16 第三の徴、愛にみちた瞳をそのまま神に向けるとは何か

第三の徴は「全体的把握の形をとる知解」ともいわれる。そして、それは非常に細かく微妙なもので、特にそれがまじりけのない純粋なものであればあるほど、より完全であり、霊的であり、内的であればあるほど、その知解にとらえられていながら、それに気づかず感じないでいるということである。そして特に理性や感覚がとらえることができるような知識や、個々のものの理解から離れている霊魂に入るときにはもっと明らかである。

そのような霊魂は、通常、理性や感覚の力で通常とらえていないため、それを感じなくなるわけで、感覚的なものが霊魂になくなってしまったからである。またそのような霊魂が、より純粋で、完全であればあるほど、理性にとっていっそう感じ取られにくいものとなり、ますます暗く思われるのはこのためである。

このことは、次のたとえによってよく分かる。

窓に射し入る太陽の光を観察していると、この光線は、空中に微粒子や塵埃がみちていればいるほど、われわれの目にははっきりと見てとることができる。だがそのときには、光自体はその微粒子や塵埃でみちているため純粋でもなければ、すっきりしたきれいさを持つ完全なものでないことは明らかである。ところで、これらの微粒子や塵埃がなくなり、すみきってくればくるほど、光線はとらえにくくなり、肉眼にはうつらないことになってくることをわれわれは知っている。つまり光がすんでくれば、いっそう目につかず、とらえられなくなるということである。それでもし、さらに微粒子や塵埃が、全くなくなり、すみきってしまうならば、そうした光線は目に全然うつらなくなり、とらえることはできなくなるはずである。そこには、視覚の本来の対象となるものがないかあらである。すなわちそこで目につく何ものもないというのは、光というものが視覚の本来の対象ではなく、目に見えるものを照らし出してくれる媒体だからである。したがって、光線または光が反射されるべき、目にとらえることができるものが、そこにないということは、何も見えないということになる。とすれば、もし光線が一方の窓から入り、何か、ものの形をもつものに全然つきあたることなしに、他方の窓から出てしまえば、何も見えないはずである。それにもかかわらず、そのときの光線そのものは、そこに目に見えるものが一杯にみちていて、非常にはっきりと感じられるときよりも、ずっと純粋ですんでいる。

これと同じようなことが、知性という精神のひとみに対する霊的な光について言えるのである。今ここで話している「全体的把握の形をとる知解」とその光とは、超自然的で、すべての知的なイメージから洗われて非常に純粋で澄み切っているため、知性の中に入っても、知性はそれと感じもせず、気づきもしない。それどころか、ときには(その光が極度に純粋である場合には)知性の目をくらませてしまうのである。そのとき、みなれた光や、形や、イメージなどから知性は遠ざけられてしまって、知性自身真っ黒になることが感じとられる。しかし神の光がそれほどの力をもって、霊魂の中に入りこんでこない場合には、霊魂はそのような闇を感じないし、さりとてその光もとらえず、右を見ても、左を見ても霊的自身が見ているものを実際につかめないでいる。

そこで心は、時に何か自忘自失の状態に陥ったような気がする。どこにいたのか何ごとが起こったのかも分からず、時のすぎたことにも気づかないくらいである。そのため、長い間すっかり自分を忘れていても、われに帰ったときには、一瞬もたっていないような、また、事実何事もなかったようにしか思えないことがある、この自己忘却の原因は知解の単純さのためである。今まで感覚とか記憶を通じて霊魂は、時間のうちに働いていたのであるが、今この知解にとられて、感覚や記憶による知覚やイメージのごとくを洗いおとされて、ほんとうに混じりけのない澄み切ったものとなってしまうのである。

そのため霊魂は、自己を忘れ、時のすぎるのを忘れてしまう。そこで、祈りが長く続けられても、つかの間のこととしか思われないのである。この短い祈りが「天を貫く祈り」と言われるのは、それが文字通り短く、というより時間のうちにはないからである。天を貫くというのは、そのとき霊魂は、天上的知解に一致するからである。

このように、そうした認識に向かって心を高めることであり、すべてのことがら、およびそのことがらについての形やイメージや、記憶から引き離されることである。そこで心は、すべての事柄についても、あたかも無知のようになる、というのはただ神だけを知っていて、それも、どのようにしてということは分からないままに。

しかし、こうした知解は、必ずしもこのような自己忘却を引き起こすものであると考えてはならない。実際これは、神が霊魂をすべての自然の機能、霊的能力の働きから引き離してしまわれるときだけ生じることで、まれにしか起こらないものである。

といのは、こうした知解が霊魂のすべてをとらえてしまうのは、いつものことではないからである。今ここで扱っている場合は、知性がこの世のものにせよ、霊的なものにせよ、何か個々の認識からひき離されて、どんなことをも、それについて意志が考えたいという要求をもたないというだけで十分である。というのは、それは心がすでにそれにとらえられている印だからである。