4 記憶が生じる弊害について②悪魔が霊魂におよぼす弊害

何かのことを忘れないでいるために、霊魂に及ぼされる第二の弊害というのは悪魔からくるもので、悪魔はこれによって、霊魂に大きな力を及ぼすことになる。というのは、何かのイメージや知解や推理をもって、あれこれと次々に心を煩わせることによって、傲慢や貪欲や、怒りや嫉妬などで心を汚し、さらに正しからぬ憎しみ、むなしい愛を吹きこみ、さまざまの形で欺くことかできるからである。また、悪魔は、これらのことを、誤りがほんとうのように思われ、ほんとうのことが誤りにみえるように、妄想に刻みつけてしまうからである。要するに悪魔が、霊魂に対してなす大部分の欺瞞や悪は、むだな思い出をあれこれとめぐらすことによって入りこんでくるのである。したがって、これらのすべてのことに対し、記憶の目を閉じ、すっかり忘れきってしまうなら、悪魔からくるこれらの弊害に対し、完全に門を閉ざすことになり、これらすべてのことから心を解き放つことができるわけで、これは大きな宝である。というのも、悪魔は、精神機能の動き、ことに他のすべての機能の働きのよりどころになっている知解をとらえなければ、霊魂に対して何もできないものである。したがって、記憶がすっかりなくされているなら、悪魔は何もできないわけである。というのも、そこに何も見出すものがないため、何もなければ何もできないわけである。霊的な道をゆく人々が、余り記憶を用いすぎるため、それによって悪魔がどんなに多くの弊害を及ぼすかということを、よく分かってくれるように望む。神について考えるにせよ、あるいは、この世のことにせよ、そのために何と多くの悲しさや、悩みや、悦びをとりだすことになることか。また、その心に何と多くの不純の根をさしいれ、非常に高い潜心から心を散らせることであろうか。高い潜心とは、精神の働きによって、至善のものではない目にとまるすべてのものから心を切り離して、すっかりそのまま、測り知れぬ善のうちに心を定めることにある。もちろん、そのように記憶をむなしくしたからといって、必ずしも、神のうちに自らを定めることにはならないかもしれないけれども、多くの悩みや苦しみ、悲しみからのがれ、不完全や罪からひき離されるというだけでも、大きな宝である。