19 この世のものを楽しむことによって生ずる害について

地上的なものに心を奪われるために霊魂を襲う弊害は、ちょうど火の粉のように、それが消されなければ、世界を焼き尽くす大きな火になるのにも似ている。すべての善き宝が神に心を奪われることから出てくるのと同様、すべて悪いものは地上的なものと結びつく楽しみや、愛着に心を奪われることから始まる。なぜなら、地上的なものに心を奪われることは神から離れることであり、神から離れるならば、大小の差こそあれ、霊魂に弊害を与えるからである。この弊害には四つの段階がある。そして、その第四の段階に達するとき、あらゆる悪と弊害に至りつく。この四つの段階についてモーゼは申命記の中で巧みに示している(32・15)。「肥え太ったとき、足でけった。あなたはむさぼり食って、肥え太った。創造主である神を捨て、自分の救いである神から離れた」と。「肥え太った」というのは、この地上的な楽しみに自らを浸すことを言っている。

そして、地上的な楽しみに心を置くことで「あと戻りする」という第一の段階の弊害が生じる。「あと戻りする」とは神について心が鈍くなり、神の宝を見えなくすることであり、霊的な道を歩む人が、地上的な何かの楽しみに心を置き、欲望に手綱を委ねるようなヘマをするために生じるものである。これについては聖霊が知書の中で(4・12)「悪の魅力は善を曇らせ、渦巻く欲望は純真な魂をかき乱す 」と教えている。この言葉をもって聖霊が示しているのは、理性の中によこしまな心がなくても、地上的なものに対する欲望と楽しみというだけで、第一段階の害を霊魂のうちに生みだすのに十分であるということである。この第一段階というのは、心が鈍くなることで、真理を理解し、ものごとをあるがままに見る目が暗くなることである。この世のことに欲望や楽しみを置くならば、どんなに聖性や正しい判断をもっていても、こうした害を蒙るのを避けることはできない。そのため神はモーゼを通じて戒め「贈物をうけてはならない。なぜなら贈物は、賢明なものを盲目にするからである」と言われた(出23・8)。これは特に士師に言われたことで、もし贈物に対する強い欲望や楽しみがあるならば、賢明な判断をすることができないからである。そのため神はモーゼに向かい、貪欲を強く嫌悪するものを士師にするよう命じた。このような人は、感情の強い嗜好のために判断を鈍らせるようなことがないからである(同上8・21、22)。また望まないというだけでなく、強く嫌悪すると言われている。なぜなら愛着から完全に自らを守るためには、互いに相反する嫌悪によってそれに対抗しなくてはならないからである。

第二段階にあたる喪失的弊害は、第一段階から生ずるもので、これは上記の引用句からして明らかである。すなわち、「あなたはむさぼり食って、肥え太った」とある。第二の段階というのは、この世のことのために、意志がますます肥満になることである。それは、この世の宝を喜び楽しむことを、それほど気にもせず、悲しみもせず、重大なこととも思わないということにある。これは始めに、楽しみに手綱をゆるめたことから生ずる。というのは、楽しみに身を委せることにより、霊魂は肥満し、楽しみと欲望との脂肪が、ますます地上的なものの中に意志を肥満させ、ふくれあがらせることになるからである。これが大きな弊害を伴ってくることになる。というのはこの第二の段階では、神に関することや聖なる業から離れ、これを喜びとすることがなくなるからで、神ではない他のことを喜び、たくさんの不完全や好ましくないことや、楽しみやむなしい喜びに自らをゆだねることになるからである。この第二段階がいきつくところまでいくと、今まで絶えまなく行なっていた修練を止めさせ、その人の心も、欲求も、すべて世俗的なものに向かわせるようになる。この第二段階にある人々は、まだ第一段階にとどまっている人々と異なり、真理や、ものごとの正しい筋道を知るための判断と理性とを暗くするだけではなく、それらを学んだり、実行したりすることについて、怠惰に陥り、生温く、緊張に欠けている。これは特に霊的な義務に関する場合、罪なくしてはすまされない。なぜならこの段階にある人々は、第一段階にある人々と異なり、よこしまな心がひそまずにはいられないからである。しかもかれらは地上的なものへの執着にすっかりその意志が広がっているため、正義や徳からますます離れていくことになるのである。それだけに、この第二段階にある人々の特色というのは霊的なことに関していいかげんであり、愛ということからよりも、むしろ虚礼からか仕方なしに、あるいは習慣的にしているだけである。

喪失的弊害の第三段階というのは、神を全く捨て去ることであって、神の掟を果たそうと努めず、貪欲のため大罪に陥るままに身を任せることである。この第三の段階は前の引用句につづく言葉のうちに示されている。「創造主なる神を捨てた」と。この段階にはこの世のことや、金銭や商売にすっかり没頭し、神の掟にもとづく義務をまるで顧みない人々のすべてが含まれる。かれらは自分の救いに関することについて全く忘れ、感覚が鈍っているのに対し、この世ことに関しては、全く勢いづいて、頭がよく働く。キリストはかれらを福音書の中で、「この世の子ら」と呼ばれたほどで、かれらは神のことについては無に等しく、この世のことについては万事を心得ている。かれらはまさしく、欲望そのもので、その欲望と楽しみを地上的なものの中に広げる。しかし、その中に渇きをいやす何ものも見つけることができず、かれらを真に充たすことのできる唯一の泉、神から離れれば離れるほど、その欲望と渇きとはひどくなる。これが、この世の宝を愛するためにさまざまの罪に陥る人々であって、その弊害は非常に大きい。これについてダビデは「目は脂肪の中から見まわし、心には悪だくみが溢れる」(詩73・7)と言った。

喪失的弊害の第四の段階は引用句の最後の言葉に示されている。すなわち、「かれらは自己の救いである神を離れ去った」ということである。前に述べた第三の段階からここに至ることになる。というのは、この世の宝にとらわれて、神の掟に心をとめず、記憶においても、知性と意志とにおいても神からは非常に遠ざかり、あたかも神が存在しないかのように神を忘れ、金銭とこの世の宝を自分の神にしてしまうからで、聖パウロが「貪欲は偶像崇拝と同じことです」(コロサイ3・5)と言っているとおりである。この第四の段階の人は神を忘れてしまい、金銭を神としている。この第四の段階にある人々は、神的なこと、超自然的なことを、その偶像であるこの世の事物に、あっさり従わせてしまう。かれらは、神がお与えになった恵みを売りわたした不善のバラアン(民22・7)、また魔術者シモンのようなものである。神の恵みを金銭によって評価することができると考えた彼は、その恵みを買いとろうとしたのである(使8・18)。この第四の段階には他のいろいろの形で、今日も多くの人々がいる。かれらは霊的なことがらには、その貪欲のために理性が曇らされ、金銭に仕えて、神に仕えず、金銭に動かされて神に動かされず、目の前に金のことをおき、神的価値やその報いをみない。かれらの最高の神であり、目的である金銭を、終極目的である神よりも先にし、そのためにはあらゆる手を尽くす。この最後の段階の人は、まことに哀れである。というのは、そうした宝に心奪われ、自分たちの神としているため、このかれらの神に何かの窮乏が生ずると、すぐに絶望し、惨めな目的のために、自らに死を与え、結局かれらは、このような神から与えられる不幸な報いを、身をもって示すことになる。このような神に期待できることは、絶望か死以外はない。この死という最後の惨めさまで追いつめられなかった人々は、煩悩やその他の惨めさのうちに生き、心のうちに喜びはなく、常に金銭に心を配り、思い悩み、そのために来るべき永遠の滅びという当然の結果を招くまで金銭に執着しているのである。これについて賢者は次のように言う。「富を保てば災いとなる」(シラ5・12)と。聖パウロが、「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました」(ローマ1・28)といっている人々は、この第四の段階にある人たちのことである。

この世の楽しみ、財産を得ることを究極の目的とするならば、それらは人間に上に述べてきたような害をもたらすことになる。もしその害が少ないとしても、悲しむべきである。というのは、神への道において、霊魂を非常に後退させているからである。故にダビデの言っているように「人が富めるからといって恐れることはない」のである。そのような人々をあなたより優れたものと考えてうらやむことはない。「主が現れて裁きをされるとき、逆らう者は、自分の手が仕掛けた罠にかかり、神に逆らう者、神を忘れる者、異邦の民はことごとく、陰府に退く」からである(詩8・17、18)。