33 超自然的に生ずる内的な感動から、知性がうけとる知覚について

超自然的に生じる内的な感動から、知性が受ける知覚という霊的感情は、二つの形のものがある。第一は、意志の動きのうちにある感情であり、第二は霊魂の実質のうちにある感情である。そのいずれにもいろいろの形のものがある。意志にあるものが、神に由来するときには非常に高いものであるが、霊魂の実質より溢れでるものは最も高いもので、大いなる益をもたらす宝である。これについては本人も、その指導にあたるものも、その発生の原因を知ることができず、またどういうわけで、神がこのように大きな恵みを与えたもうかも分からない。なぜなら本人のする業や、そのもっている考えにしても、よし、それらがよき心のととのえになるとはいえ、そのために与えられるというものではないからである。これらのものは神が思召しの人に、思召しのままにお与えになるものである。なぜなら、多くのことを果たした人であっても、その人にこれが、与えられるというわけではなく、はるかにわずかのことしかしていないものに、非常に豊かに与えられることがあるからである。これらの接触のうち、あるものは、明らかな形をとり、早くすぎ去ってゆく。他のものは、はっきりしないけれども、長く続くことがある。このような心の動きは、それが心の動きというかぎりでは、知性ではなく意志に属するものである。しかし、しばしばという以上に大部分の場合、この心の動きから、知覚や、概念や理解が知性に溢れてくるものであるから、この理由のためにだけ、ここでそれらについて言及しておく。いずれにしても、知っておくべきことは、このような心の動きは、それが、意志からのものにしても、あるいは霊魂の実質のうちに生ずるものにしても、ある時には突如として感情がわきおこる神の接触であり、また、あるときには永続的または継続的に、多くの場合概念の把握や理解が知性に溢れてくる、神についての最も高い神の感覚となり、知性にとって最もこころよいもので、そこから湧きでる感情と同様に、何とも名づけようのないものである。これらの知解はあるときにはこれ、他のときにはあれという形で、時には非常に高く。かつはっきりしたものであり、他のときにはそれほど、高いものでも、またはっきりしたものでもない。それは、そうした知解がでてくる心の動きをつくりだす、神との接触と、その接触がもつ性質に応じて異なるものであるからである。信仰におけるこのような知解によって知性を神との一致に導き、注意深く守るためには、これ以上言う必要はない。というのは、前に言った心の動きというものは、霊魂のうちに受動的に生ずるもので、それをうけとるために、自分の側から力を及ぼすというようなことはないように、そうしたものの知解も、哲学者が「受動的」と呼ぶ知性のうちにうけとられるものであるからである。そこでそのようなものについて誤り、その効果を妨げてしまわないためには、知性も、自分から働きかけることなく、その力をそこにはさみ入れないで、ただうけとるという姿勢でなくてはならない。なぜなら継続的な言葉について述べたように、知性を働かすことによって、あの微妙な知解をたやすく乱し、こわしてしまうことになるからである。これらの知解は、こころよい超自然の知的対象であって、そこには自然的なものはゆきつき得ないし、ただうけとるというだけで、それをこちらから働きかけることによってとらえることはできないからである。このようなものであるから、知性が自分で、本来縁のないものをつくりあげたり悪魔がさまざまの誤ったものを伴って入りこんでくることのないように、それを獲得しようとしたり、うけとりたいというような望みをもってはいけない。なぜなら悪魔は前にのべた心の動きによって、あるいはこうした知解に自分を委せるもののうちにさし入れることのできるものによって、さまざまの誤りをひきこむことは実に容易だからである。謙遜に、そうしたことに対してはただ、うけ身に、心を離していれば、神はその謙虚と、離脱をごらんになって、思召しの時にそれらの知解を与えてくださるのである。このようにすれば、神との一致のために、これらの知解がもたらすまことに大きな益を自ら妨げることはない。なぜならこれらすべてのものは、霊魂のうちに受動的になされる神との一致による触れあいであるからである。