32 霊のうちに生ずる実質的な言葉について

内的言葉の第三の種類は、実質的言葉といわれるものである。この言葉は、霊魂に非常にはっきりとした形で刻印されるかぎり、明示的言葉といえるわけであるけれども、その違いは、実質的言葉が霊魂に生き生きとした実質的結果をもたらすものに対し、ただ単に明示的言葉といわれるものはそれほどではない。したがって、実質的な言葉といわれるものはすべて明示的なものであるが、しかし逆にすべて明示的言葉が実質的なものであるわけではなく、今言ったように、それが意味するところのものを、実質的に霊魂に刻印する言葉のみである。例えば、主がある人に、「善良であれ」と言われれば、ただちにしんから善良なものになるようなものである。あるいは「私を愛せよ」と言われたとすると、その人はただちに自分の中にまがいない神の愛をもち、かつ、それを感ずるようになる。というのは賢者が言っているように、「神の言葉は力にみちている」からである(シラ8・4)。したがって神の言いたもうことは、実質的に現実化するのである。福音にあるキリストのことばの力がそれであって、ただ言われたというだけで、病人がいやされ、死者かよみがえったというようなことである。この言葉は霊魂にとって、まことに重要かつ貴重なもので、霊魂にとって、生命であり、力であり、測りしれない宝なのである。なぜなら、これらのたったひとつの言葉だけでも、生涯を通じてなされたすべての善にまさる宝を与えるからである。この言葉について、何をなすべきであり、何を望むべきであり、何を望むべきでないか、何を捨てるべきで、何を恐れるべきかをきめるのは、われわれの側にあるのではない。そこに言われることを実行するのは、われわれの側のことではない。なぜなら、そうした実質的なことばを神が告げられるのは、われわれがそれをするというよりも、われわれのうちに神がなしたもうためであるからである。これが前に言った、明示的言葉とか、継続的な言葉といわれるものとは異なる点である。また、それを望むとか望まないとかいうことも、われわれの分ではないというのは、神がそれをなしたもうために、われわれが望まなくてはならないというものではなく、また逆に、われわれが望まなければ、そうした結果が生じないというようなものでもないからである。ただ自らをすてて、謙遜にそれに任せればよいのである。すてようとしてもならないというのは、それらの言葉の結果が、霊魂の中に実質的に残り、神の宝をもってみたされるからで、われわれはそれに対して受身の形であるため、すべてにおいてわれわれの側からの働きかけは少なくあるべきものだからである。欺かれたのではないかという恐れをもつべきでないというのは、知性も、悪魔も、この中に介入することは不可能で、また悪魔の言葉の影響が永続的に残るまでには、実質的な結果がうけ身の形をとるわけではないからである。もっとも、こちらからすすんで結びつきをつくり、悪魔に身を委ねることになれば、悪魔は霊魂の主として住みこみ、善ではなく邪悪な結果を実質的につくりだしてしまう場合は別である。そのような人は、すでに自分からすすんで邪悪のうちに結びついてしまったために、よこしまな言葉からの結果をたやすく刻みこんでゆくことができるにちがいない。経験によってみれば、悪魔は、よい人々に対しても、さまざまのことにおいて暗示により、したたかな力をおよぼし、大きな結果を生みだすものである。もし、それが悪い人々であるならば、悪魔はそれらの結果を完うすることができるにちがいない。しかし、よい人々においては、それと似たような結果を及ぼすことはできない。なぜなら悪魔のことばは、神のことばとは比べようもないからである。悪魔の言葉は、神の言葉と並べてみればすべて無に等しく、その結果も神の言葉の結果と比較すれば無いのと同じだからである。