27 知性による真理の認識について。その二つの形があることと、それに対してとるべきわれわれの態度について

真理のありのままの認識は、創造主について、そして被造物についての二つがある。

神についての認識について
これは、非常に甘美なものであり、その快さは何ものにもたとえようがない。というのも、これは、神ご自身についての認識であり、神ご自身の甘美さであり、これらの認識は、直接神に触れるもので、神の何かの属性、例えば、神の全能とか、あるときには神の強さとか、またあるときは、その慈悲と優しさを非常に強く感じるからである。それを感じるごとに深く心に刻みこまれるのであるが、それは純粋な神の観想であるから、それについて何かを語ることは全く不可能である。ただその時に感じた、溢れるような喜びと実りの言葉を言わせるだけで、味わったもの、感じたものを言葉で他の人々に分からせるものではない。ダビデは、これを経験しながら、普通の一般的な次のようなことばで言っているだけである。「主の裁きはまことで、ことごとく正しい。金にまさり、多くの純金にまさって望ましく、蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い 」(詩19・10-11)と。モーゼについても同様で、かれの前を神が過ぎたとき、神についての非常に高い認識を与えられたのであるが、やはり普通のことばをもってそれを表現した。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す」(出34・6、7)と言った。当人は、自分の感じたことについて何も言い表していないことをよく知っている。なぜなら、それを表現する適切なことばがないからである。聖パウロも同じく、この神についての高い認識をもちながら、それについて何も言おうとはせず、それについて人間に話すことは許されていないというだけであった。神についての認識は個々に言い表すことは決してできないし、このような認識は、神との一致に到達しないかぎりもつことができない。なぜなら、その認識自身が神との一致そのものだからである。その認識をもつということは、神性とのある接触があるということで、そこで感じられ、味わわれるのは神自身である。といっても、それは天国の光栄の状態にあるように明白なものではないのではあるが、魂の奥底にしみわたる高い認識による接触とそのこころよさとは、非常に高尚なもので、悪魔が入りこむことはできない。もちろん悪魔は猿まねをして、何か立派な、大いなる感覚的満足を与えるものを示し、それが神から来たもののように思いこませるようにすることはできようが、それは神からのもののように魂の奥底までしみいり、これを新たにして、すぐに愛熱の火にもえたたせるようなものにはならない。神が霊魂の奥底につくりだしたもうこれらの認識や接触は、一生かかっても捨て去ることのできない不完全さをすべて、ただの一度で霊魂から洗い去ってしまうばかりでなく、さらに神の力と富とをもってみたしてくれる。このような接触は非常にこころよいものであり、奥底からのよろこびを味わわせてくれるものでる。時にわれわれの側からそれについて余り考えていなかったり、また望まなかったりするときに、神はそうした神的接触をお与えになり、何か神について思い出させるのが常である。それが時に極めてわずかなことがらであっても、突然その接触が生じるもので、それが余りにもするどく感じられるため霊魂だけでなく体までもふるわせることがある。また他の場合には、きわめて静かに、何のふるえもなく、しかし強いよろこびの感情と心の爽やかさを伴うものである。また他の場合には時々聖書、またある時には他のことについて言ったり、また人が言うのを聞いたりする何かのことばに関連して起こることがある。しかし、非常に多くの場合、これらは極めて弱いものであるが、どんなに微弱なものであっても、被造物や神の働きについての他の多くの考察や認識よりも価値あるものである。これらの認識は望むと望まぬに関わらずいやおうなく与えられる。そこでは神がお望みのときにお望みのままにその業をなされることを、謙遜になされるままうけとるだけである。これは、神がそこに導こうとする神的一致の一部をなすものである。我々がよく導かれるには、他のすべての知覚から離れないといけない。というのは神がそれを与えてくださる媒体は謙遜であり、この恵みは、自分に執着しているものに与えられるのではなく、ほんとうに自我をすてた愛をもって神に対しているものに、神の特別な愛によって与えられるものであるものだからである。

被造物についての認識
次に内的真理の認識とヴィジョン(示現)の第二の形というのは、今話したこの形とは非常に異なる。それは神より低いことがらに関するもので、そのことがら自体についての真理および、人々の間に起こるできごとの認識を含んでいる。この認識は、何かの真理が示されると、だれも何も言わなくとも、その心の奥深く入りこむもので、人々が他のことを言ったところで、自身それに同意しようとしてもどうにもならない力をもっているものである。これは、聖パウロが識別する賜と呼んでいるものに属するものである。聖書の中にはっきりした証しがある。そうしたことがらについてもち得る霊的認識について賢者は次のように言っている。「神はおよそありとあらゆるものの正しい知識を与えた。この地上世界のつくり、元にあるもろもろの力、時の始めと終わり、その間のさまざまな変わりゆき、時の終わりとことの移りゆき、時の区切りと年の流れと、星の位置づけ、生けるものの本性と獣の怒り、風の力と人々の思い、さまざまの植物とその根にある力、ありとあらゆる隠されたもの、予想を越えたもののすべてを私は学びとった。よろずのもののつくり手がかく私にその知恵を与えたもうたからである」と。賢者がここで言っている認識は上から注がれたものであり、もろもろの事物にゆきわたるものであるが、この文から十分に証されることは、これらの認識のすべては神が思召しのときに超自然の道によって注ぎいれたもうものであるということである。神が多くの人々に、多くのことについての素質を与えたもうということは真実であるけれども、サロモンの素質のように幅のひろいものではない。たとえば聖パウロが述べているように神がそれぞれお与えになる賜は種々さまざまであって、英知、知識、信仰、預言、心の洞察やその認識、言語の理解力、言葉の説明(コリント前12・8-10)などがあげられる。これらの認識は、上から注ぎいれられる能力で、自然的または超自然的に、神の思召しのままに一方的に与えられるものである。自然的なものと言えば、例えば、バラアンをはじめ、その他の偶像崇拝の預言者、多くの巫女に預言の霊が与えられたようなもので、超自然的には聖なる預言者や使徒たち、その他の聖人に与えられたようなものである。しかし、完徳において進歩している人々は、今ここで話しているような素質、または、ただで与えられる恩寵のほかに、現に今ここにあるものまたはないものについても、はっきりとした光と認識とをもっているのがきわめて普通のことで、かれらは、その照らされ浄められた精神をもってそれらのことを知るのである。このことから、次の格言のことば(27・19)の意味を解することができる。「水面をみつめる顔がそこに映るように、賢いものには人の心はあらわに映る」。賢明な人というのは、すでに聖人の英知をもっている人のことで、この英知を聖書は「賢明」と呼んでいる。それと同じような形で、かれらは時々他のことがらについても知ることがあるが、この浄められた心をもっている人は、多少の差はあるとしても他人の心、または心の奥底にあること、その人の傾きとか才能をきわめて容易にすぐ知ることのできる。外にあらわれるものによって得る認識については、しばしばまちがうことかあり得るけれども、成功することの方がさらに多い。しかしそのいずれにも信頼をおいてはならない。というのは後に言うように、ここに悪魔が実にたくみに入りこんでくるからで、そのためにそうしたものは常に退けなくてはならない。こうしたことがらや事実を知るということも、他の場合と同じように、人が自分の方から何も働きかけることなく、うけ身のまま起こるものである。というのは、当人は、注意が散ってぼんやりしているのに、聞いたり読んだりすることについての生き生きとした理解がその心の中に与えられ、耳にひびく言葉よりもはるかに明らかに聞きとられるものである。この種類の認識や理解において悪魔がなし得る、そして現にしている欺瞞については言うべきことが多くある。というのは、こうした形で入りこむ悪魔の欺瞞は非常なもので、また巧みにかくされているからである。悪魔は、暗示によって多くの知的認識を示し、しかもそれ以外のものはあり得ないかのように、きわめて巧みにそれをいれこむ。もし謙遜でなく、用心深くなかったりすると、無数の偽りを信じこんでしまう。なぜならそうした暗示はしばしば非常な力を霊魂に及ぼすもので、ことに感覚の弱さにくいこんで、その考えを余りに強い確信をもって根をおろさせてしまうときには、それから離れるために非常な努力と祈りとが必要となる。というのは時に悪魔は、はっきりと、しかし偽って、他の人の罪や歪んだ良心、よこしまな魂を示すからで、それも、ただその人を傷つけるため、しかも神に祈ってやるのだというような熱心を装って、そうしたものを明るみにだし、さらに罪を犯させるためなのである。もちろん、神も、時には、心がけのよい人にその隣人の苦しみを示し、神に祈り、またそれを救うようにさせたもうことはある。しかし悪魔はそうしたことをさらにしばしば行なうもので、それもその人の名誉を傷つけ、罪と失望とに陥れるためのたばかりである。また、ほかのことについても実に巧みにそうした思いをつくりだし、信じこませるのである。すべてこうしたものは、神からの場合もあり、そうでないこともあるわけだが、ともかく、そうしたものに頼っているなら、神への歩みのためにそれが役立つということはほとんどあり得ない。それどころか、そうしたものを避けるように警戒しなかったならば、心を乱すだけでなく、さらにそれを深く傷つけ非常な過ちをおかすことになるであろう。だから「不知」によって神に向かって歩むことを望み、そうしたものをたえず避けるべく注意を払わなければいけない。そして常に聴罪司祭にそのことについて語り、その言われたことに従うということ。司祭は神との一致の道をゆかせるためにそうしたことは全然問題にしないように見過ごさせることである。というのは、神から霊魂に受動的に与えられるこうした知覚からは、神のお望みの結果だけが、われわれの側からの努力とかかわりなく、霊魂のうちに残されるからである。