22 自然の宝に心を奪われることによって霊魂に生じる害について

自然の宝を喜ぶときの六つの害
①虚栄心、傲慢と、隣人に対する軽蔑
ある一つを尊敬の目で見るためには、他を自分の目からとり除かないかぎりできない。ここから少なくとも蔑視の気持が生じる。ある一つを大切にするなら、当然心は、他のものを退けて、自分が大切にするその一つのことに集中するので、他のことを軽視することは当たり前である。しかもただ心の中だけではなく、言葉にもそれが現われ、この人はああでないとかこれはこうでないなどと言うことになる。
②官能的な満足や楽しみ、さらに淫らな気持へと誘われる。
③へつらいや、むなしい賞賛のワナにかかり、錯覚と虚栄心のとりこになる。
その人が優しく美しいことをほめたりする場合、それにより他の人をいい気持にさせて喜ばせ、心に愛着や不完全な意図をひき入れてしまう。それで何かの害を受けてしまう。
④理性や霊の意識をひどく鈍らせる。
この賜物は人間に密接しているため、こうしたものを喜ぶことは、すぐに心に響いて、心に深い跡を残し、ひどく意識をマヒさせる。そのため理性と判断は、自然の宝の楽しみのとりこになって、光を失ってしまう。
⑤地上的なものに心を散らす。(④に続き生じる)
⑥生ぬるさ、気のゆるみなどが生じる。(⑤に続き生じる)
その人全体にひろがり、神のことについては非常に退屈で、心の重荷になり、ひどく嫌悪するまでになる。

自然の宝を楽しむ場合、少なくともその始めに、霊魂は必ず心の純潔を失う。そして、いくぶんの霊の意識があるにしても、きわめて感覚的で、粗雑なものにすぎず、霊的なものでも、内的なものでもなく、集中的でなく、霊の力よりも、むしろ感覚の楽しみのうちにある。なぜなら霊は楽しみを求める心の傾きのなかにいるならば、霊は力のうちではなく、感覚の弱さのうちに生きているからである。もっとも、多くの不完全があるにもかかわらず、それとともに多くの徳を持つことがありうるのを否定するわけではないが、これらの楽しむ心が取り除かれなければ、内なる霊は純潔でもなく、また香りのよいものでもない。というのは、そこでは霊に敵対する体が支配しているため、たとえ霊がその害を感じなくとも、少なくともそこには隠れた心のワキ見があるからである。

しかし、今、あの第二の害である官能的な満足や楽しみ、さらに淫らな気持に戻って話さなくてはならない。これには無数の害があり、天性の美しさを楽しむことから生じる不幸が、どこまで行きつくか、またどれほどであるかは、余りにもはっきりしている。なぜなら、毎日このために、多くの人々の死、多くの名誉失墜、多くの侮辱、蕩尽された財産、嫉妬と争い、姦通、暴行、邪淫のほか、地に堕ちた多くの聖なる人々でさえ見ることができるからである。どんなにすぐれた聖なる人であっても、天性の美しさを喜んだり楽しんだりするならば、酒酔いのために麻痺した人のようになる。ここで酒酔いという言葉に注意してほしい。この楽しみの酒に少しでも酔うと、すぐに心はそこに釘づけにされ、酔わされ、まるで酔っぱらいのように理性がくらんでしまう。ゆえにその毒をすばやく消すために、すぐ何かの解毒剤を飲まなければ、霊魂の生命は危険である。なぜならその毒は霊的な力を奪いとり、多くの災いをもたらすからである。われわれはこの毒に対する必要なことは次のとおりである。自然の宝に対するむなしい楽しみに心が動かされるようなことがあったなら、すぐに、神に仕える以外の喜びはどんなに虚しいものであるか、またどんなに危険で、有害であるかを思い起こさなくてはならない。またさらに、天使たちが、自分の美しさや、天賦の賜を喜び、自己満足に浸されたことが、天使たちにとって、どれほど大きな傷をもたらし、そのために暗黒の深淵に堕ちたかをよく考えるべきである。またいかに多くの人々がこの虚栄のために、日々どれほどの害を受けているかを思うべきである。そうならないための方法を詩人は次のように言っている。「始めにまず救いの手を打たなくてはならない。悪が心のうちで大きくなるのを待つならば、救いも薬も間に合わないだろう」と。また賢者は、「酒を見つめるな。酒は赤く杯の中で輝き、滑らかに喉を下るが後になると、それは蛇のようにかみ、マムシの毒のように広がる」(蔵言23・31)と言っている。