28 倫理的な宝に心を奪われるために生ずる七つの害について

自分の善業や、よい躾についてのむなしい喜びのために陥るおもな害は七つあり、それが霊的なものであるだけに害もはなはだしい。第一の害は虚栄と傲慢と自負と僭越である。自分の行ないについて喜ぶのであるから、そのことを重んぜずにはおれない。ここからうぬぼれやその他のものが生まれてくるのであって、これは福音書の中にでてくるファリザイ人について言われているとおりである(ルカ18・4)。彼は自分が神に祈り、断食し、善業をなしているといううぬぼれにいい気になっていた。

第二の害はたいていこれに結びついているもので、他人を自分と比較して、その人を悪いもの、劣ったものと考え、人は自分ほどよい行ないをしていないと思い、心の中でその人を軽蔑し、ときにはそれを言葉にだしてさえ言うのである。あのファリザイ人が、その祈りの中で、「神さま、わたしは他の人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではなく、また、この徴税人のような者でないことを感謝します」(ルカ18・11)と言っているのは、このような害をもっていたことを意味する。このように、ただ一つの行為から、二つの害をうけるわけで、その一つは自らを高潔とするもの、他の一つは他人を軽蔑することである。これは今日も多くの人々がしていることで、かれらは、「自分は某のようではない。この人や、あの人のように、こんなことも、あんなこともしない」と言っている。ところがかれらの多くはファリザイ人よりもさらに悪いのである。なぜならあのファリザイ人は、ただ  他人を軽蔑したというだけではなく、具体的に「この収税吏のようではありません」と言っているのであるが、しかし今の多くの人は、他の人がほめられたり、自分より優れたことをしたり、より高く評価されるのをみていらだったり、嫉妬心を抱いたりするからである。

第三の害は、行ないのうちに楽しみを求めることで、普通、その行ないをすることによって、そこから何かの喜びと称賛が続かないかぎり、その行ないをしようとしない。つまり、キリス卜の言われたように、その行ないのすべては、「人に見られるため」(マタイ23・5)であって、神の愛によってのみするのではない。

第四の害はこの世において喜びや慰め、名誉とかその他のものを、その業のうちに求めるため、神から報いをうけることがないことである。これについて主は、「かれらはすでにその報いをうけた」(マタイ6・2)と言われている。それではただ骨折り損のくたびれもうけがあるだけである。そのような人が受けるこの種の害はまことにみじめである。というのは、私の考えるところでは、かれらが公けにする行ないの大部分は、歪んだものまたは全く価値のないもので、かれらが人間的な関心や尊敬を求めていて、神には向かっていかないため、神のみ前において不完全なものとされる。
ある人々が行なう仕事、たてる記念碑についてもそれ以外の何を言うことかできよう。かれらはこの世のむなしい人間的名誉や尊敬につつまれていなければ何もしようとは思わないのである。時々その事実のうちに、自分の名や、家柄や、支配権が永久であることを望み、自分の姓名や、文章を神殿のうちにおくことさえはばからない。あたかも自分の業が、神以上に尊敬され、すべての人々がその前にひざまずく聖像の代わりに自分がおかれることを望んでいるかのようである。実際、そのことのためにのみ仕事をし、そのことがなければしないというのなら、今言ったことが真実である。これはいちばん悪い例であるので、それを除外するとしても、人々は何といろいろの形で自分のする業においてこのような害に陥ることが多い。あるものはその行ないがほめられることを望み、他のあるものは感謝されることを望み、また他のあるものは自分の行ないを語り、あの人にも、この人にも、否世間の人々が全部知ってくれることを喜び、ときとして施しあるいは自分のすることが、第三者の手を通して、いっそうよく知られることを求め、またあるものはその双方を望んでいる。これが、主が福音において仰せになった「ラッパを吹く」ことで、そのようなことをする虚栄のものは、その業のために神から報いを受けることはない(マタイ6・2)。
ゆえにこうした害を避けるため、神だけがそれをご覧になり、他のものは気づかないよう、その行いを隠さなくてはならない。それをただ他人の目に触れないようにするだけではなく、自分自身に対してもそれを隠さないといけない。というのは、自分の行いが何か大きいことであるかのように考えて、いい気になったりしてはならないのであって、これは主が「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」(マタイ6・3)と言われたことの霊的な意味である。つまり、霊的になす業を、この世的な目や肉の目をもってしてはならないということである。このようにして意志力が神に集中されると、その業が神の御前に実を結ぶようになる。
このようにして業は失われないものとなるだけでなく、大きな価値を神の御前にもつことになる。これに関連して次のヨブの言葉が解されなくてはならない。「もしわが口にわが手を触れ、心ひそかに楽しむならば、それはやましきことにして、大いなる罪である」(ヨブ31・26-28)と。ここに手といわれるのは業を指し、口とはその行ないにおぼれる意志のことである。前に言ったように、自分自身におぼれるということから「心ひそかに楽しむ」といっているのである。これは神に対して、まことにやましいことであり挑みである。ヨブの言っていることは、ひそかにいい気になり、心を楽しませたことはないということである。

第五の害は、完徳の道において進歩が止まることでおる。かれらは自分の業の楽しみや慰めにすっかり心をとられているために、自分のしていることや、修練にそうした慰めや楽しみを見いだせなくなると、通常気落ちし、仕事に興味がもてなくなって忍耐を失ってしまうのである。しかしこうした味気なさは、普通神がかれらを進歩させようと思い乳離れさせて、完成した人の堅いパンをお与えになるからで、かれらの力をきたえ、弱々しい欲望を清めて大人の食物を味わわせて下さるためなのである。このことについて、次の賢者の言葉の霊的な意味をあてはめられよう。「死んだ蝿は、油のよい香りをなくさせる」(シラ10・2)と。というのは、これらの人々は何か抑制をしなくてはならないとなると、まるで死んだようにそのよきことをする気を失い、なさずじまいになって、霊の快い香りや心の慰めの泉である堅忍を失ってしまうからである。

次に第六の害は、通常自分に気にいらないことよりも、気にいることや業を、いっそうよいものと考え、そのために欺かれることである。そして後者をほめ、高く評価し、前者を軽蔑する。一般に、自分の慰めを見出し、そこでいっそう時分自身を探しやすいような業よりは、自分を抑えることが(ことに完徳に進んでいないとき)神のみ前において、最も喜びとなる大切なことである。というのも、自分を抑えることで人は自らを捨てるからである。これについてミカヤ(7・3)は「自らの手をもってする悪を善という」と言っている。これは、かれらの業は悪であるのにそれを善ということである。このようなことになるのは、かれらが喜びを自分の業のうちに見出し、その喜びを、神のみ旨にかなうことのみに求めようとしないからである。このような害が、一般の人々においても、霊的な道を歩む人々においても、どれほど支配的であるかは、枚挙にいとまがない。というのも、慰めとか、興味とか、その他の関心に全くひかれることなく、純粋に神のために働くというだけに動かされる人はほとんど見出すことができないからである。

第七の害は、そうした倫理的な行ないにも感ずるむなしい楽しみを打消さないなら、なすべき業に対して与えられる勧告や正しい教えを受け入れるだけの包容力がなくなるということである。なぜなら心の脆さのため、そのむなしい喜びにしばられて、他人の勧告をよりよいものと考えず、たとえ、よいものと思っても、それに従うだけの勇気をもち合わせないのである。こういう人々は、神と隣人に対する愛において非常に弱い。なぜなら自分の業に対してもつ自己愛がその愛徳を冷却させてしまっているからである。