13 想像によってとらえられるものを遠ざけることによって得られる益について

自然なものを記憶することについてのべたように、想像によってとらえられるものを自分の中にとっておこうとするならば同じ5つの弊害を生じる。そして想像によってとらえられるものを遠ざけることによって得られる益は、その弊害の逆にして考えることができる。しかし、なおその外に、精神にとって非常な平安と落ちつきをもたらす他の益がある。想像やイメージから離れているときに自然に落ちつきが心を支配することは別にして、それがよいものか悪いものかなどの心配や、また、霊的指導者を探して、それがよいものか悪いものかなどを調べてもらう時間と労力を、浪費するようなことからも解放されることである。そうしたものは何も問題にすべきことではないのであるから、知ろうとする必要もない。このようなことを分かろうとして浪費する時間や努力を、さらにためになる修練に注ぐことができる。その修練とは、神と共にいるための意志の修練、すなわち霊的、感覚的な赤裸と清貧を求めることで、それは内的にも外的にも慰めや知覚の支えをなくしてしまうことにある。これは、そうした形のみえるものから自分をひきはなすことを望み、かつそのように努めることによって立派になされる。なぜなら、イメージも形も姿もない神に近づくという大きな益はイメージや形や姿あるものから遠ざかれば遠ざかるほどいっそう大きくなるからである。

(疑問1)神がまず、われわれに何かを与えてくださらなければ、われわれは神に何もお捧げすることができない。神がそうした何かをお与えくだされるように、神から受けとることを望む。その望む者は、すでにある種の知覚である。しかし上記の教えによると、そうしたものを得ようと努力することがいけないというだけではなく、神から与えられたものであっても、それを退け、それから遠ざからなければならないというのである。神がお与えになるからには、よきことのためにそれをお与えになるのであり、それがよい結果をもたらすことは明らかである。しかし神からのものをうけとらないというのは、そうしたものなしで自分自身だけで十分であると思いあがる一種の傲慢ではないだろうかと。
(これについての反論と答え)★「本書第二部の1819において、この疑問の大部分について答えている」超自然的知覚がよいもので、それが霊魂のうちに溢れさせる善は、それが感覚に触れるそのときに、全く受け身の形でそそがれるものであり、霊魂の機能としては何も働きかけることがない。したがって、意識的にそれをうけとる必要がない。なぜなら、霊がその機能を働かせようとするなら、そうした自分の働きから益を得るどころか、その低次の本質的な働きのために、神の超自然的なものを妨げてしまうことになるからである。あの想像的知覚の霊が受動的に与えられるのと同じく、そのようなものにも、内的、または外的働きかけなしに受身の態度をもって対さなくてはならない。このようにすれば、われわれが自分自身の低いうけとり方によって、神から頂いたものを失うことにならず、神についての感情を保つことになる。神が心を超自然的なものになるように働きかけてくださらない限り、霊魂は超自然的に動くこともなければ動くこともできない。したがってわれわれが、自分の力のおよぶかぎり働きかけたいと思うならば、われわれはそうした自分からの積極的な動きのために神が与えてくださった霊を妨げずにはいられない。というのも、そうした働きは神がお与えになるものとは別の、程度の低いものであるからである。だから、われわれが自然的な働きをするなら超自然的なものを消すことになる。われわれの霊魂の働きが、神の働きよりもきわめて低いものであることは明らかである。なぜなら霊魂の機能は、あるイメージや形、姿あるものに依らないかぎり、自ら考えることも働くこともできないからで、霊魂が神から与えられた実体や霊に働きかけるならば、その実体や霊はイメージや形の下にかくれてしまうからである。だから、神が与えてくださる実体や霊は、霊魂の機能がその働きを止めないかぎり、真実の認識と愛のうちに霊魂とひとつに結びつくことはできない。というのも、神が与えてくださる実体と霊の目的は、それ自体に包まれている実体を霊魂のうちに受けとる以外の何ものでもないからである。以上のことから結論されることは、神ご自身から与えられる超自然的知覚に対してわれわれが積極的に働きかけようと望むなら、それはもう仕上がったものを、もう一度やり直すようなもので、その仕上がったものを喜んで受けとることもなく、自分勝手な働きのためそれを妨げるにほかならない。というのも、神が与えてくださった霊にまで、人は自分の力で達することはできないからである。したがって、われわれがそうした知覚を大切にすると、前に述べたような神からえられる想像による知覚が与えてくれる霊を直接消してしまうことになるのである。そのためにそうした知覚に対しては、受身の消極的な態度をとりつつ退けてゆかなくてはならない。そうすれば、われわれの能力以上、知ることができる以上のところに神はわれわれを動かしてくださる。したがって、想像によるものにせよ、その他のいかなる種類のものにせよ、ヴィジョン(示現)にせよ、言葉にせよ、感情や啓示のようなもの、すべて上から来る知覚において、文字や殼すなわち意味を示したり、解らせたりするようなものを問題とせず、霊魂のうちに内的にひきおこされる神の愛をもつように留意しなくてはならない。

心の動きを問題にするとしても、その快い味とか形とかいうものではなく、そこに生ずる愛の感動でなくてはならない。われわれの霊を愛の動きにいれるため、ただそうした結果のためにのみ霊魂のうちに愛を生じさせたイメージや知覚のことを、時として思いだすこともできよう。なぜなら、それを思いだすたびに、最初に与えられたときのような結果は現われないとしても、愛が新しくよみがえり、神に向かって心を高めることになるからである。そうしたことは特に、ある種の姿やイメージ、超自然的感情の場合生ずることで、これらは時に非常に長く、そのうちのあるものは決して心から消え去ることがないまでに深く刻みこまれたりするものである。このように心に刻みこまれたものは、そうしたものに注意を向けるたびに、ほとんどいつでもといってよいほど、多少とも愛や快さや光などの神的な実りをもたらすものである。それも、こうしたことのために心に刻まれたものであるからである。このようなものは、宝の鉱脈を内に持つようなもので、それを与えられるものにとっては神の大きな恵みである。

これほどの結果をもたらす。そうしたイメージは、霊魂のうちに生き生きと宿されているもので、想像のうちに貯えられている他のイメージや目に見える形のあるものとは異なる。そうしたものを思い起こしたいと思うときは、イメージによる想像力に頼る必要はなく、あたかも鏡の中に映る姿のように自分自身のうちにそれを保っている。ある人が、そのようなイメージを自分の中にはっきりとできあがったものとして持っているのなら、今言ったような愛を生みだすために思いだしてもよい。そのようなイメージに心を奪われてしまわなければ信仰における愛の一致の妨げにはならず、すぐにそのイメージを離れるなら愛を増すことにもなり、そのようにして霊魂を助けることになるからである。だが、こうしたイメージが、いつ霊魂の中に刻印されるか、また、いつ感覚的映像としてあらわれるのかを見分けるのはむずかしい。なぜなら、感覚的な映像としてあらわれるイメージも非常にしばしばあるもので、ある人々は、想像やそうした感覚的映像の中にそれらのヴィジョン(示現)をもっており、ある一定の形で非常にしばしば現われることがある。というのは、そうした人々は非常にものをとらえやすい機能をもっており、少し考えるだけで、あの例のイメージが形をとって描かれ現われる。それも、あるときは悪魔が、あるときは神がそれをいれたもうわけであるが、霊魂にはそのまま形相的に刻印されることがない。それがどこからくるかという由来は結果によって知ることができる。というのは、自然のものまたは悪魔からのものは、たとえ、いくらそれを思いだしても、霊魂は決してよい結果や霊的な新鮮さをもたらすことなく、ただ味気なくながめているだけである。しかしよいイメージは、はじめて霊魂に生じた時と同じく、それらを思い起こすたびごとに何かのよい結果をもたらす。だが、霊魂にそのまま刻印されるものは、それに注意を向けるごとにほとんどいつでも何らかの結果をもたらすものである。後者を経験したことのある人は、前者と後者を容易に見分けるであろう。なぜなら経験をもつものには、その両者の大きな差異が明らかだからである。ただ言っておくことは、霊魂にそのまま、しかも永続的に刻印されるものは、よりまれであるということである。しかしいずれにしても、前者であれ後者であれ、その何ものも把えようとはせず、希望に生きる信仰によって神のみを求めることが最もよいことである。また、もしそれがよいものであるなら、それを捨て去ることは傲慢ではないかと異論を唱える人に対して私の言うことは、最もよい形でそれらから益をとりだし、最も安全に導かれるということは、謙虚な賢さであると。