23 自然の宝を楽しまないことによってそこから引き出す益について

自然の宝の楽しみから心を離すことは非常に有益である。なぜなら、神の愛やその他の心構えをつくることを別にしても、謙遜と隣人に対する愛に直ちに席を与えることになるからである。人を欺く、外見の美しさに全然こだわらないならば、神がお望みになる愛をもって理性的かつ霊的に愛することができ、心は自由かつ明るく澄んだものとなる。このように愛するならば、それは神によるものであり、そこには大きな心の自由がある。もし心に執着があるなら、それは神に対する大きな執着である。なぜなら、この愛が増せば増すほどそれだけ神への愛がますます大きくなり、神への愛が増せば、それだけますます隣人に対する愛が大きくなるからである。というのは神のうちにある愛がその人の力となっているからである。

この種の楽しみを退けることによって、他のきわめて大きな益が生ずる。すなわち「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を担って、私に従いなさい」(マタイ16・24)といわれた主の勧めを守ることになるからである。もし、自分の生まれつきの宝におぼれているならば、決してできないことである。なぜなら、自分にこだわっているものは、自分を否定することができず、したがってキリストに従うことができないからである。

この種の楽しみを退けることには、その他の大きな益がある。それは心のうちに大きな平安をもたらし、気を散らさず、五官、とくに、目にしずかな落着きを与える。なぜなら、何も楽しみたいと思わないため、それを見ることも、他の感覚をそこに向けようともせず、そうしたものに引きよせられても、それに囚われることなく、時間も、考えもそんなことに浪費しないからである。心の門である五官を警戒することは、心の平安と純潔をよく守ることであり、それを増すことになる。

この種の楽しみの抑制に進歩した人は、なお他にもこれに劣らぬ利益がある。すなわち何か芳しくないものや考えが、心に残ったり心を汚したりしなくなるわけで、そのようなものに何か満足感をもつ人とはちがう。こうした楽しみを否定し抑制することから生ずることは、霊魂と体、すなわち精神と五官の霊的清さということで、霊魂と体を聖霊の神殿にさせ、それらは神に対し天使のようなふさわしさを持つようになる。もし、生まれつきの美しさや長所におぼれているならば、このようなことはあり得ない。それも何か醜いことを自分から受けとったり、あるいは思いだしたりしなくても、ただ自然の宝を楽しむ心があれば十分霊魂と五官は汚れてしまうのである。それゆえ、「理性に由来するものでない考え、すなわち神に向かって定められている優れた知性より出ずるものでない考えからは、聖霊は遠く離れたもう」(知1・5)と賢者は言っているのである。

なおそのほかにも続いて益が生ずる。というのは、上に述べたような悪や災いから逃れるということを別にしても、多くの虚栄や、数多くの害から身を守ることができ、特に自分についてあるいは他の人についての生まれつき与えられたものを褒められたいとか、それにおぼれたりする人が与える軽蔑を気にしないですむからである。このような人が尊敬する人は、神の御望みになること以外に関心をもたない人である。上に述べた益から、神に仕えるために必要な精神の自由という、きめてすぐれた益が生ずる。これがあれば、誘惑を克服することも容易となり、困難にも立派にたえしのび、徳において非常に進歩することができるようになる。