23 現在、旧約時代のように、超自然の道によって神に問いかけることは、なぜ許されていないか

何か特別なヴィジョン(示現)やことばを超自然的な道でうけとろうと望むことは、非常に神のお気に召さないことである。しかし一方で、旧約時代にはそのような神との交わりがあり、それは正しいことであった。聖書をみると、モーゼはいつも神に伺いをたてていたし、ダヴィド王その他すべてのイスラエルの王も、戦争や困窮の際そのようにし、往時の司祭や預言者たちもそうで、神はかれらにお答えになり語りたもうたが、お怒りにならず、かれらのしたことは正しいことであった。それどころか、そうしなかったなら、それは事実悪いこととなったのである。

それでは、今の新約の恵みの時には、以前のようであってはならないのだろうか。これに対しては次のように答えるべきである。旧約の律法の時代において、神に尋ねることが許されており、また、預言者や司祭も、神からの啓示やヴィジョン(示現)を求めることが、よいことであったというのは、当時はまだ信仰がそれほどしっかり根をおろしておらず、福音の掟がなかったため、神に尋ねる必要があり、神も時に言葉をもって、時にはヴィジョン(示現)や啓示をもって、また時には、イメージやそれに類したもの、またさらに、いろいろのしるしなどをもってお伝えになった。というのも、神がお答えになり、お話しになり、啓示をお与えになったすべて、信仰の奥義か、それに結びつきをもったことだからである。信仰は人間からのものではなく、神の口に由来するものであるから、信仰がまだしっかり根をおろしていないときに、よく分かっていないことに、信仰に方向づけるべく神が答えてくださるように神の口にお尋ねしないといけなかった。

しかし、今恵みの時代となって、信仰がキリストに根ざし、かつ福音の掟があらわれてからは、あのような形で神にお尋ねすべき何ものもなく、また、神も昔のようにお話しになったり、お答えになったりすることはない。なぜなら、唯一のみことば(他のことばというものはあり得ない)である御子をわれわれにお与えになったことによって、この唯一のみことばのうちに、すべてを一度にお語りになり、それ以上にお話しになることはないからである。これが、すなわち聖パウロがヘブライ人に、以前のようなモーゼの律法による神との交わり方から離れて、まずキリストのみに口をそそぐようにすすめようとしたことである。「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、 この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」(ヘブラ1・1、2)と。したがって、今日になってもなお、神に何かを尋ね、あるいは何かのヴィジョン(示現)や啓示を望むような人は、愚かなことをするだけではなく、神を傷つけることになるだろう。というのも、そうしたことは、すべてキリストに目が注がず、他の何か新奇なことを望むことだからである。

神はそうした人に、次のようにお答えになるだろう。「わたしは、わたしのことばであるわが子によって、すべてのことをあなたに話し、その他何も言うべきことをもたないのに、それ以上のことを答えたり示したりすることができるだろうか?あなたはその目をかれの上にのみ注げ。なぜならば、かれにおいてわたしは、あなたにすべてを語り、かつ啓示したのであるから。あなたは、あなたの請い求める以上のものをかれのうちに見出すであろう。あなたは、部分的にことばや啓示を求めているが、かれの上に目を注ぐならば、それを残りなくすべて見出すであろう。というのは、かれは、わたしの言葉と答えのすべてであり、ヴィジョン(示現)のすべてであり、わたしの啓示のすべてであるからである。あなたたちにかれを、兄弟とし、友とし、師とし、値とし、かつ報いとして与えることにより、あなたたちにすべてを語り、答え、はっきり示したのである。わたしは、かつてタボル山において、わたしの霊と共にかれの上に降り、“これが、わたしのよろこびの愛子である。かれに聞け″(マタイ17・15)と言った。この時以来、以前の形での教えや答えから手をひき、すべてをかれキリストに委ねたのである。かれにきけ、わたしは啓示すべき信仰、述べ伝えるべきことがらをそれ以上もってはいない。以前に語ったわけは、あなた方にキリストを約束するためであり、人々が尋ねたのは、すべてのよきものを見出すべきキリストの希望とその願いとに向けられたものであった。だから、今、以前の形でわたしに尋ね、またわたしがそのように話すことや、何ごとかを啓示することを望むならば、それは、もういちどキリストを与えられるよう求めることであり、より以上の信仰をわたしに望むことになり、キリストにおいて与えられた信仰に欠けたところがあることを意味する。このようなことは、わたしの愛子にはなはだしい侮辱を加えるものである。なぜなら、そうしたことは、信仰に欠けるだけでなく、もういちど託身することによって、前と同じ生涯をおくり、同じように死ぬことを、キリストに強いるものとなるからである。今となっては、わたしに請うべきもの、望むべきヴィジョン(示現)や啓示というものはない。あなたが、しっかりとかれを見つめれば、キリストのうちに、その望むすべてのもの、それ以上のものがすでに全うされ、与えられているのを見出すであろう。もし、わたしから、何か慰めのことばをほしいと思うならば、わたしに従い、わたしの愛のために服し、苦しみをうけたわが子をみつめよ。そうすれば、かれが、あなたに、どんなに多くの答えを与えるかを知るであろう。もし、何かの秘められたこと、または何かのことがらをわたしがあなたに明らかにすることを望むのなら、かれの上にのみ目を注げ。そうすれば、かれのうちにかくされた秘義、知識、神の驚くべきものを見いだすことであろう。

だから、使徒パウロは、イエズス・キリスト、十字架につけられたそのおん者の外には何ごとも知ろうとしない、と明言した。もし示現や、神的啓示、形をとった現われを欲するならば、同じく人とならえたキリストを見よ。そうすれば、そのうちに、あなたの望み以上のものを見いだすであろう。