2 記憶による知覚から離れることについて

2部において知性を働かせないこと、これからのべる記憶、意志の機能を働かせないことを述べるが、これらは初歩の人にとっては霊的修練において建設的というより破壊的と言われるのは確かである。その人たちにとって、頭を働かせ、知覚に訴えることは必要だからである。しかし、これらは神との一致に至るべく観想に進歩する人のための教えについての説明であることを注意しなければならない。

記憶の自然的知解というのは、聞く、見る、かぐ、味わう、触れるという体の五感の対象によって記憶が形づくることのできるもののことで、他のそれに類した形のものすべてを含む。これらすべての記憶のうちに残るもの、その形づくるものから全く離れ、虚しくなるため、いろいろ想像を働かせることのないように努め、何の跡も、思い出も残さないようにしなくてはならない。あたかも過去に何もなかったかのように、何もかも忘れ果て、すっかり空になってしまわなくてはならない。神と一致したいならば、そうした形から、記憶を全くすて去ってしまわなくてはならない。なぜなら、神は、何かの形をとったり、何かはっきりとした概念としてとらえられるものではないのであるから、神ならぬすべての形のものから離れてしまわなければ、神との一致は不可能だからである。キリストのことばにもあるように、だれも二人の主に仕えることはできないのであって、神と、何かの形や明確な概念とを同時に結びつけることは不可能である。

神は、記憶によってとらえられるような形やイメージをもっておられないのであるから、記憶が神と一致する場合には何の形もイメージもなく、想像も絶えて、記憶は全く忘却のうちに何も思いだすことのない至福の状態におかれる。というのは、その神的一致は、イメージをなくし、形や概念のすべてを一掃し、記憶を超自然へと高めるからである。このことでは、ときどき驚くべきことが生ずる。神があの一致の触れ合いを記憶のうちに与え、記憶がその座を占めている脳の中が、突如強く転倒したかのように感じられ、貧血を起こしたようで、判断や感覚が失われたかと思われるくらいである。そのときには、この一致のために記憶は、すべての観念から離れて浄化され、それらを忘れてしまうのであるが、時に、自分自身をすっかり忘れてしまうため、何かを思いだそうとすると非常な力と努力を要するほどである。この記憶の忘却と想像の停止とは、その神との一致のため、時のすぎるのを覚えずその間に何が起こったかを知ることもなしに長い時を過ごすほどである。想像が停っているため、人が何か苦痛を与えるようなことをしても何も感じない。なぜなら、想像がなければ感情は生ぜず、考えることもないため、考えによって感情が生ずることもないからである。ただ注意すべきは、こうした記憶の停止は完全な状態に達した人においては生じないということである。というのは、そうしたことは、一致の始めにあることだからである。

人は言うであろう。そのようなことはいいように思われるかもしれないが、そのことから生ずることといえば、諸機能の自然の働きや動きを破壊することになり、人は何もかも忘れて動物のようになり、頭を働かせることもなくなり、大切なことや、通常することも思いだせなくなってしまうではないか。神は自然を破壊するのではなく、全うするはずであるのに、ここに必然的な結果として現われてくるのは破壊である。なぜなら、ことがらを思いだすための手段となる観念やイメージを奪われてしまっているため、なすべき道徳的なこと、理性的なことも忘れ、あたりまえのことさえも忘れてしまうからである。これに対しては次のように答えよう。記憶は、神と一致すればするほど、個々の観念はますます高く昇華し、全くの一致に至るときには、すっかりなくなってしまうのである。したがって、この一致が行なわれる当初においては、どうしても万事について全く忘れてしまうわけである。というのも、イメージや観念がなくなってしまうため、外部的なことがらについては、おびただしい過ちをおかすのである。たとえば、食べること、飲むこと、何をしたか、何をみたか、それとも見なかったか、人が何を言ったか、言わなかったかなど、神のうちに記憶が呑みこまれてしまうため、何も思いだせないのである。

しかし、一致が最善の固定状態にまでになると、記憶は、道徳的なことや通常のことがらにおいて、あのような忘れっぽさを保つことはない。それどころか、しかるべく必要なことにおいては、いっそう大いなる完全さをもつようになる。といっても、そうしたことを、記憶のイメージや観念によってなすのではない。というのは、神との一致が不動になると、記憶および、その他すべての機能の、それ本来の働きは弱まり、自然的なところから超自然的な神のところへと移ってゆくからである。このように、記憶か神のうちにおいてその姿を変えてしまうと、事物のイメージや観念は、その跡を残さなくなってしまう。この状態における記憶やその他の諸機能の働きはすべて神的なものとなる。というのは、これらの機能自身が変化してしまうことにより、神はその人の記憶やその他の機能の主として、それらを所有なさるため、神自らその霊と意志に対して、神的に動かし、かつお命じになるからである。それで、霊魂のなすことは、神のもの、神的な働きとなる。したがって、このような人のすることは、すべて時宜に適した、理性に合ったことばかりで、それにふさわしくないようなことは何もしない。なぜなら神の霊は、その知るべきことを知らせ、知る必要のないことを知らないようにし、時にイメージをともなったり、そうしたイメージなしに思いだすべきことを思いださせ、忘れるべきことを忘れさせ、愛すべきことを愛させ、神のうちにないことは愛させないようになされるからである。

(記憶がこの暗夜による浄化のうちに入りこむために必要な戒め)まず、聞いたり、見たり、かいだり、味わったり、触れたりするすべてのことを記憶に止めないようにすることで、必要とあらば、他の人がそうしたことを思いだそうとして払う努力を、逆に忘れることに用いるべきである。まるで、そうしたものはこの世になかったかのように、記憶の中に何の印象もイメージも残さないで、高いことにしても低いことにしても、記憶を何かの考えに結びつけるようなことなく、記憶が、ひとつの邪魔ものであるかのように、そのまま忘れ去り、洗い落として全く自由にすることである。なぜなら、地上的なことは超自然的なことに用いられようとするとき、助けになるより、妨げになるからである。ただ注意しておきたいことは、しばらくの間、考えやイメージをなくしてしまうことによる利益に気づかないとしても、そのために疲れてはならないということである。なぜなら、そのような人を、しかるべきときに神は助けるからである。また、これほど大きな宝のためには、忍耐と希望とをもって堪え忍んでゆかなくてはならない。