16 意志の暗夜について論じ始める。4つの欲情について

信仰に基礎をおくために理性を浄化し、望徳によって記憶を洗い落とすことを今まで話してきたが、もし、愛に関して意志を浄めないならば、何もしなかったことになる。愛を通して始めて信仰においてなされた業が活けるものとなり、大きな価値をもつのであって、愛がなければ何の意味もない。これは、聖ヤコブの言っているとおり「愛の行ないがなければ信仰は死んでいる」からである(ヤコブ2・20)。意志という機能を積極的に洗い清め、神の愛を育てるために、最も適切な言葉は「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命6・5)である。この言葉の中に、愛による神の意志の一致まで達するためのすべてが含まれている。というのは、自分のすべての機能や欲求や行ないや愛着を神に向け、あるだけの能力をあげて、ただこのことだけに集中するよう命じているからである。これは、ダビデの言葉をかりれば、「わたしの力をあなたのために蓄える」ことである(詩5・10)。霊魂は、欲情と欲求のうちにあり意志によってコントロールされている。したがって意志が、自然の心の動きや欲求を神に向かわせ、神ならぬすべてのものを引離すとき、神のために力を蓄えるのであり、力をつくして神を愛することになる。

欲情には、喜び・期待・悲しみ・恐れの四つがある。これらの欲情が神に向かい、神の光栄以外に何も喜ぶことがなく、神以外に何の期待ももたず、神に関係しないことを悲しむことなく、神しか恐れることがなくなれば、霊魂の力と働きを神に向かわせて蓄えることになる。なぜなら、神以外のものを楽しむほど、それだけ神における喜びをもつ力が弱くなり、また、神ならぬものを期待すればするほど、神に期待することが減るわけで、他もこれと同じである。

これについての教えを完全に話すため、意志の四つの欲求と、四つの欲情について個々に扱う。というのは、神との一致は、意志を愛着や欲望から洗い清めて、人間的ないやしい意志を神の意志と一つにすることだからである。

意志が、神から離れ、被造物によりかかればよりかかるほど、この四つの欲情は霊魂に君臨して攻撃するようになる。なぜなら、そのとき霊魂は、喜ぶ値打ちのないものを喜び、ためにならないものを望み、喜ぶべきことを悲しみ、恐れることもないことを恐れるからである。これらの執着が度を過ごすと、そこからあらゆる不徳や不完全が生じ、反対にそれが正しく秩序づけられていると、あらゆる徳が生れてくる。

そこで注意すべきことは、この四つの欲情のうちの一つが、理性に従って正しく整えられると、他のものも、同じく整えられるということである。というのは、霊魂のこの四つの欲情は、しっかり結びついているため、そのうちの一つが向かうところに、他の三つもまた隠れてついていくからである。例えば、意志があることを喜ぶとすると、喜ぶのと同じように望み、かつそのことについての苦しみや恐れも、喜びに隠れた形で含まれることになる。反対に、意志からその喜びを奪いとるなら、それと同じように恐れも苦しみも、痛みも意志から消え去り、望むこともなくなるわけである。というのは、この四つの欲情をもった意志は、あのエゼキエルが見た(1・8-9)集まって一つの体になった四つの動物の形をもって象徴されるもので、その動物は四つの顔をもち、それぞれの獣の翼は他のものの翼と結びつけられ、おのおのの顔の向く方に前進し、後をふり向かないで前進したとある。このように、愛着の翼の各々は、他の愛着の翼に結びつけられているため、そのいずれかが働きかけると、他の愛着もそれにひかれて共に動きだす。そして一つが低められれば、他のすべてが低くなり、一つが高められると他のすべてが高められてくる。同じように、何かを望めば、それについて喜びも恐れも苦しみも伴ってくる。

おお霊的な道をいく人たちよ、そこで注意すべきことは、欲情がどこにあるにせよ、霊魂のすべてもまた欲情のあるところに行き、意志もその他の機能もすべてその欲情のとりこになることである。そして他の三つの欲情も、その一つの欲情の中に生きることになり、枷をもって霊魂を苦しめ、快い観想と神との一致の自由と平安を得るべく飛び立っていくことを許さない。それでボエチウスは、“もし明るい光をもって真理を解したいと思うならば、喜びも、望みも、恐れも、苦しみも捨て去るように”と言っている。なぜなら、これらの欲情が支配しているかぎり、心の静けさと落ちつきをもつことができないからである。