21 示現や神からの言葉にたいして、われわれは間違いやすい

ヴィジョン(示現)や、神からの言葉が真実のものであるとしても、それについて、われわれが、どんなに錯覚に陥り易いものであるかということの説明と論証。—聖書の言葉によって確かめる。

ヴィジョン(示現)や神のことばが、それ自体、真実で確かなものであるとしても、われわれにとっては、必ずしも、いつも真実で確かなものとは限らない。なぜなら、われわれの捉え方に欠陥があり、そしてそれらが常にわれわれが理解するような形で実現するものではないからである。神は、すべてのところにいるので、その預言や語りかけや啓示の中には、通常われわれが理解できるものと非常に異なる道や考えや捉え方が含まれている。そして、それが真実であり、確実なものであればあるほど、かえってわれわれには、そう思われないことが多い。

このことは、聖書の各所にあらわれている。多くの昔の人において、預言や神のことばは、かれらが期待したようには実現しなかった。というのもかれらは、それを自分なりの形で、また、余りにも文字どおりに解釈したからである。このことは、次のことに、はっきり現われている。創世の書(15・7)の中で、神は、アブラハムをカナアンの地にお導きになって後、かれらに向かって「お前に、この地を与えよう」と言われた。このことは何度もいわれたのに、アブラハムはいつのまにか非常に年老いてしまって、しかも土地は決して与えられなかったので、さらにもういちど同じことを言われたとき、アブラハムはそれに答えて、「主よ、わたしが、それをもつようになることを、どうして知ることができますか」(創15・8)といっている。そのとき神は、もつのはかれ自身ではなく、四百年後にかれの子孫が所有することをお示しになった。そこで初めてアブラハムは、その約束を理解することができた。その約束自体、まことに真実であるというのは、神がアブラハムを愛した故にその子孫に土地をお与えになることは、かれ自身にお与えになることに外ならないからである。その解し方においてアブラハムが誤っていたのであった。このように、神の言葉は、それ自体真実のものであるにもかかわらず、それを人々は、正しく解せないことがしばしばあり得る。

判事の書(20・11)にも、次のようなことが記されている。ベンジャミン族の間でおかした悪を罰するため、イスラエル族が集合し戦いをしたことが書かれている。神は、イスラエル族のため、戦いの司令官を指名されたくらいであるから、かれらは勝利を信じて疑わなかったのであるが、戦うにおよんで敗北を喫し、二万二千人の死者を出したときには非常に驚いてしまった。勝利はかれらのものとばかり信じこんでいたため、この敗北の理由を知るよしもなく、終日神のみ前において泣き叫んだ。そこで、再び戦うべきかどうかを神に尋ねたとき、神は、かれらと戦うべきであるとお答えになった。そこでかれらは、今度こそ、勝利は自分たちのものだと信じ、勇敢に出ていったのであるが、この二回目も敗北に終わり、一万八千人を失った。すっかり腰を折られてしまったかれらは、どうしてよいのか分からなくなってしまった。かれらは、神から戦うよう命ぜられているのに、常に敗北を喫し、しかも、数においても力においても、かれらははるかに敵を凌いでいたのである。ベンジャミン族は二万五千七百を越えることはなかったのに、かれらの兵力は四十万にも及んでいた。その実、神のことばに欺瞞があるわけはなく、かれらが、その解し方においてまちがっていたのである。というのは、神は、戦えと言われただけで、かれらが勝利を得るとは言われなかったのであるから。実際、神は、この敗北によって、かれらのうちにある怠慢と傲慢を罰し、へりくだらせようとお望みだったのである。後に、かれらが勝つであろうとお答えになったとき、非常な困難を伴ったのではあるが、勝利をおさめた。このように、神のお与えになったことばや啓示の意味を、文字どおり、表面的にとるために、まちがいを生ずることがある。

事実、イスラエルの多くの子らは、預言者のことばや預言を、ひどくその字句にこだわって解釈した結果、かれらの期待したようには成就しなかったのをみて、それを軽視し、信じなくなってしまったのである。こうして、預言者を侮辱することが、かれらの間では公の言い草となり、ほとんど決まり文句にさえなった。これらの民が預言をあざわらい「待てど、暮らせど」というような嘲笑的な俗言をつくりだした。神がかれらに語りたもうのは、神の口からの教えであって、かれらの教えではなく、他の言葉ではなく、ご自分のことばによるからである。神のことばは、霊によるもので、われわれのことばと大きく異なり、理解が困難であるから、われわれの感じ方やことばで考えようとしてはならない。エレミアでさえも、神の預言であるにもかかわらず、神のことばの意味が、通常人間の感じとるものとは非常に異なるのをみて、かれ自身、何か目まいがするように思ったかのようで、その民を弁護して次のように言っている。「ああ、ああ、ああ、主なる神よ。“あなたたちに平安”と仰せになり、あなたは、この民とエルザレムを欺きなさったのか、まことに剣はその魂にまで及んだのに」(エレミア4・10)と。ところが、神が、かれらに約束した平安というのは、かれらのもとにお遺わしになるはずの救い主によって、神と人間との間に実現するものであったにもかかわらず、かれらはそれを、地上的な平和と解したのである。そのために、戦いや苦難が生じ、かれらの期待とは逆の結果をみるごとに、かれらは神に欺かれたと思ったのである。そのため、エレミアが言っているように、かれらは「平和を待ったけれども、むなしかった」(エレミア8・15)。このように、かれらは、文字上の意味だけをとってことに処したのであるから、まちがわないということは、むしろあり得ないのである。

詩篇71でダヴイドがキリストのことについて話している預言にしても、その他、キリストに関することにおいて文字にしばられているならば、だれが混乱や誤謬に陥らないでいられようか。そこには次のように言われている。「海より海に至るまで、川より地の果てに至るまで統べたもう」(詩71・8)と。また、「貧しいものを力あるものから救い、寄るべなき貧しいものを救いたもう」(詩71・12)とも言われている。ところが、後にキリストが卑賎の身として生まれ、貧しさのうちに生き、惨めな最後をおとげになり、この世におられた間、一時的にも地を支配することなく、ポンシオ・ピラトの権力の下で死ぬまでに、卑しい人たちに服従したことを見ようとは。また、その貧しい弟子たちを、ほんの少しの間さえ、この世の権力から自由にしなかっただけではなく、そのみ名の故に殺され、迫害されるに任せたとは。これらのキリストについての預言は、霊的に解釈されるべきもので、霊的な意味で間違いはない。なぜなら、キリストは神であったが故に地上の主であったばかりでなく、天上の主であったからである。キリストは、かれに従った貧しい人たちを、襲いかかる悪魔の手からとりもどして救っただけでなく、かれらを天国の世嗣としてくださった。このように、神が、キリストおよび、それに従うものについて仰せになったときは、その主要な部分をなす永遠の王国と永遠の自由ということについてであったにもかかわらず、かれらは、神がほとんど問題にしない地上的な支配や、この世の自由ということに準じて預言を理解しようとしたのであった。字句という低いものに盲になっていので、かれらは、霊と文字の真意を解することなく、かれらの神であり主にまします主の生命を奪ってしまう。これを、パウロは次のようにいっている。「エルサレムに住んでいた人々、および、そのおもだった人々は、かれがだれであるかを知らず、安息日ごとに朗読される預言のことばも解しないままに、かれを裁いて、それとは知らずその預言を果たしていたのである」(使13・27)と。神のことばを理解することは非常に困難であって、キリストと共にいたその弟子たちまで思いちがいをした位である。例えばキリストの死後、悲しい思いと不安な気持でエンマウスにむかい歩いていた二人がそうである。「イスラエルを解放してくださるのはこの方だと、わたしは望みをかけていました」(ルカ24・21)と言っている。かれらも、この世の救い、地上の主権者のことと解していたのである。このとき、われらの主なるキリストがお現われになり、預言者たちに言われたことを信じようとしないかれらの心の暗愚と遅鈍と粗野とを責めたのであった(ルカ24・25)。なお、キリストのご昇天の時においても、ある者たちは悟りが悪く、次のように質問している。「主よ、イスラエルのために国を再興なさるのは、この時ですか」(使1・6)と。

以上によって分かるように、言葉や啓示が神からのものであっても、安心することはできない。その解釈の仕方や方法において、われわれは、非常に簡単に、しかもひどい誤りに陥ることができるからである。それらは霊の底知れぬ深淵であるから、われわれの理解や把握の枠の中におしこめようとすれば、それはちょうど空気をつかもうとするか、あるいは、空気中の手に触れる塵埃をとらえようとするようなもので何も残らない。だから霊的指導者は、その弟子が超自然的なことがらの知覚を重大視しすぎて、その霊を小さくさせないように努め、あらゆるヴィジョン(示現)やことばから遠ざかって、精神の自由と信仰の暗黒の中に止まることを学びとるように導かないといけない。遠ざかることによって、精神の自由が豊かにうけとられ、神の仰せになったことの真の理解と英知とが与えられる。というのも、われわれが、霊的でなかったなら、こうした神のことがらを判断したり、正しく理解したりすることは不可能なことで、感覚によって判断するというのは、霊的でないからである。