24 霊的な道によって得られる知性の知覚について

感覚の知覚ではない純粋に霊的な知覚であるヴィジョン(示現)と啓示、霊語と、霊感を論じる。これらを純粋に霊的なものと呼ぶのは(形をとったイメージのように)、体の感覚を通して知性との交わりがあるというようなものではなく、外的、また内的に何か形をとる感覚的把握を通さないで、超自然の道によって、知性にはっきり示されるもので。われわれの側から何かの働きかけや行ないをするのではなく、うけ身のもの、少なくとも能動的なものではない。したがって、この四つの知覚(示現、啓示、霊語、霊感)は、すべて魂の目に見えるものと呼ばれてよい。というのは、理解するとは「見る」ことでもあるからである。したがって、これらの知覚は、すべて知性にとらえられるものというかぎり、霊的ヴィジョン(示現)、霊の目に映るものと言われる。

この知覚によって形づくられる知的把握は、知的ヴィジョン(示現)、知性の目に映るものと呼ぶ。感覚的対象すなわち、見ること、嗅ぐこと、味わうこと、触れることのできるものでも、その真偽のほどは知性の問題である。外部的な形として目に映るものは、肉眼の視覚に訴えるように、心の目である知性にとっては、すべて可知的なものがその同じ役目を果たす。なぜなら、前に述べたように、理解するというのは、“見る”ことだからである。

上記の四つの知覚は、一般にヴィジョン(示現)「目に見えるもの」と言ってよい。こうしたことは、目には光、耳には音というようにひとつの感覚と、その感覚がとらえる対象はきまっている。すなわち、そうした知覚は、感覚の場合と同じようにして現われるものである。それ自体の独特な言い方をすれば、肉眼と同じように心の目をもってみるということであるから、見るという形で知性がうけとるということから、われわれは、それをヴィジョン(示現、目に見えるもの)と呼ぶのである。また、耳が聞いたことのないことを聞くように新しいことがらをとらえ、かつ理解すべく受けとることを啓示と言う。また、耳に聞きとるものを霊語といい、その他の感覚様式、すなわち、霊的な香りや味や、快さなど、超自然的に味わうことのできるものを霊の感覚と呼ぶ。こうしたすべてのものから、知性は、通常の形の想像やイメージによることなしに超自然的な働きや方法によって、直接霊魂に与えられるものを知解としてひきだしてくるのである。

そこで、想像による知覚に対してなしたと同じく、知性をこうした知覚から切離して、信仰の霊の暗夜において、神との神的で本質的な一致にまで導かなくてはならない。というのも、これらのものにひどくこだわることは、いっさいのことからの孤独と剥奪との道を歩む妨げになるからである。実際、こうした知覚は、内的で純粋に霊的なもの、精神的機能または想像力の働き、少なくとも積極的なこちらからの働きかけなしに純粋かつ微妙に与えられるものであるため、悪魔の近づくことのできないものであるだけに、想像力によってつくりだされる形をとったものより一層高尚、かつ有益で確実なものではあるけれども、それが前に述べた道をゆく知性の妨げとなり得るだけでなく、警戒の不足のためにとんでもないことになることがある。

ともあれ、この四つの知覚様式をまとめて、ひとつの結論をだすことができる。すなわち、四つの知覚様式が自分に与えられるべきものであるように思いこんだり、また望んだりしないことである。いずれにしても、あとでこの勧告を実行するに、いっそう多くの光が与えられるためにも、またこれらの知覚について何か言うためにも、今、そのひとつひとつについて個々に論ずるのがよいであろう。したがって、最初のもの、すなわち、霊的あるいは知的ヴィジョン(示現)といわれるものについて述べることとしよう。