22 時には、神が、願ったことに答えてくださるとしても、このようなことを神がお歓びにはならないということの説明。

前章にも述べたように、一部の霊的な道を歩む人々は、時に超自然の道によって何かを知ろうと努める好奇心をよいことだと思いこんでいる。それに神は、時には、かれらの願いにお答えになるため、それはよいことで、神もそれを喜ばれると考えている。ところが、たとえ神が、かれらにお答えになったとしても、それはよいことでなく、神がお喜びになってもいないというのが真実である。それどころか、多くの場合、不快にお思いになり、憤りさえ感じておられる。なぜなら、神は人間を支配するため、自然かつ合理的な限界をおかれるのであるから、この限界を出ることを望むのは不当なことだからである。超自然の方法によって何ごとかを調べ、それに至りつこうと望むことは、まさしくこの自然の限界を超えることである。それは許されないことで、神はそれを喜ばれるわけはない。すべて不正なことは、神の憤りを買うからである。では、神がお喜びにならないなら、何のために神は時々そのような望みにお答えになるのか?それは、時々悪魔が答えるのであって、神が答えられる場合には、その道を行くことを望む霊魂の弱さのためであると。しかしこれは、神が、こうしたことや、そういう道によって交わることを喜ばれ、それを望まれるからではなく、それぞれの人の力に応じて恵みを与えられるからである。このことは、次のたとえによって、一層はっきりするであろう。ある一家の父が、そのテーブルの上に、さまざまな食物を山ほどもっているとする。そして、その中のあるものは他のものより上等である。ひとりの子どもがいて、上等の方ではなく最初に目についたものを欲しがる場合、それも、その食べ方を他のものよりよく知っているということから、それを望むわけなのであるが、上等のものは与えても受けとらず、ただ自分の欲しいと思うものばかりねだって承知しないのを見る父は、子どもが食べないというわけにもいかず、悲しませたくもないので、仕方なしに悲しい思いで、その方を与えるようなものである。ある人々が、霊や感覚のやわらかさや甘さを受けとることがあるというのは、かれらが御子の十字架の苦しみという、より強く堅い食物をとるだけの用意がないため、神は、そうしたものをお与えになるわけで、神ご自身は、かれらが他の何よりも十字架をとることをお望みになっているのである。

また、自然を超えた異常な道で、何かを知りたいと望むことは、感覚の中に霊的な楽しみを求めることよりも悪いことである。どんなによい目的のためであるとしても、超自然的な方法で、あえて知りたいと思うものが、どうして罪をおかさずにおれるのか?そのようなことは少なくとも小罪を犯すことで、そうすることをすすめるものも同意するものも同様である。なぜなら、そのようなものはいっさい必要のないもので、自然の理性と、福音の掟と教えがあれば、自己を律してゆくのに十分であり、これによって解決することも救うこともできないような困難なことはないからである。したがって、超自然的に何かのことがわれわれに告げられたとしても、そこから理性と福音の掟にかなっているものだけを受けいれるように、それらの教えだけを心の糧とするようにしなくてはならない。そこで、それらのことがらを受けいれるとしても、それが啓示であるからというのではなく、そうした意味から離れて、ただ理性に叶ったことだからというのでなくてはならない。そして、啓示は、あたかもなかったかのように、否それ以上に、その道理をみつめ吟味しなくてはならない。なぜなら悪魔は、理性に叶うもっともらしいこと、未来に関することなどをたくさん言って、われわれを欺そうとするからである。以上のことからして、困っているとき、労苦しているときには、神はお望みの方法でわれわれのためを計らってくださるにちがいないという希望、そして祈り以外にすぐれた安全な方法はない。