21 自然の宝に心奪われることがどんなにむなしいことであるか、したがってそうしたものを通して、どのようにわれわれを神に向けていくべきかについて

ここで、自然の宝というのは、美しさ、優しさ、風采、容姿、その他の体の特質のことで、精神においては、優れた知性とか鑑識眼、その他理性的な特質のことである。こうした自然の宝を自分自身または自分の身近なものがもっていることで喜ぶが、そうした賜を与えられた神に感謝を捧げない。そのように喜ぶことは、「あでやかさは欺き、美しさは空しい。主を畏れる女こそ、たたえられる」(蔵31・30)とソロモンの言うように、むなしい錯覚である。これは、自然の宝に恐れの念をもつべきであるということを教える。なぜなら、そうした宝のために人間は神の愛を忘れ、虚栄心に陥り、欺かれるからである。そのために、「あでやかさは欺き」と言っているのであって、神との一致の道において、人間を欺き、むなしい喜びや、自己満足におぼれ、よくないものへとひきつけられていくからである。また「美しさは空しい」といっているのは、美しさは、美のために神に仕えるときのみに喜ぶべきであるのに、美しさを大切にし、それを楽しむ人間をさまざまの形で堕落させるからである。したがって、こうした賜や、自然の美しさから空しい高慢や極度な愛着が生じ、神に背く原因にならないかと恐れなくてはならない。

それ故、これらの賜に恵まれている人は、それを見せびらかすようなことをして、他のだれかの心が少しでも神から離れてしまう原因とならないように注意しなくてはならない。なぜなら、このような天性の恵みと賜は非常に刺激が強く、誘惑の機会となるので、それに恵まれているものも、それを褒めるものも、心の罠にかからないものは、ほとんどいないからである。こうしたことを恐れるあまり、これらの恵みを与えられた多くの霊的な人々は、こうしたものが自分にとっても他のものにとっても何かの愛着や、むなしい楽しみの原因や機会にならないように、醜い姿にしてくださいと神に祈り求めたものである。

霊的な道を歩む人々は、美しさとか、その他の人性の優れたものなどは、すべて土からのもので、土に帰っていくものであることを思い、その空しい楽しみから、意志を浄め暗くしないといけない。美しさは土および土からの蒸気のようなものである。虚栄に陥らないため、このことをはっきり自覚し、神はすべての地上的なものを超えて、これらすべてをぬきんでた無限の美しさを備えておられることを、喜びをもって考え、心のすべてを神に向けなくてはならない。ダビデの言っているように、「これらはみな衣服のように朽ち果て、神のみ永久に変りなく留まる」からである(詩101・27)。

自然の宝に対して、自分の喜びを神に向かわせなかったら、その喜びは常に間違いであり錯覚である。だからソロモンは被造物に心をひかれそうになるときに言った。「喜びに向かって私は言う。お前は、なぜ空しいものへと私を誘うのか」(シラ2・2)と。