20 霊的指導者は、前章で述べたようなヴィジョン(示現)について、いかに対処すべきか

前に述べたようなヴィジョン(示現)について、いかに対処すべきか、また、師たるものは、その弟子をどのような形で導くべために必要なことはすでに述べてきたわけであるが、霊的な道を歩む人々だけでなく、その人たちを指導するものも同じく、たとえ示現が神からのものだとしても、それを、すぐに軽々しく信じこむことから生じ得る弊害について説明を加える。

なぜなら、私の見るかぎり、一部の指導者のうちに、示現に対する慎重さが不足していると思われるからである。かれらは、その超自然的知覚が、神からのものであると分かれば、それにすっかり気を許してしまって、大きい過ちと、狭い見識に陥ってしまう。かれらについて、次の主のことばがある。「盲人が盲人を導けば、二人とも穴に落ちてしまう」(マテオ15・14)と。それも、“落ちるだろう”というのではなくて“落ちる”と言われている。

なぜなら、ある指導者たちは、示現を受けた人々に対し、それにこだわらせて道を誤らせ、謙遜によって導かないからである。それで、指導された人々は、信仰の精神を持てず、そうしたことを余り問題にするため、しっかりとした信仰をもてなくなり、自分がそれに関心をもち、重きをおいていることを人々に感じさせるために、指導者と同じことをするからである。そのために、彼らは、示現に心が支配され、しっかりとした信仰を持てずに、しっかり立つことができず、信仰の暗黒のうちに高く舞い上がるために、そのようなことから執着をたち、離れきることができない。

この原因は、余りに心がそのことに奪われているからである。それが感覚に触れるものであり、感覚は自然に感覚的な方に傾いているので、指導を受けた人々は、聴罪司祭、または他の人のうちに、そうしたものを高くかってくれるのを見るだけで自分も同じように考え、知らぬまに、そのようなことに欲望がますますひかれていって、捉われてしまう。ここから多くの不完全が生じてくる。というのは、そうしたことが何か価値のあるものと考え、何かよいものを自分はもっているため、神は私を重んじていて下さると気をよくし、自己満足に陥り、謙遜ではなくなってしまうからである。すると悪魔は、気づかれないように、そういう気持ちをひそかに増し、次に他人はそうしたものを持っているかどうか、そのような状態にあるか、どうかという気持ちを起こさせるようにする。これらは、聖なる単純さ、精神の孤独に反するものである。実際、そうしたものから離れてしまわなければ、今いったような弊害が生じ、信仰においても成長することがない。

だから、もし霊的師父に、啓示のようなもの、あるいは、よろこびをみたすようなものを大事にする心の傾きがあるならば、その霊的師父よりも進歩していない弟子の心には、知らぬ間に、そうした形の甘いいものを刻みこんでしまわずにはいられない。また、霊的師父以上にその弟子が進歩しているとしても、もし弟子が、いつもその霊的師父と共にいるならば、大きな弊害を受けることになる。というのは、霊的師父のもっている心の傾きや、示現に対する好みは、余程の注意をしないかぎり、他のものにも同じような感情を移さずにはいられないからである。そして、もし他のものも、それと同じような心の傾きをもっているなら、互いに意気投合して、ますますこうしたものを見たり、重んじたりせざるを得ないことになるであろう。

多くの聴罪司祭は、その指導をうけるものの欲望を赤裸にさせることなく、示現について、その善悪を見分ける印を示そうとする。それが分かることは結構なことであろうが、このようにして、人々を苦労と心配と危険に陥れなければならない理由はない。なぜなら、そうしたことを捨てて問題にしなければ、そのようなすべてのことから免れて、なすべきことはなされるからである。

ところが、それよりひどいことは、霊的師父が、示現を受けた人を頼みにし、自分自身のことや他人について神が啓示してくれるように神に祈るように願うことである。すると愚かにも指導を受けた人々は、それらを知ることを望むのは正しいものだと考えて、そうするのである。神は、そのお望みのままに、またその望みの目的のために、超自然的に何かを示したり言ったりすることを望んでいるので、われわれにそれを啓示してくださるよう望んだり、またお願いすることは正しいことであるとかれらは信じこんでいるのである。もしかれの願いにこたえて、神がそれをお示しになるようなことがあるなら、ますます確信をかため、神は、お答えになるのだから、それをよろこび、それを望んでおられると思いこんでしまう。

ところが実際には、神は、およろこびにもお望みにもなってはいない。かれらは、こうした神とのかかわり方に執着しているため、すっかりそこに腰を落ちつけ、いい気になって、それでよいと信じきっている。かれらは、およそ自然の好みに従い自分なりの考え方にあわせて、ものごとをたのしんでいるのである。そうして、しばしば道を誤り、かれらが考えていたようには、ことが運ばないのをみて驚く。そこで、全く、志と喰いちがうのをみて、それは神からのものか、あるいは、そうでないのだろうかという疑念が生ずる。

かれらは、始めに二つのことを考えていたのである。第一は、それが、最初、あまりにも気にいるものであったため、それは、神からのものであると考えていたのである。しかし、そうした気持をつくりだすのは、自然の心の傾きだけということがありうる。 第二には、それが神からのものであるのなら、かれらが理解し、かつ考えたとおりに、ことが運ぶべきものであると思っていたのである。ここに大きな錯覚がある。というのは、啓示や神の言葉は、人間が理解した、その言葉の響きのままになるとはかぎっていないからである。したがって、それが、神の啓示であり、神の答えであり、言葉であることを知っているとしても、それに頼って、それを信じこんでしまってはならない。それ自体は確かなもの、真実なものであるとしても、その原因となっているものや、われわれの理解の仕方ということからすれば、必ずそうであるとは限っていないからである。