31 自然の枠を超えた道によって、霊魂に明瞭に語られる明示的言葉について

内なることばの第二の種類にあたるものは、明示的言葉のことで、これは潜心しているといないとにかかわらず、何かの感覚に頼ることなしに、自然の枠を超えた道によって時に霊に与えられるものである。それを“明示的”というのは、第三者が明瞭にわれわれの心に告げるからで、われわれの精神は何の働きかけもしないからである。これらの明示的言葉というのは、非常によくまとまっていることもあり、時にそれほどでないこともある。明示的言葉が神からのものであるならば、いつでもそうした働きかけをもつ。というのはそのような言葉は命ぜられたり教えられたりすることに、すぐに従う心の用意をつくりだすもので、それも時にはそうしたことに対する嫌気や困難がなくなるわけではなく、かえって、増すことさえもあるものである。神がそうなさるのは、われわれをよりよく教えるため、謙遜と霊魂の益とのためである。このような嫌悪感が残るのは、通常より大いなること、またはその人にとって、特別すぐれたことを命じたもうときで、他方謙遜な卑しいことにはすぐにたやすく動くようにするものである。これらのことばや交わりが悪魔からのものであるときには、逆のことが起こる。悪魔はより価値のあることには、すぐその方に向かうようにさせ、いやしいことには嫌悪を感じさせる。通常神が与えたもう、この明示的言葉に応ずる迅速な態度というのは、あの継続的なことばにあるものとは異なっている。継続的なことばは、それほどに心を動かさないし、迅速な態度を与えるものでもない。というのは、明示的言葉は、更に明瞭であって、知性の働く余地が少ないからである。といっても、時として、ある種の継続的な言葉が、神の霊と人間的なものとの大いなる交わりによって、何かより大きな結果をもたらすということはあり得るけれども、その形は非常に異なっている。この明示的言葉においては人は、自分がそれを言っているかどうかを疑うというようなことはあり得ない。なぜなら、そうでないことをはっきり知っているからで、とくにその言われたことに注意していなかったときにはいっそうそのことが言える。またよくそれに注意していたとしても、それが他から来るものであるということを非常にはっきりとまちがいなく感じとる。すべてこれらの明示的言葉については、他の継続的な言葉と同じように問題にしてはならない。なぜならそのようなことは神との一致のための正しく、かつ直接の道である信仰とはおよそ異なるものによって精神をみたすだけでなく、きわめてたやすく、悪魔に欺かれ得ることになるからである。というのも、言われたことばのどれがよい霊からきたもので、またどれが悪い霊からきたものか、時として見分けることはほとんどできないからである。それは多くの結果をおよぼすものではないから、結果によって見分けることはまずできない。なぜなら、よい霊からの明示的言葉が霊的な人に与えるよりもっと大きな影響力を悪魔はそれによって不完全な人々におよぼすからである。したがって、それがよき霊からくるにしても、悪い霊からのものにしても、とにかくその言われたことをしようとしたり、それを問題にしてはならない。そんなときには円熟した聴罪司祭または弁別力の鋭い賢い人に打ちあけて、教えをうけ、いかにあるべきかを知り、またその勧めを聞き、自身は否定的な態度をもって向かうべきである。もしそれほどの道に達した人がみつからないならば、だれにももらさない方がよい。というのは、立派に導いてくれるよりも破壊する人に容易に出会うものであるからである。大いに戒むべきことは、他の人々の意見やすすめを待たないで、自分に告げられた言葉について、自分の考えを表明したり、何かをしたり、それをうけいれたりしないことである。なぜなら、こうしたことには、目につかないほどのこまかい奇妙な欺瞞が伴うものであるからである。このようなことを憎まないものは、そうした多くのことについて欺かれざるを得ないであろう。これらの欺瞞や、危険や、戒めについては、特に、192021において述べたことであるから、それを参照して頂くことにして、ここではこれ以上長く述べない。ただ一言言っておきたいことは。最も大切な教えはそうしたものを問題にしないということである。