乱れきった欲情のもつれの中にからんでいるものの醜さはなおさらのことで、神のきよらかさから何とかけ離れていることであろうか。まことにあわれむべきものである。なぜなら、義人の魂が、心の方正という、たった一つの完全さをもってだけで神に対して、各々がいだく愛情のさまざまな違いから形を異にする好ましい無数のすぐれた賜や、真に美しい多くの徳を持っていると同じように、乱れた心の持ち主は、地上的なものに対するさまざまな欲望のために、欲望が霊魂のうちにその傷跡を残す種々の惨めな不潔といやしさをもつことになるからである。

欲望は(徳の実行において)冷淡にさせる:欲望は、霊魂を冷淡にさせる。そのため人は、徳に努め、また、徳を失わないように保つ力をもたなくなってしまう。というのは、欲望で力が分割されるという事実のために、ただ一つのことに集中することよりも弱くなってしまうからである。事実たくさんのものに力が分けられれば分けられるほど、個々のものに振り当てられる力は弱くなる。逆に一つに結びついた力は、分散された力より強い。したがって、意志の欲求が徳以外のものに分散すれば、徳に対して一層弱くなってしまうことは明らかなことである。いくつかの小さいことに気を散らしている心は、ちょうど底漏れがして、ちっともたまらない水のようなもので役に立たないのである。ダビデはこのことをよく知っていて、「わたしはあなたのために力を保つ」(詩編58・10)と言っている。すなわち、わたしの欲求のすべてをあげて、あなただけに集中するため、自分の力を保っておくということである。