3 記憶から生じる弊害について①世俗的弊害

記憶から生ずる知解や推理を用いようと望むものは世俗的な弊害を被る。世俗的弊害とは、知解や頭の働きがつくりだすさまざまな弊害のことで、例えば誤謬や、不完全、欲望、判断、時間の浪費、その他、多くの不純を霊魂のうちにつくりだすものなどである。そうした知解や頭の働きに席を譲るなら、多くの誤謬に陥ることは明らかなことで、真実が誤りに見え、確実なことが疑わしく見え、またはその反対のことが生ずる。なぜなら、われわれは、ひとつの真理にしても、それを根底から知るということは不可能だからである。したがって、すべての知解や頭の働きにおいて、記憶を暗くしてしまうなら、そうしたことから全く解放されるであろう。聞いたり、見たり、触れたり、嗅いだり、味わったりするその中に、記憶をとどめるならば、その度に不完全が伴う。そこでは何かの執着が生ずる。そして、苦痛とか、恐れ、憎しみ、あるいは、むなしい希望や、はかない喜び、虚栄心などがでてくるものである。これらはみな、少なくとも欠点といわれるもので、たいてい、かなりの小罪である。こうした知解や頭の働きは、神に関することであっても、霊魂の中に、多くの不純さを目につかないほど細かく浸み込ませる。さらに、不純な霊魂から当然欲望が出てくるので、この最初のものは上記の知解や推理から自然に出てきたことである。だから、そうした知解や推理をもちたいと思うことは、それだけで欲望と言えるのである。また、あれこれと心に思うことが少なからず出てくるのも当然で、他人の善悪について何かと記憶を働かさざるを得ないことになり、時に、悪いことがよく見えたり、善いことが悪く見えたりするものである。すべてのことについて記憶の目を閉じ、暗くしなかったならば、これらすべての弊害から誰も免れることはできない。もし、そうした知解に気をとめるなら、すべての弊害に打ち勝つことはできない。というのは、そうした知解には、無数の不完全なものや横着なものが入っていて、そのあるものは目につかないほど非常に細かく、知らぬ間に霊魂にくっつくものだからである。故に、そうしたものを一挙に始末してしまう最も優れた方法というのは、すべてにおいて記憶を否定してしまうことである。これは、神がその人に恵みをお与えになるための有益な神についてのすぐれた考えと思いを失わせることにならない。なぜなら、神の恵みをうけとるために一番有益なものは心の純潔で、それは被造物や、この世のものに対する愛着に心が囚われないことである。被造物に対する愛着は、精神機能の働きの本来の不完全さのために、ひどく心にねばりつくものである。したがって、神にお語りになってもらう優れた方法は、そうした精神機能を沈黙させ、静めることを学ぶことである。記憶によって神のことを考えず、思いもめぐらさないことは、散心と心のゆるみが生ずることに導かない。なぜなら、記憶がこの世のことからも、あの世のことからも離れて心をひそめているならば、何か悪いこと、散心、気まま、不徳なことがらなど(これらはみな、記憶に浮かびあがることによって、いつも生ずるものである)が入ってくるにも入って来ようがないからである。もし、高いことについての考えや思いに門を閉ざし、低いことに対して門を開くならば、そのようなことになるが、そのようなことが起こり得るすべてに対して門を閉じ、記憶を静めるならば、心の耳だけを神に向かわせ、預言者とともに、「どうぞお話しください。僕は聞いております」(サムエル上3・10)と言うことができる。したがって、何も心配することなく、自らを閉じるがよい。戸の閉じられたままの部屋に、体をもってその弟子たちのいるところにお入りになった主は、かれらに平安を与えられたのであるが、このようなことかあり得ることを弟子たちは知りもせず、考えも及ばなかったのである。そのようにわれわれが分かりもせず、またそうなるよう働きかけもしないのに、われわれの霊魂の中に、その御方はお入りになる。だから、記憶も理性も意志も、すべてその機能に触れるものから、その門を閉じると、預言者の言うように、まるで大河のように平安がわれわれを訪れ、われわれを充たし、すでに自分は失われたか、あるいは失われようとしているという恐れを与えていたすべての不安や暗闇や疑惑の雲がとりさられてしまうのである(イザヤ48・18)。