25 超自然の道による霊的示現の二つの形について

体の感覚を通さないで与えられる、霊的なヴィジョン(示現)について述べる。知性のうちにとらえられるヴィジョン(示現)には、二つの形のものがある。ひとつは、その実質において形態的なヴィジョン(示現)、もう一つは形態から切れされた実質のヴィジョン(示現)である。

形態的な実質をもつもののヴィジョン(示現)というのは、霊魂が体のうちにありながら、神から来る超自然的な光により、天にあるもの、地にあるものすべて、その場にないものをも見ることができることである。このことは、聖ヨハネが黙示録第21章の中で述べていることで、天上においてかれが見たエルサレムのすばらしさを語っている。

もうひとつのヴィジョン(示現)、すなわち、無形の実質のヴィジョン(示現)は、超自然的な光を介してみられるものではなく、光栄の光と呼ばれているさらに高次の光によるものである。天使とか霊魂というような無形の実体のヴィジョン(示現)は、この世のものではなく、死すべき体で見られるものではない。というのは、神がこうしたものを、その本質そのままに霊魂にお示しになろうとするならば、霊魂はただちにこの肉の体から出て、この世の生命から離れてしまうことになるであろう。

また、この世のものではないヴィジョン(示現)が、時として瞬時的に現われることがある。そのときには、神が、この地上の生命から精神を全くひき離して、体に対することは神の恵みによっておぎなわれる。聖パウロが天を見たとき「体ごとであったか、体を離れてのことであったか分かりません。神がご存じです。第三天まで連れていかれました」(コリント後12・2)と言っている。すなわち、それをみるところまで奪いとられていってしまったこと、それがなお、体をもってか、あるいは体の外にあってか自分の知るところではない。神がご存じであるといっているのである。これによって明らかなことは、神のなすままに、この地上の生命から逸脱するところまでいったということである。しかし、このようなヴィジョン(示現)は、神の実質そのものに触れるわけで、瞬間であるにしても、極めて稀にしかなく、ほとんど皆無といってよく、また少数のものにしか起こらない。というのは、神は、聖パウロのような、教会の精神や神の掟をしっかりとつかんでいるものにだけ、そのようなことをするのである。

霊的に与えられる形をとった実体のヴィジョン(示現)において、目が自然の光によって形ある事物を見るのと同じように、霊魂は、前に述べたような超自然的に与えられた光を介し、自然の事物やその他のものを神のみ心にかなうように、理性をもって内的にみつめるのである。異なるのはただその形と方法で、知的かつ霊的なものは、肉眼にみえるものよりは、はるかにはっきりと、こまかにあらわれる。なぜなら、神が、このような恵みを与えようとお望みになるときには、前に述べたような超自然の光をお与えになるからで、その光の中で人は、天上のものであれ、地上のものであれ、神の思召しのものを、それが今、目の前にあろうとなかろうと、そのようなことにかかわりなく、たやすく、はっきりと、それらをみるからである。あの光の中で、霊によってみたことがらは、心に深く刻印されて残り、それに注意を向けるたびに、いつでも自分の中に、前と同じようにそれを見る。いちど見たイメージは、時のたつと共に、いく分遠ざかってはいくけれども、全部なくなってしまうということはない。このようなヴィジョン(示現)によって心の中に生ずるものは、静かさと明るさ、輝くよろこび、優しさ、清らかさと愛、謙遜と神に向かう心が高められる。

ところが悪魔もまた、ある自然の光によって、霊魂のうちにこれらのヴィジョン(示現)をつくりだすことができ、心理的暗示をかりて、そこにあるものまたはないものをとりだしてみせる。しかし、悪魔がつくりだすこれらのヴィジョン(示現)と、神に由来するヴィジョンとの間には非常な相違がある。というのは、悪魔からのヴィジョンが霊魂の中にひきおこす結果は、よいヴィジョンがつくり出す結果とは異なり、神との交わりに対する精神の乾燥を生みだし、高慢にさせ、神の愛の謙虚さを生みだすものではないからである。また、これらのヴィジョンのイメージは、あの優しく明るい霊魂のうちに刻印されたイメージと異なり、永続することなく、まもなく消されてしまう。もちろん、それを重んじている場合には、それに対する自分なりの評価があるため、そのようなヴィジョンを自然に思い起こさせることになるけれども、その思い出はひどく味気ないもので、よいイメージのように、それを思い出すたびに生ずる愛や謙遜というような実りをもたらさない。

しかし、これらのヴィジョン(示現)が、神ならぬ被造物に由来するものであるかぎり、そのようなものは神との間に何のつりあいも結びつきもないため、理性にとって、神との一致のための至近の手がかりになるものではない。したがって、そのための至近の道である信仰を通じて進むためには、前に述べたその他のヴィジョン(示現)の場合と同じように、それらに対してきっぱりと拒否の態度をとらなくてはならない。故に、霊魂のうちに刻まれて残るこのようなヴィジョン(示現)のイメージを、記憶の中に集めておいたり、宝のように大切にしてみたり、またそうしたものを心の支えにするようなことがあってはならない。そのようなことをすれば、心に残るイメージや、だれかれのことなどにとらわれて邪魔され、何もかも切りすて、神に向かってゆくことができなくなるからである。そうしたイメージがいつも心に現われるようなことがあっても、そうしたことに関心がなくなれば大して妨げになるということもないであろう。もちろん、こうしたイメージの思い出が、いくぶんなりとも神の愛や観想への励ましとなることは事実であるけれども、そうしたすべてのものから剥ぎ落とされた赤裸々な暗黒の信仰の方が、それがどこから、どういうふうに来るのか分からないままに、はるかに心の励ましとなり、またそれを高めてくれるものである。このようにして、非常に清らかな神の愛に焦がれて、しかも、それがどこから来るのか。どこに根をおろしているのかも分からないままに前進してゆくことになる。あの、すべてのものを洗い落とし、何ものも見えなくなる赤裸、すなわち魂の赤貧によって、信仰が魂の中に深く入りこみ、そこに根をおろすようになると、それと同時に神の愛も、ますます注ぎこまれ根をおろすようになる。すなわち、外から、または中からうけとり得るすべてのことに対して自分の目を閉じ、全く無になるように望めば望むほど信仰が深まり、それに従って、信仰とひとつのものとして成長する愛徳も望徳も、より多く注ぎこまれることになる。

しかし、時にこの愛は、当人自身が気づくこともなく、また感ずることもない。というのは、それは心のぬくもりのような感じの中にあるのではなく、魂の中にしっかり座を占めているもので、以前よりは一層勇気と大胆さにみち、それが心には、感覚にまで溢れ、優しく快いものに感ぜられることがある。そのようなヴィジョンがつくりだし、また生みだす愛のよろこびに達するためには、そうしたすべてのものから離れ、目を閉じるために力と、自らをおさえる愛をもっていなくてはならず、またすべてのものを超えた理解することができない神という、この世では見ることも感ずることもできないものに、その礎をおいていなくてはならない。すなわち、何もかも捨てることによって神に向かってゆかなくてはならないのである。これらのヴィジョンについては、21において、ヴィジョン(示現)および感覚による超自然的知覚に関して説いた教えが同じようにあてはまることでもあるから、ここでまた、同じことを述べ、時間を浪費しないようにしよう。