26 感覚的なものについての楽しみを退けることによって受け取る霊的および、この世での益について

この種の楽しみを退けることによってうけとる益は、まことに驚くべきもので、それには、霊的なものと、この世のものとがある。
感覚的なものの楽しみから自分を引き離すことによって受けとる第一の益は、余りに感覚を使いすぎて、さまざまのことに気を散らしていたのが、今では神に自己を集中するようになり、すでに獲得した徳と心とを保ち、育くみ、自らのものにしていくことである。
第二の霊的な益は、感覚的なものについて楽しみを求めなくなることである。これはすばらしいことである。すなわち、感覚的なものから霊的なものが生みだされ、動物的なものが理性的なものとなり、またさらに人間が天使的な道を歩むようになり、現世的、人間的なものから神的、天上的なものが現われるようになる。

というのも感覚的なものの楽しみを求め、そこに満足を求めるような人間は、前に言ったように、感覚的、動物的、現世的と言うより外はなく、それに対して、これら感覚的な楽しみを求めないならば、霊的、天上的という言葉に全くふさわしいものとなるからである。これは明らかな真理で、使徒パウロの言っているように、感覚を働かせることや、五官の力というのは、霊的な働きや力に反するもので(ガラツィア5・17)、一方の力をおさえるならば、他方の力を増すことになるわけで、一方の妨げを受けると他方は成長することはない。そのように神との関連や交わりをもつ、高貴な部分である霊が完全なものになれば、上述のものをことごとく獲得し、霊的かつ天上的な宝や、神の賜によって満たされるのである。以上のいずれも聖パウロの証言していることである。意志を感覚的なものにのみ向けている人間を、聖パウロは神のことを知らない動物と呼び、神にまで意志を高めるものを、神の深いところまで、すべてを見抜き、かつ見定める霊的な人と呼んでいる(コリント前2・14)。このようにして人は神からの宝、霊的賜をうけとるだけの大きな整えをする益をもつことになる。

だが第三にあげられる益というのは、意志の喜びと楽しみが、すでにこの世で、非常に大きなものとなるということである。その益は、主が仰せになったように、この世において、一に対して百が与えられるからである。というのは、一つの楽しみを退けるならば、主はすでにこの世において、霊的にも、地上的にも、百をもってお答えになるという意味である。それと同じように、感覚的なことに対する一つの楽しみからは百の後悔と悲しみが生まれることになる。なぜなら、見る楽しみにおいて浄められたひとみから霊的な喜びが生じ、見るものが神的なものでも、この世のものであっても、その全てが神に向けられるからである。また聞く楽しみが浄められた耳からは、その百倍の非常に大きな霊的喜びが生じ、聞くことが、神的なものであれ、世間的なことであっても、聞くことのすべてが神に向けられる。その他の感覚が浄められた場合もそれと同様である。というのは、原罪以前の状態において、楽園で見ること、話すこと、食することのすべてが、神を味わう喜びを与えていたのは、かれらが、この感覚の部分を理性によく従わせていたためであるように、浄められた感覚をもち、感覚的なことをすべて霊に従わせている人は、最初の心の動きから、神を見つめる快さを引きだす。

このように清いものには、高いことも低いこともよりよいものとなり、ますます清くなることに役立つのにひきかえ、不潔なものは、高いことからも、低いことからも、その不潔さのため、悪をひきだすことになる。欲望の楽しみを克服しないものは、神のお作りになったものや、そのみ業を通して、神におけるすんだ喜びを受け取ることができない。感覚的な生活を送らないものは、その感覚と機能のすべてが、神的観想に向けられている。哲学の正しい教えにあるように、すべてのものは、その本質・生命に従って働くので、動物的なものを克服して、霊的生命に生きているものは、その精神的行為も働きも、すべて霊的生命から出てくるため、何の抵抗もなく、すべてを神に向けていくことは明らかである。その結果として、心の清い人は何ごとにおいても、神を喜び楽しむ、清くすんだ、霊的かつ明るい愛にみちた考えをもつようになるのである。

以上のことから次のように言うことができる。すなわち、感覚的な楽しみからいつも清められ、最初の動きから益をとりだし、感覚的な楽しみを直ちに神に向かわせることができるまで、感覚的な楽しみや喜びを退け、感覚的な生活から心を引き離すようにしなくてはならない。というのもそこに至るまで、まだ十分に霊的でないため、感覚的なものを用うることから、おそらくは、霊的なものよりも感覚のためになるような糧や力をより多く引き出すことになるであろうし、行ないにおいては、感覚的な力が優位をしめ、これがますます感覚を助成し、それを養い育むようになることを恐れなくてはならないからである。なぜならわれらの主が仰せになったように、「肉より生まれるものは肉であり、霊より生まれるものは霊である」(ヨハネ3・6)からである。事実はそうなのであるから、このことをよく考えてみなくてはならない。まだ感覚的なものに対して楽しみを抑制していない人は、感覚的欲望が、精神に力を与えるものなどと考えて、感覚的欲望の働きと力を用いることをあえてしてはならない。なぜなら、霊魂の力はこれらの感覚的な力がないことによっていっそう強くなるもので、感覚的欲望の楽しみを用いるよりも、それを失くすことで得られるものだからである。

この種の楽しみを退けることによってもたらされる光栄の宝について詳しく述べる必要もない。というのは、風のように早く行動する、すきとおった体というような特別な賜を別としても、その光栄は、自己を捨てなかった人々よりはるかに大きなものである。それというのも、神の愛に答える天国の光栄の本質的なものに関することであるからで、上に述べたような一時的ではかない感覚的なことを退けたことによって受け取るものは、聖パウロの言っているように、「重みのある永遠の栄光」であるからである(コリント後4・17)。この楽しみの目を閉じる夜から生じてくるその他の益は、倫理的なものも、この世のものも、また霊的なものも、今ここで述べようとは思わない。なぜなら前に述べた楽しみのうち、いっそう固くわれわれの本性に結びついたものはすべて、それを退けることによって、さらに深い心の清らかさを持つことができるのは言うまでもないからである。