15 記憶をどのように用いるべきか、聖画について 

記憶は、希望によって神と一致するために用いるべきである。希望するものは、まだ所有されていないもので、所有していなければいないほど、望む力が大きくなり、その結果望徳が増す。反対に、所有するものが多いならば、希望する力が小さくなり望徳も減る。このように、われわれが神ではない記憶を捨てれば捨てるほど、神に記憶をとどめることになり、その記憶のすべてを神に向けるために、いっそう記憶を無にするようになる。神に対する希望に生きるために、イメージや考えや目に映るものが記憶の中に起こってくるごとに、それらの記憶の中にとどまることなくそこから離れ、すぐに愛をこめて神に帰り、ただ自分のなすべき義務以外のことを考えないようにする。そして記憶に何の好みも執着ももたず、あとにその結果が残らないようにすることが大切である。これについては、第一部八が役立つことであろう。

カトリック教会が、われわれに実際に示してくれる画像について記憶や崇拝や、またそれを大切に思うことについて決して欺瞞や危険はない。なぜなら、それらの画像においては、それらが表している以外のことは尊ばれていないからである。またそれらの画像を思い出すことは、それらが表しているものに対する愛なしにはあり得ないことであるから霊魂に益となるものである。したがって、愛のためでなければ、そこに現されているものにとらわれないというなら、それを思い出すことは霊魂に益をもたらさずにはいないであろう。そして(そこに神が恵みをくださるなら)、われわれをして、すべての被造物、それに関するすべてを忘れさせ、描かれたものから活ける神にまで飛翔させるであろう。