13 想像による知覚について

ここでは、形をとった内的感覚をとりあげる。これは想像と心像によるもので、この場合にも、想像による心像や形に、心をとらわれないようにしないといけない。そうしたものの働きをやめない限り、神と一致することはできない。

想像および心象と呼ばれる内的感覚は、相互に助け合うものである。そのひとつは、想像しつつ考えを追い、他の一つは、イメージをおりだしながら、想像または、想像されたものを作り出すものである。こうした感覚が、受け取りまたはつくり出すことができるものはすべて、想像またはイメージと呼ばれるもので、その形または姿をもって、この感覚のうちに示される。

これらのものには二つの形のものがある。そのうちの一つは超自然的なもので、感覚の働きなしに感覚の中に受け取られ、表せるものである。これをわれわれは、超自然の道による創造のヴィジョン(示現)と呼ぶのである。もう一つは自然的なもので、これらは、その力によってみずから、形や、姿や、イメージとして、自身のうちにつくりだすことができるものである。以上、二つの能力にもとづくのが黙想で、これは、上に述べた感覚によって作りだされた、映像や形やイメージによる推理の働きである。たとえば、十字架上のキリストや、柱につけられて鞭打たれたキリストや、その他の場面を想像してみるように、あるいはまた、大いなる威厳をもって座いたもう神のことやあるいは、その光栄を非常に美しい光のように想像したり、要するに、神的なものにせよ、人間的なものにせよ、想像の中に起きてくるそれに類したものを考えたり、頭の中に描いてみたりすることである。

神との一致に至りつくには、このような感覚に対して目を閉じ、これらのすべてのイメージに、自己の関心をなくしきってしまわなければならない。「五感という外的感覚の場合と同じく」これらのイメージは、神と結びつく至近の手段となるには、あまりにもつりあわないものである。その訳は、想像というものは、外的感覚によって経験されたこと、すなわち目で見たもの、耳で聞いたことなどのほかには、何をつくりだすことも、描き出すこともできないからである。つくられたものはすべて、神の本質とは全く比べ物にならないのであるから、どんなにそうした被造物に似たものを想像してみたところで、神との一致のための至近な手段とはなりえないどころではなく、それには、はるかに及ばないものである。

ただし、初心者のものには、感覚を通して心のうちに愛を呼び覚まし、またそれに糧を与えるために、そうした形の黙想が必要で、それは、神と一致するための遠い手段として役立つものである。これらは、終局の霊的平安にゆきつくために、通常通りすぎなくてはならないものではあるが、それは通過すべきもので、そこにいつまでも止まっているべきものではない。そのようなことをしていては、決して終局に達することはない。それは、ちょうど階段のようなもので、登っていくための手段であるが、そこを登るものは、一段一段、次から次へと、進まなければ、最後のととのった静かな部屋に至りつくことはできない。故に、この世において、あの最も大いなる安息と善とに達すべきものは、これらの考えや形や、イメージを階段として踏んでいかなくてはならないにしても、そこにとどまることなく通り過ぎなくてはならない。というのは、それらのものは、終局における神とは、およそ似ても似つかないものであるから。

「以上のことからすれば、霊性の道をゆく多くの人々の大きな誤りがわかる。かれらは、初心のものには適している何かの形や、イメージ、そして黙想によって神に至りつく修練を積んでいるうちに、神がかれらを、もっと内的な、目に見えない霊的な宝へ心の目を向けさせようとお望みになり、頭をはたらかせる黙想の喜びや糧をお取り上げになろうとすると、かれらは、にえきらず、それに思い切って足を踏み出そうとはしないで、すっかり馴れてしまった身に触れるような感覚的なものから手を引こうとはしないのである。かれらは、そうしたものにしがみつくことに夢中で、以前のようにイメージに頼る考えや黙想を続けたいと思い、また、そうしなければならないと思い込んでいる。それで非常な努力をしながら、得るものはほんのわずかな糧か、あるいは何もない。それどころか、はじめの糧を得ようとすればするほど、ますます心の乾燥と不安と疲労が増すばかりである。というのは、今となっては、霊魂は、そのような感覚的な食物を好まず、他の、もっと味わいのある、もっと内的な、そして感覚に訴えることの少ない食物を望んでいるのであって、それは前のような形では心の糧を見いだすことができないことによる。ここにおいてするべきことは、想像力に頼って努めることにあるのではなく、心を休ませ、かつ、できるだけ霊的な静けさと安らいのうちに心を落ち着かせ、愛に満ちた眼差しを神に注ぐことを行うことが大切である。