2の説明

「精神」に属すること「信仰」 すべての霊的不完全や霊的なものについて所有欲というようなものから、われわれの精神を引き離すことを「すばらしい幸運」とうたっている。それが霊魂にとってすばらしい幸運な理由は、精神の部分をなす家がしずまりかえり、感覚的、霊的のすべてのものから心を引き離し、純粋な信仰だけを頼りに、神に向かって道をのぼりつつ内奥の暗黒に入って行くことが、ひどく難しいものだからである。信仰がここで「梯子」、そして「秘密の」と言っているのは、梯子の段をなす信仰箇条は感覚と理性のすべてに隠された目に見えないものであり、信仰という神の梯子を頼りにする。「装いを変え」と言っているのは、信仰によって昇りながら、自然の姿は神的なものに変えられたことを言っている。この世のものにも、理性的なものにも、また、悪魔にも気づかれることのなかったものも、「装いを変え」ためであった。そして、信仰のうちに歩む者にたいして、何ものも、害をおよぼすことはできない。「暗闇の中に」というのは、悪魔に対してのことであり、信仰の光は、悪魔にとって暗黒以上に暗いものだからである。信仰のうちに歩む者は、あらゆる自然に生じる想像や、霊的な分別から抜き出て、信仰を盲の案内者として持ちつつ、その暗黒のなかを歩むため、非常に確かな足どりで進んでいく。「わが家はすでにしずまったから…」は、霊的・知的な部分は、霊魂が神との一致に達すると、通常の精神の機能をはじめ、霊的部分における感覚的な衝動や焦燥がしずまってしまうことを言っている。だから、ここでは、感覚の第一夜のようなときのように、「愛にもだえ」て、ここを出るとは言っていない。前には、感覚の夜の中に入り、すべての感覚的なものから赤裸になって、そこを抜け出るために、愛の焦燥が必要であったが、これに対して、霊の家を静かにするためには、純粋な信仰のうちに、精神的な能力や嗜好の要求が、否定されればよかったのである。こうして、霊魂は単純と純潔と愛の一致のうちに神と結ばれる。感覚的な部分について語っている第一の歌においては「暗い夜」外に出たといっているのに対して、ここで精神的な部分について話すときには、夜よりもさらに暗く、何も見えない「暗闇に」外に出たと言っている。感覚の夜においても同様で、そこには、まだいくらかの光が残っている。なぜなら、悟性と理性とは、そのままそこにあって、盲目になっていないからである。それにひきかえ、信仰という精神の暗闇においては、悟性も感覚も同様にすべてが奪い取られてしまう。そのために、「暗闇の中に、安全に」出たと言っているのであって、これは、前の場合には言われなかったことである。なぜなら人は、自分自身の知恵で動くことがなければないほどに、一層確かな足どりでゆくことになる。というのは、より深く信仰のうちに根差して歩むことになるからである。