24 人が心を動われる宝の第三の形、すなわち感覚的なものについて

さて、今感覚的な楽しみについて論ずるわけであるが、これは心をとりこにするもののうちの第三の種類に属する。ここで注意しなくてはならないのは感覚的なものとは生活において、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚および想像の働きをつくりだす内的にも、外的にも体の感覚に属するものを意味する。これら感覚的な楽しみに対して心の目を閉じ、それを洗い清め、心を神に向かわせるためには一つの真理が前提となる。すなわち、人間の低い感覚的な分野は、今までも述べたように、神をそのあるがままに知ることも理解することもできないということである。たとえば、神または神と思われるようなものを目は見ることはできず、耳は、神の声またはそれらしきものを聞くことができない。嗅覚は、それほど快い香りをかぐことはできないし、味覚はそれほどまでにずば抜けた美味を味わうことができず、また触覚はそれほどにデリケートで快いもの、またはそれと似つかわしいものに触れることはできない。また、神を表すような何かのイメージや映像が、思考や想像のうちに入ることもできない。それでイザヤは「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心が思い浮かびしなかったこと」(イザヤ64・4、コリント前2・9)と言っている。

そこで注意しておくことは、内的に何か神から受け取る精神の側からにせよ、あるいは、感覚に与えられた外的な事物の側からにせよ、ともかく感覚はそうしたものから楽しみや快さを受け取るということである。ところで、今、述べたように、感覚的な部分は、霊的な道によっても、感覚の道によっても、神を知ることはできない。なぜなら、感覚的な部分はそこまで達するだけの力を持っていないため、霊的なことも感覚的なことも感覚の枠内で受け取るだけで、それ以上に出ることができない。したがって何か感覚的にとらえられたものによって生じる楽しみに意志を浸すことは空しく、神にのみ喜びを見出し、神にのみにすべてを与える意志をそぐことになる。感覚的な楽しみは他の場合と同様、それを洗い落し、それに目をつむってしまわないかぎり、「全く神のみに」ということはできなくなる。

感覚的な楽しみを留まらせることは空しいと言ったことに注意してほしい。なぜなら、聞いたり、見たり、触れたりすることに楽しみを感じるやすぐに、感覚的な楽しみから離れ、神における喜びへと心をあげ、神において喜ぶための動機や力となるならば全くよいことだからである。そうした心の動きが敬虔な気持ちや祈りを生み出すものであるならば、避ける必要のないどころか、聖なる修練のために役立てることができし、またそうしなくてはならない。というのも感覚的なものを通して神の方に強く動かされる人もいるからである。

しかし、このことについては、それから引き出される結果を見て、十分慎重でなくてはならない。なぜなら霊的な道を歩む多くの人々が、祈りをし、神に自らを捧げるという美名の下にしばしば感覚の休養をしているからである。それは祈りというよりも休養といわれるべきもので、神よりも自分自身を楽しませている。そこにある意図は神のためであっても、そこから引き出される結果は感覚的な休養であり、意志を高めて神の方に向けるよりもむしろどこか欠けた弱さを引き出すことが多い。

それゆえ、上記の感覚の味わいがどうしたときに役立ち、どのようなときにそうでないかを見分けるための一つの注意書きをここに添えておきたい。すなわち、音楽やその他のものを聞いたり、気持ちよいものを見たり、快いものをかいだり、舌を楽しませたり、触れることに微妙な味わいを覚えたりするとき、いつも、ただちにその第一衝動において思いや意志の動きを神に向け、そこに生じる感覚的な刺激よりも心を神に向けることを喜び、楽しむならば、上記のことから益を引き出している印であり、感覚的なものが霊を助けることになるのである。なぜならそのときに、感覚的なものを作りかつ与えた神に心をあげることになり、神はいっそう愛されるからである。ここで知っておくべきことは、私のいう純粋に霊的な実りをこのような感覚的なものから受け取れるのはそうしたものの与える快い味にもかかわらず、それが欲しいと思わず、またそれに全くこだわることがなく、そうしたものを与えられる神を味わうことだけを思うことである。したがって、感覚的な楽しみのために、心を煩わせず、感覚的なものが与えられるとただちに意志は感覚的なものを通り抜けて後にし、神のうちに自らを落ち着ける。そのような人が感覚的なものがたとえ神にゆく助けになるにしても、それを重要視しないわけは、すべてと共にまたすべてを通じ、直ちに神にゆく敏捷さをもっているため、何も要せず何も望まないまでに神の霊によって養われ、守られ、充たされているからである。もし神にゆくために感覚的なものを望むにしても、直ちにそれを通りぬけ、忘れ、それにこだわっていない。

それに反し上記のことや感覚的な楽しみに対して、精神の自由を感ぜず、意志がそうしたものに味を覚え、そこに糧を見出すならば、それは害を及ぼすことになるから、それを受けとることを避けなくてはならない。というのは神にゆくためそうしたものの力を借りたいと思うのはもっともなことであるが、欲求がそうしたものに感覚的な味をしめるようになると、その結果はそれらが助けになるよりも妨げになり、益よりも害になることは確かであるからである。したがって、このような楽しみを欲しいと思う気持が自分のうちに支配していることが分かったなら、それを殺さなくてはならない。なぜならそれが強くなればなるほど、ますます弱くなるからである。

したがって霊的な道を歩む人は感覚に由来する好みはどんなものにしても、その楽しみが役立つもの、ためになるもの、完全なものになるためには、心の楽しみを神にまで高め、神のためにのみ役に立たせるようにしなくてはならない。どんな楽しみにしても、それがどんなに―見たところ高いもののようであっても―楽しみと名のつくかぎり、このようにして退け、なくするようにしなければ空しいものとなり何の益もなく、かえって、神との意志の一致を妨げることになる。