28 啓示の第二の形について。それが神との一致に役立つ場合と妨げになる場合。悪魔はいかにここで多くの偽りをなすかということ

啓示の第二の形というのは、かくされた秘義または神秘が外に明らかにされることであるとわれわれは言った。これには二つの形がある。第一は、神ご自身に関するもので、この啓示には、神の聖三位一体の奥義が含まれている。第二は、神のみ業についてのことで、そこにはカトリックの信仰箇条と、それに関連して正しくひきだされる結論とが含まれている。これらの中には預言者による啓示や、神の約束とかきびしい警告、その他信仰に関することで、すでに起こったことや未来に生ずべきことなどが含まれている。この第二の形のものに、神が通常示される他の多くのことがらを含めることができる。例えば世界全体について、個々の王国について、地方のこと、国々のこと、家庭や個々の人間についてのことなどである。これらの啓示は、言葉という手段によってのみ生ずるものではない。というのは、神は種々さまざまの形や方法をお用いになるからで、時に言葉だけにより、また時には印だけのことがあり、形やイメージやそれに類したものだけによってなしたもうこともあり、また時にはそれらのうちのいくつかを同時に用いたもうことがある。この第二の形に含まれる啓示は、神がそのお望みの者に対して、現代でもまだなしたもうものである。というのは、神は、ある人々にその寿命や、将来出会う困難、あるいはしかじかの人やこれこれの国において起こるべき事柄、などを啓示するのが常だからである。なお、われわれの信仰の奥義についても、その真理を明らかにしたり、説明したもうことがある。しかし、これはすでに啓示されたものであるだけに、これを啓示と呼ぶのは適切でないわけでむしろ啓示されたものの明白化、または説明というべきである。この種の啓示に関して、悪魔は大いにその手をさしいれることができる。というのは、この種の啓示は、だいたい言葉やイメージ、その他これに類したものによるから、啓示が霊のみで行なわれる場合よりはるかに容易に、悪魔はきわめて巧みに似て非なるものをつくりだすことができる。故に、ここで述べる第一および第二の形のもので、われわれの信仰に関し、何か真新しいことまたは変わったことが啓示されるならば、われわれはそれを決してうけいれてはならない。信仰のもといをなすものについて啓示されるべき箇条は、すでに教会によってことごとく示されているのであるから、それ以上に新たにわれわれに啓示されるべきことはそのままうけとってはならないばかりでなく、そこに含まれているさまざまのことがらも認めないように戒めるである。たとえ、すでに啓示されていたことが、あらためてまた示されても、信仰の純粋さを保つためにそれが私に啓示されたから信ずるというのではなく、教会にすでに啓示されていることであるからというのでなくてはならない。そうしたものに対しては理性の目を閉ざし、聖パウロの言っているように聞くより生ずる信仰と、教会の教えのみに素直に頼るべきである(ローマ10・17)。以上のことに対して、生じ得る異論については、21及び22において答えておいたので、そのところを参照して頂くことにして、ここではただ、清く、かつ誤りなく信仰の暗夜の中を一致へ歩むためには、そうしたいっさいのものを避けなくてはならないとだけ言っておく。