18 想像における知解について

想像のヴィジョン(示現)とよばれる超自然的知覚は、想像による形や映像からとるものであるので感覚に属するものである(この中には、超自然的に想像として現れる映像や形などすべてを含む)。記憶と結びついている想像力と言う感覚力は、知性の記録保管所であり、この中に知性的なイメージや映像をすべて受け取り、五感または、超自然的に受け取ったものを、自分の内に保つのである。そして、これらが知性に示されると、知性はこれらのものについて考察し、判断をする。そして知性は、これだけでなく、想像で知ることがらに似ている他のことがらをもつくり出し、想像することができる。

五感がその対象のイメージや映像を、内的感覚に写し出すことができると同じように、神や悪魔は、そのような外的感覚をかりることなく、超自然的に同じようなイメージや映像を示すことができる。こうした映像を通して神はしばしば多くの者を示し、たくさんの知識を与える。他方悪魔も、見かけのよさによって、それなりの映像をつくりだし、人々を欺こうとする。すでに進歩の段階にある人において、形をとって外に現れるヴィジョンよりも、映像とか想像の鏡の中に、こうしたヴィジョンで現れることのほうが多い。しかも、これらの映像やイメージは、外的感覚から入ってくるものと同じである。しかし、それから生じる結果とか、そうしたイメージに完全性というと、非常に大きな相違がある。というのはそれらが超自然的なものであればあるほど、また同じ超自然と言っても、それらのものは外的なものではなくて、内的なものであればあるだけにいっそう微妙で、霊魂に及ぼす影響が大きい。

想像や映像のこの感覚こそが、時に自然的、ときどき超自然的な巧みさをもって、悪魔が通常入り込んでくる場所である。というのは、これが霊魂のための門であり入口であるため、ちょうどここが港か貯蔵庫であるかのように知性は、そこにものを置いたり、取ったりするために来るのである。したがって神だけでなく悪魔もまた、超自然的な映像や想像や宝石を知性に提供するために、通常そこにやってくる。そこで、そうした知覚にたいしても、想像に映るヴィジョンにしても、すべて、何らかの形やイメージ、あるいは、神からくる真実のものがわかるにせよ、そこに糧を求め、そこに心をとめていてはならない。

なぜなら、神との一致のためには、霊魂は、そうしたものから離れ、赤裸になり、そうした形のものは何もないまでに、清く洗われたものにならなくてはならないからである。神はイメージや、形のあるものによって枠づけられ個々の認識の対象となるものではないからであるから、やはり形あるものや、個々別々の認識にしばられるものであってはならない。

また、そのヴィジョン(示現)が真実のものである場合でも、そうしたものを受け取らないというのではなく、向上するために、そうしたものを常に退けなければならない。理由は次の通りである。神からのヴィジョン(示現)がこれら想像のうちに現れるとき、それと同時に、知識とか愛、あるいは何か甘美なものや神がお望みのものを霊魂に注ぎ、かつつくりだす。もし、このとき、それを受け取ろうと思ったり、それらに気をひかれたりするなら、自分自身の妨げとなって、結局そこにある貧弱なもの、すなわち知性の目にとらえられる、あのイメージや、映像や個々のものについての知識を得るというだけで満足してしまうからである。なぜなら、そこにある大切なものは、霊魂に注ぎこまれる霊的なもので、とらえることも理解することもできないし、それがどういうものであるかを言い表すこともできないものだからである。というのもそれは、純粋に霊的なものであるからである。それらについて知ることができることは、それらのうちで最も貧弱なもの、感覚によってとらえられる形だからである。ゆえに、霊魂が受け身の姿勢で、知ろうと努めず、またその働きをしなければ、そうしたヴィジョン(示現)から、想像もできないものが与えられる。

したがって、心のひとみは、それが見ることのできるものや、見分けをつけることのできる一切の知覚から離れなくてはならない。というのは、こうしたものは感覚に与えられるものであって、信仰の基礎にも保障にもならないからである。