14 どんな時期に黙想と推理をやめ、観想の段階に移るのが適当か

第一は、想像によっても、黙想することも、頭を働かせることができず、今までのようにそれに楽しみを覚えることもできなることに気づいたとき。しかし、黙想において、その糧を見いだし頭を働かせることのできる間は止めてはいけない。それを止めてよいのは、第三のしるしのところで述べるように、心が平安と静穏の中に入る場合である。

第二は、外的、内的ものにせよ、神以外のことを考えようとしないこと。だからといって、想像があちらこちらと行き来しないというのではない。ただ想像を故意に他のものに走らせようとしないということである。

第三は、最も確実な徴で、神の方に愛のひとみを注ぎながら、ただ一人でいることを喜ぶことで、そこでは、何も特別に考えるということもなく、内的な平安と、静穏、休息のうちにあり、記憶、理性、意志というような諸能力の働きもなく、少なくとも、一つのものから他のものへと移る頭の働きはなくなる。特に何かについての認識をもつというのでなければ、これといってものごとを理解するのでもなく、大きく全体的にものを見る愛に満ちた、目を注ぎつつ、そこから何ものかを受け取るだけである。霊的生活をするものが、道をふみはずすことなしに、黙想と感覚による段階を超えて、観想と霊の段階に入るためには、少なくともこれらの三つの徴が合わせて認められないといけない。

したがって第一の徴だけがあって、第二の徴が伴わないのでは十分ではない。というのは、気を散らしたり、注意が足りないために、以前のように、神のことを思ったり黙想することもできないことも十分ありえるからである。そのために、第二の徴として、神と無関係なことについては考えたくもないし、考えようとも思わないことが確かめられないといけない。というのは、神に心の目を注ぐことができないことが、気を散らしたり、生ぬるかったりすることからくるかもしれない。だが第三の徴も同時に見出すことができなければ、第一と第二だけでは十分ではない。なぜなら、疾患によって、神について、頭を働かせることができない場合があるからで、だから、広く全体を見つめる落ち着いた愛のまなざしである第三の徴が必要である。