20 現世的な喜びを遠ざけることによって、霊魂に生ずる益について

霊的な道を歩むものが注意しなければならないことは、この世のことに心を奪われないようにすることである。小事が大事に至ることを恐れなくてはならない。最初にはわずかなことであったものが、終わりには重大なことにまで発展するもので、それは山のすべてを焼きつくすためにはひとつの火の粉で十分であるのと同じである。だから、そうした執着が小さなものであると油断をしていてはならない。まだ始めの小さいとき、それを断ち切ってしまう勇気がなければ、それが大きくなり、根を張ってから、切り倒すことができないからである。主は福音書の中で、「ごく小さなことに不忠実な者は、大きいことにも不忠実である」(ルカ16・10)と言われている。なぜなら小さい執着を退けないものは、それより大きなことを退けることができないからである。心を通して、大きな災いは入ってくるもので、小事にも大きい災いがかくれている。したがって、神のため、キリスト教的完徳のために、この世の多くの益のためにも、前に述べたような楽しみから、心を全く自由にしなくてはならない。なぜなら、それによって、前章に述べたような最も悪質な弊害から免れるばかりではなく、この世の宝に対する楽しみを捨てることによって、寛容という徳を得ることができるからである。また、それ以外に魂の自由、理性の明晰、平安、静けさ、神における落ちついた信頼と神に対する心からのまことの崇敬と礼拝を捧げることができるようになり、地上的にも大きな喜びと憩いとを得ることができる。その喜びは、所有欲をもって地上的なものを見ている人が受けとることのできないものである。なぜなら、所有欲は一種の不安となって、ちょうど繩のように心を地上にしばりつけ、心を自由にさせることがないからである。地上的なものから離れれば離れるほど、地上的なものに対する真理を正しく認識することができる。したがって地上的なものを喜ぶにしても、所有欲にとらえられているものとは甚だしく異なり、はるかに優れたものをとりだす。なぜなら、前者は地上的なものをそのあるがままに受けとり、後者は錯覚によって受けとるからである。また、前者はよいものに従い、後者は悪いもの、前者は実質的なもの、後者は付随的なものによって、地上的なものを感じとるからである。事実、感覚は、付随的なものより奥に達することはできない。しかし、目をまどわす付随的なものから清められた霊魂は、事物の真理と価値をみつめ洞察する。これがその対象だからである。

そもそも楽しみというものは、霧のように判断を曇らせる。というのは愛着がなければ、地上的なものを進んで楽しむということはないわけで、これはちょうど、心の中に愛着をもっていなければ、楽しみという感情をもつことがないのと同じである。地上的なものの楽しみを退けることは霞のはれた空気のようにものを見る目をはっきりさせてくれる。前者はどのようなことについても、とらわれた愛着をもたないため、かえって、それらのすべてを所有しているかのように喜びをもつのに対し、後者は、自分のものとしたいという所有欲をもってみるため、すべてに対し、喜びを全く失うことになる。前者は心のうちに何ももっていないのであるから、聖パウロのいうように、すべてを大きな自由のうちに所有している(コリント後6・10)。それに対し地上的なものに愛着のある後者は、地上的なものが彼の心をとらえているため、彼はまるで奴隷のように苦しみのうちに所有している。地上的なものを楽しみたいと思う人は、その奪われた心の中に、どうしてもそれだけの苦しみと悩みとをもつことになる。地上的なものから離れ去った人は、祈りの時も、それ以外のときも、彼を苦しめる心痛はなく、時間を失わず、容易に多くの霊的宝をつくりだす。それに対し後者は、その心がつながれ、奪われている繩に巻かれて回っているだけで、どんなに努力しても、その心がつながれている思いや楽しみから自由になることはほとんどない。したがって霊的な道をゆく人は、地上的なことに楽しみを覚えるとき、その最初の衝動において、抑制し、次の教えを思いだすべきである。すなわちすべてのことにおいて、ただ神に仕え、神のご光栄のために努めること以外に、人間の喜ぶべきものはなく、そのためにすべてのものを、そのことのためにのみ向け、むなしいものから離れて、地上的なものの中に、喜びや慰めを求めないようにしなくてはならない。

地上的なものの楽しみをなくすることは、他にきわめて大きな利益がある。それは神に対して自分を全く開ききることができるということである。これは神が人間に与えてくださった、すべての恵みを受けとるための、第一の心構えで、この心構えがなければ、神は恵みを与えてくださることはない。その恵みは、福音書で神が約束されているように、たとえこの世のものであっても、そのひとつの楽しみを、神に対する愛と、福音的完徳のために捨てるならば、この世においてすでにそれに百倍する喜びをお与えくださるということである(マテオ19・29)。

しかし、このような利益は別として、地上的なものを楽しむことで神にお与えする不快というだけで、これらの楽しみを心から消さないといけない。現に福音書をみると、長年の生活を支えるに足る宝を蓄えて、楽しい生活をしていたあの富者は、ただ、それだけのために神の大きな怒りを買い、彼に向かってお前の魂は、この夜のうちにも裁きに呼ばれると言われたほどであった(ルカ12・20)。このようにわれわれが空しい楽しみに耽るたびに、神はそれをみて、その当然の報いである罰をお思いになっているわけで、その苦しみは、楽しみの何百倍ものものであることを信じなくてはならない。神は聖ヨハネを通じ、黙示録の中で(18・7)、快楽に耽っていたバビロンのことを話し、それが楽しんでいただけの苦しみと罰とを与えよと言われているのは事実であるが、束の間の楽しみにも永遠の苦痛が与えられることも事実である。神がここにおいてお示しになっているのは、どんなこともそれ相応の罰なしにはすまされないということである。なぜなら無益な言葉を罰する神が、むなしい楽しみをお許しになるはずはないからである。